第五部 航海と漂流の考古学散歩

第五部 目次 

第1章 7千年前、5千年前の八丈島に、古代人はどのようにしてやってきたのか
第2章 国立科学博物館、海部陽介チーム「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」は3万年前の航海を再現できたのか 

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第1章の概要

八丈島には先史時代の4つの遺跡(湯浜、倉輪、八重根、火の潟)が存在する。八丈島の 最古の住人はおよそ7,000年前、西山(八丈富士)が形成途上にあった時期に、東山(三原山)地域の「湯の浜」海岸の高台に生活の拠点を設けた。上陸地点にちなんで「湯浜人」と呼ばれている。彼らの人口は15人程度、生活期間は数世代(100年以内)だった。

二番目の渡島民は、5,000年前の倉輪人で、湯浜遺跡に隣接する、倉輪地区に集落を構えた。住居跡が6軒確認されている。彼らはたびたび縄文本土に渡航した。

三番目の渡島民は、八丈島の大きな噴火活動が終了し、ほぼ現在と同じひょうたん状の島形が完成した2,000~1,200年前(弥生~平安時代)、島の中央、八重根地区で生活した八重根人であった。 四番目の渡島民は、平安時代の火の潟人であった。

倉輪人の渡島が丸木舟によってなされたことは間違いない。彼らは本土の関東から近畿に至る広い地域の縄文土器を持ち込み、豊かな生活用具を使って、狩猟・採集生活を営んでいた。

イノシシの幼獣を島に放ち成獣を捕獲して食していた。釣針製作技術は本土縄文人よりも優れていた。たびたび、北部伊豆諸島や本土に出かけ、縄文土器や神津島産の黒曜石などを入手していた。

倉輪人の八丈島への渡航・移住が計画的、意図的なものであったことは明白である。

八丈島への渡島には、三宅島周辺を流れる激流・黒潮の本流を横断する必要があり、遺跡の発掘にあたった研究者の一人で黒潮圏の先史文化に関する多くの論考がある小田静夫は、彼らを「高度な航海術を有した海の縄文人」と呼んでいる。

これに対して、湯浜人の場合には、「出自系統は不明」とされ、彼らが本土のどこから、どのように八丈島に渡ってきたのか、彼らの渡島が意図的なものだったかどうかについて明らかになっていない。

彼らの本土との関係を示すものは数個の黒曜石片のみで、土器や石器などは、すべて八丈島産の土と石を用いて作られている。製作技術は稚拙で、本土の様式を反映したものではない。狩猟も漁撈も行った形跡がなく、植物採集のみに依拠した生活だった。

小田は八丈島の遺跡を主題とした「八丈島の先史文化」以外の論文の中でも、湯浜人と倉輪人についてたびたび触れている。そして倉輪人については「黒潮本流を越える高い技術を持った<海の縄文人>であった」と一貫して述べているが、湯浜人については扱いが少し異なっている。

ある論文では、<海の縄文人>とされているのは倉輪人だけのようであるが、別の論文では湯浜人もまた「海の縄文人」の範疇に入れられている。この場合には湯浜人も、北部伊豆諸島を経て(神津島産の黒曜石を入手してから)八丈島へと、黒潮を横断して渡ってきたと考えられている。つまり湯浜人も、倉輪人と同様、移住を計画し、意図的航海によって渡島したということになる。

だが、湯浜人は、上陸に際してほぼ無一物であったこと、また島で作った生活用具が稚拙であったこと、そして狩猟や漁撈を行う能力・技術を有していなかったことなどの諸点から、上陸した者は子供たちだけか、成人が含まれていたとしても、けがなどで体を動かせなくなった者だけであり、乗り物は操縦不可能/不必要な筏であったと推測される。

湯浜海岸に上陸したのは、意図・計画された航海によって(丸木舟を使って)八丈島に渡ってきた人々ではなく、おそらく、津波などで流され漁撈用の筏などにつかまって命の助かった子供たち(とけがをした大人)が、東海地方以西から黒潮に乗って漂流、島に運ばれてきたのだと考えられる。

説明が必要なのは、湯浜人が持っていた神津島産の黒曜石はどこで入手したのかということ、および、東海地方以西から漂流した筏が、黒潮によって運ばれた場合、八丈島に漂着するチャンスがどの程度あるのかという点である。

章の後半でこのことを明らかにした。

第2章の概要

2019年7月、国立科学博物館教授・海部陽介を長とするプロジェクトチームによって、丸木舟で黒潮を横断し、台湾東岸から110㎞離れた日本の与那国島へと渡る航海実験が行われ、想定より少し長い時間がかかったが、横断航海は成功した。

琉球列島には3万5千年前から3万年前の、日本で最も古い遺跡が存在する。海部は、これらの遺跡はユーラシア大陸から日本に最初に渡ってきたホモサピエンスが残したもので、この日本への上陸・移住は、台湾からの意図的、計画的な航海によってなされたと主張する。

