『物理学概論』講義ノートより(2004/9/1)


「宇と宙の話」

基礎科学科情報科学論講座 冨田博之


ピタゴラスの定理
天地四方と古往今来
立体キャンバス
ひかり と 光
絶対基準系またはエーテル
時間の元始へ
絶対君主制か民主制か
ガリレイの相対性原理
特殊相対性理論
どっちが頼りになる?
大航界時代
無重力状態
加速度運動と慣性力(見かけの力)
光も重力を受ける
モンキーハンター
2種類の質量 -- 等価原理
遠心力って?
虚空の回転台
曲がった空間
時間も歪む
一般相対性理論
人類の進化

< ピタゴラスの定理 >

  中学校で習う直角三角形のピタゴラスの定理,中身は単純だから覚えているでしょう。あれ,幾何学で証明するにはちょっとした工夫が必要で,すぐには思い出せないと思います。それじゃあ,高校で幾何学の証明問題は座標を使えば自動的に解けたという感激が頭に残っている人は,座標を使って試してみてください。出来ましたか?簡単すぎて証明になっているとは思えませんよね。なぜでしょう?

  それはピタゴラスの定理が,今皆さんが使おうとした座標あるいは空間を規定する出発原理になっているからです。つまり任意の2点間の距離がピタゴラスの定理で決められる一様な空間のことをユークリッド空間と言い,とりあえずは私たちが暮らしている空間がその例です。最も簡単なのは2次元のユークリッド空間である普通の平面です。

  ユークリッド空間でない例は球面で,球面上の2点間の最短距離はいわゆる大圏コース(測地線)で与えられ,地面に描かれた大きな直角三角形ではピタゴラスの定理は成り立ちません。円周率がホントに3になることもあります。
目次へ

< 天地四方と古往今来 >

  宇は天地四方,宙は古往今来,宇宙とは空間と時間を統一する概念です。空間(あるいは時間的な広がりも含めた時空)とは 広がり のことですから,物理学でこれを対象にするときには,この広がりを客観的に測る量を約束する必要があります。これが距離で,2点間の最短距離を与える経路のことを 測地線 といいます。

  物理学では,諸概念を客観的に扱おうとするとき,まずは何が何でも定量化しようとしますから,物理学が哲学から分化した頃には 「なんと即物的で軽薄な奴らめ」 と蔑まれたことでしょうね。

  宇宙,あるいは 真空 と言っても同じなんですが,これは決して頭の中に勝手に描いた抽象的な時空の広がりとしてではなく, 「物質が存在して運動し,重力や電気・磁気力を伝える場」 というふうに理解します。このように即物的に定義できる宇宙こそが認識できる宇宙です。
目次へ

< 立体キャンバス >

  私たちは,どこか適当な位置を基準点 (原点) に選んで,そこを通る3本の互いに直交する 座標軸 を引き,これに等間隔の一様な目盛りをつけて,自分たちが住んでいる空間を量的に表現します。

  これが,人類がピラミッドや都市の建設といった営みから完成していった幾何学に基づく3次元のユークリッド空間です。そしてこの立体キャンバスの中に,最初は地球を中心にして,月や太陽,太陽系,しばらくすると地球もこれらと同等な仲間として位置づけ,さらに,銀河,別の銀河,銀河集団...と,無限の広がりを描いていきました。

  さらに天体 (物体) はこの中で刻々位置を変えていく,これが運動です。人類は太陽や月が規則正しい周期運動をくり返すことを知り,そこから一様に進んでいく時間という概念を獲得しました。 「月日 (光陰)」 が時間を表すのはその証拠でしょう。

  この一様で無限の広がりをもつ3次元ユークリッド空間と,これとは別に宇宙の転変を永遠に支配している一様な時間,これが自然界の事象を認識する基本的枠組みとして古代より人類が構築してきた時空観です。高校でも大学でも,いわば人為的なこの枠組みを前提にして,知らん顔で力学や電磁気学の講義を始めます。

  人類が,あたりまえとして慣れ親しんできたこの時空観を捨てなければならなくなったのが,20世紀初頭でした。一つは空間と時間の連関性 (特殊相対論),もう一つは時空の非一様性 (一般相対論) です。いずれもアインシュタインが重要な貢献をしました。
目次へ

< ひかり と 光 >

  空間と時間の連関は,運動する物体の速さ―1秒間にどれだけの距離を動くか―という形で現れます。まず,走っている 「特急・ひかり」 の速さは,田んぼに立ったままで見るか,車で追いかけながら見るかによって違うこと,このあたりまえのことを思い出してください。

  ところが19世紀末から20世紀初頭にかけて,光 (電磁波) については事情が違う,つまり光の見かけの速さは,光を追いかけながら測っても,すれ違いながら測っても正確に同じであるという深刻な事実が発見されたのです。有名なマイケルソンとモーレーの実験です。

