第五部 第2章. 国立科学博物館・海部陽介チーム「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」は3万年前の航海を再現できたのか
海部チームの「3万年前の航海」への挑戦
「3万年前の航海再現プロジェクト」への挑戦を構成している仮定
海部は「漂着」シナリオを否定する
海部は台湾の山に登って与那国島を見た
海岸近くで暮らしていた台湾の旧石器人は高い山に登って、与那国島をみることはなかった
山地で暮らしていた台湾の旧石器人も与那国島を見なかった
(1)旧石器時代の人々の住居
(2)狩猟採集の生活と遠くの海を眺めること
3万年前に島(与那国島)を発見した台湾の人は、海を渡って移住する計画を立てて、実行に移せたか
台湾の旧石器人は黒潮の航海経験を積むことができなかった
台湾の旧石器人は与那国島に到着できても、台湾に戻ってくることはできなかった
出航地がずっと南方であれば、時間がかかっても黒潮横断は可能
台湾の旧石器人は見えない沖縄島以北の島には意図的・計画的航海は不可能
琉球列島に渡ってきた人は台湾から来たのか
スンダランドから琉球への海の道
竹筏ヤム号の漂流・航海とルソン海峡の「海上の道」
ルソン海峡の黒潮流と海部Scientific Reports論文の検討
海部Scientific Reports論文における「discussion」の検討
移住・拡散の原因
中間的まとめ。海部チームの航海は「3万年前の航海の再現」ではない
琉球列島に最初に住んだ人々は台湾よりも南の島々から漂着した
漂流の原因としての津波
フィリピン諸島へのスンダの人々の移動・拡散
結論
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2019年7月、国立科学博物館教授・海部陽介を長とするプロジェクトチームによって、丸木舟で黒潮を横断して台湾東岸から日本の与那国島へと渡る、航海実験が行われた。
このプロジェクトは「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」と名付けられていた。2016年から17年にかけて、草船と竹舟でおこなった航海実験は失敗した。
だが、チームが古代の石斧を使用して作ったという丸木舟・スギメで2019年におこなった実験では黒潮の横断に成功した。
このプロジェクトを説明したHP、海部 陽介「3万年前の祖先たちの大いなる挑戦」(2018年07月10日)で、海部は次のように述べている。
旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島までの地域に住んだ集団を祖先として持つ人を日本人と定義すると、その祖先は、ユーラシア大陸東部より複数回にわたって渡来した。
樺太を経由して北海道に至る北方ルート、朝鮮半島を経由する北西ルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる。
海部は、日本列島に移住してきた三つの集団のうち、最初に移住し縄文人を形成した東南アジアに住んでいた人々と、その人々が渡ってきたと思われる琉球列島ルートに注目する、という。
左図は彼のHPに掲載されている「琉球列島における主な遺跡と現在の流路(矢印)」である。島名などを書き加えてある。
その人々は、航海具を使って台湾と与那国島などの先島諸島との間に流れている黒潮を横断して琉球列島にわたってきたはずで、海部はその航海具を再現し、黒潮横断が実際に可能だったことを証明しようとした。
2016年から17年にかけて、草の束で作った草舟、そして竹の舟で実験を行ったが、それらのテスト航海は失敗に終わった。草束や竹の舟はスピードが出ず、黒潮を横断することができなかったのだ。
その後、3万年前の石斧を使って杉の大木を伐採、6000年前の縄文時代の丸木舟を復元した。この船はスギメと命名され、2018年10月に千葉県館山沖てテスト航海に成功。
そして2019年7月、日本中の選りすぐりのカヤックなどの漕ぎ手を集めたクルーを載せて台湾南部・台東縣から出航したスギメは、予想より長い45時間、ほぼ2日かかったが、与那国島に到着し、黒潮横断航海実験は成功した。
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こうして、
海部チームの丸木舟スギメは台湾と与那国島との間を流れる黒潮を横断することはできたが、それは果たして「3万年前の航海」の再現なのかどうかについて、私は懐疑的である。以下の論考により私の懐疑が正当なものであることを示したい。
海部が台湾―与那国島間の航海実験に先立だって書いていること、その後の著書の中で書いていること、また実験後に行われた記者会見で述べていることなどから、大まか、彼の研究プロジェクトは次のような仮定に基づいて組み立てられている。
なお、海部は数名の共同執筆者と2020年12月に「水平線の彼方の見えない島々へ船出した旧石器人」(原題は”Palaeolithic voyage for invisible islands beyond the horizon”)という論文をScientific Reports 誌に掲載し、実験に関する追加発表を行っている。こちらの内容についても、適宜ふれることにする。
3万年前に琉球の島々に存在したホモサピエンスは、台湾から渡ってきた。3万年前頃、琉球列島は台湾と陸続きになっていたとする説があった。〔たとえば、菅浩伸「東アジアにおける最終氷期最盛期から完新世初期の海洋古環境」OKAYAMA University Earth Science Reports,Vol.ll,No.1,23-31,(2004)など。須藤の注〕
だが、それは現在では否定されており、台湾と先島諸島の間(そして北部のトカラ列島と九州)はつながっていなかった。したがって、何らかの道具・乗り物を用いた航海によって海峡を越えなければならなかった、と海部は言う。
台湾と与那国島との間の海峡には速い海流=黒潮がながれている。海部は、台湾の大学研究者がおこなった漂流ブイを流す実験の結果を調べた。
だが、台湾南部の東岸から流されたブイはすべて、台湾と与那国島の間の海峡を通って、東シナ海に運ばれ、そのあとトカラ列島近くまでは、琉球列島から遠く離れたところを流れた。与那国島およびそのほかの琉球の島々には一つも漂着しなかった、という。
Scientific Reports論文では、いくつか琉球列島に漂着したブイもあったが、実験したブイの総数に比較してごくわずかで、漂着は無理だとする結論は変らない、としている。
またルソン島付近から流した16個のブイは、13個が黒潮に乗って漂流したが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみで台風の影響によるものだった、としている。
私は、いくつかの根拠により、フィリピン北東部から出航すると、意図的な航海でなくとも黒潮の東の端に乗り、琉球列島に接近することが可能だということを後で示す。
漂流ブイの実験結果を見る限り、推進力を持たないか、ほとんど持たない筏のような乗り物で、単に台湾南部から海に出るだけでは、黒潮を横断し、与那国島に着くことはできない。
海岸近くで筏を使って漁労を行っていた数人の人が、偶然流されて琉球に漂着したという可能性は、こうして否定される。
「漂着」シナリオは漂流ブイの実験データによって否定されるだけではない。
先島諸島では旧石器人が万年単位で暮らしていたことがわかっている。渡島した集団が永続可能となるためには、相当数の男女が、渡島したと考えねばならず、その点からも、偶然の漂着ではありえない。
「台湾の沿岸で小舟に乗って魚取りをしていた2人の男が黒潮に流され、運よく---島に流れ着いて、生き延びることができた」としても、男2人だけでは子孫は残せない。島に定着するには男女が数人ずつでも難しく、もっと大人数であったはずである」。
偶然の漂着では説明がつかず「島にたどり着いた後にも人口を維持できるような"移住”であったはずだ」。
海部は、数理理論が専門の研究者に頼んで計算してもらったところ、最低でも男女5人ずつくらいで移住しなければ、新しい土地で子孫を増やし定着することはできないということだった、と述べている〔インタビュー/日本文化「私たちはどこから来たのか? 3万年前の航海再現で探る日本人の起源」2017.12.14〕https://www.mugendai-web.jp/archives/7843〕。(この点について後で再びふれる。)
すると台湾から渡った人々は10人以上の男女だったのだろう。
だが、そうだとすれば、当時せいぜい5,6人乗りの丸木舟しか航海具がなかったのだし、2昼夜に渡る200㎞もの航海で、2艘以上の舟を繋いで航海するのはむずかしく、大勢が集団で”移住する”というのはやはり無理だったはずだ。
そうだとすると、移住が目的であるなら、先遣隊のうちの2,3人は台湾に戻り、ほかの人々、子供や女性たちを乗せて、再度与那国島に向かわねばならなかったはずである。
しかし、後で述べるが、台湾から与那国島に渡る際には、黒潮で流される分を計算に入れて200㎞も南の方から出航することが必要だった。
だが、与那国島から出発する場合には、出航する位置を南に変えることはできない。したがって、黒潮を横断して台湾に戻ることは、エンジンの付いた船でなければ不可能なのである。
とすれば、むしろ、筏のような、連結しやすい、多人数が乗った乗り物が、何らかの原因で海上に流されたと考える方がうまく「シナリオ」を描けるのではないか、と思う。この点についてはまた後で触れる。
さて
海部は、旧石器人の台湾から琉球列島への航海は、意図的、計画的なものだった。ホモ・サピエンス、新人が旧人、ホモ・エレクトゥス(直立原人)と違うのは、好奇心が旺盛でチャレンジ精神、探求心が強い点にある。〔ホモはヒト科動物、サピエンスは知恵のある、を意味する。ホモ・エレクトスは立って歩くホモの意味。〕
ホモ・サピエンスは、10万年以上前にアフリカで生まれ、現生人類へ進化した後、6万年前にアフリカを出て、各地に移動、世界中に広がった。海部は『人類の移動誌』のなかで、執筆者たちが現生人を「ホモ・モビリタス」【移動するホモの意味】と呼ぶことに賛成しつつ、「ホモ・モビリタスの名に値する移動の軌跡は、新人の好奇心や問題解決の努力とその能力の証しだ」と言っている。
大略このように、探求心旺盛なホモ・サピエンスが与那国島を発見して、渡島・移住計画を立てたことにより、琉球列島への航海が行われた。したがって、琉球列島への旧石器人の渡来は、偶然の漂着ではなく意図的・計画的航海の結果だ、というのが海部の考えであり、このプロジェクトの前提になっている仮定である。
意図的・計画的航海であるための必要条件としては、目標の島が見えることがあげられる。どこかにあるかもしれない新天地を目指して、海と空しか見えない大海原に向かって舟を出すだけでは、子供っぽい冒険とは言えても、意図的・計画的航海とは言えないが、台湾の海岸近くにある高い山に登ると、天気が良ければ、与那国島は見える。
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「3万年前の祖先たちの大いなる挑戦」の中で、海部は祖先たちはどうやって島を見つけ、どのような作戦を立てて島を目指したのか---本番の航海計画は、このシナリオづくりから始まります。
>
しかしこのプランは、最初からつまずきました。現地の人によれば、台湾から与那国島は見えないというのです。高山に登れば見えると踏んでいたのですが、そこで暮らす長老に聞いても、観光局に聞いても、答えはノーでした。それでもあきらめずに2017年4月に台湾で広告を出したところ、情報が出てきたのです!
>
2017年8月には、私自身も台湾の山で4日間過ごし、自分の眼で与那国島を確認することができました。
左図a 台湾花蓮市の立霧山から見えた与那国島の写真;b □A内に与那国島)。これでようやくシナリオが描けます」。
さて、海部は3万年前の台湾にいた人々が、遠くに島があることに気が付き、移住しようと考えて、意図的・計画的に航海したというのだが、私には、ひどく疑わしいと思われる。
与那国島役場HPによると、
>
与那国島からは「年に数回晴れて澄んだ日には、水平線上に台湾の山々を望むことができる」という。しかし、台湾の東海岸からは100㎞先の、高いところで標高231mしかない与那国島は見えない。
海部は、高い山の上からなら与那国島は見えるはずだと考え、事前に新聞広告などを出し、どこに行けば見えるかの情報を得て、車でふもとまで行き、山に登り、4日間山に泊まって観察し、実際に島を見た。写真にも撮った、という。
左の写真は海部が撮ったという与那国島の写真である。
これは、海部の研究上の行為・行動としてはもっともなのだが、3万年前の人に島を見つけようとする動機があるかどうか疑わしく、また見つけるために海部のような行動をおこなったとは考えられず、彼らが島を発見できたかどうかは極めて怪しい。
海部は山に行く前から、地図上の位置・距離から与那国島が見えることを理論的に知っており、また見た人からの情報を得ていたから、わざわざ山に登って4日間、海を眺め続けたのである。
だが、3万年前、海岸近くの低地で暮らしていた人は海部とは全く違う状況で生きていたはずだ。
彼らに必要なことは、日々の狩猟や漁労そして植物の採集である。そしてのんびりと休憩することだったろう。彼らが、海のかなたに島がないかどうか調べるために、道のないところを歩いて山に登った、というのは大いに疑わしい。
あるいはまた、高い山に暮らしている人たちと接触し、彼らが遠くの島を知らないかどうか尋ねる、といったこともしなかっただろう。生活にどうしても必要な物や珍奇な装飾品などの交換のために接触を試みるということはあったかもしれないが。
しかし、たまたま、日常生活に飽き、何か新しいことをやってみたいと思った若者がいて、海岸から見える山に登って周囲の世界を眺めようと考えたと仮定しよう。彼が一人であるいは友達を誘って、何日間か集団を離れて旅に出ると言い出したとして、果たして周囲はそれを認めただろうか。
一人や二人で森に入って行き、クマ(台湾には固有種のタイワンツキノワグマ がいる)などに襲われたらどうするか。あるいは、言葉の通じないほかの集団に遭ったらどうするのか。おそらく強い反対にあっただろう。
考えにくいことだが、周囲の反対にもかかわらず、その若者が一人で勝手にでかけ、山の上の暮らしている人々と、なんとか意思疎通が図れたとしよう。しかし、すぐ後で述べるように、山地で暮らしていた人々も遠くの島を発見することはなかったと考えられるから、彼は遠くの島についての「情報」をえることはできなかっただろう。
そして彼自身は山に登ってきたが、初めて登った山で、海が見える場所を見つけ出すことは難しい。彼が一人で海の見える場所に行けたかどうか怪しい。そして、木の根方で寝ることには慣れていたかもしれないが、4日も5日も水や食料はどうしただろうか。
海部が登った山は花蓮県の立霧山 Hualien,Liwushanという山で標高は1200mほどのところだった(Science Report 論文)。彼はふもとまで車で行き、その後、ハイキングコースになっている(とグーグル・マップの口コミには書かれている。つまりすでに道ができている)ところを登って(もしかしたら近くにある民宿に)4日間泊まって観察したのである。
だが、3万年前の旧石器人のおかれていた自然環境、社会的状況を想像してみると、海岸近くに住んでいた人々が、海部と同じように山に登って観察し、与那国島の存在を知ったということは非常に考えにくい、と私には思われる。
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しかし、海部も彼の出した広告に応じた情報提供者も、山の上で与那国島を見たのだから、もともと山で暮らしていた人々は、与那国島を発見する機会はあったのではないか。そして、古代人は現代人よりも、ずっとよい視力を持ったいたはずだ、と思う人もあるかもしれない。
だが、旧石器時代の人々の生活のしかたについて考えると、そうは言えない思われる。すこし横道に入るが旧石器時代の人々の生活を調べてみる。
旧石器時代の日本では固定的な住居を作らなかったとされる。
白石浩之「日本における洞穴遺跡の研究―縄文時代草創期を中心として―」愛知学院大学文学部紀要第44号 、kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_01F/01__44F/01__44_1.pdf によると、
