ほんなら・・・
  ほんでも・・・


     12回目 
    『樹村みのり』さん。
・・・T
      ・・・・・2004年 8月 22日・・・・・


 小中陽太郎さんが(だったと思う)樹村みのりさんの漫画(作品名は忘れた)を何かの雑誌(雑誌名を忘れた)で絶賛していた。

 その頃
(80年冬)はまだ取次店で蔵出しのバイトをしていたので、私の今のお仕事のお師匠さん(と勝手に決めていただけですが)に「おっちゃん、取り寄せといて」と頼んだのが、『』だった。

 何故『』だったのか覚えていないが、何にせよ樹村みのりさんにひかれたらしい私は、翌年の春、今のお仕事に就いて二週間ほどたった頃『病気の日』を、その一ヵ月後に『ポケットの中の季節』を、数日後に『海辺のカイン』を、さらに1ヵ月後『ピクニック』『ローズバッド・ロージ』を、翌月には『カッコーの娘たち』の注文伝票を切っていた。
(もちろん、樹村みのりさんのみを読んでいたわけではありません)


『雨』
・・・樹村みのり初期短編集

樹村みのり 著


朝日ソノラマ

1977年11月30日 
初版発行

(1966年)

 よんどころなくひねきり、人を信じる事が出来なくなった少年が、少女のおかげで素直になり、信じる人が出来るようになり、「良かった善かった本当によかった」と言うお話。
 こない書くと味もちゃちゃらもないか。

 クラスで嫌われ者の少年がいる。
不良と呼ばれ、泥棒と言われ、すねた少年がいる。

 少年には両親がいない。
父親の死亡原因は作品から判らないが、母親は彼が幼稚園の時、事故で亡くなった。
 母親の兄が引き取って育ててくれているのだが、渡り労務者なので転校を余儀なくされていた。

 友達が欲しかった。
転校先の悪餓鬼達に「職員室の窓ガラスを割れば仲間に入れてやる」と言われ、ガラスを割りもした。
だが、仲間に入れてくれなかった。
 あげくには先生から「不良」と言われる。

 不良、泥棒の烙印を押されたままでの転校先の出来事だった。
写生の時間、クラスの者の絵を破いた悪餓鬼達がいた。
 少年は悪餓鬼達が絵を破いている時に、止めに入ったのだったが、破かれた本人は悪餓鬼達を怖れて、先生には少年が「やぶいた」と言う。
 一人の少女が言った。
「先生、違う」と。「絵をやぶいたのは彼ではない」と。
 先生が聞く。
「さっきから黙っているけれど、お前がやぶいたのか?」と。
少年が答える。
「ぼくが、やぶいた」と。

 雨の中、少年は走り去る。。
誰もが自分を悪者にしたがっていると思いながら・・・。
本当の事を言ったって誰が信じてくれるものかと思いながら・・・。
 少年は母親だけが自分をいつも信じてくれていた日を思い出す。
事故の日、母親が傘を持って迎えに来てくれるのを信じて待っていた。

 少女だけが、少年の最後まで味方だった。
それなのに、少年は少女を裏切った。
「また、一人ぽっちだ・・・」

 雨の中、少年を追いかけてきた少女が言う。
「カサ はいらない?」・・・「かぜ ひいちゃうわよ」
 少年は泣きながら答えた。
「いれてくれよ」


 安っぽいヒューマニズムって言う読み方も出来なくはないけれど、そんな読み方をする読み手を、樹村みのりさんは「寂しい人なのねぇ」と言うでしょうね。
(ここは、淺川マキの口調で言われると、かなりこたえそうです)
 胸ぐらいまでは安っぽいヒューマニズムの壷にもう突っ込んでいる今の私ですので、読み返すと少々辛いものがあります。



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トミィ
(1968年)
 父親が戦死した。
家族の者はトミィに亡くなった事を言わない。
だが、トミィは知っていた。
時が過ぎて行く。
 伯父さんの家に遊びに行った時、伯父さんが「旅行のお土産、何が欲しい?」と聞くとトミィは「お父さんが、大きな機関車を買ってくれるって約束しているから、いらない」・・・そう答える。
 おじさんは意を決して言った。
「お父さんは、戦死した」
 トミィーが言った。
『ずいぶん待っていたんだ』『誰かが言うのを待っていたんだ』と『殺した人も、戦争に行かせた人も・・みんな憎い』と。
だから
『始めに、言った人を死ぬまで憎んでやる』と。


