第四部 東大反百年祭闘争を闘う 第2章 総長室及び文学部教授会の10・26声明空洞化策動と反撃の闘い、78年9.22学部長室の火災まで  

10・26声明空洞化=「募金非協力声明」の破棄、78年1月文学部長室坐り込みによる反撃、5月「反百年」で10年ぶりの学生大会成立、78年9.22学部長室の火災まで 

77年4月以降の「百年祭に反対する」10回に及ぶ山本文学部長との公開交渉、「百億円募金」に反対する文学部生400の署名などによって、10月26日、学部長は募金非協力の確認を行った。しかし、当局は、この10.26文学部長声明をもみ消し、反百年祭運動を圧殺しようとたくらむ。

〔以下の経過は、『冒陳』「第1章 反百年募金阻止闘争の高揚と展開 」の 「第3節 10・26確認の空洞化 」また、「資料2.文学部学生院生有志パンフ『座り込み闘争を貫徹し企業募金阻止にむけて共に闘おう』第2章「文学部における百年祭糾弾闘争の経過」に基づく。〕

 

総長室と文当局による10.26声明空洞化策動

しかし、当局は、この10.26文学部長声明をもみ消し、反百年祭運動を圧殺しようとたくらむ。 11月下旬、学内を元気に散歩中の山本学部長に、学生が近日中に交渉に応ずるよう求めたところ、快諾したが、これが彼の最後の姿となり、彼は以後、大学に現れなくなった。

学内広報に10.26声明が掲載されないために、当局の動きを怪しんだ学生が、広報委員長、文学部 教官を追及したところ、12月14日の文学部教授会で「病気」の山本氏に代わった柴田代理から、「10・26確認は「私的・個人的」なものと山本氏自身が言っている」との報告があり、これを「そのまま」あるい「なんらの討論なしに」了承したということが明らかになった。

総長補佐の富永文学教授は姿を見せなくなった。駒場では嘉治次期教養学部長が「東大百年を告発する会」などと行ってきた「百年祭」に関する話合いを中止する旨、学生側に対して電話で通告してきた。

「募金非協力」の文学部長声明を「私的・個人的」なものとみなし、内容を「空洞化」しようとする策動が文学部当局と総長室とによって強引に開始されていた。

学生側は10・26募金非協力声明の 確認空洞化に関する「公開質問状」を印刷し、文学部教授会の全員に郵送したが、回答は一通もなかった。

このように文教授会は、山本氏を逃亡させ、一斉に緘口令をひき、試験・春休みへの逃げ込み、すなわち、10・26確認空洞化を既成事実にしようと目論んだのである。しかしわれわれ、文学部学生院生有志は10・26声明の再確認を求め、反撃を開始する。

78年1月、学生側の要求した話し合いに現れた柴田学部長代理の説明では、(評議員の)今道教授と相談して山本氏に電話をして聞いた結果、その声明を「私的・個人的なものだ」と「解釈」した、という。

だが、①10・26声明は4月以来の公開交渉の積み重ねの上にあるものであり、この連続交渉中で早島募金委員の辞任、文学部として事務員の派遣を中止する等、公的な確認が一貫してなさなされていること、
②10月31日の院生の自治会・人文会との「正式」交渉の席上、「文学部として募金に協力するな」という人文会の要求に対し、山本氏は「募金非協力声明はもう出してあります」と述べていること、
③10月28日、文学部掲示板に、学部長名を付して この声明が掲示され、 また 、広報委員会にも同声明が送られていること、 ④山本 氏自身 、4月以来の交渉の中で、「募金問題は学部長の専決事項である」と述べていること、
等の諸事実を指摘すると、柴田代理は全く反論できず、「評議会で決まった募金に反対できるはずがない」ので「声明は公的なものであるはずがない」と居直ったのだ。そしてさらに「学部長代理の権限がどのようなものか自分は知らないので、一切の確認をすることはできない」と、実質的には討論を全面的に拒否したのである。

柴田代理の対応は、話し合うポーズを示しながらも、「代理だから何もできない」と、実質的な話し合いを拒否しており、試験・春休み逃亡への時間稼ぎにすぎないことが明らかになった。

そして彼自身の姿勢を問われると、「百年だから何かやるというのは奇異ではない。」「企業から税金が出され、それで国立大学が成立する。企業募金も同じ類のものである。」「研究者のモラルがしっかりしていればよい」と言う。すでにわれわれと山本氏との話し合いの中で論破されてしまった議論であった。

