2007/4 在職中の小文を集めて編集


Short^2 コレクション


『物性研究』 編集後記、他

小 錦 関 と ニュートン
入 水
火の玉
テ゜ィアンツィ
ファジィとファシィ
自 粛
常 温 核 融 合
磁 気 浮 上
ありそうな 過 去 問 2 題
光のドップラ効果
古 都 税
透 視 鏡
ファイナルアンサー
こ の 世 を ば ...

< 小錦関とニュートン >


  私事で恐縮であるが先日のこと、妻が小学生の娘に向かって言うには 「あんたたち大変よ、グラムやキログラムが使えなくなるんよ」。 どうやら 『計量法』 改正のことを紹介した朝日新聞の 『天声人語』 が元らしい。横から聞き咎めて質量と重量の違いを得々と説明し、「ダイエットの目的は重量を減らすことか、質量を減らすことか」 ということで、これはなんとかご理解いただいた。

  しかし母子の会話に水を差されてご機嫌斜めの彼女、「でも、1000キログラムじゃないみたいだけど、何か別の新しいトンを使うようになるとか、数字まで書かれていたわよ」 ときた。これは一体何のことか皆目見当がつかないまま、うやむやに終わっていた。

  同様の混乱があちこちの読者の間で起こったようで、数日たって 『天声人語』 で再び話題に登った。質量と重量の違いについて、天声人語子による正確な弁明が行われていたのはもちろんである。さて、読み進むうちに思わず吹き出してしまったのは、「小錦は 2567ニュートン」 のくだりである。

  なるほど彼女に恥の上塗りをさせた犯人はこの小錦関、「2567N」 と書かずカタカナ書きしたりするから、「新円」 ならぬ 「新トン」 となるわけか。原語で書けば 「2567 newton」 だから、いよいよややこしい。

  「そもそも物理量の単位に偉い人の個人名を使ったりするから物理嫌いが増えるんだ」 と言いたいところであるが、アンペアやワットならばどうだ、「おやじの頭は100ワット」 なんて小学生の頃から歌っていた。それに、由来を知らない者にとってエルグやダインとどう違う?ということにもなる。

  そもそも小生、学生時代に 「エルゴード定理=エルゴード氏の定理」 と思いこんでしまい、かなりたってから赤恥をかいた覚えがあるではないか。どうやら固有名詞が物理ぎらいの元凶であると断定するのは、居並ぶ偉人方々に対して失礼のようだ。

  まあ、考えてみればニュートンも捨てたものでもない。100g≒0.98N だから、我が家の買い物なら、市場で 「そこの特売の牛を3ニュートンばかり計ってよ」 と言えばいいわけで、頭の切りかえは易い。いっそのこと中国流に 「3牛噸」 と書くことにすれば、これはもうぴったりだ。これはダジャレの行き過ぎ。本当のところは口惜しいかな、Newton先生は「牛頓」。ついでにエルゴード定理の方は 「各態歴経定理」 で、私のような過ちを冒す余地はない。

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< 入 水 >


  毎年プールの季節が始まる今頃になると、娘が小学校から 『入水承諾書』 なるものを持ち帰ってくる。生来まぜっ返すのが好きな私なんぞは、まず 「じゅすいしょうだくしょ」 と読んでしまい、幼い児童たちが一斉に手を合わせ、眼をつぶりながら次々に水に沈んでいく、壇ノ浦のごとき恐ろしい光景を思い浮かべてしまう。

  こんなことを考えるのが私だけではない証拠に、今これを打ち込んでいる 『一太郎』 も、「にゅうすい」 では 「入水」 に変換してくれないではないか。研究室にある 『広辞苑』 でも 「にゅうすい」 の項では 「⇒ じゅすい」 となっていて、「じゅすい」 の項にはもちろん私の連想した、おぞましい意味しか記されていない。

  昨日の朝日新聞に 「刑事判決文用語をわかりやすく」 という記事が載っていた。「騙取」「喝取」 や 「拐帯」 なら読めなくても何となく意味はわかるが、「架電」 とは 「電話をかける」 こととは知らなんだ。こんなのをクイズに出されたら、苦しまぎれに 「でんしんばしらっ」 と答えてしまいそうだ。こんな用語で判決文を書こうなんて堅い頭で判断するから冤罪があとをたたないのではと、ついつい穏やかならぬ偏見を持ってしまう。さしずめ 「入水」 は学校用語というところか。[広辞苑の最新の版では、ちゃんと 「にゅうすい=@水泳などで、水に入ること」 が加わった。]

  物理の世界では、思い切った用語の改革がとっくの昔に行われていたと思っていたが、文部省の 『学術用語集』 によれば必ずしもそうでもないようだ。たとえば、「 self-consistent field 」 は、1954年の旧版では 「 つじつまのあう場」 となっていたのが、1990年版では 「自己無撞(どう)着場」 へ変わっている。前者がよほど物理屋の間でなじまなかったに違いない。

  「相対性原理」 が男女の交際術と誤解され、京都会館のアインシュタイン講演会に祇園の綺麗どころが大挙して押しかけたという話は、「愛シタインでしょ」 なるダジャレつきで学生の時に誰かから聞いた記憶があったが、NHKで放映中の 「アインシュタイン・ロマン」 でも同様のことが紹介されていた。

  この番組自体は、最新のコンピュータグラフィックスを駆使する一方で、黄泉の国を登場させたりの、意図がよく解せない代物である。そう言えばアインシュタイン自身による解説書の邦訳本が、わざわざ横書きを縦書きへ変えた新装丁で店頭に積まれている。復古調と考えるべきか、「横書き=専門書」 の印象を避けようとした商魂と考えるべきか、訳語そのものの難解さもあわせて読みづらい本であることだけは確かだ。

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< 火の玉 >


  火の玉や狐の嫁入りの話は、私が子供の頃にはまだ、近所や親戚のお年寄りからよく聞かされた。あれは人魂(ひとだま)であると言われ、他の怪談と同じく幼心にも半信半疑ながら背筋の寒くなるような恐ろしさとともに、「何で昔の人には見えたのに、今は現れないんだろう?」 と、生意気盛りの反感を覚えたりもしたものだ。

  少し成長すると、おそらく少年雑誌か何かで得た知識であろうが、少し科学的になって 「あれは燐が燃えているもの」 となり、まだ田舎では墓地は埋葬の時代であったから、これはこれで新たに現実味のある恐怖をもたらした。

