軍艦島 
軍艦島
軍艦島は、長崎市高島町にある離島で、正式名称を端島(はしま)と言います。 長崎市高島町を形成する4島(飛島、高島中ノ島、端島)のひとつで、 東経129度、北緯32度、長崎港から18.5kmの沖合に位置しています。 明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄えました。

岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから、 「軍艦島」呼ばれる様になりました。 この通称は大正時代から用いられていた様です。

軍艦島(端島)で最初に石炭が見つかったのは、1810年(文化7年)と言われています。 その後江戸時代の終わりまで、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称して、ごく小規模に露出炭を採炭していました。


 ▲ 端島(軍艦島)

 ▲ 端島(軍艦島)
その後業者による採炭が行われようとしましたが、台風の被害などで軌道には乗りませんでした。
最初の竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことです。

1890年(明治23年)には、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎が、三菱社へ10万円で譲渡し、 三菱が経営していた高島炭鉱の支坑となります。 端島はその後100年以上に渡って三菱の私有地となりました。
譲渡後は第二竪坑・第三竪坑と規模を拡大していき、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長しました。

島には炭鉱夫だけでなく、その家族も暮らしていた為、生活に必要な施設が次々と出来ました。 1893年には社立の尋常小学校が設立されるなど、基本的な居住環境が整備されていきました。
軍艦島は島の面積の半分が鉱場であり、居住地がとても狭いため、 1916年(大正5年)に日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅である「30号棟」 が建築されました。 以降は次々と高層アパートが建設されました。

また、端島はもともとは南北約320m、東西約120mの小さな瀬でしたが、 その瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)に渡って6回の埋め立て工事を行い、約3倍の面積に拡張しました。

最盛期の1960年代には約5300人もの人が住み、当時の東京の約9倍、世界一の人口密度を有していました。

1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは無人島ですが、 2009年(平成21年)4月に一般の方の上陸が可能となり、 2015年(平成27)年7月5日に 世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 〜製鉄・製鋼、造船、石炭産業〜」 が登録され、 その構成遺産のひとつ として多くの観光客が訪れるようになりました。

 ▲ 高島石炭資料館にある端島のあゆみ

 ▲ 軍艦島クルーズ船上から写した軍艦島
軍艦島への上陸には許可が必要なので、各船会社が運航している軍艦島上陸ツアーに参加する必要があります。 2019年現在、5社が上陸ツアーを行っています。

また、軍艦島上陸後に観光客への立ち入りが許されている場所は、安全面での配慮から限られた場所だけで、 見学通路が設けてあります。 その為、上陸だけでは見られない場所を、船上から周遊して見学します。 軍艦島の周囲を1周回って、まず船上からその全貌を眺めました。 勿論、要所要所でガイドさんが説明をして下さいます。

 ▲ ここから船で右回りに旋回しながら見学する。この写真の左半分、崖の手前側に採炭関連の施設があった

 ▲ 左右に2つ並んで見える高層アパート群。左側が「端島小中学校」。右側がコの字型の大型集合住宅で、鉱員社宅。屋上に保育園があった。右端の低い建物が「端島病院」

 ▲ 鉱員社宅が建ち並ぶ、居住区域。写真中央付近、建物の上の方に見える小さなお社は、端島神社本殿。


 ▲ この角度から見るとより“軍艦”に見える

 ▲ 中央に建つ白い灯台「肥前端島灯台」は閉山後の1975年(昭和50年)に建てられた


 ▲ 軍艦島の周囲を1周回って、ドルフィン桟橋付近に戻ってきました。いよいよ上陸です
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船上からの周遊見学後、いよいよ軍艦島へ上陸です。

軍艦島への上陸は、「ドルフィン桟橋」を利用します。 この桟橋は、日本初のドルフィン式可動桟橋 なのです。
「ドルフィン桟橋」とは、堤防がない沖合に杭を打ち込んで作られた係留施設です。 さらに波の上下、潮の干満に合わせてタラップが上下する日本初の構造を兼ね備えています。
架設当時の桟橋、及び2代目の桟橋は台風で流出し、現在の桟橋は3代目なのだそうです。

軍艦島に上陸後、正面にある広場が、第一見学広場です。
ここから見えるのは、「貯炭場」や貯炭ベルトコンベアーなどの生産施設、 崖の上にそそり立つ「貯水槽」、「3号棟社員住宅」、遠くに見える「端島小中学校」や鉱員住宅として利用された建物などです。


 ▲ 端島(軍艦島)に上陸。崖の上真ん中に建つのが「3号棟社員住宅」

 ▲ 第一見学広場。正面の崖上に貯水槽が見える
第一見学広場の正面にそそり立つ崖の上に見えるのが、「貯水槽」です。 軍艦島では水がとても貴重だったそうです。 初期では海水を蒸留していたのですが、人口の増加に伴い、船で水を運ぶようになりました。 最終的には野母から 日本初の海底水道を通した のです。