文・有志による文学部長室座り込み闘争の開始

こうした柴田学部長代理と文教授会の姿勢を見て、私を含む文学部学生・院生有志は次の三項目の要求項目を掲げ、話し合いを求めて、78年1月27日から、学部長室座り込み闘争を開始した。

①山本学部長は団交逃亡、10.26声明の内容すり替えを自己批判し、団交に応じて10.26募金非協力声明の堅持を確認せよ。
②文教授会と柴田学部長代理は、10.26声明の空洞化策動と、文学部生400の募金反対署名への敵対を自己批判し、10.26声明を再確認せよ。
③文学部当局は今春予定の企業募金開始中止に向け、総長室に働きかけを行なえ。

まもなく、柴田に代わって教授会の実権を握った今道が現れ、われわれの話合い要求に答える代わりに「座り込みを解かなければ話し合いに応じない」といい、入試が近づくと「座り込みを解き学内から退出せよ」と「説得」に来たが、我々が拒否すると、入試当日3日午前0時、200名の機動隊を導入して我々を強制排除しようとした。

われわれは50名の部隊で学内デモを貫徹、その後正門前の学生・職員の支援部隊と合流、抗議集会を行なった。また3日夜には正門前にテントを張り、1週間にわたり、受験生やその保護者に、また一般市民に対して百年祭糾弾闘争についてのアピールを行なった。そして、10日には再度、文学部長室座り込み闘争に入った。

3月17日付の「告示」で、山本氏は、
文学部募金非協力の10.26声明の掲示は「そこに学部長名を付したことは、文学部の公式な意思表明を思わしめる紛らわしさをともない、また内容においてすでに評議会で決定された-----募金について----あたかも否定するがごとき性質のものとなり、はなはだしく適切をかく措置であった。その結果、文学部内外に種々の混乱を生ぜしめたことについて深甚なる遺憾の意を表する」とし「あらためてそれが公的性格を持たないものであったことを明らかにし先の掲示を撤回する」と言っていた。

10月26日に掲示を行なった時点では、その声明は「文学部の公式な意思表明」であり「公的性格をもつものであった」ことに「紛らわしさはなかった」のである。しかし、かれは、大学の管理強化を進める政府・文部省、そしてサンケイや読売など右傾化した一部マスコミ報道の圧力の下、総長室と、また今道およびそれに追随する( 常に「多数派」に与し、教授という地位を守ることしか頭にない俗物)文教授会メンバーによる、上で決まったことには逆らうなという、権威主義の押し付けに屈し、自分の考えを放棄してしまった。

「百年をお祝いする」ことの無思想性、科学技術の進歩は無条件に肯定されないこと、企業募金の問題性---研究者が結局企業のための研究をおこなうことになる危険性---について、討論に参加した学生・院生・職員の前で彼自身が述べていたことを、彼はお家イエに混乱を招いたことを理由に、すべて取り消すというのだ。

結局彼の取った態度は、哲学者にふさわしくない、長いものには巻かれろというもので、彼もまた、俗物たち・多数派文教授会メンバーの仲間入りをすることになってしまった。残念であり、彼を気の毒に思う。

新学部長として登場した今道は4月3日文書を配布し、学生が教授会に企業募金について討論を「強要」することは「研究のための秩序」を乱すことであり、「研究の阻害」である。まして「暴言を浴びせる」などということは許せない。処分すべきである。処分ができないというなら、他の手段を講じてでも大学から追放すべきである、という所信表明を行っていた。

文学部での反百年・募金反対の運動の高まり、10年ぶりの学生大会成立

78年3月10日、われわれ文学部学生・院生有志による座り込み闘争が再度開始され、春休み中も文学部では学生の反百年祭の運動が続いた。

〔 『冒陳』第1章「反百年募金阻止闘争の高揚と展開」 第4節「各学科での運動の展開 」及び第6節「学生大会の成立と団交獲得」から引用する。〕

「各学科での運動の展開
この10・26確認空洞化に対して怒りを持ったのは、一人文学部学生院生有志のみではなかった。400署名に端的に示されるように、当時の文学部生の大半は募金に反対の意志を持っており、それゆえ、文有志の対山本文学部長公開交渉にも多数参加しており、参加しないまでも、好意的に注視し続けてきた。p20
10・26募金非協力確認は、 従って、多くの学生に当然のものとして受け止められた。それだけに、この確認が11月以降教授会によって空洞化されていくことに対し、署名をした個々の学生の憤りも大きかった。空洞化の中で自らの署名が無視され、また一方で文・有志がそれに抗議して坐り込みを開始するといった事態の中、署名した個々人の主体的な関わり方が問われることになったのである。