  しかしながら、その後はもちろん自分でお目にかかることも、他人から見たという体験を聞くこともなく、火の玉のことなど忘れ去っていた。たとえ子供から尋ねられたとしても、「墓地や沼沢などに、夜見える光の塊」 (『広辞苑』) くらいの答えしかできす、子供には 「ふーん」 という反応しかなく、我々の味わったあの恐怖の感動を与えてやることはできなかったであろう。

  おそらく大槻教授が実験室で火の玉を作ったりしなければ、もはや私の念頭からは消去されていた概念にちがいない。今の子供にとって火の玉は 「ああ、テレビでやってた」 と、新しい質の実感でもって彼らなりの知識にしていくことが可能になりつつあるわけだ。

  もっとも考えてみれば、かつて我々が経験した火の玉の恐怖も、「見たことがある人」 「見たことがある人から聞いた人」 から聞かされた話にすぎず、「テレビで見た」 に比べても、ひとかけらの科学性もない怪しいものであるが、幼心に植え付けられた恐怖の感動だけは比較にならなかった。

  大槻教授の 『国際火の玉シンポジウム』 のニュースを見ながらそんなことを考えていたら、先日からカゼ気味の6歳の娘が、「頭蓋骨のちょっとだけ中が痛い」 と訴えてきた。

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< テ゜ィアンツィ >


  左京区北部にある国際会議場の近くに住んでいる人の話では、国際会議の期間中に花火が上がるかどうかで、その学会が金持ちであるかどうかがわかるという。

  LT(低温物理学国際会議)が終わって2、3日たったころ、A新聞の地方版に 「京都大学物理学教室でTシャツを販売」 という小さな記事が載っていた。例の化合物の構造模型をカラーで刷り込んだTシャツをLTの会場で売ったところ、爆発的に売れ、追加製造におおわらわとのこと。この記事、事情を知らずに端から見れば、「国立大学もいよいよJRなみに多角経営かい?」 と読まれかねないが、LT実行委員会の企画の一つであったことは事実であり、独立採算でけっこう儲かったという。

  企画者は本誌編集委員の大阪産・M氏。もし不人気で山のように売れ残っていたら、今頃は本誌編集部で引き取り、物理学会のたびに本誌バックナンバーと並べて販売、となっていたかもしれない。すでに子供向けの 『超伝導キット』 も販売されているというが、これはLTとは無関係とのこと、念のため。

  ともかく事前のフィーバーもあって予定以上に協賛資金が集まったそうで、めでたいことであるが、裏方氏達は自分の発表の準備に追われる一方で、JRの 「人活センター」 を思わせるようなボランティアの会場準備作業に汗を流されていたのも事実。物理学界が分野を問わす金持ちでないことは確かであるが、気質が地味で金の使い方そのものもまじめであることは認めていいだろう。LTも集まりすぎた分は、外国から自弁できた若い参加者への補助に回されたと聞く。

  まじめという意味では、だいたい物理用語からしてそうである。「高温超伝導」 など玄人好みの典型で、いくらキットを売り出しても子供など見向きもしない。もっとも 「スーパー」 と言い換えても 「イズミヤか?」 となるだけであるが...。

  私などスーパーには縁がないので、しっかりと盆休みをとらせてもらい、昼寝のたびにトポロジーと書かれた雑誌を枕元に転がしていたら、5歳の娘がえらく気に入ってしまい、近所の友達にまではやらせてしまった。トポロジーの語感が童話めいた魅力をもっているのかもしれない。まだ試してはいないが、彼女たちには 「電子」 よりも 「エレクトロン」 の方が圧倒的に抵抗が少ないであろうことは確信できる。

  「外来語の乱用を慎むべし」 という持論が、ひょっとして 「電子」 も外来語(テ゜ィアンツィ)ではなかったかという居直りを伴って揺らぎ始めている。

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< ファジィとファシィ >


  最近、テレビのコマーシャルを見ていると、やれ 「1/f 扇風機」 だの 「ファジィ洗濯機」 だのと、物理屋が寝ころびながら安心して見てはおれないような、トレンディな代物が目につくようになってきた。そのうち、「カオス石けん」 だの 「フラクタル・キャンディ」 も発売されるだろう。

  もっとも、少し古いところでは 「電子レンジ」 や 「電子蚊とり器」 などのように、なんで電子かわけのわからぬものもあるから、正確に 「1/f」 や 「ファジイ」 が使われているのかどうかなんて、野暮な詮索をする必要はないのかもしれない。

  それでも気になる人の存在を意識したか、私と同じような物好きから投書でもあったか、先日研究室用に買ってきた大学生協製の電子蚊とり器には、わざわざ 「電子(電気)蚊とり器」 と、カッコ付きで書いてある。「はて、蚊を感電させて撃墜するわけでもないしなぁ...」 とつっこみかけたが、まあ一応広く普及してしまっている 「電気なんとか器」 の範囲内ではある、と納得しておくことにした。

  物理に 「ファジィ」 を持ち込んだ人は、すでに世界中では何人もあるようだが、日本では同僚のK教授もその一人である。彼の場合、国際会議に申し込んだ論文のタイトルがいつの間にか、なんと 「Fuzzy」 から 「Fussy」 にすり替えられていた、というおまけがつく。話を聞いたときに疑問に思って質問したら、「ファジィ代数の意味で使ってはいない」 との答えであった。

  ファジィ集合そのものは些かもfuzzyではなく、集合として明確な定義のもとに使われており、決して 「あいまいな集まり」 ではない。なるほど、「ファジィ」 と聞いてファジィ理論に短絡してしまった自分が間違って早とちりしていたわけだ。

  しかしこうなっってくると、このような一般的な形容詞 (ほんとは正直言ってファジィ理論が言われ出すまで、fuzzyの意味は知らなかったのだが) を使うときには、よほど用心しなければ罪つくりなことになる。

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< 自 粛 --- 昭和天皇危篤のこと >


  先月11月3日の休日から日曜日にかけて、恒例の百万遍・知恩寺境内の 『古本祭り』 が開催されていた。東京の神田の古本市は 「自粛」 で中止になったらしい。何も 「祭り」 がつくからといって歌舞音曲入りのドンチャン騒ぎをするわけでもなし、たとえそうであったとしても、たかが古本市。学術を愛した天皇に何はばかることもあるまいと思うが、この時期に 「自粛」 が流行し、「天災」 とささやかれた事実だけは、学術誌である本誌でも、それとなく記録にとどめておきたくなった次第。

  当月号が発刊される時点では、厳粛なる神体実験が継続しているかどうかはわからないが、列島を覆っている今日の言いしれぬ暗雲は、およそ一人の人の命が終焉に近づきつつあるときに誰しも抱く畏れとは、似て非なるものと確信する。