視線を右手に移すと、崖の上集合住宅があります。 鉄筋コンクリート造り4階建ての「3号棟社員住宅」です。 幹部職員の住宅だったそうで、内風呂まで完備されていたそうです。

第一見学広場の右手に広がる場所は、「貯炭場」でした。 四角い枠がドミノのように立ち並んでいるのが、貯炭ベルトコンベアーの支柱で、この上にベルトコンベアーが載っており、 石炭を運んでいたそうです。

右手奥の方に見えるのが、「70号棟 端島小中学校」です。

 ▲ 崖の上に建つ「3号棟社員住宅」、貯炭場やベルトコンベアなどが見える

 ▲ 第一見学広場と見学通路。遠くに見える建物は「70号棟 端島小中学校」
第一見学広場から見学通路にかけて見えるのが「第二竪坑」跡です。 第二竪坑はほとんど倒壊していますが、 第二竪坑に入坑する為に設けられた桟橋への昇降階段が残っています。 この階段を通って坑口桟橋からエレベーターで坑道に入っていました。
エレベーターとは言っても、枠組みだけの簡素な物で、毎秒8mで真っ暗闇の中に下りて行ったのだそう。 下りるというより、落ちる感覚だったのでしょうか。 そして坑内では危険と隣り合わせ。この階段を歩くたびに命のありがたさを感じるため「命の階段」と呼ばれていたそうです。

第二竪坑の隣にある、レンガ造りの建物は、「総合事務所」跡です。 島の司令塔の様な施設で、 総合事務所の中には炭鉱夫のための共同浴場等がありました。

 ▲ 第一見学広場付近から撮影。手前が第二竪坑跡。奥のアパートが「30号棟 旧鉱員社宅」

 ▲ 第二竪坑跡

 ▲ 第二竪坑跡

 ▲ 第二竪坑坑口桟橋跡

 ▲ 煉瓦造の遺構は、総合事務所趾

 ▲ 第二竪坑坑口桟橋跡

 ▲ この辺りが第二見学広場

 ▲ 煉瓦造の遺構は、総合事務所趾
背後の崖に建つ貯水槽の横に建っている、白い灯台は、「肥前端島灯台」です。 端島(軍艦島)が無人島となった後、夜間に航行の障害になることから、1975年(昭和50年)に設置されました。

見学通路を歩いていると、あちらこちらに、石炭が落ちているのを見かけました。
また、見学通路からも見える石組みの護岸は、明治時代に建造された「天川工法」と呼ばれる伝統的な石組で組まれています。 コンクリートで補強されて現代まで使われていますが、波が激しい為にコンクリートが剥がれ、補強工事が行われていました。





 ▲ 天川工法で組まれた石組みの護岸

 ▲ プール

 ▲ 第三見学広場

見学通路の突き当り迄進むと、そこが第三見学広場です。 第三見学広場からは、国内最古の高層RC造(鉄筋コンクリート)アパート「30号棟 旧鉱員住宅」 と、 「31号棟 鉱員住宅」が見えます。

「30号棟」は1916年(大正5年)に建設され、建設当時は4階建てでしたが、増築されて7階建てになりました。 グラバー邸 のトーマス・グラバーと関わりがある説から、通称「グラバーハウス」と呼ばれています。 鉱員社宅として建てられましたが、閉山時には下請飯場として用いられていました。

「31号棟」は鉱員住宅でした。 1階には郵便局、公衆電話があり、地下には美容院と理容院、共同浴場がありました。

 ▲ 右側の建物が「30号棟」。左側の建物が「31号棟」

 ▲ 右側の建物が「30号棟」。左側の建物が「31号棟」
軍艦島に来てみてふと思ったのが、「ボタ山がないな〜」という素朴な疑問でした。 炭鉱跡地にはボタ山があると思っていたからです。 実際、福岡市から最も近い炭鉱の遺構「旧志免鉱業所竪坑櫓」の近くにはボタ山がありますし (イオンモール福岡のすぐ近くに見えます)、 炭鉱で栄えた筑豊地区に行くと、飯塚市の遠賀川河川敷から飯塚市忠隈のボタ山が見えます。
“ボタ”とは、石炭や亜炭の採掘に伴い発生する捨石の事で、九州では“ボタ”と呼ばれますが、他では“ズリ”と呼ばれるそうです。 ボタ山とは石炭や亜炭の採掘に伴い発生する捨石(ボタ)の集積場です。
しかし、軍艦島にはボタ山がありません。 軍艦島はボタ(粗悪な炭)が少なく、日本一の品質の瀝青炭が採掘されていた事と、 離島ならではのボタを海中投棄していた事で、軍艦島にはボタ山がないようです。
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軍艦島 DATA
住所長崎県長崎市高島町
電話番号
公式HP
備考
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last visited : 2019/04/15