  地球の公転の速さはおよそ毎秒30kmで,光の速さ (毎秒30万km) の1万分の1,当時でもこの程度の差なら測定できる技術がありましたから,公転を利用すれば光の見かけの速さの差を検出することは十分可能でした。現在では10億分の1秒 (ナノ秒) の精度をもつ時計がありますから,ずっと正確な測定が可能です。1ナノ秒で光が進む距離が約 0.3m ですから,光と同じ速さで伝わる電波を利用するカーナビシステムでもこの程度の精度の時計が必要なのです。
目次へ

< 絶対基準系またはエーテル >

  もう少し正確に言うと, マイケルソンたちの実験は, 宇宙の絶対的基準を決め, それに対して地球がどのような速さで運動しているかを知りたいということでした。 つまり,この宇宙には銀河や天体の位置を決める基準となる座標軸−−絶対静止空間といいます−−があり, 光の伝搬の法則すなわち電磁気学の法則はその基準系で正確に成り立っている,その基準系に対して運動している地球上では, 光の伝わる速さがその速さに応じて変わるはず, その差を測れば地球のホントの速度が分かる, という見込みから出発しています。

  当時は絶対静止空間の代わりに, その空間に充ちているエーテル−−光を伝える媒質−−という概念が用いられていました。 エーテルを用いた方が上で言ったことはわかりやすくなります: 音の波の伝わる速さ (毎秒およそ330m) は, 振動を伝える静止した空気に対して決まり, 音源が運動していようといまいと変わりはありません。 これは波の重要な性質で, 動いている車から発射される物体の運動とは大きくちがうところです。 ただし, 音を 受け取る方 が動いているときには, 運動物体の速さを測る場合と同じく相対的な速さが観測されます。 光の波も同じで, 光を伝える静止したエーテルに対して速さ (毎秒およそ30万km) が決まっており, 光を観測する人が動いておれば光の見かけ上の速さは変わってくるはずです。

  マイケルソン達の実験はよく 「エーテル風を探せ」 と紹介されます。 エーテル中を地球が突っ走れば正面から強い 「風」 が吹き付ける, ということです。光がこの風に乗ってやってくれば速くなるし,風に逆らってやってくれば遅くなるというわけです。 彼らにとっては不運なことに,この風を見いだすことができなかったということになります。つまり, 運動しているはずの地球上でも, 光はどの方向にも正確に同じ速さで伝わることがわかったのです。 となると, 地球は宇宙に対して動いていない−−天動説−−のかということになります。
目次へ

< 時間の元始へ >

  この事実を最も素直に受け入れる解決法は,追いかけながら測る人と,すれ違いながら測る人とで時間は共通ではなく,それぞれの立場で時間の進み方そのものが異なり,どちらの立場でも光の速さが同じになるように時間が進んでいるとすることでした。

  インチキくさい話に聞こえるかもしれませんが,もともと時間というものは太陽や月の周期的な運動とか,ともかく自然現象を基準にして形成されてきた概念です。光(電磁波)を伝えることは自然あるいは宇宙の最も基本的な要件の一つですから,そのような基本的法則がどの立場でも平等に表現されるような,時間というのはそういうものであるべし,いわば光陰の代わりにほんとに光そのものの運動 (進み方) を時間の基準にしようというわけです。

  つまり,人類の時間概念の獲得の元始にもどることでした。哲学者に百歩譲るにしても,少なくとも自然法則を表現するための時間だけは,そいうふうに決めさせてもらわないと困ります。

  それなら時間の基準にするのは自然現象なら何でもよいかというと、そうはいきません。光、つまり電磁場の法則というものは、運動の法則とならんで時空そのものの最も基本的な性質であり、その基準を定めようというときには選ばれる必然性 --- それ以外にない --- があったのです。

  実際,現在の国際的取り決めでは時間の基準は,具体的な数字は省略しますが,ある特定の原子が出す固有の光の振動数から決めることになっています。長さの方も,今やメートル原器ではなくて,光の速さはどこでも同じこれこれの値になると約束した上で,光が1秒間に進む距離,すなわち 「1光秒」 をもとにして決められているのです。こうしておけば,宇宙のどこへ行っても時間や距離の基準が決まります。余談になりますが,これに対して質量だけは「キログラム原器」を基準にしたままでもかまわないのです。あのプラチナの塊の中に含まれる白金原子の数,これは宇宙のどこへ行っても変わらないはずですから,ともかく 「これこれの原子の質量を共通の基準にする」 と約束したことになるからです。(2019年の国際単位系SIの改訂で質量の規準も変更されました。)
目次へ

< 絶対君主制か民主制か >

  これが 「特殊相対性原理」 の要点です。「相対性」というのは,運動など自然法則を認識する際に,絶対的な基準を要しない,異なる立場は自然法則に関してはすべて平等で,互いの相対的関係だけが本質的ということです。運動の相対性については,既にずっと昔にガリレイが主張していました。

  つまり,宇宙の自然法則の秩序を理解する上で,まずもって一番偉い 「絶対君主」 を据えておき,あとはそれに対する相対的な地位 (立場) を考えて安らかに住み分けていけばよいとするか, いや, すべての立場は自然法則の前ではみんな完全に平等であり,お互いの間の相対的な関係だけを考慮していけばよいとするかの,両極端があるわけですね。

