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敦  煌


 井上靖の小説「敦煌」でおなじみとなり、また仏教美術の宝庫でもある莫高窟のあるこの都はシルクロードの分岐点でもあり、私もこれまで一度は行ってみたい魅力を秘めたまちの一つであった。
 朝4時起きをし、空港に行くと前夜激しい砂嵐のために飛行機が飛び立てずまだ敦煌から戻っていないとのこと。結局1時過ぎ迄待たされることになる。中国の内陸部への飛行機は出発時間がしばしば変更になるとは聞いていたが、一時は行かれるのか不安になる。敦煌は冬場は特に天候の変動があり観光シーズンとはならないとのこと。
 西安からの飛行機はプロペラ機。乗客は50人くらいであり、機体の中央部に固まって座っている。窓の外には黄河が見える。内陸部に行くに従い黄土が広がり緑が少なくなっていく。黄河の周辺に整然とした畑が見えるが次第に砂漠地帯となる。まさに黄土の野山がどこまでも広がっている。上空からも砂の風紋が見られる。やがて眼下に敦煌が見えてくる。上空から見ると砂漠の中に緑地が思いのほか広く見え畑が広がっている。まさに砂漠のオアシスというゆえんが分かる。
 砂漠地帯の真ん中にあり、とても暑い所というイメージを持ち旅行に臨んだが、飛行機から降りると予想に反して肌寒さを感ずる。バンに乗りホテルへ移動。道は舗装されているが、車の揺れが激しく車内で字も書けないほどである。道路周辺にはプラタナスのような木が畑を囲むようにつんと立ち農作物が植えられている。これが砂漠の真ん中にあるまちかと思えるほどに緑があり驚く。

鳴 沙 山

  
 敦煌の街の中心地から車で15分ほどで到着する。ここには東西約40q、南北20qに広がる砂漠の丘陵があり、初めて見る砂漠に感激する。入り口に観光用に何頭ものらくだが待機しており、早速らくだに乗る(30元)。らくだが立ち上がるときに前足から片側ずつ立つために少し倒れ怖い。あとはゆったりと進み、思わず月の砂漠の歌を口ずさみたくなるような心境となる。左手には小高い砂丘が続き尾根づたいにそこを登っていく人の姿が見える。そのうちに上の方からでんぐりがえりながらおりてくる子供の姿がみえる。月牙泉近くまでおよそ500メートルらくだで移動する。その後そこから砂山の頂上まで木を差し作られた有料(10元/1人)の階段を登り頂上へ向かう。尾根づたい等無料で登る方法もあるが、砂山を直接登ろうとするとずり落ちなかなか思うように登れないが、この階段を使うとそうした苦労をせずに登ることが出来る。眼下に月牙泉も見え大変よい眺めである。山の高さもそれなりにあり一気に登るには息が切れてしまうため、途中休みながら登る。
 頂上に着くと一方には砂山が続き一方には敦煌の町並みが一望できなかなかの眺望である。砂漠を歩くなどということは初めての経験であり、砂山には風紋が付き感動的である。尾根はづっと奥まで続いているがとりあえず、自分達の登った尾根の頂上まで歩いてみる。子供は早速砂山の途中に穴を開け砂遊びに興じる。
 再び砂山を下る。子供はジグザグに駆け下りていく。本当はこの方が早く楽しく砂山を下りられそうであるが、我々は先ほど上った階段をゆっくり下りていく。そのすぐ横では有料の砂ぞりに興じているものが見られる。
 下まで降り、月牙泉の方に移動する。それは砂漠の真ん中に三日月型の池がありこの水は枯れたことがないとのこと。そこに建つ建物が何とも言えない趣を醸し出し、砂漠と建物と池との3者が渾然一体となりまさに絵になる風景とはこういうものではと思われるほどである。その建物まで行き。池の周りを一周してくる。
 帰りも再びらくだに乗り戻る。子供達は初めての砂漠に来、初めてのらくだに乗れたということで大満足の様子。夜の8時近くというのにまだ明るい(9時頃まで明るい)。この広い中国が日本とは時差が1時間で統一されているため、西の方ではこんなにも時間感覚が違ってきている。

莫 高 窟

 夜中に大分雨が降った模様。敦煌では本当に珍しい恵みの雨とのこと。そのためにこの日もそれほど蒸し暑くはない。敦煌空港の西側のはずれの道を南下し莫高窟へ向かう。道の両側は小石がごろごろしたような不毛の地。荒涼としった平地の至る所に高さ70センチくらいの砂山が見られる。それはこの地方の人のお墓とのこと。このような平原でどれが自分の家のものか分かるのかとさえ感じられた。
 やがて莫高窟に到着する。遠くから見てもかなり長い距離に渡り岩場の壁面に洞窟らしきものがあいているのが見てとれる。莫高窟の前だけに緑の森が生い茂っている。周りは砂漠地帯でそのコントラストの大きさが何か違和感さえ感じさせる。日本から懐中電灯を用意していかなかったため懐中電灯を借りる(1つ3元+保証金10元)。内部には荷物を持ち込めず、中を写真やビデオが撮れないのが残念だがこれもやむを得ない。ここでは日本語のしゃべれる専属のガイドさんが案内をしてくれる。
 今回私達が約2時間半に渡り案内された窟とその順番は次のものである。