洞穴が住居として利用されていれば、そこから石器や(縄文時代なら)土器などが出土し、遺跡の年代が分かる。
南西ヨーロッパでは、石灰岩の洞窟に、旧石器時代から穴居している例が多く認められ、たとえば、フランスのアラゴ洞窟は前期旧石器時代の石器群が出土している。
他方、日本では15,000年前(新石器時代、縄文時代前期初期)くらいの洞穴遺跡があるがそれ以前のものはない、という。
稲田孝司は、『遊動する旧石器人』<先史日本を復元する>岩波書店、2001)で、確実に住居跡だと断定できる旧石器時代の遺構がないと言い、旧石器時代には岩陰や洞窟に住んでいたのではなく、「大きな樹の下などで一人ひとりが寝袋のように毛皮にくるまって寝たとも考えられるが、極寒の時期にはちょっと厳しすぎる」とし、「簡単な小屋かテントのような覆いがあったと推測」する。
また、稲田は、縄文時代草創期第二段階の、掃除山遺跡(鹿児島市)について、食物の燻製などを行ったと考えられる煙道の存在などを含め、旧石器時代の生活パターンから大きく変化していることを指摘しつつ、住居跡とされている緩斜面に掘りこんで作られた平坦面は、「---旧石器時代とあまり変わらない程度のテントないし小屋をたてたと考えてみてはどうだろうか。----床面の小穴には数本の柱を立て、それらを横木で結ぶ。それに斜面の高い方から木を差し渡し、枝や樹皮あるいは獣皮で覆って平坦面の全体または一部に屋根をかけてもよい」と書いている。
稲田のいう「旧石器時代---のテントないし小屋」とはおそらく次の写真に見るようなものだろう。
写真は大月市観光協会 >ハローネイチャーズ大月「里山昔遊び体験」による。
写真では「屋根」を二本の立木に立てかけてツタで縛ってあるが、岩陰であれば、このような屋根を斜めに岩壁に立てかけたのだろう。
3万年前、氷期の台湾は半乾燥温帯森林か低木林におおわれていた。(島泰三『魚食の人類史』p110f,図11およびその説明,またRay,N et al.のFig8参照)。
当時の植生が北方林(亜寒帯林と同義)であった日本と比べればだいぶ暖かかったはずで、一人一人が木の根かたに寝た可能性もある。
稲田は、日本列島の旧石器人の集団の規模について、大きくて男女合わせて30人から40人、小さくて十数人から20人程度と推定している。
一方、ボルネオ島で、農民、商人との間の交流・交易もあるが主として狩猟採集の移動生活を続けているペナンという先住民集団の「スナップ写真」には18人が写っている。
旧石器時代の生活は狩猟・採集に依拠してなされていた。日本では、のちの縄文時代(新石器時代)に植物栽培、さらに農耕がおこなわれるようになってから、定住生活が始められるが、それ以前は人々は絶えず移動して、動物の狩猟、植物の採集を行って暮らしていた。
三重県のホームページ(ホーム>県史>歴史の情報蔵>「小さな石器が語る三重の歴史」https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=1 )には、次のように書かれている。
三重県内のいくつかの遺跡から、約一万数千年前の石器が発見されている。ナイフ形石器と呼ばれるこの石器は2~3センチの小型の石器で、県内では、約80個所から、見つかっており、かなりの人間が、この三重県域に住んでいたことが考えられる。
「しかし、それらの遺跡から発見される石器類は、一部の遺跡を除いてごく少量で、人々は長期間その場所に住むのではなく、獲物や自然物を追って転々と移動生活をしていたことがうかがえます。」
3万年前の台湾の人々は、岩陰や洞窟で雨露をしのいだのか、あるいは竹や木を使った差し掛け小屋、テントのようなもの用いたか、それとも一人一人が獣皮などをかぶり木の根かたで寝たのかは分からないが、彼らも、10数人か多くて30人あるいは40人程度の小さな集団で、山林の中を移動しつつ、暮らしていたと考えて、間違いはないだろう。
旧石器時代の人々の食生活はどうだったのか。
稲田は富沢遺跡(仙台市)の焚火跡らしい場所について、2,3人の狩猟集団の野営地だという研究報告を肯定しつつ、「しかし周辺で動物の骨が全く見つかっておらず、チョウセンゴヨウ〔松の一種でゴヨウマツの仲間〕の種子など植物性の化石しか出ていない」として、「旧石器人が動物の肉を日常的に口にするのがいかに困難であったか」が分かると言っている。
(第一章「八丈島の湯浜人はどこからやってきたのか」で繰り返し参照した)考古学者の小田静夫は「港川フィッシャ-遺跡について」『南島考古学』No.28 http://ac.jpn.org/kuroshio/minatogawa2009.htm の中で、2万2000年前から2万年前に、沖縄に住んだ港川人(第Ⅰ号人骨)について「堅く粗雑な食物をあまり調理することなく食べ、歯を道具の代わりに酷使していた 」。
「形態特徴からみると、少ない食物を食べ、栄養状況はあまり良くない。また放浪性の高い採集狩猟生活を送り、大きく頑丈な顔と、少ない栄養で賄える最小限の身体が備わっていたと考えられる 」と述べている。(フィッシャーとは崖にできた割れ目のこと)
3万年前の台湾の高山で暮らしていた人々の生活もこのように、十分でない食料を求め、転々と移動を繰り返す、決して楽でない生活だった、と考えてよいとすれば、彼らにとって、見晴らしの良いところに出て、遠くの海を眺める余裕、あるいは暇はなかったはずだ。
しかし、例えば、有名なマーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』( 1984,叢書・ウニベルシタス)では
「たえず欲求においかけられてはいるが、旅しながら、たやすく要求を満たせるので、彼らの生活は、刺激にも喜びにも欠けてはいない」、「狩猟=採集民―とりわけ、限界的な環境に住んでいる人々―についての昨今の民族学的報告によると、食物生産に彼らは、成人労働者一人一日当たり、平均3時間から4時間しか費やしていない」と言っている。
赤沢威編『ネアンデルタール人の正体』(朝日新聞社、2005)中の西秋良宏による第11章「一日を想像する」などによれば、
狩りは男の役割であることが多い。---彼は家では、あまり仕事をせず、食べ、休憩し、ぶらぶら歩く、ほかの個体とのコミュニケーションを取るといったような「淡々とした」、「たぶん退屈な」日常生活を送る---、
とされる。
サーリンズも西秋も、「昨今の民俗学的報告」に基づいて狩猟採集社会について述べているのであり、民俗学者たちによって報告が行われるようになった「昨今」においては、ほとんどの狩猟採集社会は、単独で、また純粋に狩猟採集によって生活しているのではなく、周辺の農耕民との交換を行っていたり、また自らも焼畑農業を行うなどして食料を補っている。この点は後でフィリピンのネグリトと呼ばれる先住民の生活についての詳しい報告を参照するのでそこで確かめられるだろう。
むやみに原始の時代の人々の生活を貧困であった(反対に現代社会は豊かだ)と考えるべきでないが、私は決して楽な、のんびりした生活を送っていたとは思わない。食生活に余裕があるならば、サーリンズも、狩猟採集者たちが「たえず欲求においかけられて」いる、とはいわなかっただろう。
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だが、同じく楽とは言えない初期の狩猟採集生活を送っていたヨーロッパのサピエンスの中には、ラスコー洞窟で見事な壁画を描く(→Wikipedia「ラスコー洞窟」の図)、現代的で、芸術的センスを持った特異な人もいた。
またインドネシアのスラウェシ島南部の洞穴では、4万年以上前のサピエンスの手になる「世界最古の」素晴らしい動物画がある(→Oldest cave art found in Sulawesi,Science Advance,13 Jan 2021 vol.7, no.3)。
台湾の山の森林地帯に住んでいたサピエンスの中に、遠くをぼんやりと眺めることの好きな、現代風の、ロマンティックで、空想好きな人物がいても不思議はない(と海部は言うかもしれない)。
海部は、山の上に登り遠くを眺めて島影を見つけ、そこに行ってみたいと考える好奇心旺盛な人が、3万年前の旧石器時代の台湾にいた、と考えるところから、彼の航海実験の研究計画を立ち上げたのではなかろうか。
だが、現地の長老も、観光局の役人も、与那国島は見えないと口をそろえて言ったという。
海部は、見たという人を探すために新聞広告などを行う必要があった。つまり海のかなたの与那国島を見た人は非常に少なかった。
他方、海部は、研究上、台湾から与那国島に渡る航海実験を計画していた。
彼は、与那国島がそこにあることを知っていたし、理論的に高い山に登れば見えることを知っていた。
そうでなければ、島が見えることを確認するために4日も山ですごし観察し続けることはしなかっただろう。
参考:海上視認距離:理論式、海上の高さがHおよびhの離れた2点が見える距離は 2.08×(√H+√h)mile。
この式に、例えば台湾の山としてH=1200m、与那国島の最高地点のh=231mを入れると、≒2.08×(35+15)=104mileで、104×1.85≒190㎞、与那国島に最も近い宜蘭(イーラン)市からは130㎞、花蓮(ファーリエン)市からは150㎞である。花蓮市近郊の立霧山からは十分見えたはずである。
しかしグーグルマップの立霧山に登ったハイカーの10件の「口コミ」で島の存在にふれているものはない。
さて、3万年前、台湾東岸の山地に住んでいた人々にとって、島は見えただろうか。
どこまでも広がったアフリカのサバンナで生活しているマサイ族のような人々は、いわゆる先進国で暮らしているわれわれにはとうていあり得ない、遠くを見る視力を持っているようである。しかし、山の中、森の中で生活している人々であれば、小動物や小さな虫を見つける鋭い視力は有していただろうと考えられるが、水平線や地平線のようなはるか遠くのものを見ることに格別優っていたとは思われない。
狩猟採集生活を今も行っている代表例としてしばしばアフリカのブッシュマンとピグミーがあげられる。<講座 食文化>①『人類の食文化』第二章第三節参照
ブッシュマンは乾燥した、オープンなカラハリ砂漠に住む。他方、ピグミーは雨の多いコンゴ森林に住む。ピグミーの場合は、見通しのきかない森の中で、藪の陰に潜んでいる動物を捕獲しなければならない。
イーフー・トゥアン/小野有五、 阿部一訳『トポフィリア 人間と環境』せりか書房、1992によると、
昼なお暗いジャングルで育ったアフリカ人(たぶん、ピグミーであろう)は近距離の小さなものについて鋭い識別力を持っていた。しかし、アメリカの大平原で遠くの牛を見たときに「ハエがいる」と言った、という。
森林で暮らすピグミーはすぐ近くにいるハエ、その他の虫や草陰の小動物などしか知らなかった。彼には森林の中で見えるもの、見る必要があるものについての知識がすべてであった。大平原を見たことがなく、遠くの平原にいる牛なども見たことがなかった。
そこで、彼は空間の中に浮かぶ黒い点のようなものが目に入った時に、何が見えているのか分からず、それを森林世界内部に関する知識を背景にして理解するしかなかった。こうして彼が黒い点を見たとき(目に入った時)、ハエに見えたのである。
「ものは、見ようとするから見える」という考え方がある。
N.R.ハンソンは村上陽一郎訳『科学的発見のパターン』講談社、1986年の中で、もの見るということは「~として見る」ことだと述べている。
左の図は何だろうか。
(図は https://www.excite.co.jp/news/article/Labaq_51885905/ から借用した。)
ある人は左を向いているアヒルだと答えるかもしれないが、別の人は右を向いたウサギだと答えるかもしれない。
これは1900年頃ヤストローという心理学者が発表した「ウサギーアヒルの図」と呼ばれるもので、N.R.ハンソンは、同じ図形が、ちょっとしたヒントや予備知識で別の図にみえる現象について説明を与えている。
ものはその色や形が目に入ったからと言って、見えたとは言えず、それが何であるかを理解したときにはじめて見たといえるのだ、という。そして、見えるものを「~だと理解して見る」ことができるためには一定の文脈、あるいは予備知識、背景知が必要である、という。
あらかじめウサギに関するヒント、予備知識が与えられていると、ウサギが見える。しかしアヒルに関するヒント、予備知識があたえられていると、アヒルが見えるのである。
この図は、黒い曲線の集まり、あるいは単なるインクの染みであり、それが何であるかは決まっていない。この図を私たちは、自分の世界を構成する背景知を参照することによって、アヒルないしウサギとして理解する/アヒルないしウサギを見るのである。
海部が最初に尋ねた現地の人は、山にしょっちゅう登っているはずの観光局の人も、高地で暮らす長老も、台湾から与那国島は見えないと言っていたのは、彼らが与那国島が見えるかどうかを考えたこともなかったし、与那国島を自分の目で見ようとしたこともなかったからである。彼らは見ようとしなかったから、見えなかったのであり、海部は見ようとしたから見えたのである。
海部は、地図と海上視認距離の理論によって一定の高さの山の上からは与那国島が見えるという知っていたし、また新聞広告により教えてくれた人の情報を信じていた。これらが背景知となって、山に登って海の向こうを注視したときの海部は、台湾の観光局の人や高地の長老なら雲だと思っ(て見逃し)たであろう与那国島のかすかな島影を、島だと認めたのだ。
生まれたときから山中で暮らしている旧石器時代の人々が知っているのは、彼らの数kmほどの行動域の周辺にどこまでも広がっている森林、崖や、岩や谷であり、そもそも海や島の観念をもっていたかどうか怪しい。山の上から遠くの海が見えたとしても、彼が見るものは、頭の上に広がる空の果てにそれと接していて、それに似てるがちょっと違う、ただきらっと光る何かでしかないだろう。
そして、山の上から眺めるだけでは、何か自分たちのいる森林世界とは別のものが遠くの方に広がっていることは感じたかもしれないが、その広がりが空と接するあたりに、何かかすかな雲に似たものがみえたとしても、それが、自分がいるこの場所と同じような地面であり、そこで暮らせる場所、陸・島だとは思わなかっただろう。
というのは、印刷物や写真、ラジオやテレビが普及するはるか以前の石器時代には、自分の生活環境の中に存在しない海や島の観念は、何かの機会に、実際に海辺に行き、池や谷川の水と違ってどこまでも広がる水を見たり、海に入って、なめると塩辛いことを知ったりして、自分のいる陸地と海の違いを体感することなしには、得られなかったはずであるから。
かくして、3万年前、台湾の山岳地帯の森林で暮らしていた人の中で、好奇心、未知のものに対する関心を持った人がいたと仮定し、見晴らしの良いところに登った時、遠くに海が見え、そこにかすかに島影が存在したとしても、彼が島を認めたかどうかは非常に怪しい。
しかし、山地の狩猟採集民が山の中にだけとどまり、低地の海岸には行こうとしなかったか、といえばそうではないだろう。
ボルネオ(カリマンタン)島の北西部に存在するニア洞窟(後に詳述)には46,000年~34,000年前頃の人々の生活の跡が残っている。ここでは多くの動物の骨などとともに食料にしたカメの骨が見つかっている。
洞窟の位置は現在は海岸から20㎞程度で標高は100mほどのところである。しかし当時は氷期で海水準が低く、そこから海岸までは70㎞ほどの距離があったと思われる。この人々は70㎞もある海岸に出て海の物を手に入れていた。
また、縄文時代前期の遺跡である愛媛県の上黒岩岩陰遺跡は海岸まで30㎞ほどの山間にある。だが、海産の貝が出土している。姉崎智子「上黒岩遺跡における生業活動」小林謙一編著『歴博フォーラム 縄文時代のはじまり 愛媛県上黒岩遺跡の研究成果』(六一書房、2008)。
彼らは、道のないところをたぶん丸一日以上かけて歩いて海岸に出かけていた。しかしそれは山中にはない貝類などを入手するための行動である。初めて海を見た時、旧石器人あるいは日本の縄文人は海の広さにおどろいて水平線のかなたをしばら見ていたかもしれない。しかし、かれらの関心は海辺の生き物を採取することにあったはずである。
遠い海岸にまで出かけていたのは、山間での狩猟採集活動だけでは十分な食料が得られなかったためか、山間の食料に飽きて山にはない食料を(グルメのために?)求めたのか、あるいはタカラガイなど装飾品を手に入れるためだったか、理由は異なったかもしれない。