『あとにはなんにも・・・・残ってやしなかった』の文でこの作品は終るのですが、1968年に掲載されたところからして、 谷川俊太郎作詞・武満徹作曲 の『死んだ男の残したものは』を樹村みのりさんは知っていて書いたのでしょう。

 不条理な世界を乗り越える一つの方法は、不条理な世界に自分も入る事なのですが、この乗り越えを維持する事はほとんど無理偏に拳骨ですね。
 でも、餓鬼の思考では致し方ない事で、当面の安定にはつながるものの、いつか破綻が来る。
 樹村さんには『トミィ』のその後を書いて欲しかったです。


 他に、『風船』『トンネル』『にんじん』『まもる君が死んだ』『こうふくな話』『翼のない鳥』が載せられています。


『風船』から『まもる君が死んだ』の四編は少年・少女期の心象風景をよく捉え、子供対子供、子供対大人の違いを、樹村みのりさんが持つ感受性の豊かさを発揮し丁寧に描きながら、『にんじん
(1969年)は大人からの押し付け規範への批判を描き、『トンネル(1969年)では、多感な少年が未知への世界へ向かう恐怖感を描き、『まもる君が死んだ(1970年)は母子家庭で育つ小学六年生のまもる君をめぐり、周辺の人びとからはじかれそうな中で、明るく生きる姿を描いています。
(この太字の三作品は、取り上げる必要がないと言うわけではありませんが、下記で取り上げていません)


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風船
(1969年)
 一杯有った風船屋さんの風船が売れて行き、残り一つとなった時、貧しい少女が
『それ・・・あたしの』『その風船ね あたしの風船』『その風船ね・・・』と言うまでセリフが一つもない。
 少女の心の動きがこちらにまで心底伝わってくる。



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こうふくな話
(1971年)
 少女期での純粋なる感動・価値観からの転換を忌み嫌いながら迷走する青年期に入った自分自身を、隣に転居してきた少女を見て、以前に持っていたもの、失ったものに別れを告げ、自分を許す物語。
 この時期の自分を振り返ってみると・・・うぅぅ〜振り返りたくない!



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翼のない鳥
(1975年)
 ん
〜・・・何て言うのんか・・・。
 赤い鳥が1971年に唄っていた『
翼をください』山上路夫作詞・村井邦彦作曲ですね。

 第一章。
 憧れの世界へ、自由な世界へ羽ばたく鳥人伝説と言うのんか?
主人公のジョーイは餓鬼の頃「鳥になりたい」と思い続け、家を出て北にある鳥になる為に若者が集まっている処に向かう。
 その場所の少し手前で、無邪気な七人の餓鬼達と白いお髭のお爺さんに会い「少しいったところにみんながいるよ」と教えてもらって行く。

 第二章。
 鳥になる為の修業道場に行ったものの、鳥になるのが目的ではなく、翔ぶと言う事は自分の望みに忠実に生きると言う事だと悟った気になり、山を降りることに決める。
 途中で無邪気な七人の餓鬼達と白いお髭のお爺さんに会い
『否定によって遠くにいっても、ただもどるだけだよ ちょうど振子みたいにね 一番遠くへいったものが 一番近くにもどる それでもいいかい?』と言われる。

 第三章。
 軍需工場跡地に公園を作る運動を行っている集会に出合い、運動体の一員となる。

(ここらは、日本では本国仏蘭西よりも本が売れている、と言われたサルトルの概念”アンガジュ”:社会参加を思い出す)

 運動は実を結び芽出度く公園になるのだが、当の工場労働者さん達は解雇され、運動体参加者と解雇労働者との間で暴力ざたが始まり、ジョーイはリーダー格のボーギーが角材で労働者さんに頭を殴られた時、その瞬間、殺意を持ってしまい”ぼくら””なかま””わたしたち””きょうだい”等の耳障りの良いコトバに酔っていた自分に気がつき、その場から逃げ出す。