それは具体的には諸学科における 学科討論の活発化としてまず現れた。1学科からは坐り込み支持の、2学科からは文教授会への話し合い解決を要求する学科決議があげられ、他の学科からは、10・26確認の堅持を求め、また坐り込みを支持する学科有志アピールが出された。

ここで、学科の運動に一言ふれておきたい。 文学部の複数の学科においては、以前より様々な形で、様々な運動が展開されていた。ある学科では自主ゼミ運動や研究室の自主管理に向けて、またある学科では自らの学問の位置付けから現代社会を問うといったように、それぞれ身の回りにある日常を真摯に捉え返そうとしていたのである。当然のことながら、百年祭問題もそのひとつの課題となっており、各学科の有志により、様々な形で反百年の運動が展開されていた。

例えば、社会学科においては、前年5月の学生大会に反百年を前面に立てた独自の学科提案を提出していたし、東洋史学科においても、反百年を基調とした運動が展開されていた。こうした諸学科における様々な運動は、10・26募金非協力確認空洞化及び、文有志の坐り込み闘争を大きな契機として明確に反百年・募金阻止の運動として高揚して行ったのであり、 前述した各学科アピール等にもとづき、 様々な学科で百年問題をめぐって、教官との交渉、あるいは教官を含めた討論会へと発展していく。 p21

                                 一方、2月27日の文有志と教授会の交渉の結果、〔坐り込みが続けば、入試の時には〕機動隊導入〔のつもりだということ〕が明らかになってくるが、これに対しても社会・美術史・中文・ 西洋史等の各学科単位で、機動隊導入に反対し、話し合い解決を求める、教授会あての決議があげられた。 機動隊導入が必至となった3月1日、2日には、はじめて東洋史・社会両学科有志の主催のもとに、起動隊導入反対の集会およびデモンストレーションが行われ、2日夜の導入に際しては抗議の声を上げたのである。

その後も、休暇中にかかわらず、各学科の討論は活発に行われたのであるが、中心的に学科活動を展開していた社会・東洋史の両学科より、1学科だけの運動の限界を乗り越えるためにも、反百年・募金阻止の課題の深化に向けた学科共同討論会実現へ向けて他学科への呼びかけが開始された。

これに応じて行われた共同討論会においては、反百年・募金阻止の闘いの必要性が確認され、具体的な方針が活発に議論された。3月末には、ここ9年間定足数を満たすことなく不成立に終わっていた学生大会を成立させ、その場で反百年・募金阻止の大衆的な決議をあげることを明確に打ち出し、同時に反百年・募金阻止学科連絡協議会が結成されたが、それが後の5月18日の学生大会で結成される「団交を実行する会」の母体となったものである。

4月に新3年生が進学してくると、新しい進学生をも含めた広範な学科討論・学科間討論が行われ、そうした学科からの声は、まず最初に4月20日、反100年募金阻止全学科集会への100名近くの学生の 結集となってあらわれ、反百年の、そしてまた10・26募金非協力確認空洞化への抗議の声をあげたのである。その後の学生大会へと向け、様々な討論や運動が展開され、歴史的な5月18日の学生大会を迎えるのである。」(『冒陳』第1章第4節)

学生大会の成立と団交獲得

「78年1月末よりの文学部学生・院生有志による学部長室坐り込みを一つの契機として各学科において活発化していた学科活動は、4月以降、新たな進学生をも含んだ広範な討論として組織されていった。

4月10日、社会学科有志は「百年祭をぶっつぶそう」というアピールを全文学部に発し、さらに、4月20日には同じく積極的な学科活動を展開していた東洋史学科の有志と共に、「<反百年>の泉を大河に」のスローガンのもと、<4・20百億円募金阻止・5月学生大会成立=勝利を目指す文学部全学科集会>が開かれた。この集会には文学部学生70名以上が参加し、それぞれの学科における自主的活動を踏まえ、さらに、それ以前には孤立的になされていた学科活動間の交流・連帯を推し進め、募金反対を全文学部学生の声として確認するため、学生大会によってこれを決議し、対教授会団交を獲得して行こうという基調提起がなされ、確認されていった。p27