  とは言うものの、娘に 「今年はクリスマスも自粛だよ」 と悪のりし、娘が神妙に納得してしまったことに、いささかあわてた分だけの歴史的責任を、将来追及されることになってもやむをえまい。


  明治天皇の危篤のときのことを 夏目漱石 が日記にとどめていることを、後日知った。1912年7月20日の日記より。

  晩、天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。(隅田川の)川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず川開きを禁ずるの必要なし。...演劇其他の興業もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に値す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。

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< 常温核融合 >


  一時欧米で燃えさかって後、消えかけていた 「常温核融合」 が、再び日本で発熱し始めた。『ニュースセンター9時』 でまで放映されると、やはり気になり熱心に画面に見入るが、しばらくすると 「どうせ今度も...」 といういつもの横着心が出てしまい、次のニュースに移るともう気にもならなくなってしまっている。

  「さあお立ち会い、オオカミ少年になるかならないか、あと一回チャンスが残ってるよ」 とまで言ってしまうと、これはもう、しかられること間違いなしであろう。しかし、日本特有の二番煎じとはいえ、一度食いついたら結論を得るまで粘り通している当事者の研究者魂には頭が下がる。だいたい物性屋は何かにつけクールというか、斜めに構えているというか、よく言えば慎み深い人が多いと思うのは私だけであろうか? 

  最初のフィーバーのときにも、情報を BITNET を通して世界中で交換し、入手したコピーを掲示板に貼ったり勉強会を開いたりしていたのは、少なくとも私の周りでは素粒子論屋さんであった。そもそも彼らの分野では、論文はとっくの昔からプレプリントの段階で通し番号が付けられ、これが世界中で通用し、雑誌が出たときにはもはや誰も読みはしないそうな。

  また、私がFAXなんて一度も見たこともなかった頃から、「新粒子発見!」 というなぐり書きの記事がFAXで直ちに世界中を飛び交い、基礎物理学研究所のロビーにも貼られ、おりしも研究部員会議で全国から集まっていた素粒子屋さん達は、それを見ながらあちらこちらで数人ずつクラスタになって、口角泡を飛ばしつつ大声で議論をおっ始める、という場面を何度か目の当たりに経験した。

  分野が違うとこうも雰囲気が違うのかと感心し、プロの研究者たるもの、このエネルギーを見習わなくてはと思いつつ、一方で自分の胃が未だ小康状態であることに安心を求めたりもした。

  さて、この文が本誌に載るまでに、もし常温核融合が 「二度目の正直」 になっていたら、もはや編集委員に名を連ねている資格はない。本誌までフィーバーをいやがる必要はない。編集長に申し出て即刻ファイヤーしていただこう。

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< 磁気浮上 >


  新聞報道によれば、岩手高校の佐々木修一教諭(岩手大学客員教授)が、普通の永久磁石だけを使って鉄球を中空に安定浮上させる実験に成功したという。「1800年代の アーンショウの定理 を覆す大発見」 と、朝日や毎日など全国紙でも、けっこう大きな記事で扱われていた。[注.アーンショウの定理は、基本的には調和関数で表されるポテンシャル場では極小点、すなわち、安定な釣り合い位置がないことに対応する。]

  共同研究者である岩手大学教育学部の八木一正教授、芝浦工業大学の村上雅人教授らとともに、「電気磁気学の根本法則が改変される可能性が出てきたことで、電気磁気学をベースにした 量子力学・相対性理論 にも影響を与えることは必至」 と見ているという。

  写真を見れば、一見して2枚の側壁で仕切ることにより運動が2次元空間に拘束されているためではないかと思われるが、それならば安定位置が可能なことは完全に電磁気学の常識の範囲内であり、大学のプロが騙されはずはない。 [注: 3次元の鞍点(サドル)も2次元切り口では極小/極大になることがある。 共同研究者の解説には、最後のページにわざわざ 「3次元でも成功か?」 なる意味深な写真も載せられていて、もしかしたらこのことを自認しているのではないかとも思えた。あるいは、この実験は(やはり極大極小のない)2次元調和関数の問題であると勘違いされているのかもしれないが、まさかそれはないだろう。]

  村上教授は 「吸引力と反発力だけでは説明として不十分であり、自己組織化論、多体問題、カオス理論 などの方向から研究を進めている」 と展望を述べたとある。この辺りまで来ると、さすが真に受けて読んでしまった方も動揺するが、ちゃんと論文がJAP(米国応用物理学会誌) に受理されたという点が、常識的には強みである。

  気になっていたので後日、JAPに掲載された論文を読むと、側壁を形成する物質 (プラスティックであろう) の反磁性により、側壁には接触していないという。なんだ、人騒がせな、「この程度の微弱な反磁性でも壁からの 水平方向の浮遊 が可能」 ということを実証してみせたという論文である。量子力学が覆るおそれはない! [注:反磁性の場合は安定な釣り合いがあることは超伝導体の磁気浮上でよく知られているが、この場合は結果的には反磁性の 「見えない壁」 で制限された2次元切断面と理解してよいだろう。]

  ジャーナリストを目指す学生にも、基礎的な物理をしっかり身につけてもらわないと困るではないか。もっとも、記事を見て心が騒ぎ、担当する電磁気学の定期試験で学生に感想まで書かせたのは私だけかもしれないと、少々恥ずかしくなった次第。

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< ありそうな過去問2題 >


  「過去問」に躍起になるのは学生に限らない。教官も入試の出題担当にあたったときには、その時点での高校物理の標準を把握するとともに、全国の大学の 「過去問」 を必死で調べるハメになる。中には意図せず結果的にはカンニングした案を作成してしまう出題委員もいるし、逆にやたら難しい案を作ってきてさっさと ノルマ を果たして涼しい顔の御仁もいるので油断ならない。ともかくレベルを逸脱した問題だけでなく、過去問に酷似した問題は大学のメンツにかけても御法度である。

  ところで受験生諸君 (あるいは受験生だった諸君) は、大学の入試問題は特に出題ミスがニュースにでもならない限り 正しいもの と思いこんでいるかもしれないが、中には高校生レベルでの学力をみるには良問であっても、非現実的でいわゆる 「問題のための問題」 としか言えないものも多々あるのである。最近担当したときに調べていて気づいたものを2つ紹介しておこう。ていねいに説明すれば高校生のレベルでも問題点を理解できるだろう。高校の物理の先生には少なくとも問題点を見抜いてもらわなければならない。その上で、完ぺきに答えが出ているように見える問題でも、その裏にはいろんな問題が潜んでいることをほのめかしてもらえばありがたい。