 第四章。
 走り疲れて眠ってしまい、眼が覚めた処は、山の中で一人で暮らす女性の家だった。
 この地は、まぁ、何と言うのか、自給自足者達が暮らすヒッピーの集落みたいな処ですね。
 ジョーイは女性と「ずっと暮らしたい」と思うようになったが、ある朝、彼女は倒れた。
 ベッドに横になりながら彼女が死ぬ前に言う。
親好みの従順な娘だったが、不治の病に罹っていると知った時、
『残りの人生を自由に生きてみたいと思い ひとりでこの土地にきた』のだと。
『わたしはとても満足して生きたわ だから悲しまないでねジョーイ あなたはまだこれから たくさん たくさん 生きるわ』
 ジョーイが得たものは
『ひとりぼっちになるのなら・・・飛べないほうがいい・・・』と言う思いだった。

 第五章。
 故郷に戻って見た物は、あの頃のままに小高い丘にそびえ立つ大きな木だった。
 再び故郷を後にしてジョーイの長く苦しい何かを求める旅が続く。
 ある日、鳥人道場で一緒だった男と出会うが、彼は小市民生活をおくる
ただの幸せそうな凡人になっていた。
 彼が言う
『いまのきみでは たとえどんな翼がついていても 重くて飛びあがることさえもできない』と。
 翔ぶ望みを捨ててしまっている自分自身なのに、望みの方がジョーイを捨てていないと解った時、彼は呪縛から解放された。

 エピローグは、その後、伝わってくるジョーイのうわさを並べている。
でも、これは蛇足ですね。
 その後のジョーイは、読み手が思う”その後のジョーイ”にまかせるべきでしょう。
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 小学生ぐらいの子が”賢明”だの”非人間的””生活の術
(すべ)”なんてコトバを使うかいな!と言うような、ちゃちを入れても仕方がないような細かい点が所々気になりますが、そんなのは、まぁどうでも良い事でして・・・。

 樹村みのりさんの作品が70年をにらんで、フォーク・ソングで言えばマイク真木さんの『バラが咲いた 』森山良子さんの『この広い野原いっぱい』から高石友也さん、岡林信康さん。中川五郎さん、五つの赤い風船さん等の関西フォークへの移行に似たものが感じられる。
 その後、フォーク・ソングで言えば、”四畳半フォーク”に突き進んで行くのですが樹村みのりさんはそこには向かわず、しばし餓鬼路線を歩んだ後、自己の移り変わりと共に”自己”や”社会””他者関係”等を描き続けます。


『だっくす』 だっくす
・・・特集・樹村みのり
1978年11月号

清彗社

1978年11月5日発行 

 その頃住んでいた近くに古本屋さんがあった。店主とけっこう仲良くなりお仕事の帰りにちょくちょく寄った。
 ひょっと見るとこの雑誌が棚に有った。
真崎守さんとの対談なら眼を通さにゃならん!
出版中の作品リストが載っている!!
(これをもとにして翌年、注文伝票を切っていった)
「こりゃ買わなあかんわな〜」って事で店主に150円也を払った。


 未発表作品として『窓辺の人』がここに載せられています。

 いつも窓から外を見ている彼。
彼の行動を理解できない大人達からは変人扱いされていた。
ある日、一人で友人達が遊んでいるのを見ていた節子に、彼は「一緒に遊んだほうが、もっとおもしろいんじゃないかな?」と声をかけた。
 その後、彼の部屋に行くようになり色々な話を聞く。
純真な彼の微笑みは暖かく、話は豊かで面白く、人間の可能性を教えてくれたのも彼だった。
        ・・・
(略しまして)・・・・
 結局、繊細な彼は一人で遠くへ行っちゃうんですね。
自殺するんですね。
 時がたち、節子自身が子供時代が終わりを告げる歳になった時、彼に聞くことも、話す事も出来ない今、彼の苦しみを
(と言っても節子自身の問題ですが)理解しようとする自分がそこにいる。