だが、すでにふれたが、一般的には狩猟採集生活では豊かな食料を得ることができず、また後にふれるように海岸部や河口地帯などでほとんど無限な水産資源を利用できることを知って、安定した生活を求めて山地から海岸の低地に降りて生活をするということはあっただろう。そしてその場合には海岸で暮らすことが、移動の目的であり、海岸で暮らすことで満足するであろう。彼らが海岸部に降りてきて、またすぐに遠くに見える島に渡ろうとするとは思われない。
かくして、私は、山地の森林地帯に住んでいた人たちの生活とその「認知」の枠組みからして、彼らが遠くの与那国島を見たということを疑い、したがって、また、そこに行ってみたい、移住したいという好奇心や希望を抱いたということを強く疑う。
そして、もともと低地にいる人が、何か新しいことを求めて、山に登って遠くを眺めたということの疑わしさについてはすでに述べた。
したがって、私は、海部の「3万年前の航海を徹底再現」というシナリオの前提の一つ、台湾東部の旧石器時代人が、海を越えたところに島があるということを知っていた、ということを強く疑う。
第五部 第2章 見出しに戻る
だが、海部の言うように、山の上で暮らしていた好奇心旺盛でロマンティックな人物が島の存在を知った、あるいは、海岸近くで暮らしていた探求心の強い人が山に登り島の存在を知った、そして、その島に渡りたいと思ったと仮定しよう。
彼がその考えを実現するには航海具を必要とし、それを作るためには仲間の協力が必要だ。しかし、彼が仲間にそのことを話して島の存在を信じてもらうことに成功したかどうかをまず疑う。
彼は周囲の人に当時の言葉と身振り手振りで説明しただろう。しかし、地図も写真もないのだから、信じてもらえず、仲間には「雲をつかむような話」にしか聞こえなかっただろう。
しかし、彼は自分が島を発見した見晴らしの良いところに仲間を連れて行き、仲間に見せようとするだろう。気象条件がよくなければ見えないのだから、何日もそこにとどまらせることになるだろう。その間の食べ物や水はどうしただろうか。天気が崩れて雨が降ってきたらどうしただろうか。
そしてその仲間には、それは島/陸としてではなく雲としか見えなかったかもしれない。それが島/陸であることを信じさせることは容易ではなかっただろう。
しかし、仲間も島/陸が存在することを認めたとしよう。では、彼とその仲間が属している集団全体でそこに移住しようということになるだろうか。
次の文は柳田国男「海上の道」(昭和36年)柳田国男全集21(筑摩書房、1997)からのものである。
海のほとりに住んでいれば、まれには晴れた日に折々は思いを白雲のかなたに馳せ眉引く姿を望むことがあろうとも、何の望みがあって波を越え、水平線を越えて、そこへ渡っていこうという気になろうか。----
察するところ以前も今のごとく、人が多くて生まれ故郷に住み剰り、ないしは一方に強い圧迫があって、じっと落ち着いてはいられぬ場合が多く、移動はすなわち人間の常の性となったごとく考えている人たちがやや気軽にいろいろの動機を承認したのでもあろうが、互いに事態の想像しやすい陸続きの土地ですらも、もとは各自の境域を守って、そう無造作には出て行かなかった。まして開城の不知不案内を犯して、危険と戦うような必要などはあり得ないはずであった。
柳田は、人口が増えすぎて生まれ故郷に住み続けることが難しくなったとか、あるいは乱暴な集団が侵入してきて圧迫がくわえられたとか、じっと落ちついていられない場合に、やむを得ず移住を行うのであって、移動はすなわち人間の性と気軽に他所の地に移ることは考えられない。
古代人はなおさら住み慣れた土地を他人に明け渡し、不知不案内の遠くの島に渡る危険を冒す必要などはなかった、と言っているのである。
これと同様なことを、かの好奇心旺盛/探求心の強い人物が属する集団の他の人々は、彼の「移住のための航海」提案に反対して述べたのではなかろうか。
遠くの島に渡るためには航海具が必要だだが、一人で作るのは不可能で、ほかの者の協力を得なければならない。ここで好奇心旺盛/探求心の強い(おそらく)若者の企てはとん挫したはずである。どのようにしてその若者がほかの人々に移住計画を納得させたのか、海部に説明を求めたいと思う。
海部には恐らくそのその用意はないとおもわれるが、とにかく、海部のシナリオに沿って議論を進めることにすれば、この集団の人々は、移住計画に賛同し、そのための航海具の作製のために、何人かが、生活に必要は狩猟採集の仕事を免除され船づくりにあたることになったはずである。
海部チームの場合は、3万年前の航海具として、最初は、ヒメガマという草の束で船を作り、与那国島から西表島に向かう航海実験を行ったが、スピードが出ず、潮に流され途中で中止した。
次に大きな竹を籐で結び合わせて竹舟を作り、台湾南部の海岸から30数キロ離れた緑島を目指して航海実験を行ったが、これもスピードが足りず、黒潮横断は無理と判断し、途中で中止した。
これらの実験航海を途中で中止したあとは、エンジンの付いた伴走船で曳航して港に戻ったはずである。
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このように、海部チームは、2回の航海経験を積んでから、丸木船を作ることに決めた。
3万年前の人々も、航海に乗り出すことに決めたとすれば、手に入りやすい材料で比較的容易に作れる草束舟を最初に作って、沖に乗り出し、それではただ流されるだけだと知り、次に竹舟を作って再挑戦したかもしれない。
だが、3万年前に草束、あるいは竹の舟でこぎだした血気盛んな若者たちは、スピードが足りず、黒潮の横断は無理だとわかったとしても、その段階に至ってから、他の舟で曳航してもらうことはできず、おそらく、黒潮によって、東シナ海に運ばれ海の藻屑となったと思われる。
そして、数家族、せいぜい20人程度の集団で、血気盛んなということは働き盛りでもあったはずの若者5人か6人を2度も失うことは、ほぼ間違いなく、この集団の崩壊を引き起こしただろう。
海部は、最初は何回か失敗しても、経験を積んでやがて黒潮横断に成功したはずだ、と言っているが、集団が崩壊してしまえば、経験も消滅するはずだ。相互のコミュニケ―ションがほとんど存在しなかった他の集団に受け継がれるというのは考えにくい。
それでも、草束舟と竹船で流されたが、きわめて幸運にも戻って来れたと仮定し、そして丸木舟を作り、再挑戦することになったと仮定することにしよう。
しかし、さほど大きくない(10数人かせいぜい30人程度の)集団からなり、年寄り、乳飲み子を抱えた女性、幼児を除き、全員が毎日のように食料の入手のための活動に携わる必要があった旧石器時代の社会で、山中から巨木を切り出して海岸まで運び、丸木を刳り抜いて舟を作るために多くの人手を割くということは、難しかっただろう。
また、木を伐り、刳り抜くことのできる、特殊な石斧(刃部磨製石斧)は日本とオーストラリアでしか見つかっていないというが、それは巨木を伐り倒し、中を刳り抜いて丸木舟を作るという特別な目的のために製作されたものだと推測されている。
旧石器時代の台湾の山岳の森林地帯で生活していた人々は、上で述べたように、船も筏も必要としておらず、当然、刳舟を作ることを目的とした石斧を製作する必要もなかった。
また、海辺に住む人たちも、沿岸での漁撈に使う竹や木で作った筏は利用していただろうが、巨木を刳り抜くための特殊な石器・刃部磨製石斧を 持っていたかどうか疑わしく、丸木舟を作れたかどうかは明らかではない。
記者会見の中で、プロジェクト・チームでは、 刃部磨製石斧に柄をつけて実際に木を伐って、丸木舟を作った、という。製作は日本で行われた。しかし、台湾でそのような石斧が出土しているとは海部は言っていない。台湾の旧石器人、当時のホモサピエンスが実際に丸木舟を作れたという証拠はない。
しかし、上でみた諸問題はすべてクリアーされたとしよう。移住に向けたこの人々の意思は堅く、石斧も製作し丸木舟を準備できたと仮定する。
そして、与那国島に最も近い台湾北東部の宜蘭(ぎらん/イーラン)縣蘇澳港付近、もしくは70㎞ほど南で与那国島が見えるという立霧山に近い、花蓮の海岸付近から、舟を作って海に乗り出すことに決めたとしよう。
海部は、航海を企てた人々は何度か沖に漕ぎ出てみて、北に流されてしまうことを経験し、もっと南から出航しなければだめだということを理解したはずだ、と言っている。
最初は、宜蘭付近から、大まか、太陽が春の頃に登ってくる方向くらいの見当で、沖に向かって漕ぎだしたとしてみよう。
計算を簡単にするため、この人びとが乗った丸木舟の速度が(スギメよりやや遅い)時速3㎞で、潮流は (スギメが乗り出した時よりは速く)時速5kmで流れていたと仮定して、どのような「経験」が得られるだろうか。
図でOは出航地(宜蘭)、Pは与那国島、青の円は島の可視圏で半径は50㎞。
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船は東に向かって漕ぎ進む。しかし潮に流され、少しずつ北に逸れていく。
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OAは黒潮の流速で時速5㎞とする。
OQを与那国島可視圏の円に対する接線とすると、
船が∠QOPの範囲内を進めば、つまり、船がOQよりも北に逸れなければ、与那国島を見ることができる。ただし、その地点から、かなり南の方向に向かって、つまり潮に逆らって、Pに向かって漕がなければならない。
この可視圏に入ることのできる角度、∠QOPの大きさは、直角-∠OPQで、cos∠OPQ=PQ÷OP=50÷110≒0.456、三角関数表で∠OPQ≒63°、したがって∠QOP≒27°である。
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舟が、東に向かって、時速3㎞で漕いだとしよう。
黒潮の流速OAは時速5㎞、OBは船の対水速度(静水における速度)で時速3㎞、OCは潮に流されながら東に向って漕ぐ船の実際の進路。
OC=√(5の自乗+3の自乗)≒5.8、
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∠COB=αとすると、cosα=0B÷CO=3÷5.8≒0.52、三角関数表でα≒59°、ほぼ60°である。
つまり、丸木舟は、真東から約60°北に逸れた方向に進んでいく。与那国島可視圏に入るための角度∠QOPよりもはるかに大きい。
船の対水速度を黒潮と同じ時速5㎞としてみよう。OC=5√2で、α=45°となる。これでも∠QOPよりもずっと大きく、船は与那国島の可視圏に入ることはできない。
こうして、Oを出航した丸木舟は、与那国島の可視圏に入ることなく、つまり一度も島影を見ることなく、東シナ海に運ばれてしまうことになる。
夜明けに出港し太陽が最も高くなるまで(夏至のころとし、8時間ほど)時速5㎞漕いでも、進む距離は40㎞だから、島は見えない。早朝からずっと漕ぎ続けて目指す島が全く見えないときに、彼らはどうするだろうか。振り返れば山々が見える台湾に戻ろうとするだろうか。それとも、目ざす島はまだ見えてないが、もっと漕ぎ進めばそのうちに見えてくるのではないかと考えて漕ぎ続けるのだろうか。
あらかじめ、早朝から漕ぎだし、昼までに島が見えなかったら、あるいは島に着けなかったら、そこから引き返す、という賢明な計画を立てていれば、暗くなるまでに台湾に戻れたかもしれない。
しかし、それ以上の時間漕いでからもどろうとしても、今度は台湾の北の端を越えてしまう可能性が高くなる。
もし、彼らが休み休み、しかし夜を徹して進み続けたとしたら、彼らは、東シナ海の真っただ中に入っていっただろう。
もしかしたら、彼らは尖閣諸島のどこかの島に到着したかもしれない。しかし、尖閣諸島は台湾北部・基隆(きりゅう/キールン)市まで180㎞ある。黒潮に逆らって台湾に戻ることは不可能だったろう。
最も大きな島である魚釣島は、戦前、日本人居住者がいた時期もあった(Wikipedia「尖閣諸島」)というから、そこで生存し続けることはできただろう。
あるいは、丸一昼夜漕いで疲れ果て、あとは潮に任せて漂流ということになったかもしれない。そして、水や食料があれば20日から30日後に、運よくトカラ列島のどこかに漂着した可能性がある。そうでなければ、東シナ海で海の藻屑と消えたであろう。
いずれにしても、与那国島が見えなくても漕ぎ続けた場合には、台湾の出航地には戻れなかっただろうから、彼らの経験は、出航地にいる人びとには伝わらなかっただろう。
最初の挑戦で船出した5,6名の漕ぎ手は行方不明になる可能性が高いと思われるが、ここではこの漕ぎ手が元の出航地に戻ってきたと仮定する。
彼らは何を経験したか。
彼らが経験したことは、早朝に出港し、昼まで漕いだが何も見えなかった、ということだけである。かれらは、戻って台湾の北部に接岸し、海岸沿いに元の出航地に戻ったのだから、北に流されたことは理解するだろう。しかし、その流されている間少しは島に近づいていたのか、そうでないのかはわからないだろう。彼らが経験したことは、いくら漕いでも島は見えなかった、ということだけである。
彼らは、まっすぐ東に向かって漕ぎ進んだ。しかし島は、正面にではなく、右(南)にあったかもしれず、左(北)にあったのかもしれない。島が南にあったとすれば、今度はもっと南から漕ぎ出せば近づけるかもしれない。しかし島は思ったよりもずっと北にあるのかもしれない。
山の上で見たときには島は、日が昇る方向にあった。そして、彼らは日が昇る方向に向かって漕ぎだした。だが、彼らが島影を見た「山の上」の地点と、出航した地点との位置関係は明らかではない。
出航地が山の上の地点から見て50㎞南にあれば(例えば、立霧山のすぐ南の花蓮市は宜蘭から60㎞ほど南である)、与那国島は真東ではなくやや北に位置する。
出航地から見て、島は真東なのか、もっと南なのか、それとも北に位置しているのかを知らない以上、船が北に流されたことは分かったにしても、北に流され過ぎたために島に近づけなかったのか、それと流され方が少な過ぎたために島に近づけなかったのかは分からないはずである。
海部チームの航海実験では、疲労のために、2日目の夜は漕ぐのはやめ、ウォッチだけにして潮に流されるままにした。潮は普段よりも遅く、予想ほど北に流されてはいなかった。
もし、最初の計画通りそのまま漕ぎ進むと東に行きすぎ、与那国島のはるか南を抜けて、島に気づかずに通り過ぎてしまう恐れがあった、という。島は、クルーが考えていたよりももっと北にあったことを意味している。
潮の速さと船を漕ぐ速さとの関係で島に到着できるかどうかが決まるのであって、潮が北に流れているにせよ、やみくもに出航地を南に変更したからといって、与那国島に到着することができるわけではない。
海部チームは与那国島の真西の宜蘭付近からではなく、200㎞南の台東から出航することに決めたが、それは舟の静水での速度を時速4㎞程度とし、与那国島に到着するのに33時間、そして黒潮の流速を平均で時速6㎞と見込み、33時間のうちに舟は6×33 ≒ 200㎞流されると考えて、200㎞南の場所を出航地として選んだからであろう。
もし潮が平均時速4㎞で流れるなら、200㎞南ではなく4×33 ≒ 130㎞南から出航すればよいというか、それよりもっと南から出航すれば与那国島の南を通過することになる。
つまり舟のこぐ速度(とそれにより決まる島に到着するまでの航海時間)及び黒潮の流速の想定なしには出航地を決めることはできない。そして旧石器人にはこの舟と潮の速度は知りえない。
だが、3万年前の若者たちは途中から台湾に戻り、海岸沿いに出航地に帰ったので、次は、初めの出航地からもっと南に行ったところから出航しなければならない、と考えたとしよう。
彼は自分が属している集団の中で話すだろう。
「沖に出ると、海が動いていることがわかった。いつのまにか、弓手(ユンデ=左。北という語があったとすれば、北)に流される。まっすぐには進めないのだ。」
老人は問うだろう。「お前は日が昇る方向にみえた島に行くと言ったが、まっすぐ進めないとしたら、どうやってその島に行くのだ。」
若者は答えるだろう「流されるのを見込んで、もっと槍手(これは私の造語=右。南という語があったとすれば、南)から漕ぎだすのだ。」
老人「槍手というが、どれくらいか。」----
黒潮を越えて遠くの島に行くにはもっと南の方から出航しなければならないと考えたにしても、それを確かめようとすれば、何度か出航場所を変えて試してみるしか、方法はないはずである。
2回目の航海では、おそらく、早朝から夕方まで12時間漕ぎ続け、相変わらず島が見えないので、今度は、夜を徹して漕ぎ戻ろうとする。しかし、その時までに黒潮の中心部に達していたために、前回よりも、急速に北に流され、結局、東シナ海へと運ばれてしまった、というのがその結末ではなかろうか。