   <その1> 『一様な磁場中での電荷の円運動を量子化する問題』(数年前の京都大学) 1992年後期だそうです。

  受験生は躊躇することなく、水素原子の問題を思い出しつつ (実際、問題の前半はそうなっている)、サイクロトロン円運動の速さvから運動量 mv に対応するドブロイ波長を求め、ボーアの量子条件から、ただちに半径に対する条件とエネルギー準位を求めるであろう。以上の基礎知識を総合する力を要求する意味では標準的水準の良問と言えよう。

  しかしながら大学で物理学を学んだ諸君なら、磁場中の電荷の運動ではベクトルポテンシャルを含んだ正準運動量 [213] ( p = mv + qA = mv - qBr/2 ,結果的には p = mv/2 になる。) を用いて量子化 ( 2πr p = h ×整数 n ) しなければならないこと、これによりエネルギー準位は上で求めたものの2倍になり (=ランダウ準位の前期量子論版)、量子論を問題にする以上、どのような近似のもとでも最初の解答が正しくなる場合はないことを知っているはずである。[ エネルギー準位をサイクロトロン周波数 ωc (= qB/m)を用いて表す問い方になっておれば、最初の考え方では En = (h/2π) ωc × n/2 になり、首をかしげた受験生がいたかもしれない。 ]

  あるいは、多少不正確ではあっても、「電荷が円運動すれば円形電流となり磁石の性質をもつから、磁場中の円運動では磁気的なエネルギーも考えなくてはならないよ」 と言えば、高校生でも問題が「訳あり」であることは感じとれるであろう。[実際、円電流 J = qv/2πr の磁気モーメントμ = πr2J = qrv/2 がもつ磁気的エネルギー μB ( = mv2/2 になる) も加えれば、全エネルギーは運動エネルギーの2倍になるが、これは結果オーライの説明である。量子力学では運動エネルギーを正準運動量で表したハミルトニアン H = (p - qA)2/2m で計算する。]

  設問の最後に 「しかしながら量子論によれば正しくは...」 と書いておけば、この手の問題はあってもよいだろう。しかしながら、もし上記の係数がちゃんと2倍になっている答案があった場合、それがたとえ途中の計算ミスによるものであったにせよ、正解とみなして配点しなければならないという屈辱を伴う。

   <その2> 『バネにつるされた一様な断面積の柱状の物体が、完全流体に浸って振動するときの振動数を求める問題』(これは比較的最近の広島大学)

  (1) 物体が流体に浸っていない場合、(2) 物体の一部が浸っている場合、(3) 振動する間に物体が完全に浸っている場合の、それぞれについて単振動を考察する問題である。バネのフックの力と、重力と、流体による浮力とを考えて解く限りでは、けっこう考えさせられた末に、特に(3)では予想に反する結論が得られ、これもよく工夫された良問であるといえよう。[ただし(2)の場合、細長い棒は重力の中心と浮力の中心の位置関係から縦向きの姿勢は不安定であり、この姿勢を保ったまま上下に振動するかどうか疑問である。少なくともバネが自然長より縮まって下向きに押し返す力を及ぼすような状況では、浮力と対で重心の回りにモーメントを生じ不安定になる。]

  しかしながら、抵抗 (粘性力) が全くない場合(完全流体)でも、物体が振動 (一般に加速度運動) するとき、押しのけられる周りの流体も加速度運動するため、流れは定常ではなく流体全体の運動エネルギーは時間的に変化する。すなわち、流体はその分だけ物体から仕事、したがって力を受け続けることになる。その反作用として、加速度運動する物体は完全流体から力を受けるのである。

  この反作用は、例えば物体が球形の場合、「球が押しのけた流体の質量のちょうど 1/2 の慣性質量」 が物体に加わった場合と等価になる 。いわば物体が周りに流体の運動エネルギーの「衣」を引きずっているように見えることから、バーチュアル質量(誘導質量)と呼ばれる。例えば水中の泡は、質量を無視できるとしても加速度は無限大にはならず、重力加速度の2倍の加速度でしか上昇しない。球形でない場合は問題は厳密には解けず、バーチュアル質量の係数は簡単な数字にはならないが、どっちみち浮力の半分とかの効果であり、無視することができないのである。無視できるのは完全な流線型である細い棒状物体の場合である。しかしそこまで断ると受験生には意味がわからず、かえって混乱を招くにちがいない。「抵抗はすべて無視できる」という断り書きが苦慮した痕跡であろう。吊るす物体をにしたところでギリギリセーフ、もし球になっていたら完全にアウト、球状のブイの浮上加速度を求めさせたり、ばねに吊るした球を水中に沈めて振動数を求めさせるのは、たとえ「小球である」と仮定しても高校生には解けない問題である。

  こういう空想的問題は入試を担当するたびに一つ二つは見つかるから、ほんの氷山の一角であろう。要するに 『国語』 と同じ種類の創作もあるということだ。

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< 光のドップラ効果 >

⇒ まとめ あり

  入試出題者と受験生が格闘している修羅場を興味津々/虎視眈々と観戦している人々を 「外野席」 と呼ぶ。出題会議や採点の席で 「気兼ねなく自由自在に作りたい」 という気持ちをこめて自虐的に使う。その外野席を気にしすぎて過剰防衛でミスを冒している例の一つが、光のドップラ効果である。逆に外野席の方が過敏になるのが、遠心力とローレンツ力 の問題である。後者は別項目で 私見 を書いているので参照してほしい。

  光のドップラ効果の問題は 「光は相対論」 という思い込みがあるのか、内・外野とも結構うるさい。 特殊相対性理論 ----- 音波を伝える媒質は空気だから、その空気に対して音源が運動しているか、観測者が運動しているかで、観測される音波の振動数を与える公式は違ってくる。これに対して光の媒質は真空(空間そのもの)であるから、光源や観測者の運動は互いの間の相対的な関係としてしか意味をもたず、どちらの場合でも同じ公式になるべしというのが特殊相対論の最も基本的な要請である。同じになるように、それぞれの立場の時空の間でガリレイ変換ではなくローレンツ変換を行うべし...む、む。やはり光ドップラはやっかいだ。しかし、考えてみると何をもって 「光は相対論」 なのだろうか?