 淺川マキさんの詞の『引越し』に確かこんな一節があります。
「私は もうじきこの部屋 出て行く せめて前の家
(うち)の あの少年にだけは 気付かれぬように」

 上の「”・・・
(略しまして)・・・”」の所で、節子は彼を、子供の自分をやさしくわかってくれる人と思う描写があるのですが、彼は「少しも良くない!!」と思う。
 明らかに対等に立てない節子に対してはやさしく接し、未成熟な自分自身をさらけ出しながら、節子の悲しみに答えているにもかかわらず、突然、自殺するんでっせ!!
 何も自殺させなくても、物語は描けたように思うのですがねぇ。


『ポケットの中の季節』 2 ポケットの中の季節 2

樹村みのり 著

小学館

1977年8月20日 
初版発行

 『菜の花畑のこちら側』@AB
・・・別冊少女コミック・1975年11月号〜76年1月号掲載。

 家の窓から菜の花畑が見える天真爛漫な幼稚園年長組のまぁちゃん宅はお母さんと、『女が男を捨てる時』を書いた著述業の伯母さんの三人で暮らしているのですが、結婚して近所に住みちょくちょく来る、あき叔母さんの助言で広いお家を改装して下宿屋さんをする事になった。
 そこに来たのが近くの、屁理屈をこねるのが少々多いけれど、根は清く正しく美しくの女子大一年生四人組。
 大家さんの希望は男子学生なのに、四人組は浅知恵を働かせ、部屋を見に来た男子学生達を撃退しまくり、目出度く、まぁちゃん宅の正式な住民となりました。・・・・・・・・・・・@

 あき叔母さんの旦那の兄夫婦は離婚話の進展中。
そのお子様が一時預かりと言う事でやって来た。
 悪戯大好き、照れ屋、口が達者でエセ男気の持ち主と言う、かまってもらいたいのが見え見えのたけちゃんだった。
 両親が迎えに来るまで女の園に紛れ込んできた悪餓鬼一人の日々。
たけちゃんは一刻、寂しさを忘れ・・・。・・・・・・・A

 年末、まぁちゃん宅でお留守番するのは、四人組の二人とまぁちゃん。
 心細いだろうと、「お母さんが従兄弟に頼んだ」と言うふれ込みで、まぁちゃんには見えない、幽霊さんがやって来た。
 幽霊さんはよく家に遊びに来ていた青年で、その頃家にいたお手伝いさんの消息を尋ねて来たのだった。・・・・・・B


 人と人とのかかわりを、温かい眼でさわやかに描いていますが、何で父親不在なんだろう?
 樹村みのりさんは自由・平等を信条とする団塊の世代と言われる頃の年齢。
 それからすれば、父親は友達的な存在で、子供と話し、子供の意見は尊重する、物わかりの良い一見理想的タイプを描きそうなものだけれど、登場する男共は中性化した人物が多いところからして、樹村みのりさんは父親なき社会=母子関係優先社会としてあえて”権威””伝統”としての”父親”を抜こうとしたのかな?



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おとうと
・・・COM・1969年9月号掲載

 戦後の混乱期が終わりを告げたものの、まだ今ほども親が子供に対して必要以上に手をかける事が出来なかった頃、さちこさんに二歳下の弟、昌平さんが出来た。
 性差や性格、成長に伴う価値観形成の方向や価値そのものの違いはあるけれど、弟の成長は自分自身の成長で、自分自身の成長と弟の成長は大いに異なる事が逆に弟と姉との絆を深めてゆく。
 さちこさんが下宿先に向かう当日、昌平さんは朝一番の汽車で山に行く。
 下宿先に向かう車中、弟からの手紙に気付き、その文面にさちこさんは微笑む。
弟の照れと、美意識と・・・私への思いに。


 父親の本棚にはストリンドベルヒとジェンキェヴィチの本・・????
 こんな人知りまへんなぁ〜。少なくとも知っている人は少数派でしょうね。
 面白い事に、ストリンドベルヒさんは『作品を貫くものはマドンナ崇拝的女性渇仰と、現実的に落胆した
(3度の結婚に失敗)のちの女性蔑視である』女性憎悪の権化みたいな人だし、ジェンキェヴィチさんは『反ロマン主義思想を展開させ・・・グロテスク描写をとり入れ、思想的には悲観論に傾く・・・保守的理念・・・伝統的愛国主義の理念の完全な具象化とされる作品』と言うガチガチの超保守主義者
 (『コンサイス外国人名事典三省堂刊より抜)