★1 96窟 高さが33mある大仏である。こんなにも大きな大仏がこの岩穴の中に造られていたのかと驚く。壁一面に絵が描かれておりその見事さに感心する。ガイドさんは日本にも留学したことがあるというベテランで丁寧に要領よく説明してくれる。
★2 130窟 続いて案内されたこの窟にも高さ26mの大仏がある。盛唐時代の作品とのこと。壁画が大変綺麗である。天井から壁いっぱいに描かれている。
★3 148窟 この窟にはかなり大きな涅槃像がある。壁画は当時のままとのこと。実に細かい壁画である。
☆4 217窟 この窟と後ほど見た57窟は特別料金を払い見学させてもらう。1つの窟が1人60元で12歳までの子供は無料とのこと。この窟には寺院の壁画が描かれており、当時の寺院の建物の様子が細密に描かれ、建築史の上でも貴重な資料とのこと。そこに描かれた人物の服装の装飾も細かく描かれている。壁面に描いたとは思えないような細密で見事な壁画である。各窟はガイドさんが鍵を持っており一つ一つ見るときに開け、見終わるときちんと鍵をかけている。この別料金の特別室は2つの鍵がかかっていて先程来のガイドさんが一つの鍵を開けもう一人の係員がそこだけのために来て開けておりその管理の厳重さに感心する。
★5 244窟 この窟は隋の時代のものとのこと。前室は地震で落ちてしまったとのこと。仏像が幾体か置かれている。仏様のお顔が大変綺麗である。
★6 249窟 南北朝時代に作られたもので全体に白っぽい肌色がかった色で統一されている絵はそれほど完成度は高くない。阿修羅の絵や、狩猟図が描かれている。
★7 257窟 北魏時代の窟とのこと。切り妻屋の形をしている。飛天が大きい。全体的には茶系統の肌色がかった色をしている。美しく優しい九色鹿と、欲深い男と、明晰な国王の物語を描いた壁画がある(因果応報の物語とのこと)。
☆8 57窟 特別料金の有料窟である。窟の正面には何体かの仏像が置かれていたが、この窟には平山郁夫氏が絶賛した菩薩像が描かれており、日本でもその像のことが有名になっている。一緒に来ていた日本人の夫婦も今回はこの像だけを特に見に来たと言っていた。その像は窟には入り左手のやや入り口側に描かれていた。高さは1.8メートルあり、大変美しいお顔立ちをしていた。初唐の時代の作品とのこと。その横に描かれた阿弥陀如来像等は顔の部分がはげ落ちていたがこの像は細めの目でどことなく気品のあるお顔立ちであった。この像の模写絵が空港等あちらこちらに売られていたが、私も莫高窟の売店にてここで修復作業をしている学芸員本人の薦めによりその人の作品を購入した。

★9-10 16,17窟 唐の終わり
 井上靖「敦煌」の小説の原点となった窟である。16窟内には何体かの仏像が置かれている。16窟の入り口を入りすぐ右手の何体かの菩薩の像が描かれている壁の一部に穴があきその奥に17窟が有る。この窟は1900年に発見されたものとのこと。その入り口は16窟より1m高いところにある。17窟にはお坊さんの仏像がおかれている。この僧は唐王朝から紫の袈裟を賜った高層の真容像とのこと。これは本人の生前に作られたものであるが、ここに大量に古文書を隠す際、別の窟へ移動されていたものを近年になり本来の場所へ戻されたとのこと。この窟には発見当初は天井まで古文書がびっしりと積み上げられていたが、1907年のスタイン(英)探検隊を皮切りにペリオ(仏)、大谷探検隊(日)、オルデンブルグ(露)、ウォーナー(米)等により第一発見者との駆け引きの末にそのほとんどを国外に持ち去られてしまったという。また別の窟の壁画もはぎ取られたり、仏像等も持ち出されているとのこと。ガイドさんが大変残念がり話をしてくれる。その場所にあってこその文化遺産が、当時は学術的名目であったにせよ、大変悲しむべきことと感ぜずにはおられない。
★11 328窟 唐時代
 6体の像が置かれている。各像は大変作りの良い仏像。衣に金彩色をしたもの等が残っている。釈迦の2人の弟子について説明有り。釈迦の右手にいるのが迦葉(苦悩)で、左手が阿難(記憶力の良い若い弟子)。この窟の一番左手にはもう1体の仏像が置かれていたがウォーナー(米)により持ち去られてしまったとのこと。そこだけわずかに台座が残され、両側3体ずつあるべきものが無くその空間がアンバランスとなっていた。