  ドップラ効果を出題する以上、光も題材にしたくなるのであるが、もちろん高校生相手にローレンツ変換を必要とする問題を出題するわけにはいかない。そこで苦肉の策として 「光源(または観測者)の速度は光速に比べて十分小さいので、音波の公式を適用してよい」 と、わざわざことわっているのを見かけることがある。音速が光速に比べて十分小さいことから、音波の公式は非相対論的(?)と考えてのことかもしれないが、この際、音速が光速に比べて小さいことは何の意味ももたない。

  音波のドップラ効果の考え方や公式は、決して音源や観測者の 「速度が音速に比べて十分小さい」 ことを前提にはしておらず、その前提を平行移動(相似移動かな?)して光にあてはめるなら、しっかりと特殊相対論の守備範囲になる。現に、教科書では音波の公式は音源と観測者の 「どちらが動いているか」 によって区別されており、この結果だけ見ても、光に適用したら冒頭で書いた相対論の両者平等の原理が破れていることがわかる。

  もし出題者があくまで 「光源(観測者)の速度 v が光速 c に比べて十分小さい」 ことが重要であることこだわるのであれば、単に 「音波公式が適用できる」 ではなくて、正解としては音波の公式の 線形近似 まで要求するのが筋である。そうしておけば相対論の要請には抵触しない平等な結果になる。あるいは逆説的であるが、音源と観測者の運動の効果が分母・分子に分かれる 「音波の公式(考え方)が適用できる」 とするなら、線形近似ではなく v/c の2次以上も有効ということであり、2次の効果であるローレンツ変換を一般論として無視できなくなると言い換えてもよい。

  実は、外野席を気にするあまり無理にこんな中途半端で矛盾した設定をする必要はない。相対論の意味を正確に踏まえて作問さえすれば、たとえ光のドップラ効果であっても、何の断りもなく高校物理の範囲である音波の公式を導くときの波の考え方を、粛々と使ったらよいのである。特殊相対論の対象となるのは波そのものではなくて、あくまで波源となる物体と観測者の間の相対運動である。要するにこの両者の時空の間の変換性という繊細な琴線に触れなければよいのだ。

  例えばよく見かける 「ねずみ捕り」(スピード違反取り締まりの往復反射光計測装置)である。結論としては、一貫して(この場合なら)道路系の時計だけを使用して振動数を計算するよう問題設定する限り、ローレンツ変換に気を取られる必要は全くないのである。

-------- 媒質である真空は、道路上の光源および計測器に対して(も)、音波に対する空気のようにちゃんと静止してくれているから、光といえども波は波、音波と全く同格に(誤解を恐れずに言えば 「古典的」 に)扱えばよいのだ。もし途中で 「運転手が車の中の時計で観測する光の振動数」 を問うなら、この時だけはローレンツ変換(いわゆる 「時計の遅れ」)を意識しなければならないが、1秒間に車に到達する波面の数を 道路系の時計 を使って数えるとする限り特殊相対論の立場では何ら問題ないとともに、「高校物理の範囲を逸脱している」 と外野席からお叱りを受ける恐れもない。

  もちろん、たがいに相対速度 v で近づく光源と観測者の間の 「相対論的ドップラ効果の公式」 を使っても構わないわけで、道路上の光源 ⇒ 車の中の観測者(=反射光の光源)⇒ 道路上の計測器 と同じ変換式(ともに、光源と観測者が互いに近づくケース)を2段階で適用すれば


となる。 f '車の中の時計で計った振動数、 f'' は道路上の速度計が計測する反射光の振動数である。ちなみに先ほどの 「古典的」 な考え方では、高校物理で出てくるとおり


である。ただし、この場合の f ' は運転手が観測する振動数ではなく、近づいてくる車に到達する光の波面を道路系の時計を使って数えるとした場合の振動数である。 この最終結果の一致は決して近似のせいや偶然ではなく、相対論の考え方からして原理的になるべくしてそうなっているのである。光ドップラといえども一貫して地に足が着いておれば、相対論がつけ込む余地は些かもない。

  それでも外野席が気になるなら、念を入れて 「車に到達する光の振動数を道路上で見たとき云々」 と断ればよいのであるが、そこまで書くことが受験生にとって親切であるかどうかは疑問である。時間の変換性を匂わせる思わせぶりな言辞は、かえって高校物理の範囲を超えているとの誹りを免れない。私の経験では、相対論を生噛りしている受験生がいて、たまにこの手の質問「相対性理論を使ってもいいんですか?」が出ることがないこともないが、正しい扱いをしている限り不用意な説明を加えない方が賢明だ。ただ、穴埋め式ではなく記述式の問にした場合には、こういう解答が出てくることは覚悟しておかなければならない。


(まとめ)
  結論1 「音波の考え方を用いてよい」 とする場合でも、厳密には得られた結果を線形近似したものが正解である。さもなくばローレンツ変換と競合することになるからだ。したがって、光源と観測者が速さ v で近づくときに、どちらが運動しているかを区別せず 「振動数が (1 + v/c) 倍」 となっている答案を、少なくとも不正解としてはならない。(相対論を気にするのであれば、このことこそが真空を媒質とする光の波にとって最も重要な性質である。光源や観測者の速度が遅くて実際上ローレンツ変換が必要でない状況であっても、これだけは肝に銘じておくべきだろう。

  結論2 「光だから相対論を適用すべし」 というのは短絡である。正確には特殊相対論は、互いに運動している波源と観測者で時計を区別すべしという要請である。その区別をやり過ごせる手があるなら、光だからと言って実家の相対論に気兼ねして特別視する必要はなく、並みの波として「古典的」 に扱ってよい。 (時計を区別する必要があるという意味では、厳密には音波でも全く同じことである。もっとも相対論効果が顔を出すほどの高速なら音速を優に超えるだろうから、ドップラ効果どころの話ではなくなる。まず最初に音源装置そのものが弾丸のごとく、音もなく静かに激突して観測者を粉砕し、観測者は永久に音波を観測することはない。

  蛇 足  なお光のドップラ効果の公式では、光源の進行方向と垂直な方向においても、互いの時計の遅れに起因する上の公式中の平方根形の因子だけは残り、横ドップラ効果と呼ばれている。しかしこれも 「光の波だから」 というわけではないことに注意すべきである。平方根の中の光速 c は普遍的な基本物理定数として入ってきたのであって、今考察しているドップラ効果の対象が特に光の波だから現れたものではない。このように同じ光速 c が独立に 別の意味あい で含まれていて双方とも 「ドップラ効果」 と呼ばれ判然とせず、 「光ドップラ、すわ相対論!」 の誤解を招く一因となっているかもしれない。