  特殊というのは,2つの異なる立場を関係づける際に,互いの間の相対速度が一定 (等速度あるいは慣性系) であるという特殊な関係の場合だけに限定したバージョンであったからです。
目次へ

< ガリレイの相対性原理 >

  ここはそれほど難しい話ではありませんから,ごちゃごちゃ言っているより少し数式を書いてみる方が正確な意味がわかるかもしれません。中学程度の数学で十分です。

  一定の速さ V で x 方向に走っている列車と静止した地面の関係を考えてみます。

 『運動物体を,速さVで走る列車から観測する』
光 〜〜> 速さc :列車から見れば c-V ? |===> V | Vt | x' 飛行物体 |-------------->|------------------> ● (x', t):列車から見た場合 |----------------------------------> (x , t):地面から見た場合 | x | | |__________________________________________ | O' >>> 列 車>>> V x' |___________________________________ O |||||||地 面||||||| x
  ある飛行物体の位置を考えるとき,地面を基準にした位置 x と,列車を基準にした位置 x' の間には,時刻 0 で両方の座標の原点OとO’を一致させておくと,列車の座標の原点O’が Vt で進んで行きますから

   x' = x - V t

の関係があることは簡単にわかるでしょう。この式は,Vt を移項することですぐに

   x = x' + V t  [  = x' - (-V) t  ]

と変形することができます。後ろの [  ] のように書き直してみると,これは 「列車からみれば地面が -V の速さ (後ろ向き) で進んでいる」 という事実を表現しています。つまり,どちらを基準にする立場でも,両者の座標の関係,すなわち 「x から x' へ」および「x' から x へ」の変換は, V を -V に置き換えるだけで,全く同じ形の関係式 で表されるのです。

  こんなの単なる式の変形だけのことじゃないかと思えるかもしれませんが,この簡単な式は実に重要な主張を含んでいるのです。運動というのはすべて相対的なものであって,地面と列車のどちらか一方の立場を,(ひいては宇宙のどこか絶対的な立場を) 特別扱いする必要はないということです。これが 「ガリレイの相対性原理」 です。

  上の式を速度についての関係式に書き換えると

   v' = v - V

となります。この式によれば,地面に対して速さ v で運動している飛行物体の速さは,速さ V の列車から見れば v' = v - V になります。列車から見た飛行物体の相対速度のことですが,具体的な数値を使って表現するなら小学生でもわかる常識ですね。しかしながら,光についてこれを適用すると,光速 c も c' = c - V となり,先ほどのマイケルソン-モーレーの実験事実と矛盾してしまいます。

  そこで,ガリレイの相対性原理もマイケルソン-モーレーの厳然たる実験事実も,双方を矛盾なく生かせる道はないかということになるわけです。
目次へ

< 特殊相対性理論 >

  上の話では重要なこととして,時間は両者 (あるいは全宇宙) で共通ということを前提にしています。これは人類が 少 し だ け 賢 く なってからは,誰も疑おうとしなかったことでした。今でも 「何のこっちゃ」 と思うのが普通ですから,安心してください。

  アインシュタインは,時間も両方の立場で共通ではなく,座標と同じように変換されるとしたらどうか考えたのです。地面と列車のそれぞれにおける座標と時間を (x, t),(x', t') として,これが

   x' = F (x, t)
   t' = G (x, t)

のように関係づけられているとします。これを (x, t) を未知数として逆に解いたら

   x = f (x', t')
   t = g (x', t')

となったとします。運動の相対性というのは,この2組の関係式は 「地面から見れば列車が V の速さで,列車から見れば地面が -V の速さで進んでいるだけ」 つまり,V と -V を取り替えるだけでもう一方の組が得られるような 「対等な関係」 になっていなければならないということです。したがって,少なくとも2組の式に現れる関数 F と f,G と g の形は,それぞれ似ていないと困ります。

  このことを実現できるのは,関係式がやはり一次式で書かれる場合だけです。もっとややこしい式も見つかるかも知れませんが,ガリレイの場合の変換式を少し手直しするんだとしたら,複雑な形のものは候補になりません。そこでこれを

   x' = A x + B t
   t' = C x + D t

として,係数 A, B, C, D を決めることにします。ここで,(x, t) を未知数と考えてこの連立方程式を解けば,「(x', t') から (x, t) へ」 の関係式

   x = (D x' - B t') / (AD-BC)
   t = (- C x' + A t') / (AD-BC)

が得られ,こちらもちゃんと一次式になります。

  そこで,この2組の一次関係式が 「V を -V にしただけで 形 は 対 等 であるべし」 という要求をするだけで,ほとんど係数は決まります。例えば,見てすぐにわかるのは,A = D, AD - BC = 1 です。ガリレイの変換式の手直しだとしたら,最初の式はきっと x' = A ( x - V t ) ,したがって B = - AV にちがいないということも推察できます。

  あと一つ,さきほど <ひかりと光> で述べた 「地面から見ても,列車から見ても光の速さ c が同じ」 という実験事実が正しいとしてこれを要求すれば,係数はすべて決まり変換式が完成します。