【追加】
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海部チームの場合と同様、与那国島の真西に当たる宜蘭よりもおよそ180㎞南から出航した場合について、もう少し検討してみる。
与那国島は台湾宜蘭付近から東110㎞のところに位置し、可視圏の半径は50㎞である(図の黄緑の円)。
与那国島のほぼ真東にある西表島までは約66㎞あり、東西の幅がともに30㎞ほどの西表島と石垣島が隣接し、両島を合わせた東西の幅はほぼ76㎞である。
また西表島の最高地点の(現在の)標高は470mで、海上からの視認距離は86㎞である。氷期の3万年前の海水準が-80mだったとすれば視認距離は94㎞になる。
図の下の横線に記した数字で、
出航地から与那国島までの距離、与那国島と西表島の間の距離、および二つの島を合わせた東西の幅を示している。
また黒潮の流速、丸木舟の(対水)速度によって異なる、出航後の舟の位置を①~⑤で示している。
舟の速度が時速2.5㎞の場合には、出航後20時間で東に50㎞進むが、潮の速度が時速7㎞とすれば北に140㎞流されて①に来るだろう。そして、このままのペースで漕ぎ続ければ与那国島を一度も見ることなく東シナ海にいくことになろう。
したがって与那国島可視圏に入るためには、黒潮流速が時速7㎞以下か、あるいは舟を漕ぐ速度が時速2.5㎞以上であることが必要である。
船が時速3㎞であれば20時間で60㎞東のA線上にくる。②は黒潮の流速が時速6㎞の場合の舟の位置で、⑤は黒潮の流速がその半分の3時速3㎞の場合である。
そして、計算は省略して、図から、④(およそ80㎞北)を通るのは、黒潮の流速が約時速4㎞の時で、潮がこれより遅いか、船が3㎞より速い時には、船の進路は与那国島可視圏の円の接線より東に来ることになり与那国島を見ることはない。
しかし代わりに、半径が86㎞(現在)~94㎞(3万年前)の、西表島の可視圏に入ることができるように見える。この舟は与那国島に着くことはできないが、西表島か石垣島に着くことができるように見える。
しかし、例えば③(出航地より北へおよそ90㎞地点)から西表島可視圏の円に接線を引くと、船はこの線より東側を進めば、西表島を見ることなしに、南側を通過することになる。P’は接点
図で大まかに、A線~P線の距離は150㎞、QP’はおよそ50㎞である。したがって、船の速度が潮の流速の3分の1よりも大きいと舟はこの接線の東側を走航することになる。
ところが、中村 啓彦「黒潮の流路・流量変動の研究─源流域から九州東岸まで─」<海の研究>26(4)によると、
漂流ブイによる実験で得られた1989年から96年までの台湾から九州の間の海域の海流の平均速度は、左図のようであるという。
矢印が集まって黒くなっているところが黒潮の流路である。白い箇所は潮の流れのないところであり、小さな矢印は緩い潮の流れがあることを示している。
この図によれば、黒潮本流の流れが及ぶのは台湾から西表島までで、その東では北への潮の流れがほとんどないか、潮は東もしくは南東へと流れること多いということが分かる。
ということは、船がB線を過ぎたら、東に向かって漕ぐのをやめるかあるいはむしろ西もしくは北西に向かって漕がなければ、この西表島可視圏内に入ることはできない、ということを意味する。
恐らく3日以上の航海の疲労から漕ぐ速度は低下しているだろうが、それでも「まっすぐ」東に向けて漕ぎ続けている公算が大きい。そうだとすれば、この船は琉球列島のどの島にも近づかず、太平洋の真ん中へと進み続けるだけということになると思われる。
したがって、3万年前の冒険好きの若者たちが、山の上から見えた島に向かって沖に漕ぎだしたが、北に流されるとわかって、南から出航したとしても、与那国島あるいは先島諸島に到着することができるのは、航海時の黒潮の流速と船の漕ぐ速度とが、運よく一致した場合だけであり、何回か「経験」すれば到着できると簡単に言うことはできない、ということが分かる。
たまたま、潮の速度と船の漕ぎ方がうまく合い、30時間か40時間航海し、与那国島に到着できたとしよう。彼らの冒険が成功したことをどうやって彼らの集団に伝えるのか。
台湾から出航するときには、北に流されることを見込んで、与那国島の真西の宜蘭付近からではなく、ずっと南の方から出航した。だが、与那国島から帰るときには、南の方の場所を出航地にすることはできない。
島から台湾を目指して出航するしかないが、台湾の海岸に着く前に30時間か40時間漕ぐ間に北へ流される。潮の速度が時速4㎞なら130㎞、潮が時速5㎞なら200㎞北へ流される。
だが宜蘭から台湾の北の端までは80㎞ほどしかない。ということは与那国島を出発した船は、まず間違いなく東シナ海に運ばれてしまい、彼らが属するもとの集団のところには戻ることはできないということだ。
つまりこの集団は「与那国島への黒潮横断航海の経験」を積むことはできないということだ。
元の集団が大きく、新たな若者を募って三度目あるいは四度目の航海をおこなうことのできる余裕があれば話は別だが、せいぜい数家族、15人か20人の少数の成員からなる旧石器時代の小規模集団にとっては、いや、若者が100人いる集団であっても、5~6人の若者が失われることは大きな打撃であり、行方不明者が出たところでこの移住計画は潰えることになるのではなかろうか。
海部によれば、当時の台湾のホモサピエンスはある程度沖に出るとかならず北に流されることを経験して、あの島に渡るには南から出発しなければならないと考えた、という。
しかし、私には、上で見たように、沖に出て黒潮に流されれば、多くの場合戻ってこれなくなるのであり、「経験を積む」ことは不可能であったと思われる。
そして、流されそうになったものがいれば、あるいは一人でも行方不明者が出れば、その集団は、沖に出ることは危険だと考え、「どうすれば沖の流れを横断でき、遠くにあるはずの島に行きつけるか」を考えるのではなく、遠くの島に行こうという考え自体を否定し、流れの緩い湾内や沿岸で漁撈を行うように心がける、ということの方がずっとありそうなことだと私には思われる。
2020年12月のScientific Reportに掲載された海部の論文でも
「アミ(*)の漁師は彼らの筏raftsの限界をよく知っており海で危険を冒すようなことはほとんどなかった。タイトンのアミの年長者におこなったインタビューでは彼らは伝統的な竹の筏で海の事故に遭ったことは一度もなかったし、聞いたいたこともない、とのことだった。」と書かれている。(*)アミは台湾の東部一帯に住む台湾原住民
私は、上で、台湾で暮らしていた旧石器人が、山の上から与那国島を発見し、理由はともかく、そこに行くこと、移住することを計画し、丸木舟を作って漕ぎだす、という各段階について、疑問を提出してきた。おそらく彼らは島を発見しなかっただろうし、そこに移住するという、計画を立てなかっただろう、と述べてきた。
そして、ここでは、海岸で暮らし、漁労を行っていた集団であっても、潮の流れが緩いかほとんど流れていない沿岸での作業にとどめ、少しでも流されかかったら、急いで湾内に戻るようにしていただろう。
たまたま、好奇心旺盛な若者たちが、黒潮を横断し与那国島に行きつくことがあったとしても、元の出航地に戻ることは不可能で、移住が可能だと仲間に伝えることはできなかっただろう。流されかかった場合には、沖に出れば危ないということを仲間に伝えただろうが、どうすれば横断できるかという経験は積むことにはならなかっただろう、という考えを述べた。
とすれば、3万年前に琉球列島に渡った人々は、台湾からやってきたのではない(可能性が高い)という結論になってしまう。
では琉球列島に来た人々はどこから、どのようにやって来たのだろうか。
第五部 第2章 見出しに戻る
海部チームは台湾東岸から最も近い与那国島までの距離が110㎞であること、黒潮の流速が最大約時速7㎞であることを知っていた。そして台湾から黒潮を横断して与那国島に渡るためには、一定速度以上の乗り物を使う必要があり、草船や竹船で試したが速度が出ず、丸木舟を使うことにした。
そして館山沖での練習航海などから、静水速度平均時速4㎞で漕げると考え、110㎞の海峡の横断に30時間ほどかかると見込んだ。そしてこの間に潮により7㎞/時×30時間≒200㎞流されると考え、与那国島に最も近い宜蘭よりも200㎞南に位置する台東から出航したのだと推測される。
海部チームの丸木舟が出航した日は、海はシケ気味だったが、潮の流れも普段よりも遅かったために、航海には最初の見込みよりもかなり長い45時間ほどかかったが、黒潮の横断に成功し、うまく島に到着することができた。
しかし、潮の流れがもっと速かったなら、あるいはスギメの速度がもっとおそかったなら、スギメは与那国島には着けず、東シナ海に運ばれてしまっただろう。
だが、もっと南から乗り出せば、黒潮を横断するための時間はもっとかかっても構わないはずである。例えば台東よりさらに200㎞南の地点から出発するとすれば、黒潮の横断に2倍の時間がかかっても東シナ海に流されてしまうことはなく、舟の速度はスギメの速度の半分で構わなかったはずだ。
しかし、その場合には台湾の南のフィリピン諸島から舟/筏で出航したことになる。だがそうだとすれば、もちろん、与那国島が見えるはずはなく、当然意図された航海であったはずはない。それは漂流だった、と考えるしかないのである。
だが、意図せずに生じた漂流について、より具体的に述べるのはもう少し後で行う。その前に、ホモサピエンスは「見える」島に向かっての意図的航海により、台湾からまず先島諸島の与那国島に渡ったという、海部の説明からは別の問題が生じることを指摘したい。
旧石器人たちは、漂流により、偶然にやってきたのではない。台湾のホモサピエンスは与那国島を発見し、そこへ移住しようと、意図的・計画的に航海した。琉球諸島への渡島・移住はまず見えるところにあった与那国島に向かってなされたのだ。島が見えたからこそ、そこに向かって意図的・計画的に移住がなされたのだ、と海部は言う。
しかし、3万年前のホモサピエンスは与那国島に到着して、そこにとどまっていたのではなく、東に隣接する石垣島(白保竿根田原洞穴遺跡がある)、宮古島(ピンザアブ遺跡がある)にも住んだし、もっとずっと東の沖縄島にも、またその東の奄美大島にも住んだ。
というのは、本章の冒頭に掲げてある海部陽介「3万年前の祖先たちの大いなる挑戦」の図2)に見るように、これらの島々にも3万年前頃の遺跡が存在するからである。
それら琉球列島の島々に住んだ人たちは、相互に関係なく、それぞれ別のところから渡ってきたと考えられる。
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だが、海部の考えに従えば、最初に与那国島に渡った人たちが、そのあとで、次々とその隣の島へと渡っていったということになるはずである。
というのはその人々が最初に与那国島に渡ったグループとは別だとしても、「見える」与那国島を目指したはずで、はるか遠くの見えない、存在を知らない沖縄島や奄美大島を目指して出航するはずはないからである。「琉球列島/琉球諸島」の図は「八重干瀬専門カルトマリーヌ」(宮古島市池間島)HPからお借りした。
ところが、先島諸島の東の端にある宮古島から沖縄島までは280㎞あり、両島の最高地点の標高から計算される 視認距離(√H+√h)×2.083=距離 M(海里)は68.9海里=128㎞ほどで、宮古島からは沖縄島は決して見えない。
宮古島の最高標高は115m、沖縄島の与那覇岳標高は503mである。隣接する久米島、慶良間島の最高地点はもっと低く、標高150~160m程度、渡嘉敷島の最高地点は200m程度である。いずれもGoogle Earthによる。
「見える」与那国島に意図的・計画的に移住してきたはずの台湾のホモサピエンスは、「見えない」沖縄本島に向かってなぜさらに航海しようとしたのだろうか。宮古島などの先島諸島から先は、偶然の漂流の結果だとは海部は言えないだろう。
「与那国島への航海の成功は新たな謎を生んだ」と海部も言っている。だが、そのなぞは、琉球列島に住んだホモサピエンスは、台湾の人々の意図的・計画的な航海、見える島を目標にして行なった航海によって渡ってきたのだとする、海部の最初の想定から生まれたものだ。この想定が正しくなかったということではないか。
もし、琉球列島の島々に存在した3万年前のホモサピエンスは、意図的・計画的ではない仕方で、遠くの見えない島から流れ着いた、と考えれば、その謎は生じない。
問題は、そうした偶然の漂流によって、琉球列島の島々島に漂着する可能性である。漂流ブイによる実験結果は、台湾南部から流したブイでは琉球列島には漂着しないというものだ。だが、台湾よりももっと南から漂流したら、どうなるか。琉球列島に流れ着く漂流は、どこから始まるべきか。
海部が、琉球列島にホモサピエンスが渡ってくるために、黒潮横断の航海が必要だったとする理由は、琉球列島に渡ったのは台湾にいた人びとだと考えているからであろう。
だが、彼は、琉球列島に渡ったホモサピエンスが台湾から来たと考える理由は、特に説明していない。そして、印東道子編『人類の移動誌』(2013年、臨川書店)第3章、第1節「港川人の来た道」で、海部は、沖縄島の港川フィッシャーから出土した遺骨について、中国やベトナムなどで発見されている人骨と比較しつつ、港川人の遺骨がインドネシア、ジャワ島から見つかっているワジャク人と呼ばれる更新世末(12万6千年前)あるいは完新世初頭(1万1千年前)の人骨によく似ている、としている。
他方、馬場悠男・国立科学博物館人類研究部長は『巨大噴火に消えた黒潮の民』(<日本人はるかな旅 ②>日本放送出版協会2001)の「形づくられる原日本人像」という章における「港川人骨から探る 日本人の起源」で、
国立科学博物館の松村文博は、北東アジア人の「中国型の歯」、オーストラリア先住民〔=オーストラロイド〕の「純粋スンダ型」の歯、そして両者の歯の混血の、三つのタイプに分けられる、という説を唱えている。
それに従えば、港川人も、縄文人も、中国型の歯を持つ北東アジア人の居住地域と純粋なスンダ型の歯を持つオーストラリア先住民の居住地域の境界領域であった東南アジア、つまりスンダランドを起源とすることになり、港川人、縄文人はスンダランドからやってきたと、考えられる、という。
スンダランドとは、氷期の海水準の低下によって、インドネシアのスマトラ島、インドシナ半島そしてボルネオ島などが、つがってできた陸地のことである。アフリカを出たホモサピエンスは5万年あるいは6万年前にこの地域に広がったと考えられている。たとえば海部陽介「アフリカで誕生した人類の長い旅」、印東編『人類の移動誌』第1章第1節などを参照。
その後、このスンダランドから一部の集団が、東のウォレス海を渡って、ニューギニア島とオーストラリア大陸がつながってできたサフル大陸に移動・拡散した。アボリジニなどのオーストラリア先住民はその子孫だと考えられている。
馬場は、さらに、頭骨の形態からは、港川人は縄文人とワジャク人に似ている点が多く、〔北東アジア人の〕山頂洞人や柳江人とは似ていない。また四肢骨に関しては、港川人は、山頂同人や柳江人あるいは縄文人とは全く似ていない、という。
馬場も、歯の形態、そして、頭骨及び四肢骨の形態に関する説明に続き、「これらの証拠をもって、ただちに港川人はスンダランド起源だと結論付けるのは危険である」としつつ、「しかし、氷期の海面下降によって、西太平洋沿岸部には広大な陸地が出現していたので、そこに住む人々の南北方向の移動がかなり活発に行われていたことだろう。つまり、スンダランドから人々が北上してきた可能性は大いにあり、最後には船を使い、黒潮に乗って、日本列島に到達したという古典的解釈も生きてくる」と言っている。
小田は『考古学から見た新・海上の道』で 沖縄の宮古・八重山諸島(南琉球圏)には、貝斧=大型のシャコガイを利用して作った斧が発見され、1950年代に石垣島の名蔵貝塚群から、多数の発見報告があった。「南琉球新石器時代後期」のものだ、という。
そして、「シャコガイ製貝斧はオセアニア、フィリピンの一部に分布している。
>南琉球例では、シャコガイの蝶番部分使用例でフィリピンと同じで、この地域との関連性が示唆される。
>さらに、この貝斧とセットで出土するイモガイ製のシェルデスク(貝盤)も、フィリピン先史文化との関係を示す資料である」という。
また「石斧のひろがり 黒潮文化圏」<日本人はるかな旅>②『巨大噴火に消えた黒潮の民』では、
>図p139を掲げ、石垣島名蔵貝塚群、宮古島浦底遺跡から発見された多量のシャコガイ製貝斧は
>フィリピン南部のパラワン島ドウヨン洞穴、サンガサンガ島バロボク岩陰遺跡出土品と関係がある、としている。