  余 談  光のドップラ効果で思い出すのは、半世紀以上昔にはやった有名なガモフの物理ギャグ。 ----- ある物理学者がドライブ中に信号無視で警官に止められた。学者の弁解: 「いやぁ、ドップラ効果で赤信号が青に見えたんだ」、物理の見識をひけらかして煙(けむ)にまく作戦に出た。しかし警官も負けてはいなかった: 「赤が青に? マジで? うむ、それなら速度が光速の半分、ん? 60% くらいかな。えーと、光は時速にしておよそ 10億キロだから、およそ6億キロ、ここの制限速度は 60キロ だから十分超過だね。信号無視とは別にスピード違反の罰金が...あとで精算して請求書送るから、ちゃんと払ってよね。」

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< 古 都 税 >


  京都駅を降りてまず眼に入る地下街が 「ポルタ」 とか 「アバンティ」、さて何語の辞書を引けば意味がわかるのだろう?と迷わなければならないような地名が現れてから久しいが、おそらくかつての都の「京極」のように他の都市に模倣地名として普及することもまずないであろう。

  もっとも各地にある 「何とか京極」 も、今では色あせたプラスティックのカバーで覆われた薄暗い蛍光灯の街灯の下に、ヒビ割れたポリバケツが転がっているような、ほこりっぽい街のイメージしか浮かんでこなくなった。無理もないのだ。地方の都市があこがれた 「京極」 は、元々は 「みやこの極み」 だったのだから。

  さて、この落ち目の京都が 「建都1200年」 を前にして、さすがの古都の重みと京都の前衛性を誇示したのが、「古都税」 である。これは、寺院側の反対理由 「宗教活動に対する課税」 というよりは、「文化遺産の享受に対する課税」 と言う方がわかりやすいだろう。

  演劇や音楽、美術などの文化の享受に対して、未だに入場料に加えて戦中の 「ぜいたくは敵」 税が課せられているのと同類の前衛的政策である。「そのうち水や空気にまで課税」 というのが笑い話ではなくなってきている時代である。ポルタやアバンティと違って、こちらの方はあっという間に地方に普及するのではあるいまいか。

  科学の成果に触れることは今のところ税は予定されていないが、新しいタイプの、かなり高価なきれいな普及誌が出回り始めている。その、カラフルで魅惑的な内容に比べたら...とお叱りを受けるかもしれないが、本誌はまだしばらくは現価格を維持できるよう、努力します。

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< 透 視 鏡 >


  小学校高学年の頃、昭和30年(1955)頃であろうか、ある年の隣町の夏祭りの露店で「何でも透けて見える眼鏡」なるものが売られていた。万華鏡のようなきれいな装飾も施していない安っぽいボール紙製の、長さ10cmくらいの四角い筒状のおもちゃである。小学生でも、アイスキャンデー、ラムネ、綿あめ、ニッキ水、スルメの醤油焼き...など定番の2つくらいを我慢すれば手の出せる値段であった。

  露店のお兄さんが座ったまま、上目遣いに小声で「服も透けて見えるんやで」とささやきかける。

  いっしょに連れだって来ていた近所の年上の子が手にとって、通りかかった若い女性の方に向けようとすると、お兄さんはあわてて 「あ、あかん! こんなとこで覗いたら巡査に捕まるやんか! あとでこっそり見るんや。」 と怒って、代わりに台の上に置いてある 卵 をのぞいてみろという。

  自分でも試してみると、なんと、四角い視野の真ん中に、淡い黄色の円状に黄身が透けて見えているのである。 簡単そうな箱なのにどういう仕掛けか気になり、家に持って帰って分解してみたい誘惑にかられたが、さすがに子供心にも「こんな値段のもので、こんなことできるかなぁ?」と半信半疑というか、警戒心の方が強かった。

  それに、持ってきた小遣いでほかに買いたいものがあったし、何よりもお兄さんの言った 「巡査」 うんぬんが怖かったので、結局、自分では買わなかった。珍しいおもちゃは常にそうしていたように、どうせ一人が持っておれば回して使わせてもらえるから、いちばん年上の子が買うのにまかせたのである。

  買った子が件の紙筒をポケットに忍ばせ、皆でウズウズする胸の期待を抑えながら、夕方から花火大会がある堤防の近くまで行き、目立たないよう人混みの中で順番に試していった.....

  .....誰がどの方向に向けても見えるのは、店頭で見たのと同じ 黄色い円 だけであった。

  露店には毎年、まさに子供だましの悪智恵をめぐらした、この手の新しいおもちゃが一つ二つはお目見えし、それを探し回るのも夏祭りの楽しみの一つであった。買って持ち帰った後でだまされたと分かっても、甚大な被害を被ったわけでもなく、特に悔しいという気持ちになることはなかった。テレビも映画館もなかった時代に、非日常のエンタテイナーに対する畏怖の念があったのかも知れない。 香具師(やし)という言葉を覚え、祭りの後しばらくは売り口上をまねて遊んだのもその頃だ。


  初期のソニー製デジタルビデオカメラが、昼間でも 「透けて映る」ことが評判になり、飛ぶように売れたのは40年近く後のことだったろうか?もちろんソニーはそれをセールスポイントにしていたわけではなく、予期しなかった性能であったため、すぐに(赤外線シフト)ナイトモードを修正して知らぬ顔で販売を続けたはずだ。

  ひょっとしたら修正前のバージョンが、骨董品のフィルムカメラと並んで今でもどこかの露店で売られているかもしれない。露店の爺さんが 「た、大将。警察うるさいし、ここで見るのは堪忍してぇな!」 ----- いやはや、もちろん客は小学生ではなく、往時の小学生というべきか。透けたところで 赤外線放射体 の、輪郭のぼやけた単なるシルエット、へアヌードフォト解禁のこのご時世に、今さらどうってものでもないのだが。

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< ファイナルアンサー >


冨田博之先生 定年退職インタビュー(面会者提供版)

「長い間お疲れ様でした。特に最後の研究科長・学部長の3年間は大変だったことと思います。しかし、とてもお元気そうに見えますが?」

----- いや、つまらぬ自尊心だけは強いですから、「忙しい」とか「しんどい」とか、無闇にぼやくことで周りの人に不快な思いをさせるのが嫌で、3年間、心で泣きながら平然とした顔をしてきただけです。自分で言うのも変ですが、私は裏方に回れば役に立つ奴だったと思います。しかし、元々人との交際事が苦手で前面に出て責任をとる度量がない卑怯者ですから、矢面に立たされてほんとうに精魂尽きはてました。