  結果は簡単な一次式ですが,係数が平方根の形をしていたりしてHTML文書には不向きですから,リンクの中に隠しておきます。列車の速さ V が光速 c に比べて小さい場合は完全にガリレイの場合に一致し,普通の乗り物なんかの速さでは,時間も変換されるといっても出てくる差違はほとんど問題にならない大きさです。
目次へ

< どっちが頼りになる? >

  要するに基本法則の方をこの宇宙で共通・普遍なものと考えて, そちらを頼りにし,それをいろんな立場から認識するために必要な枠組み ―時間と空間― の方は, それに矛盾しないように組み立て直そうということですね。

  こうして得られたのが4次元時空です。これは,先ほど<立体キャンパス>で復習した独立な3次元ユークリッド空間と時間とではなく,上で得られた式からわかるように両者が結合した4次元です。

  正確には距離がピタゴラスの定理で決められる4次元ユークリッド空間ではなく,時間軸だけは特別な意味を持っており,点 (x, y, z, t) と原点 (0, 0, 0, 0) の間の距離 (の2乗) は

     x2 + y2 + z2 - (ct)2   (cは光速)

と書かれるのですが,4次元ユークリッド空間でさえもピンとこないでしょうから,うるさいことは抜きにしておきます。

  自然現象でも社会現象でもいいのですが,ある事象の 「いつ,どこで」 は, この4次元時空の1点に位置づけられます。 「時刻 s に A地で」 と 「時刻 t に B地で」 という2つの事象 (s,A), (t,B) があったとします。

  独立な時空では,この2つの事象の間の空間距離 AB と時間間隔 s-t は,どのような座標で測っても,どのように時差のある時計で測っても変わらない,それぞれが固有の不変量です。ところがこの結合した4次元時空では,上で定義された2点間の4次元距離だけが固有の不変量になります。つまり、2つの異なる慣性系の間で共通に使える尺度は時間ではなくて、この4次元時空距離なのです。

  そうすると,ちょうど3次元空間の中で固有の長さをもつ細い棒をいろんな方向から眺めると違った長さに見え,極端な場合には長さのない 「点」 にも見えるように,4次元時空で固有の隔たりをもつ2つの事象の間の空間距離や時間間隔は,見る方向によって違ってきます。

  このことが,運動する物体が縮んで見えたり,時計が遅れて見えたり,極端な場合にはある立場の人にとっては同時刻 (=1点に見える) に起こったことが別の立場の人にとっては同時刻でなかったり (=ある長さを持って見える) という形で現れるのです。 要するに時間と空間は独立した存在ではないということに尽きます。

  「ある立場の人 (走っている列車の中の人) にとって異なる時刻に同じ場所で起こったことが,別の立場の人 (地上にいる人) にとっては異なる場所になる」 という当たり前のことが,「場所」 と 「時刻」 を入れ替えて, 「ある立場の人にとって異なる場所で同時に起こったことが,別の立場の人にとっては同時でない」 という形で現れるのです。

  こういう謎々みたいなことを最初に吹っかけられるから,パニックに陥ってしまうのでしょうね。
目次へ

< 大航界時代 >

  さてもう一つは,3次元の一様なユークリッド空間(あるいは上で導入した4次元時空)をどこまでも無限に延長していいのかという問題です。

  宇宙の船に乗って地球を飛び出して宇宙空間へ向かって真っ直ぐにどんどん進んで行くとします。しかし,ちょうど大航海時代に帆船で2次元の洋上を西へ西へと進んで行ったらヨーロッパにもどってきたように,真っ直ぐに進むということがどんな意味を持つのか,今度は3次元の直線というものがあやしくなってくる可能性があります。

  地球儀の上で2点間に糸をピンと張ったら,これが最短距離という意味で球面上での直線ですが,これを地球儀の外,つまり3次元の空間から見れば直線ではなく,明らかに曲がっています。それでは,3次元空間で2点間にロープをピンと張ったら,これは直線でしょうか?この場合も,もう一つ上の世界−−4次元の世界−−から見れば直線ではないかもしれません。つまり,我々の住んでいる3次元空間がユークリッド空間であるという保証はないのです。

  実際,どの星からも十分離れた空間で宇宙船の外を全く見えなくしておいたとき, 「真っ直ぐに」 というのはどのようにして保ったらいいでしょうか?