 
樹村みのりさんが何故、作品にこの名前を書き入れたのか気になります。

 ところで、父親が描かれていますが、絵心のない私が言うのも何ですが、下手です。
 上の諸作品を見ても、次の『おねえさんの結婚』でも、中年男子の絵は下手です。
 父親像
(男)をまだ捉え切れていなかったのか?
描きたくなかったのか?
この頃、樹村みのりさんは二十歳。


 出窓に植木鉢、ピアノを弾くさちこさん・・????
 50〜60年代の日本では、かなり豊かな生活水準ですね。クッキーを焼く場面もあるけれど、当時の米国物テレビドラマを視ての憧れの投影か。


 中学生がフォークナーだ、ドストエフスキーだ、「ボロフスキーの激烈なる討論形式で」・・????
 知的水準が高い兄弟であり、且つ、高い学校なんでしょうかね?
 ボロフスキーさんって、70年頃から活動をはじめ80年代に入って美術家として注目されたけれど、違う人の事か?
とすると、”ボロフスキー”って何なんだ?



 下記は、”パンダホームページ”の管理人さんから、9月7日に着信したメールです。

『“ボロフスキー”ですが私も昔調べたのですが、判らず、その後「ポーランド文学の贈りもの」というアンソロジー本にその人の作品が収録されているのを読みました。
作品名は「皆さま、ガス室へそうぞ」。
強烈な短編です。
巻末の著者略歴によると1922−1951、アウシュビッツ体験を持つ小説家だそうです。

             謎がとけました。
             ありがとうございました。  阿呆坊



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おねえさんの結婚
・・・COM・1971年9月号掲載と『だっくす』には書かれていま
   すが、本書には1972年度作品と記載。

 お父さんが会社の部下の高橋さんを連れて帰ってきた。
初めて見る高橋さんはデッカクて、どちらかと言えばブ男。
ブ愛想すぎて食事の会話が成り立たない。
 帰り際、ぼそっとお父さんに「さちこさんを いただきたいのですが」と言った。
聞かれたお父さんは意味が判らなかった。
もう一度「さちこさんをお嫁さんにいただきたいのです」と言われて・・・「娘に聞かなければ」とようやく答えた。
 今日初めて会ったのに、さちこさんは「わたしはいいいわ お父さん」と平然と答えた。
 高橋さんはその場で、式の段取りまで決めちゃった。
 式も終わり、二ヶ月ほどたった頃、弟の昌平さんが新居に遊びに行った。
昌平さんには「わからん」本が本棚にぎっしり置かれていた。・・・
(註)
 ほどなくして高橋さんが帰宅した。
さちこさんが言うには、高橋さんは学生時代、映画狂だった。
 三冊ほどにまとめられたある女優のスクラップ帳を見て、高橋さんが速攻略奪したのか理解した。
 さちこさんが、高橋さんの何処にひかれたのか?
それは、彼が時折するしぐさにだった。


 人と人とが結びつく。
これを他人に説明するのは大変で、結局、象徴的な点のみを一言で言うしか出来そうにないのだけれど・・・・この作品、私には判ったようで解らないんです。

 ここでも、父親の影が薄い。



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ウルグァイからの手紙
・・・ファニー1973年5月号掲載と『だっくす』には書かれていま
   すが、本書には1974年度作品と記載。

 小学生の時、三ヶ月ほど同級生だった吉田君にバスの中で出逢った。
今、彼はこの町の写真屋さんでバイトをしていて「ちょっと手伝ってくれないか」と頼まれた。
 その後はお定まりのコース・・・。
恋愛感情を北原さちこさんが持ちはじめ、ちょっとした事故の後「いつも手伝ってもらっているお礼の意味さ」と接吻。
 吉田君は偶然に出逢ったわけじゃなくて、小学生の時,お礼にあげるつもりだったドングリの実を渡す為にやってきたと告げる。
 やがて、別れの日が来まして・・・。
前から計画していた南米ウルヴァイに、明日行くと言う。
『人間にね すぐ恋していまうんだ そして あんまりその人を愛してしまうとね 長居をして しまいに その人をキズつけそうになっている自分をみつけるんだ だから 長居はできないんだ』『残念だな 北原くん』
 さちこさんの両耳をつまみながらおまじないと称して言う。
『きみがいつでも元気であるように 考えられるかぎりの そして考えられないものもふくめた あらゆる幸福が きみにおとずれるように きみに きみの家族にきみの友人に きみに出会う人出会わない人のすべてに・・・』
 この時、さちこさんに出来た事は、精一杯の微笑を返すことだった。
 