  教授会の 「やり直し投票」 で選出されたとき、議長の研究科長が気を利かせて、わざわざ 「冨田先生はやられますか?」 と逃げるチャンスを与えてくれました。この不意打ちには逡巡し、とてもじゃないが「七息思案」とはいかず数分間返答を待ってもらいましたが、どうして最初の投票で選出されたK先生に倣って辞退しなかったのかと後悔しています。あの状況では傍目には 「あいつはやりたいらしい」 と思われても致し方なかったでしょうね。ほかに適任者があったのに引き受けることは、精神的に非常に辛いことでした。

「そんな風には見えませんでしたが?」

----- あなたも覚えているでしょうが、情けないことに就任早々3ヶ月で三叉神経の顔面ヘルペス(帯状疱疹)をやらかしたでしょう?身体は正直なもので、あれは典型的なストレス症です。私は英語に限らず対話や討論が不得手で、会議で相手の言っていることが即座には飲み込めず、的確な応答ができない、頭の中でパニックが起きてしまうのです。聴覚精密検査で「音は聞こえているが言葉が聞きとれていない」と言われるやつかもしれません。学部外の重要な会議でも失敗してばかりで、そのため皆さんにはたいへんな損害と迷惑をかけたと思っています。夜になって布団に入ってからようやく神経回路が繋がり、思い出すにつけ悔しくて朝まで寝付けないことがしょっちゅうでした。これは本職の研究活動でもそうで、性格的に大いに損をしたと思います。

「どうして物理をおやりになったのでしょうか?」

----- 子供の頃はやはり授業で先生の言っていることが、その場ですぐには飲み込めない、そうそう、国語の「聞き取り」というの、あれが大の苦手で体操の跳び箱より怖かった。その代わりというか、教科書を繰り返し繰り返し読んで自力で追いかける訓練はできました。学年が進むにつれて数学の問題を美しく解くことに快感を覚えるようになり、自分で気に入った解を大学ノートに清書し、秘かに集めて悦に入っていました。田舎の山の中の小さな高校だのに先生も知らない 「数学難解事典」 とかいうような古ぼけた本が置いてあって、つまづいたときには必ず出口が見つかったので、その本の真似をしたんですね。そうしたいきがかりで、理学部に入ったときは数学科に進みたかったのです。しかし、不幸なことに数学を目指す凄い連中が輩出したクラスに入ってしまい、端っから彼らに着いて行けませんでした。

  悔しいから、(不遜にも)何となく自力で取りつけそうに思えた整数論、集合論・論理学に秘かに食いついてみましたが、暗闇で壁にぶつかり断念しました。後になってゲーデルの世界を垣間見たとき、人知の崖っ淵(の一つ)にたどり着いた人がいたということに畏れを覚え、意気地のないことですが早々に引き返してよかったと震えあがりました。

  これに対して自然科学は、論理だけではなく推論と実証の積み重ねによって解明しなければならない現象や法則性が無限に広がっており、これはこれでとても魅力的な世界です。しかし、やはり美しい理論に心を惹かれる癖がついてしまっていて、自然科学をやる上ではこれは大きな失敗、自然界は奥深い矛盾だらけの生々しい世界で、そんな優しくて美しい女神ばかりではありませんでした。

「そうすると趣味はやはり研究でしょうか?」

----- 皆さんそうですが、研究というのは楽しんで趣味のようにのめり込まないとやれないと思います。音楽や美術はからっきしダメ、「好きこそ物の上手なれ」というのは絶対に逆ですよ。運動は、小学校の時からクラスで飛びぬけて小さかったから、いつも怖じ気づいてしまっていたし、将棋のように相手がある遊びも恐縮するばかりで上達せず、大学に入ってからも山歩きや寺巡り、ジョッギング、パズルのような一人遊びのネクラな趣味になりました。え、読書? 本は人間にとっては食べ物と同じで、「趣味は読書」 というのはおかしいですよ。まあ、得意げに 「グルメが趣味」 という人も、いることはいますがね。 30代後半になると、パソコンなんて高級なおもちゃを仕事の関係でいち早く手にすることができ、数理パズルを片っ端からプログラムを組んで解いていったため、パズル熱の方はさめてしまった...。

「ところで、若いときから辛辣な発言で有名だったそうですが?」

----- 助手の時から職員組合の中央執行委員もやったりして学内の動きや文部行政に常に批判的な眼は失わなかったし、子どもの頃からやや「左向き」の自負心があったとは思いますが、同僚を傷つけたり平均軸から外れることに常に恐怖を感じる脆弱な性格でしたから、「辛辣」 はあたってないと思います。口べたの上に言葉足らずで単刀直入に言ってしまうから、そう受け取られたのではないでしょうか?コミカルに冷やかしたつもりがシニカルに思われることはあったのかも? 教養部助教授に採用されたときの選考報告書には、「人物: 温厚、誠実」(=「何のとりえもない、フツーの人」という場合に用いられる定型)と書かれて、ちゃんと教授会で承認されていますよ。自分でもその通りだと思っています。

「ほんとですかねぇ?!」

----- 相手の尊厳をないがしろにするような暴言は、意識的に慎んでいました。ただし、1回だけ、ある会議で一人の委員が穏やかに発言しているのを無視して一方的に自説をまくしたてた人があり、委員どおしの論戦ならそういうのも「あり」かもしれませんが、まるで眼中にないかのごとき傍若無人ぶりが腹に据えかね、思わず傍から 「聞けやっ!」 とテーブルを叩いて怒鳴ったことがありました。あれだけは今でも思い出すと冷や汗もので、恥ずかしくなります。彼は日頃から「喧嘩っ早い」ことが自慢の偉い人で、正直言って怖かったです。へたすると矛先がこちらに向いたかもしれないし、なにせ湯飲み茶碗がひっくり返ってお茶がこぼれたりしたしね。別の委員から 「暴力はいかん」 とたしなめられました。

「...? ところで退職後のご予定は?」

----- しばらくは、ともかく擦り切れた神経を休めたいです。先輩に頼まれて週一回だけ、ある大学で非常勤講師をやらせてもらえそうです。しかし、ある朝から突然、あなたのように若くて美しい女性が目の前から消えてしまう辛さに耐えられるかどうか...