〔「南琉球新石器時代の諸問題 」岸本 義彦 2000-03-16<沖縄地域学リポジトリ>史料編集室紀要第25 の 「表4」によれば、
>
浦底遺跡は2520年前頃の遺跡、名倉貝塚群は2200年前頃の遺跡である;須藤の注〕
これは4万年前から3万年前ころの先島諸島への渡島とは時代の異なる別の事柄だが、フィリピンで筏を使った漁撈中に、何らかの原因で流されたとすれば、南琉球圏に漂着する可能性がある、ということの一つの証拠になるだろう。
また、石井忠「海からのメッセージ・漂着物」『漂流と漂着/総索引』<海と列島文化>別巻、1993、小学館によると、
>
石井は1991年8月末、沖縄県島尻郡知念浜で、漂着していた一本のガラス瓶を拾った。中には手紙が入っていて、1989年2月南カリフォルニア沖で、飛行機から投下された350本のうちの一本(2年半後の漂着)だった。
これは北赤道海流に乗ってフィリピン付近に到達、その後黒潮に乗って北上し、沖縄島の東海岸にある知念浜に着いたものだ。〔後の「竹筏ヤム号の漂流/航海」中の中村によるFig.1.参照〕
また石井は西表イリオモテ島の船浦にはニッパヤシの群落がある。ニッパヤシは中国本土や台湾にはないので、直接、フィリピンから海流に乗ってきたものだろう、という。
フィリピンからの黒潮は(海部が言及している漂流ブイのようにすべて)台湾と与那国島との間の海峡を通って東シナ海に入り、
>
琉球列島から遠く離れたところを通って、トカラ列島、大隅諸島に達するのでなく、与那国島の80㎞ほど東の西表島にも、またその東の沖縄島にもぶつかることが分かる。
小田「山下町第1洞穴出土の旧石器について」2003《黒潮圏の考古学》http://ac.jpn.org/kuroshio/index.htmlでは
>
最初に熱帯雨林のスンダランドに定着した新人は、森林適応型旧石器文化とも呼べる「礫器文化」を内陸地域に誕生させた。
山下町第1洞穴〔那覇市〕の石器類は、「敲石、礫器」という重量石器であり、東南アジア内陸部に発達した植物採取型旧石器文化の様相を呈している。つまり、スンダランドに定着した初期ホモ・サピエンスが開発した「礫器文化」と共通していたのである。
さらに、同様な石器組成をもつ旧石器遺跡が、沖縄諸島の北側の徳之島・ガラ竿遺跡(四本・伊藤2002)、種子島・立切遺跡(田平・野平・牛ノ濱2002)で確認されている。いずれも、山下町第1洞穴と同じ約3万年前頃の遺跡である。
おそらく、この琉球列島に分布する旧石器文化圏は、列島内部に発達した「ナイフ形石器文化圏」「細石刃文化圏」の外側に位置した南方地域を源郷にした旧石器文化圏であったことが理解される、と小田は言っている。
海部が彼のプロジェクトの前提条件の一つとしている漂流ブイの実験結果に基づけば、琉球列島の沖縄や徳之島、種子島などに見出されている「礫器文化」は、台湾経由で伝わることはなかったはずで、フィリピン海域の島々あるいはスンダランドから伝わったと考えるしかないと思われる。
小田は、
>
「日本列島に認められる最古の遺跡は、旧石器時代の4万年前から3万5000年前の「現代型ホモ・サピエンス(新人)」によるものである。
>
「恐らく、東南アジアに当時存在した大陸スンダランドから大陸沿岸部を徒歩で、また黒潮を渡航具(丸木舟あるいは筏舟)を使用して北上した沿岸居住民(海人)集団と考えられる。
「フィリピン・ルソン島沖から始まる世界最強の黒潮(日本海流)は海のベルトコンベアの役割を果たし、海産植物や陸上生物の拡散分布に役立っただけでなく「海上の道」となって先史時代以来、多くの南方的要素を日本にもたらした」
という。
小田によれば、フィリピン海域の島々あるいはスンダランドから琉球列島への「海上の道」があったのだ。
その海上の道はいかなるものだったかを次に考える。
第五部 第2章 見出しに戻る
1977年5月末から7月始めにかけてフィリピン・ルソン島から黒潮に乗って北上、鹿児島まで竹筏で漂流・航海した冒険があった。倉島 康 『ヤム号漂流記』<双葉文庫>双葉社、1994
この漂流・航海は1977年の漂流・航海中から、毎日新聞に掲載されるなどしていたが、後に『ヤム号漂流記』という題で単行本になった。ヤム号の名前は、ルソン島北部の周辺に住んでいた人たちが主食にしていた山芋、ヤムイモからとった名前だという。
私が「漂流・航海」と書くのは、航路も日程についても大まかにしか定められておらず、多分に風任せ、海任せであった点で、ほとんど漂流であったが、しかし、あらかじめ定めた目的地に到着することができ、偶然の漂着ではなかったという点で、幾分は「航海」でもあったと考えるからである。著者は航海という語は全く使っていない。
筏は フィリピン特産の真竹を横に並べてロープで縛ったものを3枚重ねた、厚さ90センチ、長さ15m、幅4.5mの大型の筏で、二階には居住用の小屋があり、エンジンはついてないが、マスト2本を備えた帆船である。
乗組員は7人で、リーダの毎日新聞記者 倉島 康は航海は初めてだったが、カメラマンの小原啓は、ノルウエー人の人類学者・探検家で、1947年にコンチキ号という筏で南太平洋を8千km航海したことで有名なヘイエルダールが、1970年に計画したパピルスで作った「ラーⅡ世号」に日本人でただ一人参加した経験を持つ。ほかにフィリピン国営放送のディレクターとカメラマンの二人が乗っていた。
ヤム号が出航したのはルソン島の北のアパリという町だったが、ここで、堀江謙一を乗組員の一人とする「野生号Ⅱ」というアウトリガー付きのカヌーで日本まで航海するという角川グループと出会った。
「どちらも、日本人はどこから来たのか―をテーマに今回の企画を立てたのだが、エンジンのない「舟」がここから日本に向かうのは、南西の季節風が吹いて、しかも台風シーズンに入る前の季節を選ばなくてはならないため、この五月に、かちあってしまった」のだ。
「野生号Ⅱ」は5月16日に出港し、ヤム号は、フィリピン政府が、筏が領海を出るまで伴走させるという軍艦の修理、その他に時間がかかり、5月末の出航になった。
下の左の
《 ルソン海峡 》の図
はGoogle Mapに島名などを書き加えた。
アパリを出港後、カラヤン島の近くまで、時々、「北に向けてワイヤーロープで曳航してもらったが、軍艦がエンジンを止めると、ともに東へ、東へと流された」という。この海域で、強い東への潮流が流れていたことが分かる。
6月10日ごろフィリピン最北端の島、ヤミ島(マヴディス島)近くまで来た。今は無人島。
上陸しようと近くの岩礁に錨を降ろして停泊していたが、錨が切れてしまい、「黒潮の方ではなく太平洋の真ん中の方に向かって〔東に〕流された」。台湾の漁船にヤミ島まで曳き戻してもらって、黒潮に乗ることができた。
翌日明け方ころ、バシー海峡(ヤミ島と、台湾、蘭嶼島南の小蘭島との間の海峡、およそ100㎞)中央部を越えたが、台風が接近していたこともあって、「高さ5m~7mの黒潮の大きなうねりが筏を北へ北へと押しまくった。
南東の風、風速20m~25m、竹筏は最高速度4ノットを記録した。その後10時の方角に紅頭嶼(=蘭嶼島)がうっすらと浮かんでいた」という。
蘭嶼島は台湾からおよそ70㎞のところにある。島内最高峰は紅頭山(548 m)なので、海上視認距離を計算すると、ヤム号からは52マイル、約96㎞。
曇天だったと思われるから、「かすかに見えた」としてその半分、40~50㎞離れていたと考えると、ヤム号は、たぶん、台湾から110~120㎞ほど離れたところ、つまり黒潮の東の端付近を走っていたと思われる。
6月12日、丸1日、何も島を見ずに北上した。
6月13日早朝「10時の方角、ほぼ北西方向にうっすらと島が見えた。与那国島らしい」。与那国島の南東50㎞ほどのところを通ったのであろう。
午後6時、意外と近いところに西表(いりおもて)島が浮かんでいた。6月14日午前9時、石垣島に寄港した。その後7月1日に最終目的地鹿児島に到着した。
海部は、丸木舟の実験に先立っておこなった草束や竹を使った舟の実験で、これらは単なる漂流物に過ぎないと言っていた。彼の考えに従えば、台湾南端から筏で出航すれば黒潮に流されるだけで、漂流ブイと同様、台湾東岸の近くを流れて東シナ海に運ばれてしまっただろう。
竹筏のヤム号には帆がついていたが、ヨットとは違い、自由に進路をとることはできず、
『ヤム号漂流記』の著者が書いている通り、その航海はほとんど「漂流」だった。
ルソン島北部から出航したヤム号は、ルソン海峡で、南西の季節風と東向きの潮流で太平洋へと流されたが、他の船で引き戻してもらことによって、黒潮本流の東の端に乗り、海峡を横断した。
ヤム号は、海部チームの丸木舟・スギメのように黒潮を西から東に横断するために漕ぐことは必要ではなかった。
したがって、6~7月の南西からの季節風が吹く時期にフィリピン北部から出航すれば、(運が悪ければ太平洋の真ん中に向かって運ばれてしまうかもしれないが)、労せずに黒潮の東側の端に乗ることができ、ルソン島と台湾の間の海峡を横断することができ、琉球列島に向かうことができると考えられる。
【追加、2021.7.24】
第1章第六節(→「江戸時代多くの難破船が八丈島に漂着した」)で引用した岩尾龍太郎『江戸時代のロビンソン』によると、1680年・延宝八庚申(かのえさる)5月17日、日向にバタン人18名が漂着した旨を記した記録が残っている。
彼らは「鉄くぎ所々にあり」、「藤蔓にてからげ付けたる」「横一丈〔3m〕余、長さ四丈程」の船に、当初25人が乗り組んでバタン島を出航、途中、琉球に寄ったが、そこで遭難し、生き残った18人が日向に漂着したという。
国立国会図書館の「日本の暦」というHP(https://www.ndl.go.jp/koyomi/index.html)の第二章には1684年以降の大小暦の表があり、閏月が分かるが、それ以前の1680年の「庚申5月17日」は現在の太陽暦では何月何日ごろに当たるかはわからない。閏月が「5月」以前に入っていれば、この「5月17日」は現在のカレンダーなら6月になる。ヤム号は5月末に出港した。
バタン人たちが乗った舟は、ヤム号と同様、南西季節風の吹く頃出航し、南シナ海に流されることなく、琉球に寄ったのだ。
【追加、2021.8.9】
藤 枝 繁・ 小 島 あ ず さ・ 兼 広 春 之 「デ ィ ス ポ ー ザ ブ ル ラ イ タ ー を 指 標 と した 海 岸 漂 着 ごみ の モ ニ タ リング」(廃 棄 物 学 会 論 文 誌,Vol.17,No.2,pp.117-1 、2006年)で、
藤 枝らは「 全国のべ120海 岸か ら収集 され た6,609本 の ディスポーザブルライ ターを指標 と して,国 内 海岸に漂着す る海洋 ごみの流出地を推定 した。流出地 ・流出国の判別 は,ラ イターの タ ンク表面 の印刷 文字,タ ンク底面の刻印記号,タ ンク形状 によった。」採集本数は日本製が3430、韓国が748,中国・台湾が1150本。ディスポーザブルライ ターは以下でライターと記す。
中国か ら流 出 した ライ ターの多 くは,広 東 省,浙 江省を起 源 と する ものであ り,渤 海 や黄海 周辺起 源の ものはほ とん ど 見 られなか った。 漂着 本数は八重山,沖 縄 島海岸で少な く,日 本海海岸 に多か った。一 方,台 湾か ら流出 した ラ イ ターは,そ の半数以上が八重山,沖 縄海岸 に漂着 した。
「中国ライター」の図によると、日本に漂着したライターのうち、60個が広東省から漂出したものだった。そして、そのうちの18個は先島諸島で、1個は沖縄島で回収された。
この60個が台湾西部の台湾海峡を通ったとは考えにくい。南シナ海からルソン海峡を通り、つまり台湾南部を通過したのち琉球列島を通り、北部の日本各地に運ばれたと考えられる。この図から南シナ海から東へと向かいルソン海峡を通過後、北に向かう海流の存在が示唆される。
「台湾ライター」の図によれば、台湾から流出したライター122個が日本に溶着したが、64個が先島諸島で、10個が沖縄島で回収された。このことは、台湾から漂出するものは、必ずしも黒潮によりすべて東シナ海に運ばれてしまうわけではなく、先島諸島に漂着することもあるということ、あるいは、推進力がない物体ても、台湾東側を流れる黒潮横断が可能であるということを示唆している。
第五部 第2章 見出しに戻る
以下で、ルソン海峡における黒潮の流れ方について、少し細かな議論をする。面倒だと思われる方は「中間的なまとめ」に跳んでいただきたい。
「中間的まとめ。そして、移住の原因としての漂流」に跳ぶ
海部は、2020年12月のScientific Reports論文では、それ以前にはふれていなかった、ルソン島北部東岸からのブイの実験についてもふれている。Fig2は再掲。海部は全部で137の漂流ブイのデータを集めた。約120個は台湾の東岸から流され、16個がルソン島北部から流された。
海部が言う通り、台湾から流された120個のブイで、琉球列島に漂着したものは、一つもなかった。だが、この論文のFigure2、Figure3についての説明によると、すべてのブイが黒潮中心部の流れに乗って東シナ海へ運ばれてしまったわけではなく、5つのブイは赤、橙、緑、水色、青の軌道が示しているように、黒潮を横切って東側に出ている。
橙、水色、緑の軌道のブイは黒潮を横断して東側に行き(その後東シナ海に入った)、水色は与那国島から20㎞以内に近づいた。また、青は台湾南部ですぐに黒潮の東側に出、その後、先島諸島の南側で漂い続けた。また赤はいったん、東シナ海に入ったが、その後南に向かい西表島のごく近くを通った。
この5つのケースも、推進力のない筏では黒潮を横断できないという海部の主張に対する反証例と考えるべきであるが、この点は後でふれることにしようと思う。
私は、台湾からではなくもっと南から出発すれば、筏でも黒潮を横断できる、ということを主張しているので、フィリピン・ルソン島から流された16個のブイについて、先に検討することにする。
ルソン島東岸から流した16個のブイのうち13個は黒潮に捉えられ、そのうちの10個は南シナ海に入ったか、もしくはバブヤン諸島の周辺で最後まで漂い続けた。〔海洋産業技術開発機構のスーパーコンピュータ〕JCOPE seriesにより再現されたthe ocean flow fields 〔うまく訳せない〕は、そうした動きは黒潮のルソン島沿岸の流れがルソン島の北では通常南シナ海へと漏れ出る(spill out)からだということを示している、という。このルソン海峡における黒潮の南シナ海へのspill out については後でふれる。
2011年6月には、例外的に一個のブイが南琉球へと運ばれ与那国島の近くを通過した(黄色の太線)。だが、これはおそらく台風の結果だと、海部はいう。
しかし、この例をはじめ、海部が示しているデータのなかには、彼の示唆とは異なる結論がみちびかれると思われるものがいくつかある。
そして他の黒潮研究者に当たってみると、ルソン海峡の黒潮流について海部が示唆しているのとは異なる見解が示されているように思われる。
黒潮は、源流域にさかのぼると、北東貿易風によって形成される北赤道海流から生まれる。
北緯15度帯を西向きに流れた北赤道海流は,ルソン島にぶつかり,北向きに流れる黒潮と南向きに流れるミンダナオ海流に分岐する。前出、中村の図を参照。
(ミンダナオ島北端が北緯10度くらい、ルソン島の中部、首都マニラの位置が北緯15度くらいである。)
中村啓彦「黒潮の流路・流量変動の研究―源流域から九州東岸まで」 p117 Fig1.参照。
(1)まず海部のFig 3を見る。
これは2013年4月21日台湾南部から流した113番ブイ(赤の☆印)の動きを示したもので、JCOPEで再現されたという図の細い矢印は潮流の方向、速さを示している。
この中のc,d,e,f を拡大してその下に示した。
赤い部分は潮流の強いところである。図の上部の黄色の矢印は風向で、当時は台湾の北の海域では、北東の強い風10m/sが吹いていた。(だがルソン海峡付近でどうであったかは不明。)
c.~f.図の下端、台湾の蘭嶼島の南南東約100㎞ほどのところにはフィリピン領最北のヤミ島がある。(前掲《 ルソン海峡 》の図
参照)
図の下端、ヤミ島付近の海流を注意してみると、23日0 時のd.だけは西向きの流れが卓越しているが、それ以外のc.(22日6 時),e.(23日18 時), f(24日6 時)では、表面流はすべて東向きに流れている。
d.図によれば、23日0 時にルソン海峡のヤミ島付近にあるブイ/筏は西への海流に押されて黒潮中心部に乗り、台湾東岸に向かってほぼまっすぐ進むと予想され、その後も黒潮の中心部に乗って東岸に沿って北上し、東シナ海へと運ばれるだろう。