 二ヵ月後、ウルヴァイから絵葉書が届いた。
書かれていた文面は
『元気ですか?幸福ですか?』のみだった。


 そら、まぁ、吉田君がおまじないして、他人様の幸せを願うのは結構だっせ。
 せやけど、どうみても、吉田君は自己中心そのものの男でんな。
自己快楽徹底追及のお調子者にしか思えん!!
 自己中心にも程度がおますさかい、こんな男、嫌いですわ。

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おまけとして
真平くんとさちこちゃんの夏休みの絵日記
かみなりジグちゃん
(六作品掲載)
が載せられています。


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 はじめの予定では、所有する樹村みのりさんの本は二十冊ほどなので、一回に五冊として四回にしようと思っていました。
 でも、この調子では四回で済みそうにない!!
冒頭の『雨』の出だしのように簡略あらすじで済ますか?
このまま進めるか?あらすじ抜きで行くか?

どないしまひょ?

 嫁はんはまだ眼を通していないのですが、通した後に言う事が想像できます。
曰く、「だらだらし過ぎている!!」
 まぁ、自分でもそう思うので反論しまへん。


ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
13回目は、 
『樹村みのり』さん
・・・U  
です。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


アイコン・阿呆坊。 全面ページで見ています方に。
左の画像をクリックしますと
「表紙」へ行きます。

文責は当HP管理者に有ります。


(註)
 昌平が
『ほら、その人を知るには、その人の愛読書を知れってよくいうだろう』と言いつつ、読み上げた背表紙、著者です。
 ニザン:夭折した作家。サルトルの友人。

      作品『アデン・アラビア
』で「ぼくは二十歳だった。それがひと
      の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」は有名。

 B・ラッセル:数学者、哲学者。
        晩年はベトナム反戦運動に尽力。
 P.Lトラヴァース:『風にのってきたメアリー・ポピンズ』の作者。
 クロポトキン:無政府主義者。国家を否定し、小生産者の共同体連合
        を唱える。代表作『相互扶助論』
 森本六爾:考古学者。・・・
(私、初めて知りました)
 ボンヘッファー:ルター派神学者。反ナチス闘争に参加、逮捕、処刑。
                     ・・・(私、初めて知りました)
 スタージョン:SF作家。・・・(私、初めて知りました)
 ラブクラフト:20世紀初頭のアメリカのカルト的人気を誇るホラー作家。
        クトゥルー神話の創始者。
                (『コンサイス外国人名事典三省堂刊
等を参考)

 これらが、樹村みのりさんの愛読書だったのか、想像上の男の愛読書だったのか、さるお方のだったのか・・・・・?
 いずれにしても、何らかの樹村さんの投影には違いない。
 とすると、森本六爾さんからラブクラフトさんは知らないけれど、ニザンさんからクロポトキンさんまでを見ても、この時代と個人の興味が結びついた人々そのものになり樹村みのりさん自身の精神形成史の一面には違いない。

 私自身、ニザンさんは読んでいないけれど「ぼくは・・・言わせまい」のコトバをその頃知ったし、ラッセルさんは『怠惰への賛歌
(角川書店・文庫)を含めて二〜三冊手にしていたので無縁ではなかったし、ボンヘッファーさんは名前のみだけれど何かの雑誌で見ていたし、トラヴァースさんは知らないけれど彼の原作をディズニーが映画化した『メリーポピンズ』でジュリー・アンドリュースさんを好きになり、♪チムチムチェリー♪を口ずさんだし、アナーキズム(絶対自由主義・無政府主義)の概説書からクロポトキンさんを読む気はしなかったけれど、プルードンさんにはその後かなりこだわるようになったし・・・。
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