  自然界には 「物体は力が働かなければ真っ直ぐに運動し続ける」 「光は真空中を真っ直ぐに進む」 という法則があります。こういった自然の基本原理を頼りにして直線というものを即物的に定義するしかないのです。少なくとも宇宙を語るときの直線はそういうものでなければなりません。
目次へ

<無重力状態>

  宇宙船が星の近くを通りかかるとき,軌道は星の重力によって曲がります。宇宙船がこのように重力のなすがままで運動するときには,宇宙船の中の人は全く力を受けません。重力によって放物線を描いて落ちていくとき,あるいは地球の周りをまわり続ける人工衛星の中と同じ無重力状態なのです。

  したがって,宇宙船に乗っている人は,窓を閉めておけば星に近づいたことに気がつかず, 「何の力も働いていないから自分たちは真っ直ぐに進んでいる」 と主張することになります。

  光はどうでしょうか?光は空気やガラスや水のような物質があると速さが変わるため屈折しますが,何もない真空中ではどこでも同じ速さで伝わるため,屈折することなく真っ直ぐに進むことが知られています。
目次へ

< 加速度運動と慣性力(見かけの力) >

  高校で物理をとった人なら 「加速度運動では慣性力(見かけの力)が働く」 というの,覚えていますね?加速するロケットの中で水平 (これは進行方向に直角にという意味) に投げられた物体は,加速方向と反対向きに見かけの力が働くため,重力が働いた場合と同じように放物線を描いて 「落ちて」 いきます。

  これは外から見ておれば,物体が 「落ちていく」 というより,物体が横向きに一定の速さで進んでいく間にロケットの方は進行方向に加速されてどんどん速くなるから物体は取り残され,ロケット内での物体の軌跡は放物線になるということです。だからこそ「ロケットにとって見かけの力」という特別な名前がつけられているのです。

  光はどうでしょう。 上のように考えれば,加速しているロケットに横の窓から真っ直ぐに入ってきた光も,ロケットの中では直線ではなく放物線を描いて通過していくことになります。光が一定の速さで通過している間にロケットの方はどんどん速くなるからです。つまり,光も同じように 落ちていくように 見えるということです。
目次へ

< 光も重力を受ける >

  そうすると,ひょっとしたら見かけの力ではなくホントの重力が働いていても光は曲がるかもしれません。光は質量をもたないのに!です。実際,皆既日食 の瞬間を利用して,太陽の近くを通過する星の光は少し曲がって地球に届くことがちゃんと観測されました。

  重力の働く地上で投げられた物体が描く放物線の式,あれを習った人はちょっと思い出してみてください。例えば、x 方向に初速度 v0 で水平に投げられた物体の軌跡の方程式は

   x = v0 t ,  y = - g t2/2  より  y = - [g/2v02] x2

でした。結果の公式には物体の質量は全く入っていませんね?重い物でも軽い物でも,「落ち方」 は全く同じになります。これは,ガリレイが発見しピサの斜塔で実験してみせたと言われている有名な話ですね。

  ということは,この公式は質量がゼロの場合にも適用できる,つまり光も放物線を描くかもしれない と考えてもいいでしょう。 実際には放物線ではなくて,光はあまりにも速いので太陽のような大きな星の近くを通る際にほんの少し曲がるというだけですが。

  ニュートンは光は粒子であると考え,万有引力の影響を受けるのではないかと予想しました。1800年頃には,仮に光が質量をもつ粒子だとして,光が太陽のすぐ近くを通るときに太陽の万有引力によってどれだけ曲がるかが計算されています。上で見たのと同じで,ニュートンの力学を使えば質量が分からなくても計算できます。100年後にアインシュタインが一般相対論によって計算した正しい結果(=日食で確かめられた値)では2倍違っていましたが,「光も重力の影響を受ける」 という考えは,一般相対論よりずっと前からすでにあったと言えます。
目次へ

< モンキーハンター >

  そこで,ニュートン力学のもう一つの例え話を紹介しておきます。初等力学で 『木の枝にぶら下がっている猿が手を離す瞬間に鉄砲の引き金を引いて猿に命中させるには,どこを狙えばよいか?』 という演習問題が出てきます。弾が届くまでの短い時間の間にも猿は少しは落ちますから,勘を働かせて少し下を狙いたくなります。ところが実は,手を離す瞬間の猿を狙えばちゃんと命中する」という話です。

  銃で撃つのはかわいそうですから,リンゴを投げることにしましょう。猿が落ちる間にリンゴも同じように重力を受けて同じだけ落ちますから,結局,手を離す瞬間の猿をめがけてリンゴを投げたら命中するわけです。自由落下する猿から見ているとリンゴは自分に向かってまっすぐ,等速度で飛んできます。 つまり,猿もリンゴも同じ重力を受けて落下するため,ともに無重力系になっており,この中でリンゴは等速直線運動をしたと言えます。

  重力のなすがままに落下する系 (猿,あるいはワイヤの切れたエレベータの箱の中) は無重力系であり,どの星からも遠くて重力の及んでいない宇宙空間と同じとみなせます。箱に窓が開いていなければ見分けがつきません。したがって,この自由落下する無重力系の中でも光は直進するはずではないかということになります。

 そのためには,重力の働いている空間では光も猿と同じ重力の影響を受けて 「落ちる」,つまり重力によって少し下へ曲がっておればよいわけです。
目次へ

< 2種類の質量 -- 等価原理 >

  上の文脈で一つだけ注意しておかなくてはならないことがあります。放物線の式で物体の質量が消えてしまったのはなぜでしょうか?放物線の式を導くときに用いる法則は2つあります。一つはニュートンの運動の法則