彼はプロジェクトチームによる実験航海の成功によって、台湾から琉球列島への現生人の到来が偶然の漂流などによるのでなく、意図的・計画的航海によって実行されたということが、立証されたと考えている。

彼のこの考え方の前提には、台湾のホモサピエンスが与那国島を発見して、移住計画を立てたこと、そして丸木舟を作り、沖に向かって漕ぎだしたこと、最初は海流(黒潮)によって流されたが、何回か経験を積んで、やがて黒潮横断に成功したことなど、一連の想定/仮定がある。

しかし、私は、これら一連の想定/仮定と同じ行動を3万年前の台湾の人が行った、ということに強い疑いを持つ。

旧石器時代の人々は、数家族からなる少人数の集団で、狩猟採集によって暮らしていた。海部は標高2000mほどの山地に4日間過ごして与那国島を見たという。海岸で暮らしていた人々には100㎞以上先の島は見えず、山地の森林地帯で暮らしていた人々も、水平線の彼方に浮かぶかすかな島陰を、島あるいは陸地だと認めることはできなかったはずである。

海部に島が見えたのは、彼があらかじめ与那国島の存在を知っており、理論的に見えることを知っていて、その方向を4日間観察し続けていたからだと考えられる。これは現代社会の研究者の行動であって、旧石器時代のホモサピエンスの行動ではない。

だが、海部が言うように、探求心の強い若者が島の存在に気づき、そこに渡りたいと考えたとしよう。 航海具を作る必要があるが、一人で作るのは不可能で、ほかの者の協力を得なければならない。ほかの人々になんとか島の存在を信じさせたとしよう。では、彼とその仲間が属している集団全体でそこに移住しようということになるかどうかは非常に疑わしい。

プロジェクトチームは、3万年前の航海具として、最初は、ヒメガマという草の束で船を作り、与那国島から西表島に向かう航海実験を行ったが、スピードが出ず、潮に流され途中で中止した。

次に竹を使った船を作り、台湾南部の海岸から30数キロ離れた緑島を目指して航海実験を行ったが、これもスピードが足りず、黒潮横断は無理と判断し、途中で中止した。

これらの実験航海を途中で中止したあとは、エンジンの付いた伴走船で曳航して港に戻ったはずである。 このように、海部チームは、2回の航海経験を積んでから、丸木船を作ることに決めた。
だが、3万年前に草束、あるいは竹の舟でこぎだした人々は、他の舟で曳航してもらうことはできず、おそらく、黒潮によって、東シナ海に運ばれ海の藻屑となったと思われる。

そして、数家族、せいぜい20人程度の集団で、血気盛んなということは働き盛りでもあったはずの若者5人か6人を2度も失うことは、ほぼ間違いなく、この集団の崩壊を引き起こしただろう。
プロジェクトチームは2回の実験航海を踏まえて丸木舟を作ることにしたが、3万年前の人々には、こうした段階を踏むことはできなかったはずだ。

草束舟と竹船で流されたが、運よく戻って来れたとし、そして丸木舟を作り、潮で北に流される分を見込んで南から出航したと仮定することにしよう。

だが、黒潮を横断できたとしても、山の上からかすかに見えただけの島に実際に到着することは非常に難しい。舟の進む速度・方向と日々変化する潮の流速とが一致しなければならず、これは運で決まる。

しかも運よく島に着けたとしても、5,6人の集団では人口統計学によれば長期の存続は不可能で、日本人の祖先にはなれなかったはずで、相当な数の人々が同じころに同じ島かすぐ近くの島に上陸する必要がある。(これが可能なのは、この章の後半で書いている、津波で大勢の人が一斉に筏などで流された場合である。)

また残った人々を連れてくるために台湾に戻るということも、黒潮の流れを考えると不可能である。

3万年前の人々が実際に行った行動とは考えられない、海部プロジェクトのシナリオの出発点は、台湾から見える与那国島に移住計画を立てた、という仮定にある。台湾から出発するなら、台湾東岸を流れる黒潮本流を横断する必要があり、そのために丸木舟で航海した、ということになる。

しかし、台湾よりももっと南のフィリピン諸島からならば、推進力のない筏による漂流でも、琉球列島への接近が可能である。

海部は限られた数の漂流ブイの実験データからフィリピンと台湾の間のルソン海峡を越えることは不可能としているが、海洋学者らの研究で南西の季節風が吹く時期には十分に越えられるということが分かる。しかも台湾東岸から離れた海域を北上し、黒潮により東シナ海に運ばれてしまうことなく、琉球列島に接近する可能性が高い。

太平洋をとりまく地域は大きな津波にたびたび襲われることがある。そして3万年前ごろのある時に発生した津波によって、多数の人が流されたが、漁撈に用いていたであろう竹の筏などに乗ることによって漂流した結果、琉球列島に漂着した。こうしてホモサピエンスは日本に上陸したと考えることが可能である。