c.図によると、22日6時に、ヤミ島付近にあるブイ/筏は、d.図の場合とは異なった進路になるだろうが、台湾東岸に近づくか、台湾本島から70㎞程の距離にある蘭嶼島の東側を北上するかは微妙である。台湾南部での風向きによって決まりそうだ。
しかし、e.あるいはf.の図によれば、23日18時の時点で、また、24日6時の時点で、ルソン海峡のヤミ島付近にあるブイ/筏は、蘭嶼島よりも東の海域に流される可能性が高いと思われる。
この場合にはブイ/筏は台湾の東岸から遠く離れたところを北上し、琉球列島に南側から接近すると予想される。
(2)次に、Fig 6を見る。2015年4月23日12時に ルソン島北東端の半島のすぐ南側から放出されたブイが、北東端の半島(『ヤム号漂流記』によるとサンヴィセンテ岬SanVicente)のすぐ近くを回ってバブヤン海峡に入り、その後南シナ海に運ばれた時の図である。島名を書き加えた。
Fig 6の右側の図を見てもらいたい。半島のすぐ近くでは西向きでバブヤン海峡に入る流れもあるが、半島から東側に少し離れたところでは潮は北に流れ、カミギン島沖で西、北西、北東へと分岐している。
そして、バブーヤン島とカラヤン島の間を流れた潮流はその北では、南シナ海から広く東に向かって流れる潮流とぶつかり、大きく弧を描くように北へそして東へと流れている。
したがってブイが、ルソン島東部の海を北上する時の海岸からの距離によっては、南シナ海に流入せず、北西→北→東と弧を描きつつ流れて、ルソン海峡を越えて台湾海域入るとともに、黒潮を横切りその東側に進む可能性があると考えられる。
前出の中村によれば、黒潮には季節的な変動があり、ルソン海峡では冬季に南シナ海へと流れ込む現象が起こる。この流路の変動については後に詳しくふれるが、この現象には季節風の吹き方が関係している。
中村は、「北太平洋の西岸境界域では-----冬季季節風は10月~3月の期間はルソン海峡から東シナ海では黒潮に対して逆向きに吹く傾向があり、夏季季節風は、6月~7月の期間、ルソン島沖から日本南岸で黒潮と同一方向に吹く傾向がある」と述べ、次のFig.2を示している。
Fig.2.では海面付近の風の吹き方が示されていて、台湾とフィリピンの間=ルソン海峡付近では、a10月,b1月,c4月の風はいずれも北東ないし東から吹いている。だがd7月にはこの海峡に南西からの強い風(長い矢印)が吹いている。
また A.GordonはOceanography of the Indonesian Seas and Their Throughflow ,Published Online: October 2, 2015 で,
>
太平洋からインド洋へとインドネシアの海域を通過して流れるインドネシア通過流 ITFは地球環境に影響があるが、この ITFの流量は季節的に変動し、それにはモンスーンが関与しているとして、次の図を示している。
この図からもルソン島付近では6月から8月の夏季には南西の風が吹くことが分かる。
(3)再び海部のFigure2.を見る。ルソン島東岸から流したブイのほとんどはバブーヤン島の近くに滞留したかバブーヤン海峡を流れて南シナ海に流入するかした。
しかし、 ルソン島北東端から250㎞ほど南の(白い丸が3つ描かれている)海岸から流したブイのうち2つは、流れ始めてすぐ海岸からかなり離れたところを流れている。そして、ルソン島北東端の岬を回った後、バブーヤン島の東側、バターン諸島の南側北西に流れた。
そのうちの一つ、細い線で軌跡が描かれているブイは結局南シナ海に運ばれたが、
(黄色太線の軌道で示されている)もう一つのブイは、南西季節風の吹く時期とされる6月に流されたもので、ルソン海峡を越えて台湾海域に入り、与那国島の近くへ流れた。
このブイはルソン島東岸の異なる場所から流された他の13個のブイとは違い、流されてからすぐに海岸から離れて流れ、カミギン島の東を通り、(2)でみたような潮に乗って北西→北→北東と弧を描いて流れ、ルソン海峡を越えた、と思われる。
このブイについて、海部は「台風の影響」だと言っているが、それはこのブイがルソン海峡を越えたことについてではなく、台湾の近くを流れたのち東に逸れて与那国島に近づいたことに関して言われているのではないか。
さて、このルソン海峡付近の黒潮の流れ方について、海洋学の専門家の論文を参照してみる。
中村啓彦は「黒潮の流路・流量変動の研究―源流域から九州東岸まで」『海の研究(Oceanography in Japan)』,2(6 4),113-147,2017 で、
「黒潮はルソン海峡付近においては、東側斜面に沿って北上する場合と南シナ海に漏れるように流れる場合があり、この漏れるように流れる場合には、ルソン海峡の南側から南シナ海へ流入 して北側から流出するループ流路(looping path)を形成 する場合と,黒潮の分岐流が南シナ海へ貫入する場合 ( leaking path )に分類 される」〔強調は須藤〕、といい、Nan et al. 2011の論文の参照を求め、またループ流路の形成には,季節的な傾向のあることが古くから指摘されていた、 と言う。
二つの図は、中村が参照を求めている、 Nan,F. & H.Xue & F. Chai & L. Shi & M. Shi & P Guo らの
Identification of different types of Kuroshio intrusioninto the South China Sea <Ocean Dynamics ・ September 2011 > に掲載されている図で
Fig1の点線はlooping path, 灰色の線はleaking path , 黒線はleaping path と名付けられている。
Looping pathの時にはルソン海峡の中間部から南シナ海に入り海峡の北部から外に流出する。
黒潮の南シナ海へのIntrusion侵入ないし貫入に関して1960年代からはじまり多くの研究がおこなわれてきた。
そして、次のような特徴があることが分かっている。
黒潮の侵入には季節的パターンがあり、冬は夏よりも強い。
表面流は、冬、南シナ海の奥部にまで達する。ルソン海峡では東向きの流れと西向きの流れが交互に現れる。
南シナ海北部には、黒潮の分流だと考えられるかなり速い西向きの流れがあることが論証され、黒潮南シナ海分流(SCSBK )と名付けられた。 また、侵入の起こり方は、ルソン海峡における、黒潮の流速、角度、位置によることを示唆する研究もある。
Wu and Chiang (2007)のモデルは黒潮は冬季に、よりしばしばループを形成する傾向があり、夏にはルソン海峡をよりしばしば跳ぶleap傾向があることを示した。
一方,中村によると、Qu(2000)は, ルソン海峡を横断して南シナ海 へ流入する海水の流量の季節変動 は最大値(5.3 Sv)は1・2 月,最小値(0.2 Sv) は 6・7 月に起こることを示し,その原因を以下のように 説明した。
すなわち,冬季の北西季節風によって,台湾 の南端では海水が集積し海面が上昇,逆にルソン島の北 端では海水が離散し海面が下降するので,その圧力差によって南シナ海へ海水が流入する。夏季の南東季節風が吹く時期は逆の状況になるとした、という。〔つまり、南シナ海から太平洋側へ海水が流出する。〕
以上のような海洋学者による議論によれば、夏季、6月~8月には、黒潮が、南シナ海へと漏れる、あるいは侵入ないし貫入する現象は少なく、むしろ黒潮は跳ぶleapように海峡を越える。またlooping path により、台湾の南で東向きの流れが生じる、と考えられる。
上でみた、台湾から流したブイで黒潮の東側に出た5つのブイの内、青の軌道のブイは台湾の南端から流されたもので、海部は「この日黒潮は中規模スケールの渦との複雑な相互作用により妨げられており、一時的に生じた東向きの流れがブイを沖へと運んだ」と言っている。
だが、これは中村やNanらの言う looping path と同じものなのではないだろうか。そうだとすると、一時的とは言えないと思われる。
つまり、中村やNanらが指摘するように「季節的」に生じる流れだとすれば、たとえば、1,2か月、同じような流れ方をし、漂流するものは、ブイも筏も台湾東岸にそって北上するのではなく東へ離れたところに流される、可能性があることになる。
また、2011年6月のブイがたどった軌道は、ブイが黒潮のleaping path に乗ったためだと考えられるが、leaping pathは、夏季に起こりやすい流路だというのだから、これは当たり前の軌道で例外的なものではないと思われる。
さらに付け加えれば、ブイには15m下にアンカーがついていて、風の影響で「滑る」ことはないが、筏は風の影響を受けて「滑る」という。
もし、ルソン島東岸から何らかの原因で流され黒潮に乗って北上する筏は、北東端の岬付近に来た時に季節風の影響を受け、北西の季節風が吹いていれば、ブイよりももっと南シナ海へと流される傾向が強いだろう。
しかし、南西の季節風が吹いていれば、筏は岬を回るときに2011年6月のブイよりも東に流され、カミギン島よりも東を北上するだろう。
そして、強い季節風による、海表面の「吹送流」(*)もくわわって、ルソン海峡では黄色の太線で描かれた軌道よりずっと東の進路を進み、台湾の沖では東岸から遠く離れて北上し、それだけ琉球列島に接近する可能性が高くなる、と考えられる。
(*)海表面に近いほど風による表面流=「吹送流」が生じやすく流速は風速の2~4%とされることについては、
⇒第一章「 7千年前、5千年前の八丈島に、古代人はどのようにしてやってきたのか」第6節(2)風による表面流に乗って八丈島に漂着する場合参照
もう少し、海部のScientific Reports論文を検討する。
第五部 第2章 見出しに戻る
この論文のdiscussion によれば、台湾から流された130のブイのうち(カラーの軌道で示されている)
4つが黒潮を横断したが、それは北西の季節風が吹く時期に流したものだった。
だが、波の立ちやすいこの時期に人々は海には行かないだろうと考えられる。かつて竹筏を使って漁を行っていた、台湾の原住民であるアミの人たちにとっては冬は漁業のオフシーズンだった、と海部は言う。
もし、人々が冬の間も筏で海に行き、誤って流されて琉球列島に漂着したかもしれないとすれば、琉球列島への移住は意図的なものでなく偶然の事故によるという(可能性がある)ことになる。
だが、この4つのデータは、冬は漁業をしない台湾の人々の行動を反映したものではなく、無視して構わない、と海部は考えているようだ。
だが、私はそうは思わない。まず、日本統治期の台湾大学で教授をしていた国分直一は、『台湾の民俗』(岩崎美術社、1968)で、台湾における竹筏の作り方を図入りで詳しく説明している。
彼によれば、3人漕ぎ用の大筏は16本の竹で作り、3300~4400ヒロ(5~7㎞ほど)の遠洋に出る。3人乗りは2人で漕ぎ、4人から5人乗りは3人で漕ぐ。冬は季節風のため波が高くなるので3人漕ぎの大型竹筏を用いる、等と書いている。
漁業は冬も行なわれている。もちろん、沖には出ないだろう。しかし、冬でも比較的波の穏やかな湾内では作業を行なうだろう。そして時々、外海に近づき、誤って、沖に流されることはあったと考えられる。
したがって、海部のブイの4例が冬の季節風の時期に流されたブイだとしても、意味のないデータとして、棄却されるべきではない。
筏でも、黒潮を横断して流されることがある、という事例とみなされるべきだろう。
次の段落で海部は、accidental arrivalと accidental migration を区別したうえで、
(偶然の)移住が成功するかどうかは、上で示した筏の漂着チャンスだけではなく、漂流事故の頻度および乗員の数、年齢、性の構成、死亡率、繁殖率などの要素も含めて総合的に評価する必要がある。
そして、初期集団は、後の存続・人口増加が可能となるためには、一定サイズ以上の人数と(年齢と性の)構成が必要だが、10人かそれ以下の数であっても若い男女のグループなら移民は成功する可能性がある、という。
そして、海部も執筆者の一人である井原グループの論文A demographic test of accidental versus intentional island colonization by Pleistocene humans. J. Hum. Evol. 145, 1 に依拠しつつ、
小規模の集団でも、年齢・性構成などによっては、移住が成功する可能性はある。だが、先史時代の移住は舟で、近親者からなる単一の家族あるいはいくつかの家族で行なわれたと推定する。
一方で、オーストラリアの狩猟採集社会と台湾のアミの農民の例では、漁業において性別分業があり、男女が同じ舟で漁を行うことはない、という。そしてこのことから、男だけで漁を行なっている最中に流されたとしてもその偶然の漂流結果が移住につながることはなかった、という。
そしてこの二つのことからaccidental な漂流が移民の成功につながったとすれば、それは、二つ以上の家族が、ほぼ同じ時期に、同じ島またはすぐ近くの島island clusterに、A.別々に、B.あるいは大きな筏で一緒に、上陸した場合に限られる。
しかし、漂流ブイの実験結果からA.は事実上あり得ず、B.は、大きな筏の共有が普通のことでまた筏が事故に巻き込まれることがしばしば起これば不可能ではない。しかしこうした事故が繰り返し起こるというのは非現実的で、また大きな筏で沖合に向かうという理由がない、という。
以上のような海部の主張に対し、私は、以下のように反論したい。
まず、漁業における性別分業や漁船に男女が一緒に乗ることはない、というのは一般的あり方とは言えない。
日本でも昭和30年代までは、家船(えぶね)で暮らす人々があった。彼らは陸上に住居をもたず、生活はすべて住居を兼ねた船の中で行われていた。生活と漁は密接に結びついており、夫婦は同じ船の上で生活しまた漁を行った。
東南アジアでも、家船で暮らす(暮らした)人々の広範な存在が知られている。
長津 一史「海の民サマ人の生活と空間認識 : サンゴ礁空間t'bbaの位置づけを中心にして」『東南アジア研究』1997,35(2)によると、
サマ人は, フィリピン南部スルー諸島南西端 シタンカイSitangkai島周辺 に居住 し,専業的に漁労活動 をおこなっている人々で、
かつては舟上に居住空間を構 え,比較的限 られた範囲の海域 を移動 しなが ら一生 を過 ごす舟上生活民 (boat-dwellers)であ り,文献では漂海民 (seanomads,Seagypsiesなど)として知 られていた。
舟上生活の際の生活空間はサ ンゴ礁上であった。数週間か ら数カ月にお よぶ漁 をおこなうサマ人は,現在 も多 くの時間をサ ンゴ礁上で過 ごす。現在多 くの人々が従事する海藻養殖のための杭上集落 も,陸地のある島か ら数 km も離れたサ ンゴ礁上 にある。
女性 も漁 に参加す る。 多 くの漁は女性が実際に漁獲作業 に参加することを前提 に組織 されていて、舟上での魚の処理 ・加工 といった間接 的な作業 に限 らず,操船,追い込み漁 に使 う蔓お よび網の引き揚 げ とい う直接的な役割 を担 うことも少な くない、という。
2021年9月半ば、NHK・TVの早朝の世界の名勝を案内する番組でみたが、中国の江蘇省南部と浙江省北部の境界にある太湖は、中国で三番目に大きな淡水湖で、琵琶湖の約3.4倍の広さをもつ。ここには今も、船上生活を送っている人々がいる。船から網を引っ張っているのは女性で、フナのような魚が数十匹入っていた。
2021年11月18日付け朝日新聞の1面トップに「母なる川 乱獲の果てに」という見出しで、今年から中国、長江流域の全地域で天然魚の漁が禁止されたという記事が載っている。この中で中流域、洞庭湖の元漁師の女性について次のように書かれている。
この「女性は〔漁が禁止されて、今〕村はずれのアパートでぼうぜんと過ごしている。----女性は船上生活者として生きてきた。両親が操る漁船が「家」で、陸にはほとんど上がらずに長江の上を移動する日々。---自らも船上で家庭を作り、下流の安徽省から洞庭湖にやってきたのは約30年前だ。」
長江でも、また洞庭湖でも、船上生活をしている人々は男女の区別なく、漁労に携わってきたことがわかる。
左の
写真はhttps://www.pinterest.jp/pin/357965870366503313/
>
Pinterest:海、A family of sea gypsies and their boat-house.