       「 質量×加速度 が物体に働く力に等しい」

です。もう一つは万有引力の法則に基づく

       「地球上で物体に働く重力は物体の 質量 に比例する」

です。質量とは文字どおり 「物質の量」 のことです。2つ法則は全く別の独立な法則ですから,そこに現れる 「物質の量」 が同じものである必要はありません。例えば静電気力の場合は物質がもつ電気量が関係します。この2種類の質量を同じであるとするから,放物線の式から質量が消えるわけです。

  ガリレイはこの事実には気がついていましたが,それ以上の意味を見抜くことはまだ不可能でした。アインシュタインはこの一致は偶然ではなく必然,つまり世の中はそのようになるべくしてそうなっているのだと考えて,これを 等価原理 と呼びました。

  加速中のロケットの中で働く 「慣性力(見かけの力)=−質量×ロケットの加速度」 に現れる質量と,実際の力 「重力=質量×重力加速度」 に現れる質量が実は全く同一のものであるということは,この2種類の力を区別する必要もないのではないかということを示唆します。あるいは,自由落下している場合の無重力と,どの星からも十分離れた宇宙空間における無重力は,もともと同じことではないかということになります。
目次へ

< 遠心力って? >

  慣性力としてポピュラーなのは 遠心力 でしょう。加速度運動の一種である回転運動をしている座標系に置かれた物体や人が受ける,外に振り飛ばされそうになる力ですね。これに関して一つ気になっていることがあります。少々くどいですが,皆さんの中には高校の先生を目指す人もいるでしょうから,一度考えてみてください。

  「遠心力は,回転系に乗った人が運動を観測したときに現れる,見かけの力 」 です。確かにその通りなのですが,正確には,あくまで 静止系( F = ma が成り立つ慣性系) の立場 から回転系(一般に非慣性系)内の運動を考察する場合に必要となる からこそ,見かけの力 というのです。つまり基準になる静止系があってこその回転系です。もう少し詳しく言うと,静止系から回転系へ座標変換し(相対論の話をしながら,ここは何故か古典論),その座標系での運動方程式を導いてみて初めて,静止系で働いていた重力や糸の張力,バネの弾性力など真の力のほかに,遠心力やコリオリの力のような謎の力が現れ,これを「見かけの力」と言います。

  しかしこれは,最初から自分が乗っかっている回転系しか知らない人には,「見かけの力(慣性力)」なのかどうか,ほんとうは分からないですよね。そもそも回転系で静止した物体に働く遠心力,ましてやその大きさ( mrω2 )なんて回転系の上では定義しようがありません。私たちは(とりあえず)静止した地面での体験が身に染みているから,回転台の上で働く力が奇妙だなと感じ,それを静止系の立場から定義します。繰り返しますが,そうするしかないのです。

  また,現代人は地球が自転していることを知っているので,今度は地球の上に寝ころびながら,慣性系(とりあえず太陽系)の立場で地球上の運動を外から眺める能力を持っています。そこで初めて「見かけの力」であると認識するのです。[実際には話は逆で, (コリオリの力による)フーコー振子の一日レベルの奇妙な振る舞いから,地球が自転していることが確信されるようになったのですがね。京都では深草にある青少年科学センターに,吹き抜けの2階の天井から吊るされた本物のフーコー振子と,見学者が乗っかって短時間で「自転」を体験できる,回転台に背丈くらいの振り子を取りつけた縮小模型があります。あれは小学生にはもったいないから,皆さん,見学に行ってください。

  ヒモにつながれた物体が円運動しているとき,「ヒモの張力が向心力になって円運動している」,物体とともに回転している座標系で静止している物体では「ヒモの張力が遠心力と釣り合っている」,...回転しているのが物体そのものにせよ,物体が乗っかっている座標系にせよ,どちらも回転していることを認識できる静止系の立場で正しい表現ですから,場合に応じて分かりやすい方,扱いやすい方を (いちいち断らなくても) 自在に使い分けたらいいのです。

  ただし 「向心力と遠心力が釣り合っている」 というような概念の雑居はアウトです。教科書的に言えば 「円運動に必要な向心力として物体に働いているヒモの張力が,回転系では遠心力と釣り合っている」 となりますが,入試問題では受験生はさすがにそれくらいのことは承知しているものとして,長々と教科書表現を繰り返したりはしないのが標準でしょう。

  この場合ヒモの張力,すなわち真の力は両方の系で共通である ことが前提になっています。どちらも静止系の立場で見ているのですから,当然と言えば当然のことなのですが,これについても気になっていることがあります。例えば磁場 B の中を速度 v で運動する電荷 q に働くローレンツ力は,静止系では qv×B と表されます。これに対して磁場中で回転する導線のように電荷と同じ速度で回転する回転座標系(これは並進系でも同じ)では,電荷が静止する座標系を選んだので電荷の速度は v = 0 ですから,力の表現は意味が違うものになり,誘導起電力の変種,電場による力とみなします。