一方、同日、この全学科集会と同時に開かれていた、文学部学生院生有志らの学部長室坐り込み防衛集会に対して、東京大学職員組合、東大自治会全学中央委員会(ともに日共系)のデモ隊が、学部長室「不法占拠」解除をかかげつつ、宣伝車・旗竿部隊を先頭にして突入するという事態が生じた。このデモ隊列の中には当時の文学部学友会執行部も参加していたため、当局の「百年祭」に賛成する姿勢を明確に示したとして、彼ら日共=民青は、文学部生に対する影響力を完全に失った。

文学部内では、「反百年・募金阻止」をめぐり、さらに「文学部長室坐り込み」をめぐって 大きな議論が巻き起こっていた。
社会学科、東洋史学科を中心として各学科間の交流・連帯を推進し、これらの問題について連続した学科討論、類別討論で論議を深めてきた諸学科は、学科間の連絡機関として「募金反対学科連絡会」を結成し、学生大会に向けた提案の作成を開始した。

このような活発な学科討論・学科間討論を背景として、5月18日、文学部学生大会は、実に10年前の東大闘争以来初めて成立した。そして、この学生大会において、「募金反対学科連絡会」の提案が賛成146、反対48で可決された。「募金反対学科連絡会」の提案の主文は次の通りである。

「以下①②の要求を貫徹するため「団交を実行する会」(団交実)を結成して、5月25日(木)までに対文教授会団交を行なおう。
①文教授会は 募金反対400署名無視、10・26確認空洞化と3・3機動隊導入による反対運動弾圧への加担とを自己批判すること、及び4・3今道学部長名文書を自己批判し 、白紙撤回すること。
②文教授会は文学部に募金非協力体制を確立すること。
この団交要求への無条件かつ明確な受諾確約回答が22日正午までにない場合、我々全文学部生は23、24両日午前8時半より午後5時までのストライキを行い、再度、団交実は文教授会に団交を要求する。」 この他、文学部学友会執行部(当時)提案はひとつも可決されず、特に「学部長室坐り込み解除」を要求する提案は賛成44、反対125で否決され、また、文有志の提案は逆に一つも否決されないという結果に終わり、このこの学生大会によって文学部学生の募金に反対の声は公式に確認されたのであった。 p29

5月19日、団交実は文教授会に対して団交要求を提出したが、これに対する文教授会の回答は次のようなものであった。

「学部交渉のルールに則った交渉を行う 」

これに対し、団交実は①断交の責任主体が教授会であるということが不明瞭、②「学部交渉のルール」なる 意味不明の条件が付けられていること、③「学部交渉のルール」なるものに対して一切の説明を拒否したこと」等を根拠としてこの回答に対して抗議し 、学生大会決定に基づき、5月23、 24日と抗議ストライキを行った。

続いて5月25日臨時学生大会が成立、再度、スト権確立を背景とした対教授会団交要求が可決され、その後スト権を背景に、教授会との予備折衝が行われていった 。

6月上旬2日間のストライキを打ち抜き、粘り強い議論を重ねる中で、教授会の出してきた不当条件はことごとく論理的破産に追い込まれ、また3日間のスト権を背景に迫った要求によって、不当条件は完全に撤廃されて 、6月23日の団交が確認されたのである。」(冒陳第1章第6節)

この78年5月の歴史的学生大会において結成された「団交を実行する会」(団交実)の反百年・募金阻止を軸とする活動方針、および今道執行部との闘いの詳しい経過については、10月学大向けに発表された団交実『反百年・募金阻止闘争勝利のために』→資料Ⅲ を参照のこと。

だが、今道学部長と辻村評議員、戸川学部長補佐らは、会場の三番大教室にあふれる300名を超える学生を前に、「教授会の考えを浸透させるために来た」のであり、「団交には応じない」、「二項目の要求には応じない」と答え、さらに、早島前募金委員辞任後空席であった募金委員に新たに辻村評議員が兼任で就任したと発表するなど、露骨に強権的で、挑発的な姿勢を示した。