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から借用した。
萩野太朗「巨大噴火に消えた黒潮の民」『日本人はるかな旅』(日本放送出版協会、2001年)によると
インドネシア周辺の海域にもかつて漂海民と呼ばれた人々が多数存在する。
>
一生を海の上ですごすと言われるパジャウ族で、満ち引きの大きい遠浅海岸に杭を立て、ある家は石垣を組み、その上に家をこしらえている。
30年ほど前までは、こうした家は季節ごとの仮小屋だった。本来は船そのものが家だった。そして漁場を求めて転々と移動した。女性も含め、全員が漁業に従事している、という。
インドネシアからフィリピンにかけての多島海の島々の入り江など、波の穏やかなところには、いたるところに海上集落がある。蚊を防ぐ効果がある。
海上集落の家の多くは床も壁も竹を並べて作られており(風通しがよく涼しい)、屋根も竹を骨組みとしてニッパヤシの葉で葺いている。竹筏の上にヤシの葉の屋根がついているといってもいいような作りである。
船そのものが家だったとすれば、性別分業が多少はあったとしても、漁業が中心の生活で家族全員が生業としての漁に携わる必要があるだろうし、舟が家であり、家は生活のすべてがそこで行なわれる場所であろうから、夫婦が別居中でなければ、男女が同じ船に乗らないでいることは不可能である。
そうだとすれば、もし何らかの原因でこうした家船、あるいは作業用の筏とさして違わない家が流されることになれば、それが移住につながることはなかった、と言うことはできないはずだ。
そして海部が結論的に述べる、大きな筏に乗った10数人の近親者が一つの島に漂着すること、あるいはいくつもの筏がほぼ同時期に一つの島または隣り合った複数の島に漂着することは非現実的だという主張は、それらの漂流の原因が、個別的に、漁における海上作業あるいは近くに移住しようとしておこなった海上旅行の際の過ちによって起こった、という想定に基づいてなされている。
しかし、漂流を始めることになる原因は人々の過ちばかりだとは限らない。私は漂流を人々に強いることになった原因として第一に津波、第二に火山噴火から逃れるための海上への緊急避難、第三に集団間の争いから逃れるための移住などを想定する。
海部の想定する個別に起こる漂流では、ほぼ同時期に同じかすぐ近くの島に一定数以上の筏が漂着する可能性は確かに高くないと思われる。
だが、大きな津波が起これば、広い海域から多数の作業中の筏が、また家船が、あるいは海岸にあった差し掛け小屋の住居などが、多くの島々から一斉に海に流され、漂流を始めることになるだろう。
おそらく、現代とは違って、3万年前4万年前のフィリピンやインドネシアの島々に住んでいた人々の数はごく少なかったであろう。だがそれでも、これら島々全体で数百台から千台を越える筏ないしは家(家船)が流されたと考えることができるだろう。
津波は広い地域の多数の筏群を漂流させるだろう。同じ地域から流された筏は、同じ潮に乗って運ばれる結果、漂流ののち、同じかあるいは近くの島々に漂着する可能性があるだろう。別の地域の筏群は、異なる流れに乗って、異なる場所に運ばれ、そこの島々に漂着するだろう。
上では小田が、旧石器時代の4万年前から3万5000年前の「現代型ホモ・サピエンス(新人)」による日本列島最古の遺跡は東南アジアに当時存在した大陸スンダランドから、黒潮を渡航具(丸木舟あるいは筏舟)で北上した沿岸居住民(海人)集団と考えられるとし、「海上の道」の存在を唱えているのを見た。
また、ヤム号の漂流・冒険航海―i.e.竹筏で、ルソン海峡から南シナ海へと流されてしまわず、うまく、黒潮の東の端に乗って、台湾東岸から100㎞以上離れた海域を北上して琉球列島に到着できた―という漂流・冒険航海を紹介した。
そして、海部のScientific Report 論文を検討して、とくにルソン海峡における黒潮流に関する見方、つまりルソン島東岸からの漂流物/筏が台湾に達することはほぼ不可能という主張に対する、反論を提出した。
だが、ルソン海峡の黒潮流に関する議論は、現在の黒潮に関するものである。そして、本当に論ずべきことは、4万年前から3万年前の黒潮の流れである。
以下でこの点について少し触れる。
3,4万年前と現在とでは、ルソン海峡の黒潮流路に影響がありそうな、地形上の大きな違いがある。というのは、3,4万年前には南シナ海の南部の出口がスンダランドによってふさがれていたからである。
現在、フィリピンとボルネオ島(印東の図ではカリマンタン島)を反時計回りに回る流れ=南シナ海通過流が存在するという。
東塚知己(ともき)「大気海洋結合モデルを用いた南シナ海通過流に関する研究」科研費助成事業研究成果報告、平成24年5月8日、参照。
南シナ海通過流は、黒潮がルソン海峡で南シナ海に流入/貫入する季節的現象に関係があるのではないだろうか。南シナ海を南に流れる下る海水は北部のどこかから補給されねばならないが、その一部は黒潮のルソン海峡からの流入によってなされている可能性が考えられるのではないか。
ところが、4万年前ごろから3万年前ごろにかけての海水準は、現在よりも80m~100m低かった。左の図参照。図はWikipedia「海水準」による。
一方、マレー半島、スマトラ島
及びジャワ島とボルネオ島(カリマンタン島)の間の海は(現在の)水深が50m程度しかない。そこでこの海域は陸化し、大きな大陸スンダランドとなっていた。
また、中国大陸と台湾との間の台湾海峡は福建と台中の間では水深が50m未満で台湾は大陸とつながっていた。
またボルネオ島北側のスルー海には、この海をはさむように、北西側にはパラワン島、カラミヤン諸島が、南西側にはスルー諸島がフィリピンに向かって伸びている。
ボルネオ島(カリマンタン島)とこれらの島々、及びミンダナオ島からルソン島にかけてのフィリピン諸島は、一部の海峡および狭い水路で隔てられてはいたが、大まかに見れば、ほとんどスンダランドとつながった状態だった。 → 印東道子編『人類大移動』朝日新聞出版、2012年の図を参照。
当時の南シナ海を仮に(古)南シナ海と呼ぶとすれば、北側と南側は完全にふさがれており、フィリピン側でもほとんどふさがっていて、ルソン海峡を出口とする大きな湾のような状態なっていた。
すると、南シナ海通過流はほとんどなかったか、ずっと小さかったはずであり、黒潮からこの湾状の(古)南シナ海への流入intrusionはほとんどおこらず、常にleaping pathになっていたか、あるいはlooping pathが季節によって生じたかもしれないが、leaking pathにはならなかっただろう、と推測することが可能なのではなかろうか。
だが、潮の干満によって湾状の(古)南シナ海から海水が出入りするだろう。これはルソン海峡にどのような潮流を生じるだろうか。
また大陸からメコン川のような川から(古)南シナ海に流入する河川水がある。淡水だから比重は小さいが、水温は黒潮の温度よりも平均的には低いかもしれない。しかし、(古)南シナ海は大きな湖のようなもので夏季には湾内の水温は上がるはずだ。
こうした外海と比較した塩分濃度の差や温度差が、干満差によって生じるだろう湾内の水の出入りにどのような影響を与えるか、等、興味深い論点があるが、単なる想像しかできないので、これ以上、(古)南シナ海について考えるのはやめにする。
しかし、南シナ海が北部の台湾海峡と南部のインドシナ半島付近でせきとめられていたことは、現在と比べれば、大きな違いである。その結果、ルソン海峡における南シナ海への黒潮の「漏れ」は今よりずっと小さかったかほとんどなかったと考えられるのではないか。
ルソン島東岸から、あるいはそのもっと南から、何らかの原因―私は大きな津波を想定しているが―で漁労用の筏、あるいは住居の小屋付きの筏が沖に流されることがあれば、現在以上に、それらはルソン海峡から南シナ海に入ってしまう可能性は小さく、ほぼまっすぐにleaping pathを取り、黒潮の東の端に乗って北上し、琉球列島に南側から接近する可能性が高かった、と考えることができると思われる。
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ゴリラやチンパンジーなど人間に最も近い霊長類と区別される最初の人類の祖先、猿人は400万年前から200万年前に生存したアウストラロピテクスとされ、アウストラロピテクスから進化した原人は240万年前から140万年前にかけて生存したホモ・ハビリスで、彼らは石器を使い始めた。
ホモ・ハビリスより進化し、直立歩行をしたことが確実な原人がホモ・エレクトゥスで、約180万年前から約7万年前までという非常に長い期間存在した。北京原人、ジャワ原人など、世界各地で少しずつ違ったホモ・エレクトゥス段階の原人(の化石)が見つかっている。
ここまでの人類進化の大まかな理解に関しては、学者の間で一致している。しかし、ここから先の進化に関しては、アフリカ単一起源説と多地域進化説とが対立している。
多地域進化説を支持している学者は、100万年以上前に世界中に拡散したホモ・エレクトゥスが各地でそれぞれホモ・サピエンスに進化したと考えている。
他方、アフリカ単一起源説では、アフリカで、47年万年前に、ネアンデルタール人とともに、共通の祖先から分化し、アフリカで進化して、約10万年前から世界中に拡散した。ネアンデルタール人と現生人のホモ・サピエンス以外の原人はすべて絶滅した。
以上はWikipedia「人類進化」による。
インドネシア。スマトラ島北部に長さが100㎞、幅が30㎞ほどのトバ湖という湖がある。琵琶湖の1.5倍ほどの大きさである。これはカルデラ湖で過去に4回大きな噴火をおこした。
日本では、第一章でふれた鬼界カルデラ火山(7300年前)や姶良火山(約3万年前)による巨大噴火が知られているが、そのカルデラの直径はほぼ30㎞ほどである。
特にトバカルデラの7万―7万5千年前に起こった最も新しい噴火は超巨大で、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球全体の気温は平均5℃も低下した。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いた。
その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、この時期まで生存していた他のホモ属はすべて絶滅し、生き残ったホモ属はネアンデルタール人と現生人類のみである(ネアンデルタール人と姉妹関係にあたる系統であるデニソワ人がアジアでは生き残っていたことが、近年確認されている)。現世人類も、この巨大噴火後の気候変動によって総人口が1万人にまで激減したという。
Wikipedia「トバ・カタストロフ理論」
さて、多地域進化説とアフリカ単一起源説のどちらに立つにせよ、人類は日本で発生したのではなく、日本列島に最初に住んだ人々は大陸から、海を渡って移住してきたのだと考えられている。
(第一章第4節「瀬戸内技法・国府系文化集団」でふれたように、日本にはネアンデルタール人もやってきていた。)では、なぜ、人類は移住・移動・拡散したのか。
海部の考えではホモサピエンスは移動を本性としている。(海部はネアンデルタール人については触れていないようだ。)ただし、たとえば渡り鳥の移動のように自然本性によるというのではなく、現生人類特有の知的な本性として、チャレンジ精神・好奇心・探求心をもっていて、未知の新しい土地への移住を計画した、というのである。
こうした海部の考え方については本章の冒頭でも触れた。しかし、関野吉晴は、自ら、南米大陸南端から北上してべーリング海峡を渡り、ユーラシア大陸を横断してアフリカ、タンザニアまで、かつてホモ・サピエンスがたどったであろう移動拡散の道を逆方向からたどる「グレート・ジャーニー」を成し遂げた探検家であるが、海部と全く正反対といってもいい見方を示している。
関野によれば、もといた場所で人口が増えて食料が不足するなどし、誰かが他所へ出て行かなくてはならない状況になった。人類はこうした消極的な理由による移動の繰り返しによって世界中にひろがっていったという。明治時代の日本の農民の次男、三男が南米やハワイに移民したことなども、同じだという。
「人口が増える」というケースには、先住者のいた場所に別の集団がやってきてその場所を奪い、勝手に住み着くというようなことがあったかもしれず、その場合、居場所を奪われた人たちは他所へ移らざるを得なかっただろう。
集団の移住、移動はさまざまな原因によって起こった思われる。私は、ユヴァル・ノア・ハラリが大著『サピエンス全史』(柴田裕之訳、河出書房新社2016年)で述べている見解が妥当なものだと考える。この見解は、琉球列島へのホモサピエンスの移住についての海部の主張も、やむを得ない事情による移住・拡散という関野の説明も、ともに含んでいる。
ハラリは「サピエンスの集団のほとんどは、食べ物をさがしてあちらへこちらへと歩き回りながら暮らしていた。彼らの動きは季節の変化や、動物の毎年の移動、植物の生長周期の影響を受けた。彼らはたいてい、数十平方キロメートルから、多ければ何百平方キロメートルの生活領域を行ったり来たりした。」
「集団は、自然災害や暴力的な争い、人口の負荷、カリスマ的なリーダーの先導によって、時折、なわばりの外に出て新しい土地を探索した。こうした放浪は世界各地への人類の拡散の原動力だった。」と書いている。
こうして移動・拡散したホモサピエンスは出アフリカ後およそ1万年でユーラシア大陸の東の端に到達し、スンダに広がった。ホモサピエンスの一部はさらにインドネシアの多島海・ウォレス海を渡り、ニューギニア島とオーストラリア大陸とが一体化していたサフルの大陸へと移動し広がった。
私が目にした
”Early human settlement of Sahul was not an accident ”(www.nature.com/scientificreports、17 June 2019掲載)という、Michael I. Bird など、James Cook University,Australian National Universityの研究者グループなどによる研究では、
6万年前から5万年前になされた初期人類によるスンダランドからサフル大陸への移住・拡散(印東「人類大移動」の図参照)では、海を複数回渡る必要があったが、ランダムrandamなやり方では、つまり天候も季節も選ばず推進力ゼロで、水に浮くだけの乗り物で海に出るのでは、非現実的なほど多数の大人が非現実的な高い頻度で海に乗り出さなければ、サフルへの上陸は成功しない。
移住が成功したのは、意図的・計画的intentionalな方法で、つまり天候、潮流などの条件を選び、方向を定め、paddlingで一定速度以上で進む航海具によって一連の海峡を横断したからだ、ということを詳しい計算を通じて示している。
だがこの本では、なぜ海を渡ろうとしたのかという点についてはふれていない。意図的・計画的ということで想定されているのは、天候や海流の状態が航海に適しているかどうかを判断する能力だけで、未知のものに対する探求心とかチャレンジ精神というようなものへの言及はない。また、他の集団との紛争などへの言及もない。
洪水、火山噴火、津波の後の草束や軽石を使った筏(漂流物)に乗ったaccidental arrivalを説く複数の説があることにふれているが、その詳しい内容には立ち入らず、一括してランダムな航海として扱い、その反対の意図的・計画的な航海によらなければ移住の成功は不可能というのが結論である。
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海部は、3万年前に琉球列島にやってきた日本人の祖先は台湾にいたホモサピエンスで、台湾の山から与那国島を発見し、チャレンジ精神から、移住を意図し計画的に黒潮を横断して先島諸島に渡ってきた、と考えている。
台湾と与那国島の間には黒潮が流れており、先立つ実験で草束舟や竹の舟など推進力の小さい乗りものでの横断は無理だと判断し、丸木舟を作って海峡横断に挑戦した。日本中のトップクラスのカヤック漕ぎ手を集めた丸木舟「スギメ」チームは予想よりも長い時間がかかったが、それでも横断に成功した。
海部は「3万年前の航海の再現」と言っているが、3万年前、台湾から与那国島に渡る航海は行なわれなかったと私は考える。
当時の旧石器時代の人々は岩陰の差し掛け小屋などを住居とする、狩猟・採集生活を送っていた。海岸で暮らしていた人が海を眺めるために山に登ったということは考えにくく、山の森林の中で暮らしていた人々は、彼らの生活環境と関係のない遠くの海にかすかな島影が見えたとしてもそれが何であるかを理解できなかったであろう。いずれの人びとも与那国島を見なかったであろう。
したがって台湾のホモ・サピエンスが渡航計画を立てることはなく、丸木舟を建造することはなかったと思われる。
海部は旧石器時代の日本に刃部磨製石器が存在し、大木を切り倒し、丸木舟を作ることができたと言っている。日本では7千年前頃の遺跡から丸木舟が出土しているが、3万年前の人々が、台湾であれ、日本であれ、丸木舟を作ったというのは疑わしい。また、台湾で刃部磨製石器が出土しているわけではない。
百歩譲って、台湾の人々が舟を作り出航したとしても、東シナ海に流されてしまっただろう。
何度か失敗して経験を積み、やがて航海できるようになっただろう、という海部に対し、出航しても海上からでは、何も見えないまま漕ぐだけに終わり、たとえ流されてしまわず、もとに戻れたとしても、経験の積みようがないこと、たまたま与那国島に船が到着しても、戻ってくることはできず、少人数の先遣隊は与那国島で孤立し、長期間存続することはできなかっただろう。そして、数家族程度からなる当時の小さな社会では、航海の失敗による構成員の喪失は社会それ自体を崩壊させただろう、と反論した。
こうして、海部が言う台湾にいた人々が丸木舟に乗って与那国島に移住したという黒潮横断の航海は存在しなかった。したがって、海部のプロジェクトチームによる「スギメ」の実験航海は「3万年前の航海の再現」ではありえない。
また目標の島が「見える」ことを前提している意図的計画的航海という考えは、先島諸島からは全く見えない沖縄島以北への移住を説明できないことは海部自身も認めている。
上で引用した”Early human settlement of Sahul was not an accident ”の著者のBirdらは、6万年前から5万年前にスンダランドの人々がインドネシア多島海を越えてサフル=オーストラリア大陸に渡った時、スラウェシ島を経る北側ルートの方が成功確率が高かったとしているが、その理由の一つにスラウェシ島では太い竹が利用できたことをあげている。つまりBirdらは当時の人が海を渡るために用いた航海具として竹の筏を想定している。
確かに、パドリングで漕いだとしても速度の遅い筏では台湾から出航して、黒潮を横断することは極めて困難であるように思われる。
一流のカヤック漕ぎ手をクルーとする海部チームのスギメも、約100kmの海峡横断には、30数時間の航海が必要と考えられ、その間に黒潮に流される分を見込んで170㎞ほど南から出航したのだった。
Bird らがサフルへの到達を可能にしたと考える「意図的計画的航海」におけるpaddlingによる筏の最低速力は0.5kt、時速1㎞程度である。人の歩く速さがふつう時速4㎞程度だから、筏で想定される速度の「遅さ」が分かる。インドネシア多島海では、潮の速さがゆっくりで、筏でも横断可能と考えられるのである。
海部がScientific Reports論文のFigure2.で示しているブイの漂流実験とそれについての彼の説明によれば、黒潮が流れる台湾と先島諸島の間を筏では横断できない。しかし、台湾島から出航すると考えず、台湾島よりもっと南から出航するならば可能かもしれない。
海部の漂流ブイの実験データではルソン島北部から流したブイは、台湾の海域にまで達した一例を除き、ルソン海峡で西に流され南シナ海に入ってしまった。
だがルソン海峡における海流も風も季節によって全く異なり、冬季には潮は西に流れまた季節風は北東から吹くが、夏季には、反対に、潮は東の太平洋に向かって流れ、風は南西から吹くことを、何人もの海洋学研究者が示している。
そして実際、南西季節風の吹く時期にルソン島北部から出航した竹筏のヤム号は、南シナ海に運ばれることなく、ルソン海峡をまっすぐに横断し、また労せずに黒潮の東の端に乗って、台湾から100㎞程東の海域を北上、琉球列島に到着することができた。