  このため静止系と回転系で何となく別の力のように思えるかも知れませんが,ヒモの張力や重力の場合と事情は全く同じで,あくまで両方の系で電荷に働く 力そのものは共通 です。したがって,運動する導線内での力の釣り合いを考える場面では,せっかく静止系で求めたローレンツ力が手元にあるんなら,先ほどのヒモの張力と同じように 「ローレンツ力が遠心力と釣り合っている」 と,気兼ねなく堂々と使ったらよいわけです()。

  ちゃんとそういうシナリオになっているのに,昔から試験問題に遠心力やローレンツ力が出ると 「大学の先生は何もわかっとらん!」 と鬼の首でも取ったかのように難癖をつける学生さんや高校の先生が時々います(個人的体験)。さすがにこの大学の物理のイロハのイの部分で大学の先生が勘違いすることは,まずありません。高校の教科書では,座標変換してから時間で微分することにより非慣性系での運動方程式を導くという手順を踏むことなく,「非慣性系の人が観測したとき」 ということだけが強調されているため,「その情景を慣性系の立場から考察している」ということが忘れられているのかもしれません。

少し難しくなりますが,参考のため付け加えておきます:
 電磁場の変換性  静止系に対して(瞬間的に)速度 v で運動する座標系では,(|v| ≪ c のとき,マクスウェル方程式で座標変換 x' = x − vt をすることにより)電場・磁場は E’ = E + v × B, H’ = Hv × D と変換されます。つまり,少なくとも古典論(局所的・瞬間的なガリレイ変換)の範囲では,このこと()が保証されるようにできています。ただし,運動によって磁力線を切るのではなくて静止系で磁場が時間的に変化するときのファラデーの誘導電場 ∇× E = −∂B/∂t は,ローレンツ力では説明できない別の現象です。高校の教科書では,どちらも起電力が閉回路を貫く磁束の時間変化率に比例し,同じ比例係数(−1)で統一的に表されるのに,たがいに関係があるのかないのか,なんとなく魚の小骨がノドに刺さったような違和感を持っている人もあると思いますが,実は古典電磁気学のミステリなのです。
 なお,遠心力などの慣性力は高々重力の程度なので,普通は電磁力に比べて十分小さいとして無視され表面に現れないため,試験問題が「回転系と静止系が区別されておらず混然として非論理的」という印象を招く一因になっているかもしれません。

 コリオリの力  回転系に対してさらに運動する物体には,遠心力とは別の慣性力も働きます。物体の質量を m,回転系の角速度(回転軸方向を向くベクトル)を ω,回転系に対する物体の相対速度を v として,2mv × ω と表されます。例えば,以下のような問題を考えてみてください。角速度ωで回転している回転系から静止系で静止している物体を眺めたら,自分とは反対向きに円運動します。この物体は回転系に対して各瞬間に −rω の円周方向の速度を持ちますから,中心に向かって 2mrω2 のコリオリ力が働き,遠心力 mrω2 との相殺で中心に向かう mrω2 の力が生じています。つまり,真の力が働いていない物体が,回転系から見れば慣性力が向心力となって円運動しているのです。慣性力を力として特別扱いしないという,以下の話につながります。



  寄り道が長くなりましたが,実は以上のことは,これからの話に密接に関連しています。

目次へ

< 虚空の回転台 >

  何もない無の空間のことを 「虚空」 と言いたかったのですが,仏教では 「すべての事物の存在する空間」,つまり宇宙空間そのものを指すようなので,もしそうであるならこの小見出しは少々語弊があります。ここで,仮にほんとに何もない無の空間というものがあったとします。星がいっぱい散りばめられた私たちの現実の宇宙ではありません。その無の空間で回転している回転台を空想してみてください。

  その台の上に乗った人に遠心力は働くでしょうか? 働くとしたらどれだけの大きさになるのでしょうか? ほんとに何もない無の空間では,自分は回転しているのか,どういう速さで回転しているのかは,はたして意味をもつことなのでしょうか?回転系に限ったことではありません。この仮想空間では,加速度のない慣性系ということが果たして特別な意味をもつでしょうか?

  ここで 「そうだ,そうだ」 と簡単にうなずかれるのも困ります。ニュートンは運動の相対性という考え方に抵抗して,回転するバケツの中の水の表面が真ん中のくぼんだ曲面になるのは,天の 「基準系」 に対してバケツが回転しているからだ,つまり回転運動こそこの宇宙で絶対的なものだと考えたのです。

  アインシュタインは正反対の道を選びました。全ての立場は自然法則に関して平等であるとする相対性原理を,(ある座標系から見て)回転系,つまり非慣性系にまで徹底しようとしたのです。特殊相対性原理では,絶対静止系というものを特別視せず,慣性系は互いに平等であると考えました。今度は,慣性系というものも特別視する必要はないのではないかというわけです

  つまり回転運動 (加速度運動) というものも比べる相手があってこその話であり,ある物体が「何か」 に対して回転している,あるいは相対性の考えでは逆にその「何か」の方が回転している,回転することにより物体に遠心力というものを及ぼしているのだ,それなら 「見かけの力」 をいつまでも 「見かけ,見かけ」 と,実際の力の仲間から差別する理由は何もないではないかということになります。このせいか,最近の高校の教科書では用語(成句)として「見かけの力」は使わなくなったようです。易しい言葉の方が必ずしも分かりやすいとは限らない,ということでもなさそうです。