団交要求に応えようとしない教授会に対して、学生側は、学大決議に基づき2波四日のストを打ちぬき、不当な条件を持ち出してあくまで団交を回避しようとする教授会を、6月の4回にわたる粘り強い「予備折衝」で追い詰めたが、今道―辻村ら執行部の強硬な団交拒否、闘争弾圧姿勢に直面した。

今道執行部の団交破壊‐拒否

ようやく7月7日に設定された団交で、会場に来ていながら後ろに座り討論に加わろうとしない教官 がいて、学生が前に座って討論に加わるようにと求めたが、その教官は求めに応えようとせず、「では私は出ていく」と退席してしまった。

ところが団交立会人の浜川第二委員が「理由の如何を問わず、教官を追っ払うのはおかしい」と言い出し、この発言の不当性を指摘されても彼は傲岸無礼な態度で撤回しようとせず、ほかの教授会代表団メンバーは我関せずの態度をとった。

こうしてこの七夕団交は流会となり、教授会代表団も、浜川委員の「適切でない発言」が「事態の紛糾を招いた」と、10日にやり直すことを確認した。今道学部長は「定期健康診断」を理由に途中退席。「必ず帰る」と約束したが、戻らなかった。

ところが、7月10日、やり直し団交の当日になり、教授会は一片の掲示で団交中止を通告してきた。また当日付け学内広報の「部局ニュース」では、七夕団交に関し、歪曲と捏造の記事を掲載していた。団交拒否の正当化のための学内世論操作である。この記事については交渉委員の戸川教官(中哲)は全く知らないと言っており、今道/執行部が独断で書いたものだったようだ。

こうして、今道執行部‐文教授会は、不当条件を持ち出した当初から、団交を回避/拒否しようとしてきたが、学大の成立とストライキで追い詰められ、回避/拒否が困難になるや、何か言いがかりをつけることにより団交の直接破壊に方針を転換した。浜川の暴言はまさしくそうした団交破壊の突破口にしようとなされたものだ。

しかし、学友会・団交実は12日に開かれた教授会に介入、学内広報記事の訂正、団交再会を要求し、14日には全学に呼びかけ100名の結集で経団連にデモ、募金担当花村経団連副会長に「抗議書」をつきつけるなど、闘争態勢を堅持した。

こうして7月28日に団交がおこなわれることになった。ところがまたしても、今道は団交破壊を行う。前日夜集まっていた団交実のもとに、今道が突然現れ「7~8日(七夕団交)の事態について陳謝してもらいたい。そうしなければ明日の団交には応じられない」とあらかじめ用意してきた「陳謝文」への署名・捺印を要求する封書を投げつけ、学生の憤激の声を後にして、立ち去ったのである。

団交実は翌日、「陳謝文」を待っていた今道を追及したが、彼は「とにかく謝れ」の一点張りで、「陳謝文を持ってこないのなら帰る」と、事前に動員していたゲバ職に守られながら、また学生に対するゲバ職の暴行をしり目に、逃亡し、掲示で団交中止を通告してきた。

対教授会団交めぐるこうした事実経過については、資料Ⅳ:文学部学友会団交を実行する会『反百年・募金阻止闘争勝利のために―10月学生大会にむけて』第一章、 反「百年」募金阻止運動の経過―総括、方針、【1】 反「百年」、募金阻止運動の経過、Ⅴ 団交(6.23,6.29)、Ⅵ 七夕団交での追及(7.7)、Ⅶ 今道執行部の団交破壊―逃亡(7.10~7.28)における、事実経過と、説明を参照せよ。
とくに Ⅶ で次のように書かれていることに、注意。
「注目すべきことに、この陳謝文要求を他の教授会メンバーは全く知らず、事後に、あるいは団交会場に赴いて知らされていることである。そして、7.12教授会で浜川第二委員が委員の辞表を提出し、学部長不在のため預かりの形で受理されていることである。浜川が辞表を提出するのは七夕団交の確認のためではなかったか?ところが追及された今道は、7.7確認を一切認めぬ上に、浜川に非はなく、辞任は認めていないと強弁するのみだった。