 今回は11個の窟と、有料の特別窟2個を見る。一つ一つを見たのでは大変な時間がかかるだろうが、莫高窟のすばらしさを見て取ることが出来た。厳重に管理されているが、これだけの芸術品を少しでも長く後世に伝えていくためにも、こうした管理はやむを得ないであろう。また案内される窟は全てガイドさんによりあらかじめ決められたところだけで、時々はそのコースを変えているようである。また近い内に莫高窟への入場は出来なくなるという。その点でも今回こうしてみられたのは幸せといえよう。

唐時代の古墳

 莫高窟からの帰りにガイドさんよりバスの中で唐時代のお墓があるが見たいかと言われ希望し、そこへ案内される。場所は飛行場の西側のはずれで、莫高窟へ先ほど行った道の100mほど西側の道を南側に入っていったところである。その辺り一面は敦煌の人々のお墓が並んでいるところである。お墓と言っても砂漠地帯に70pくらいのこんもりとした砂山があるだけのものであった。目的のお墓を見る前はこのようなお墓を見るのに1人6元も払うのかと思っていたが、着いてみると、そこにはちょっとした管理事務所のような建物が建っており、その前に高さ1mくらいの他よりは幾分大きめのお墓があった。しかしそこにスロープのようになり中に入って行くところが付いている。そこにいた案内の人の後を付いて中に入っていく。この案内をしてくれた男性も日本語が上手で感心する。深さは10mくらいありしかもその途中に瓦の積み方で模様が出来、また日本の高松塚古墳等とも共通する亀や朱雀等の絵が描かれている。墓の内部も一つの部屋は5m四方くらい有り、その横には釜戸等が置かれた部屋もある。天井は厚さ5センチくらいの瓦だけでやや球面がかったような形となっている。瓦だけの圧力でこのようなアーチ状になっているその技術に感心する。その奥には石棺が置かれていたという部屋がある。当初考えていたものより遙かに立派なお墓に感心する。横には盗掘の穴が残っている。
 これより10mほど離れた横に別のお墓もあり。これは深さ約7mくらいのものであった。ただ穴を掘ってあるというのではなく瓦を積み上げきちんと作られたその様に感心するばかりであった。お墓ということで写真を一枚も撮らなかったのがおしまれる。

陽  関

    漢代、敦煌の西に大きな関所が2ヶ所あり、その一つであった陽関に向かい砂漠地帯を車はひた走る。周りは砂漠とは言っても砂の砂漠ではなく小石のごろごろしたような所である。途中仏様が寝ているかに見える小高い山が見えた。陽関には何があるというわけではなく昔の朽ちた烽火台が当時の面影をわずかに留めているだけである。現在は展望台とそれに向かう回廊が造られ、その回廊内には有名な詩や書が石に刻まれている。そこで馬に乗らないかと現地の人が誘うがガイドさんが、ここの馬は農耕馬であり、しかも下が硬いがれき場で落ちると危険だから子供には乗らせないようにアドバイスしてくれる。ここからの眺めはまさに無人の荒涼とした荒野が広がっている。かつてこの敦煌から先しばらくはオアシスが無く荒野が延々と広がり関所に相応しい場所であったという。
 近くにはブドウ畑が広がり、干しぶどうを作っている小屋等が目に付く。

敦煌映画セット

 先の道を一路戻り、1987年に敦煌という映画で作られたロケセットを見学する。当時日本がロケセットとして約2億円をかけて作ったものとのこと。規模はかなり大きなものである。町並みは実物そっくりに作られているが、ロケ用に作っただけありしかも大分年が経っているため、傷みが目立つようになっている。城門の建物は本当に表面だけの張りぼてであり、すでに傾きかかりいつ倒れるかと思われるほどである。城壁に登り周辺を見渡すと荒涼とした砂漠の先に鳴沙山の山並みが続いており、映画で見た情景の幾つかのコマを思い出すのであった。

飛天の舞のショウ

 ホテルにて夕食を食べながら、敦煌のショーを見る(1人60元)。 自分達の泊まっているホテル内でのショーで、お客は我々の他に中国人の20人くらいの団体さんだけであった。その団体さんが一番前の席に2テーブル座っていたが、その人達は接待かなにかでショウそのものにはそれほど興味を示さないでいた。放送設備の具合が悪く途中幾度か音楽が切れてしまった。前のお客さんが席を立ち後は我々4人だけでそのショウを見る。何とも贅沢なショウである。敦煌の飛天の舞でなかなか綺麗であった。莫高窟の中に描かれている飛天の姿に似せた姿形をし、何とも優雅な踊りであった。子供達も楽しんだ模様。