ヤム号の漂流・航海は、推進力が小さいかほとんどない筏でも黒潮の横断が可能で、ルソン島以南から夏季に「出航」ないし「漂出」すれば、南シナ海にも東シナ海にも流されずに、琉球列島に接近できる可能性があることを示している。
ところで、
アミ族は台湾の東部一帯、花蓮県・台東県・屏東県に亘る広い地域に居住し、2020年現在、約21万5千人の人口を持つ、台湾原住民の中では最も人口の多い民族集団だが、「アミ」という語はアミ語で北を意味する。「北」がなぜアミの人々をさすようになったのかについて学会でも定説がない。説の一つに次のものがある。
太平洋戦争中に台湾原住民の伝統音楽のフィールド調査をした日本人音楽学者・黒澤隆朝は、アミ族の始祖伝説として以下の様な話を採録している。
「太古、南方にあったラガサンという大陸が天変地異で海中に沈んだ。そのとき臼に乗って辛くも逃れだした男女が海流に乗って北上し、台湾にたどり着いた。二人はその地に落ち着いて結婚し、子孫も増えた。そして『我々は北にやってきた』ことを記念し、北を意味する『アミ』を民族名とした。」
というのがそれである。Wikipedia「アミ族」
他方、大島 襄二「ヤミ族の文化と社会」関西学院大学リポジトリ、紀要『人文論研究』22巻2号1972
によると、「この部族〔アミ族〕の言語はフィリピンの諸族と共通するものであり、フィリピンの語群のうちのイバタン語の一方言であることは明らかにされている」という。
イバタン語とはバターン諸島で話されている言語で、上の《ルソン海峡》の図で示したようにその最北端にヤミ島があるが、ヤミ島とはY'amiイアミ島であるという。
大島が調査したのは蘭嶼島で、住民はすべてアミ族だが、この島のアミ族は現在タオ族と呼ばれるという。Wikipedia「台湾原住民」。
私は、蘭嶼島の住民はもちろん、台湾島側のアミ族も、その祖先は、バターン諸島に住んでいた人々で、津波によって流されてきた人々ではないかと、想像する。
必ずしも津波によって流されたと考える必要はない。
ルソン島あるいはその南のフィリピンの島々の人が、近くの島々への移住を意図して筏で海岸近くを移動中に、筏の操縦ミスなどによるアクシデントから沖に流され、北の台湾海域まで流されてしまったということも考えられる。。
もちろん、フィリピン海域から移住を意図して出航した筏があったとしても、琉球列島あるいは日本列島を目指したのではあり得ない。意図的出航だったとすれば、それは岬を回ったところにある隣りの海岸か近くにみえる島にむかうものだったのだろう。しかしうまく岬を回ることができず、あるいは目指す島に接岸できず、沖に流されてしまい、そして琉球列島に漂着することになったのだろう。
見える距離にある隣の島への移住を目指していたとしたら、居住用の小屋の着いた、ヤム号のような大型筏だった可能性もあり、家族と一緒の航海だったであろう。海部チームの丸木舟・スギメの航海とは異なり、食料や水もたっぷり積んでいただろう。したがって、長期の漂流に耐えることができただろう。
また、沖縄島の人骨がインドネシア・ジャワ島で見つかっているワジャク人に似ているということを踏まえると、フィリピンよりも南のインドネシア多島海の島々から流されて来たということも、ありえないことではない。
だが、インドネシア多島海からは琉球列島までは5000kmもある。
一つの島に、あるいは行き来できる近くの島々に、同時期に、相当数の人々が、漂着・上陸するのでなければ、その偶然ないし事故による移住が、人々の存在を長期に可能にすることはできないと言われている。
そうだとすると、どうして多くの人が同じ時期に琉球列島にやってくることになったのだろうか。
もし、フィリピンの島々が津波に襲われ、海岸あるいは海上に作られた竹製の家、あるいは漁労用の筏ごと、多くの人々が沖に流され、黒潮に乗って漂流することになったとすれば、台湾にも漂着するだろうし、また、ルソン海峡で東の流れに乗れば、琉球列島にも漂着する可能性があるだろう。
津波は、海岸近くもしくは海底の大きな火山の噴火による山体崩壊でも起こるが、震源地が海底である大地震によって起こされることが多く、津波を引き起こす地震は海溝付近で発生することが多い、と言われる。
海溝は海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込む場所にできる。海溝では、沈み込む海洋プレートとその上のプレートとの間の摩擦のため、間欠的に急激にずれることで沈み込みが進行する。この急激なずれが海溝型地震で、したがって海溝周辺は地震多発地帯である、という。Wikpedia,「津波」、「地震」
海溝型地震の発生しやすい場所は、チリ、ペルー、メキシコ、アメリカのアラスカ、アリューシャン列島や千島列島、日本、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニア、ソロモン諸島、フィジー、トンガ、ニュージーランドなどの沖合いや海岸付近である。いずれも沿岸に海溝がある。
フィリピンを構成する多くの島々のほとんどは、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートとの間のテクトニック境界の複雑な一部をなすフィリピン変動帯The Philippine Mobile Belt の上にある。
フィリピンにはタール火山、ピナツボ火山、マヨン火山など大きな火山があるが、それは、フィリピン変動帯の上にあるためである。
フィリピン海プレートの活発な沈み込みにより地殻がかく乱されるため、フィリピン諸島は、火山活動、地震、津波による危険が地球上でもっとも発生しやすい領域の一つだという。
英語版Wikipedia,Philipine Mobile Belt
フィリピン海溝では大きな地震が発生しただろうし、それによる津波が太平洋岸を襲っただろう。
日本で過去、多くの津波があったことは、研究者たちの詳しい調査によって分かったのであり、東南アジアの他の国々で同じような調査が行われているかどうかは分からない。
またインドネシアにも、129もの火山があり、しかも超巨大噴火を起こしてきた火山がいくつもある。
インドネシアで火山が多く、また地震や、それらに伴う津波が多いのは、スマトラ島から東に延びる島弧が、スンダプレートと呼ばれる、かつてのスンダランドを乗せるように突き出ているユーラシアプレートの端をなし、このスンダプレートの下側へと、インドオーストラリアプレートが沈み込んでいる、せいだという。
高田 亮 「インドネシア・スンダ弧におけるカルデラ噴火とカルデラ火山の特徴 」地質学雑誌 第116巻 第9号、 2010年9月
図はNature (2012),Helen Shen ,Unusual Indian Ocean earthquakes hint at tectonic から借用。
スンダプレートの東には、フィリピン海プレート、太平洋プレート及びオーストラリアプレートの4つが集まる箇所があって、ここには、モルッカ海プレート、バンダ海プレート、ティモールプレートの小規模プレートがひしめいている。
そしてその東側、ニューギニア島北東部付近のオーストラリアプレートと太平洋プレートの境界には北ビスマルク海プレート、ソロモン海プレート、南ビスマルク海プレートが境界を接している。
こうしてスンダランドからサフル大陸及びニア・オセアニアにかけては、火山の噴火、地震、津波等が発生しやすいのである。Wikipedia/Wikiwand「スンダプレート」
List of volcanoes in Papua New Guinea、英語版Wikipedia、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_volcanoes_in_Papua_New_Guineaによれば
フィリピンから近い、ニューギニア島には13の火山があり、その東のアドミラルティ諸島Admiralty Islandsには3つの火山があり、これらのうち併せて5つの火山が、20世紀に噴火している。
火山の存在がわかっても、いつ噴火したかは、その火山の噴火により炭化した樹木や有機物に含まれる炭素14を調べたり、溶岩の古地磁気やフィッショントラックをしらべたりする〔→:奥野充「最近1万年間の噴火史編年と14C年代測定」『火山』第50号(2005);宮入陽介・近藤玲介「ルミネッセンス法を用いた火山噴火年代測定法の最近の進展」など〕 ためには、溶岩や火山灰などで覆われた火山周辺の場所に行って資料を採集しなければならず、ニューギニアやニアオセアニアなど、必ずしも交通の便がよいと思われない島々での調査は不十分にしか行われていない可能性もある。
このインドネシア、フィリピン、オセアニアにはプレート境界がひしめき合っており、島々の近くには海溝が存在し、また、多くの火山が存在しており、過去に津波が繰り返し発生した可能性が十分にある。
日本の、奈良時代以降現代までの1300年間に発生した大津波は27回あった。 ほぼ500年に10回、100年に2回の割合で大きな津波が起こっている。
→Wikipedia、「歴史的な津波の一覧」
日本と同様にプレート境界にあって地震や火山噴火の起きやすい地域では、一般に、100年に2回の割合で大津波が発生すると仮定すれば、フィリピンやインドネシアなどプレート境界にある国々では、琉球列島にホモサピエンスがやってきた、3万5千年前ごろの前後の2千年間には40回の(海溝型地震による)大津波があったと考えられる。
人口増による食料資源の不足や他集団との紛争が移住・移動の原因となったこともあろうが、スンダランドからサフルにかけて、火山噴火あるいは地震そして津波が起こりやすく、人びとがしばしばそれらの災害から逃れる必要に迫られただろうことは想像に難くなく、特に大きな津波は、フィリピンからインドネシアの多島海に住む人々を一斉に海に押し流し漂流させることになったと考えられる。
では、琉球列島に人々がやってきた4万年前から3万年前ごろ、漂流の開始先として、最も可能性の高いフィリピンのルソン島及びその南に隣接する島々に、人々は住んでいたのだろうか。
図はWikipedia「海水準。の図の再掲である。
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Wikipedia「最終氷期」、「海水準」などによれば、
最終氷期は7万年前から始まり1万年前に終わった。
2.1万年前はもっとも寒冷化が進んだ時期で、最終氷期最盛期LGM,Last Glacial Maxuimam と呼ばれる。LGMにおける海水準は-120mほどだった。
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6万年前~5万年前にかけて、つまりスンダランドからサフルへの移動・拡散がなされたと考えられている時期の海水準は-80mくらいであったが、2度ほど暖い時期があり、その間は海水準は-50m程であった。
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また4万年前から3万年前ごろの海水準は-70m~-100mくらいだった。
ところで、南シナ海の水深は、マレー半島とスマトラ島(カリマンタン)との間で50m~60m程度で、氷期には陸地化し、インドシナ半島とカリマンタン、そしてスマトラ島、ジャワ島は一体化し、広大なスンダランドが広がっていた。→印東道子『人類大移動』朝日新聞社、2010年の図を参照
スンダランドにやってきた人々の一部はインドネシアの多島海に広がり、さらに東のサフル大陸に移動・拡散した。
また他の人々は北に向かい、ボルネオ島の北のパラワン島などの島々、及びスールー諸島を介して、フィリピン諸島に移動・拡散したと思われる。
氷期においては、パラワン島が、その南と北にある島々と一体化しており(これを仮に「古パラワン島」と呼ぶことにする)、ボルネオ島との間は時期によりごく狭い水道がのこったが、ほとんどつながっていたと思われる。
人々はこの水道を簡単にわたり、古パラワン島へと広がっただろう。ただし北側のミンドロ島との間の海峡は60㎞の幅があり水深は1000mもあった。
パラワン島中部西海岸のケソン地区のLippun岬には26か所の洞穴、岩陰遺跡が見つかり16か所の発掘調査が行われている。
その一つ、タボン洞穴からは石器や動物の骨とともに、タボン人と名付けられた5万年前の人骨が見つかている。
Wikipedia,English;Tabon Man,Tabon Caves
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文化遺産国際協力コンソーシアム平成 24 年度協力相手国調査『フィリピン共和国調査報告書』
また、スールー海をセレベス海と分かっているスールー諸島は、およそ300 ㎞に渡って伸びている島嶼で、氷期には、北のバシラン島から南部のタウィタウィ島まで一体化していただけでなく、北部ではミンダナオ島とつながっていた。
だが、タウィタウィ島とその南のシタンカイ島・シブトゥ島との間は水深が300 m近くあり、またシタンカイ島・シブトゥ島とボルネオ島のセンポルナ付近の島嶼との間も水深が150 mほどあるので、スールー諸島とスマトラ島は氷期にもつながってなかった。水深はグーグルアースによるものである。
スマトラ島北部と古パラワン島およびスールー諸島とのつながり具合についてはハックスレーラインの引かれ方からも確かめることができる。
https://www.britannica.com/science/Huxleys-Line; Huxley’s Line faunal boundaryによると、
赤のハックスレーラインは、ミンドロ海峡(ミンドロ島とパラワン諸島北端の島ブスアンガ島との間)を通り、ボルネオ島とスールー諸島の南端との間に引かれている。
つまりボルネオ島とパラワン諸島との間には動物の移動があり、ボルネオ島とスールー諸島との間には動物の移動は起こらなかったことを示している。
象に似たステゴドンは泳ぐことができただろうとバードは書いているが、多くの動物は泳ぐことができ、人々と同様に、ボルネオ島からパラワン島に渡っていたのだろう。
人々は古パラワン島の北端に達したときにミンドロ海峡に出会った。
おそらく、ここを通ってスールー海に入る潮の流れは速かったと思われ、推進力がないかごく低速の筏での横断は簡単ではなかったはずだ。
しかし対岸のミンドロ島には2000m以上の山があり、目標視認に問題はなく、横断は十分可能だっただろう。
いくつかの集団は横断に成功し、さらにミンドロ島とルソン島の間の狭い海峡を経て、ルソン島へと広がっただろう。
ボルネオとスルー諸島の南部との間の海峡の幅は最も大きいところで30㎞程度で、動物は渡ることはできなかったが、人々は筏などで十分横断できたと思われる。
一体化したスルー諸島に広がった人々はまもなく(ハラリの仮説「狩猟採集民の集団は40年ごとにふたつに分裂し、一方は100キロメートル離れた新しい領域に移住する」に従えば、たぶん300年ほどで)ミンダナオ島に拡散し、さらにルソン島北部にまで(同じくハラリの仮説を適用すると1000年ほどで)広がったと考えられる。
ルソン島北部カガヤン州、ペニャブランカの町近くのカラオ洞穴から発掘された人骨は6万5千年前にさかのぼる。
カラオ洞穴は、ルソン島東岸沿いに南北に走るシェラ・マドレ(Sierra Madre)山脈の山裾部の石灰岩帯の崖にあるといい、上記タボン洞穴と同じような地形にある。文化遺産国際協力コンソーシアム平成 24 年度協力相手国調査・『フィリピン共和国調査報告書』
琉球列島に人々が最初に到来した時よりも3万年ほど前にルソン島北東部にはひとが住み着いていたことが分かる。
東南アジアのいくつかの地域に「小柄で皮膚の色が濃く、髪が短く縮れ毛の」(small in stature, with dark skin and short curly or "kinky" hair)特徴を持つ少数民族が住んでおり、ネグリト (Negrito)と呼ばれている。この人々は、アンダマン諸島や、マレー半島、東スマトラ、タイ一部地域、およびニューギニア島西部などの、山地に住み、今も狩猟採集生活を続けている。
彼らは、最初にサフルに渡ったホモサピエンスであるオーストラロイド人種(ニューギニアのパプア、オーストラリアのアボリジニ、メラネシア(の島嶼の)人など)の子孫と考えられる。フィリピンにはアエタ、アティ、バクタ、ママンワとそれぞれ呼ばれているネグリトがいる。
ネグリト、Wikipedia ; Negrito、https://en.wikipedia.org/wiki/Negrito
小川英文『ペニャブランカ・ネグリトの民族考古学』によると、ネグリトはフィリピン各地に点在しているが、人口が一番集中しているのはルソン島北部だという。
左図は玉置泰明「ル ソ ン 島北 東 部 の ド ゥ マ ガ ヅ ト族―フィ リ ピ ン ・ネ グ リ ー ト 研 究 へ の位 置 づ け 」『民族学研究』53/4 1989.3による。
ド ゥ マ ガ ヅ ト族とは、ほかのネグリト族が固有の言語を失って、マレー系諸民族である低地・多数民の言語をを用いているのに対して、固有のドゥマガット語を用いているネグリトだという。
このように、7万年前頃(12万年前、あるいは18万年前との説もあるようだ。池谷和信『食の文明論 ホモ・サピエンス史から探る』農文協、2021年3月は10万年前としている。)アフリカから出たホモ・サピエンスはユーラシア大陸に広がり、大陸の南東の端のスンダランドに到達してまもなく、フィリピンにも広がった。そしてルソン島北部には6万5千年前に人が住んでいた。
津波によって海岸付近の人々が竹の家船や筏とともに沖に流された後、黒潮に乗って北へ漂流したとすれば、北赤道海流がルソン島にぶつかって分岐する北緯14度から15度より北のルソン島東岸地域が、漂流が始まった場所の第一の候補と考えられる。
それよりも南のたとえばミンダナオ島東岸などから津波によって沖に流されたとしても、北赤道海流から分岐して黒潮とは反対に流れるミンダナオ海流に乗り、南に流されることになると思われる。
他方、スンダランドの東側、フィリピン列島の西から南西側に位置する、湾状の(古)南シナ海で津波が発生すれば、その沿岸に住む人々はこの中へ流される。またパラワン島で部分的にさえぎられてはいるが北部のミンドロ海峡で南シナ海に通じていたスールー海は日本海の半分ほどの大きさがあり水深では日本海よりも深い。スールー海で津波が発生すれば沿岸の人々は、ミンドロ海峡から南シナ海へと流されることもあると思われる。
このように(古)南シナ海に流された場合には、そのなかで漂流が続くこともあるだろうが、またその湾口のルソン海峡に向かうこともあるだろう。こうして一部の漂流者たちは黒潮によって琉球列島へと運ばれることがあったと考えられる。
そうだとすれば、やはりフィリピン諸島のほぼ全域、およびスンダランドの(古)南シナ海沿岸域に住んでいた人々が、津波に襲われ、黒潮に乗って、北に向かって漂流する可能性があったと、言える。
小田は
「山下町第1洞穴出土の旧石器について」という論文で、3万5000年前頃の沖縄・山下町第1洞穴遺跡、徳之島・ガラ竿遺跡、種子島・立切遺跡から出土した石器類は、熱帯雨林のスンダランドに定着した初期ホモ・サピエンスが開発した「礫器文化」と共通のものだと述べていた。
また彼は「石斧のひろがり 黒潮文化圏」では、新石器時代の石垣島、宮古島の遺跡から発見された多量のシャコガイ製貝斧はパラワン島ドウヨン洞穴、サンガサンガ島バロボク岩陰遺跡出土品と関係があり、スールー海周辺の島々から琉球列島への「海の道」があるとしていた。
この「海の道」は3万5000年前にすでに存在し、日本列島に最初のホモ・サピエンスを運んできたと思われる。
海部によれば、3万5千年前から3万年前に琉球列島にやってきた人々は、台湾から与那国島に向かう意図的・計画的移住に挑戦し、丸木舟を使い黒潮を横断することによって、移住したという。
私は、意図的・計画的移住によるのではなく、台湾よりも南の島々や(古)南シナ海のスンダランド沿岸から、多数の人が竹の家船ないし漁労用竹筏とともに津波に襲われるなどして一斉に沖に流され、黒潮に乗って漂流してきた結果だと考える。
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