  アインシュタインは,いわゆる万有引力は静止 (あるいは等速度運動) している物体 (質量) が及ぼす重力であるのに対して,慣性力は物体に対して相対的に加速度運動している遠方の物質 (質量) が及ぼす重力の現れ方の一つであると考えました。
目次へ

< 曲がった空間 >

  そうすると,重力が働く空間と加速度運動する空間は区別する必要はないということになります。光の進み方から想像されるように,そこはいずれもピタゴラスの定理の成り立たない 「曲がった空間」 になっています。質量をもたない光のことも考えるなら,重力に引っぱられたために運動の軌道が曲がったんだと考えるより,もともと空間が歪んでいると考える方が自然なんですね。

  大きな質量をもつ天体があると,その周りの空間,いわゆる重力場のある空間に歪みが生じて「へこむ」,そのくぼみに物体や光が通りかかると,その速さに応じて軌道が曲がると考えようというわけです。静止していた物体は真っ逆さまにすべり落ちる,うまくいくと落ちこまずに円または楕円軌道にのっかる,もっと速いものは少しは曲がるが「くぼみ」を脱出できる.....

  誰でも一度は見たことがあるでしょうが,巨大な質量が集中したために全ての物質はもちろん,光さえも吸い込まれてしまうというブラックホールの絵, 「太陽の周りでは重力のため空間が少々曲がっている」 なんていうより,あの絵の方が説得的かもしれません。
目次へ

< 時間も歪む >

  重力が働く空間では,光は進路だけではなく振動数も影響を受けます。

  まず,重力の働いていない空間で光の進む方向に加速しながら飛んでいる宇宙船から光を眺めるとします。宇宙船は進むにつれ加速されて速くなりますから,光が宇宙船の後端を通過した時よりも先端を通過する時の方が,宇宙船 (観測者) の速度が速くなっているいる分だけ 「ドップラ効果」 が大きいため,先端で観測される光の振動数は,後端を通ったときの振動数よりも少し小さくなります。

  つまり,宇宙船の中で働いている慣性力 (今の場合,宇宙船の後ろ向き) と反対向きに光が進む場合,光は進むにつれ次第に振動数の小さい赤い方にずれることになります。光が力の方向に進む場合は逆に青い方にずれます。

  ここでも加速度運動による慣性力と重力を区別しないとしたら,重力の働く空間では同じ光の振動数が,たとえ真空であっても場所によって異なるかもしないのです。そうすると先に述べた 「宇宙の基本法則」 による時間基準の取り決めに従えば,時間の進み方が場所によって違うということになります。

  実際,太陽よりずっと大きい恒星から出てきた原子の固有の光の振動数が一様に小さい方 (赤い方) にずれていることが観測されました。現在では,ナノ時計を使えば地上でも実験可能な程度のずれになります。カーナビの利用しているGPSの時計では,地上の同じ時計に対して1秒につきナノ秒程度進みますから,この補正をしておかないと売り物にはなりません。
目次へ

< 一般相対性理論 >

  こうしてたどり着いたのが 「一般相対性理論」 です。これは加速度運動や重力が働く 一般的な空間 を含めて,時空を定義する基本量である時空距離 (あるいは測地線) を自然の基本法則に則って定義しようとするものでした。

  局所的にはちゃんと3次元ユークリッド空間 (正確には先の4次元時空) になっていなければなりません。ちょうど地球が球面であっても,局所的には 2次元のユークリッド空間である平面 とみなしてよいのと同じです。

  また,特別な場合として我々の日常経験の範囲では, ニュートンの万有引力の法則が導かれるものでなければなりません。このように,それまで知られていた事実をすべて含み込むような形で一般相対性理論は構成されていきました。
目次へ

< 人類の進化 >

  宇宙には物質が存在し,その物質の間に働く重力が時空の性質を決めているということがわかりました。つまり物質という存在自体が時空の一部,時空の特別な現れ方と考えることができます。あるいは逆に,時空というのは物質が作り出す重力場そのものと考えることもできます。さらに,物質の間に働いている力は重力だけではありませんから,これで宇宙の全体像が描けたのではありません。つまり空間と時間以外にも宇宙の構造を決める別の次元が必要になるのですが,そのあたりの話になると私もお手上げです。結論だけ言うと,宇宙は 「9次元」 なんだそうです。

  途中の話は忘れても,このことだけは頭に残しておいてください。宇宙の時空の広がりに比べたら微塵のごとき地球上で数千年というほんの一瞬の体験から獲得した時空観を,宇宙全体に適用しようなどと不遜なことを考えてはいけない,不動の平面だと思っていた大地が実は端のない球面で,しかも宇宙空間を彷徨していた,16世紀以降は誰でもこのことを理解できる,少なくとも受け入れることができるようになってきたように,私たちはより正確な宇宙像の理解へ向かって進化し続けているということを,です。
目次へ