「これまた、いかにも単刀直入! そういう思わせぶりなことを 35 年間、学内のあちこちで見境なく言いまくって来られたようですねッ!? 成果は一つもなかったみたいですけど(笑)

----- え? ああ、これは悪趣味の一つ。まあ、いずれも公明正大な憧れに踏みとどまったおかげで、幸か不幸か無事に定年退職を迎えられそうなんだから、どうか見逃してください。

(…… 悪趣味でなんて、よけいひどい。)

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< こ の 世 を ば ...>


  一つ前の記事の続きです。管理職3年目、退職を目前にした12月末には、突発的に「水飲み症」 を患いました。やたら喉が渇いて唾が全く出てこず、喋ることもままならない。講義や教授会の壇上でも水のペットボトルを手離すことができませんでした。就寝中も喉のヒリヒリを我慢できず、後から考えれば間抜けなことに刺激的な炭酸飲料をガブ飲みでした。症状が一週間ほど続いたあげく、ようやくこれは異常だと覚悟してネットで調べたらどうやら糖尿病らしく、ほかには 「ドライマウス」くらいしか見つかりませんでした。

  同僚に糖尿専門のドクターがいたので相談し検査に出向いたら、みごとな高血糖をきたしていました。 公務での難題やプライベートの心配事が相次ぎ、ストレスがたまりにたまってホルモンのバランスを崩したらしい。もともと人間ドックに行き始めたときから血糖値が境界型すれすれで「要注意」と診断されていました。どうやら父方譲りらしく体質的に予備軍としての自覚はあって、日頃から食事には気をつけていたのですが、肝心のコーヒーの砂糖やスイーツには寛容で、運動は通勤で往復4キロを歩くだけでした。幸い3ヶ月の服薬で正常値にもどり(仮)釈放されました。これに懲りて、退職後は神妙に食事管理をし、日に10キロ以上は歩くことに努めています。


  その時に調べて知ったのですが、平安時代に栄華をきわめた藤原摂関家一族がそうだったらしく、道長 が異常な渇きに悩まされ、やたら水を飲んだ、最期は目もよく見えなくなっていた(糖尿病の典型的神経症状)、と記録に残っているそうです。[『小右記』: 道長の又従兄弟にあたる藤原北家嫡流筋の野宮大臣・ 藤原実資 (さねすけ)の日記で,娘を次々に入内させ権勢を誇った道長やその先代の兼家には批判的だという 。

  右大臣・左大臣から遂には摂政・太政大臣という管理職トップの重責をこなすだけでなく、家督を継いでからは北家内輪の政争も御していかなければならない、はたまた宮中に あまたさふらひたまひける女御・更衣はもとより、さほど やむことなき際でもない女官女房までもが、入れ替わり立ち替わり 「みちながさま」「みちながさま」 とほってはおかない、...などなど、日々絶え間のないストレス、それに加え美食家で米飯・餅など炭水化物、中でも 餅 は今の世なら 「もちながさま」 の異名をとるほどの大好物、酒(濁酒)や珍味のスイーツ(水飴、甘葛、蜂蜜など)もまさに欲しいまま、それはもう一族郎党でたらふく飲み食いしていたに違いありません。

  実際、兼家の5男だった道長に若くしてお鉢がまわってきたのは、有能な兄の道隆、道兼たちが大酒や権謀術策のストレスによる健康障害で次々に早世したからです。後世、糖尿病が遺伝的体質による生活習慣病と推測され、俗に「贅沢病」とまで言われるようになった所以でもあります。

  光源氏のモデル(の一人?)だったと言われる雅で颯爽としたイメージとは裏腹に、日本で最初に記録が残っている糖尿病の重症患者であったとは、なんとも気の毒で同情してしまいます。重症の糖尿病なら、はて、女御・更衣の お相手 の方は大丈夫だったんかい?と気になるところですが、『小右記』の実資と違って紫式部女史にとっては有力なパトロン、さすがにそこまでは描写することはできなかったのかもしれません。もっとも現代小説でも,妖艶な美女を目の前にして「唾」さえ湧いてこなかったという、無粋な糖尿病哀露話は読んだことありません。そもそも糖尿病とその諸症状という知識があるはずはなく、「水飲み病」「口渇き病」くらいの認識しかなかった時代です。

  権勢をきわめた道長の屋敷からは、もちながさま御常食の餅をつく景気のいい音()が連日聞こえてきたとか、その繁栄の有様を誇った歌を、道長自ら宴で詠んだことがありました。『大鏡』にでも出てきそうな話ですが、これはやはり 『小右記』 にだけ記録されているそうです。 [ 道長の好物というだけでなく、稲 作 の定着した古代より、米から造られる 餅 は 酒 とならんで繁栄の象徴であった。神事・祭事・祝事に欠かすことはなく、その風習は現代まで脈々と受け継がれている。各地に残る上棟式のあとの 餅まき の風習はまさにそうである。

実資は、歌を披露してドヤ顔の道長に対して儀礼の返歌をする代わりに、宴に参席している一族の若い公達たちを煽り、いかにも賑々しく

    このよをは〜〜あ♪わかよとそおもふ〜〜う♪

            もちつき の〜〜お♪かけたることも〜〜お♪なしとおもへは〜〜あ♪


と繰り返し唱和させ、やんやの喝采、最後は扇を杵代わりにしてペッタンコ・ペッタンコと、身振り手振りで踊りだす酔客も立ち現れ、皆で笑い転げて溜飲をさげたのです。ここはそれ、道長のなりふり構わぬ傲慢ぶりに座が白けきり、こそこそと席を立つ人さえ出てきたところを、実資の咄嗟の機転で宴に賑わいを取り戻すことができたのでした。



  上の記事はまさに fake です。今朝、かかりつけの糖尿専門医から聞いたことを追加しておきます。ただし、素人的な解釈です。

  農耕系の日本人の体質は、主として炭水化物の多い穀類から栄養を摂取する標準的食事に適応してきていたのに対して、道長など富裕層は動物性の食糧が容易に手に入り、贅沢な食事をしていたのではないか。動物性の脂肪にはインスリン分泌を抑制する効果がある。現代になって日本人の動物性脂肪の摂取量が急に増え、動物性の食糧で体質的に慣れてきた狩猟系の西洋人に比べて糖尿病が目立つのは、それが理由ではないか。長い目で見た民族的な遺伝的体質と考えられる。

  糖尿病らしき歴史上の人物として織田信長も挙げられますが、ドラマでは酒杯よりも金平糖をかじっている方が多く、癇癪を起こして高坏に盛られていた金平糖を床にばらまく場面がよく出てきます。すぐ後に反逆されますが、摂津の荒木村重に饅頭を突き刺した刀を突きつけて忠誠心を試したりもします。それでてっきり「甘党」のせいだと思いこんでいたのですが、医師のいう「贅沢病」の方が正確なようですね。

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