豊後国(現:大分県)は、安土桃山時代に藩主であったキリシタン大名・大友宗麟の影響があり、
住民の集団改宗が進み、キリスト教布教の中心地のひとつとなりました。
その為禁教令が出されると、厳しい取り締まりが行われ、その被害も大きく、
県下至る所で尊い殉教の血が流されました。
中でもこの葛木付近一帯は、寛文年間(1661〜1673年)を中心に、
84歳の老翁から14歳の少女まで、およそ200人の痛ましい殉教者を出すに至りました。
葛木はその為、通称“地獄原”とも呼ばれました。
この人々は、幕府の残虐な迫害に屈せず、信仰一筋に生き、殉教者となりました。
しかし葬儀もなく、墓もなく、史実や名前さえも定かでないものが少なくありません。
この記念碑は長崎の
平和記念像 の作者として有名な
彫刻家・北村西望によるもので、
経費一切は九重町の足立正平翁の志によるものです。