この今道と教授会の乖離は、今道個人の個性に色濃くいろどられていることは疑いない。しかし、陳謝文の内容は、学内広報の歪曲、捏造された記事に依拠するものであり、それは7.28今道の団交破壊―逃亡が7.10以来、教授会が一貫して持つ姿勢の上にあることを雄弁に物語っている。即ち、7.7の事態を、手前みそに味付けし、学生側に非があるかのようにみせかけ、断交を逃亡し、夏休み拡散の中で闘争の鎮静化を待つこと、これである。」

「今道個人の個性」という言葉は別として、今道と教授会の間に「乖離」があったのは確かである。また「陳謝文の内容は、学内広報の歪曲、捏造された記事に依拠するものであり」とされている点は、陳謝文の内容と学内広報記事が一致するということを意味している。私は、両者は同一の人物の手によるものだと思う。つまり、今道が戸川にも(上で戸川委員は知らないと言っていた)また、ほかの教授会メンバーにも、知らせず、相談せずに書いたものだと思う。

この時期、団交要求から逃げられなくなった今道は明確な弾圧・強硬路線をとることにし、(辻村を除き)事勿れ主義の教授会メンバーに見切りをつけ、独断的に、団交破壊に乗り出したのである。 教授会メンバー浜川の暴言をとがめた学生側が七夕団交の紛糾に「陳謝する」ことなどありえないことを十分に知っていた「にもかかわらず」ではなく、十分に知っていた「からこそ」、陳謝要求を行い、(学内世論操作をも行ないながら)団交破壊を企てたのである。

こうして今道は秋に向かって、学友会・団交実に対し、また反百年闘争の先頭にある文学部長座り込み闘争に対し、全面的な攻撃を掛けようとしていた。8月23日には、突然、坐り込み闘争がおこなわれている学部長室に現れ、「傷つかないうちに出ていけ」と恫喝をかけた。

9月に入ると今道執行部は文・学友会(自治会)主催の学部祭を不許可とし、9.22の「文学部学生諸君へ」という文書において、「占拠を放置しておくことはできない」ので「教授会としては事態の早急な解決を 計る」と言うなど、学友会の自治活動に対する弾圧、学部長室坐り込みに対する強権的対応の姿勢をあらわにしていた。

学生側は8・31弾圧粉砕全学集会を80名の結集で行ない、また団交実は10月学生大会向けパンフレットで長期ストライキ方針を提起し、9月18日には「秋期文闘争勝利総決起集会」を全学100名の結集で行うなど、反撃した。

1978.9.22.文学部長室の「火災事件」

ところが9月22日、早朝、座り込みがなされていた文学部長室で不審火が発生した。「不審火」というのは、午前5時頃東大病院北病棟で、6時頃農学部で、6時6分頃文学部で相次いで火災ベルが鳴り、またこの頃「農学部が火事だ」と若い男の声で安田講堂内警備本部に怪電話があったことなどが、明らかになっているからである。

ほぼ同時に学内3か所で非常ベルを鳴らした人物、また「農学部が火事だ」と電話した「若い」男は、火災の発生に関係があるのではないかと疑われるし、それは1人ではなく複数だったのではないかとも思われる。

学部長室にいたわれわれの仲間が火事に気が付きすぐに消化活動を行ったから大きな火災にならないですんだものの、「農学部が火事だ」という電話は消防の活動を遅らせる目的でわざとなされたものだとも推測されるだろう。

今道は学部長室にいた学生たちに向かって「お前たち、火を出したな」と叫んで、初めから「失火」と決めつけていた。われわれは、文学部長室坐り込み闘争と文学部学友会の東大の百年祭に反対する運動に敵対する何ものかによって放火された可能性があると考えたが、とりあえず「不審火」と呼んで、今道=文教授会の「失火」デッチ上げ攻撃と学友会活動に対する弾圧を跳ね返しつつ、学友会と共に真相糾明を行おうと努めた。

文学部学友会では、9月27日学友会委員会決議に基づき文学部学友会調査特別委員会を設置し、事態の糾明に乗り出した。

そして、9.27、10.18の二度にわたる学友会委員会で明らかにされた調査特別委員会の報告資料をもとに、学友会常任委員会は10月26日、『 9.22学部長室火災をめぐる第一次調査報告 』(タブロイド判で9ページ)を発表した。この全文を〇〇として掲載する。

「東大百年祭闘争」第3章へ

「東大百年祭闘争を闘う」<目次>へ

「私の第二ステージ」に戻る

トップページに戻る