2003/10/18

ケルビンの 「19世紀物理学の二つの暗雲」をめぐる誤解

  ケルビン (=ウィリアム・トムソン、 1824-1907、 イギリス) は、 その名が絶対温度の単位(K)に残されているように、 19世紀を代表する偉大な科学者の一人である。 『クラウジウスの原理』 (1850) と並んで熱力学第二法則のもう一つの表現である 『トムソンの原理』 (1851) の 「トムソン」 は、 科学史上に数多くのトムソン氏が見つかる中でまさにこのトムソンその人である。 ダーウインの 『種の起源』(1859) に対して、 熱伝導と熱放射による冷却速度から地球の年齢を算出 (1863) し、 「生物が進化を遂げる暇はなかった」 と真っ向から対抗する論陣をはったと言われている。 19世紀の物理科学の発展の中心に位置した科学者が、 生物の進化という事実を受け入れることができなかったということに、 科学の発展の歴史的な歪みを見てとることができよう。

  さて、 その大御所ケルビンが20世紀を目前にした1900年に、 『19世紀物理学の2つの暗雲』 なる有名な講演を行ったということを、 学生時代に誰かの講義か講演で聞いた覚えがあり、 頭の片隅に残っていた。 21世紀を迎えようとしていた時にこのことを思い出し、 たまたま依頼されていた雑文でこのことを次のように紹介した。 (『はじめに光あれ』

 .....世紀の変わり目が科学の進展にさほど影響をもたらすとも思えませんが、 1世紀前、 物理学は2つの難問に直面していました。 1900年4月の講演でケルビンは、 これを 「2つの暗雲」 と呼びました。 温度の単位に名前が残っている19世紀の物理学の大権威にすれば、 19世紀に完成した古典物理学のみごとな秩序に 「1点の曇りもなく」 としたかったのかもしれません。 実はこれは気がかりな暗雲どころか、 20世紀に入ってすぐに始まった現代物理学における2大革命、 量子論と相対性理論の2つの曙光だったのですが、 ともに光に関する疑問から発したものでした。 .....

  すなわち、 ケルビンの言う19世紀物理学の2つの暗雲とは、 一つは光を伝える媒質であるエーテルに対する地球の相対的運動による ”エーテル風” を観測できないこと、 もう一つは熱放射 のスペクトルを説明できないことの2つであると、 はっきりと記憶していた。

  この確信が揺らいだのは、 2001年5月に中村勝弘氏 (大阪市大) を招き、 量子ビリアード問題に関するセミナーを行っていただいた時に、 氏から 「第二の暗雲はエルゴード問題である」 との指摘を受けた時であった。 ( 『日本物理学会誌』 56巻、 233ページ、 2001年)

  京都大学総合人間学部図書館は第三高等学校の蔵書を引き継いでおり、 幸い1900年以降の Philosophical Magazine も地下の稠密書庫に保管されていた。 さっそく地下に潜り込み、 ケルビンが1900年4月に王立協会 (Royal Institution of Great Britain) において行った講演の再録 『熱と光の動力学理論にかかる19世紀の暗雲』 "Nineteenth Century Clouds over the Dynamical Theory of Heat and Light" (同誌、 Ser.6, Vol.2, p.1, 1901年) に目を通してみたところ、 第一の暗雲は確かにエーテル中での地球の運動に関するものである。

  ところが、 第二の暗雲 「エネルギー分配に関するマクスウェル-ボルツマン原理」 の項 −−−全体の3/4以上がこちらに費やされている−−− には、 熱放射 あるいはそれに関連すると思われる概念はひとことたりとも見あたらなかった。 マクスウェルの分子運動論に基づくエネルギー等分配則について、 とりわけ 多原子分子の比熱 をめぐる問題点の検討が延々と続き、 最後は中村氏の指摘どおり、 エルゴード問題すなわち等分配則の根拠そのものに議論が及んでいるのである。

  分子運動論によれば、 ヘリウムやアルゴン、 水銀など単原子分子の理想気体では、 分子を質点とみなして自由度を並進自由度の 「f=3」 とすれば、 定圧比熱と定積比熱の比は γ=(f+2)/f=5/3≒1.67 となり実験事実とよく合う (実測値はこれよりやや小さいことをケルビンは問題にしているが、 むしろ よく合う と言うべきであろう) 。 これに対して水素や酸素、 窒素などの2原子分子では、 統計力学の初歩的応用で一番に出てくるように、 観測されていた γ≒1.4 の値を説明するためには、 分子を長さが不変の剛体棒と考え、 並進の自由度3と回転の自由度2だけをあわせて 「f=5」 とする必要があった。

  結合軸の周りの回転を考慮する必要があるかどうかは別として、 エネルギー等分配則は位置エネルギーにも適用されるにもかかわらず、 原子間距離の 振 動 の 自 由 度 を 含 め て は な ら な い のである。 固体の比熱理論においては、 この自由度を勘定に入れることで 「デュロン-プチの法則」、 すなわち C=3R/2 ではなくて 「C=3R」 がみごとに説明されるにもかかわらず である。 あるいはこの原子間結合の剛体性をそのまま固体に適用するなら、固体の熱容量は存在しえないことになる。

  以上の経験事実は、 原子・分子に対する量子力学の完成を待たないと説明できなかったことは確かであるが、 ケルビンの講演した当時 (というより瞬間という方が適切かもしれない) は、 等分配則をめぐる問題としては、 熱放射スペクトルに適用したときに現れる矛盾ではなく、 こちらの方が深刻だったのである。 これは、 (おそらくケルビンの指摘の根拠になったのではないかと思われる) レイリーの論文 "The Law of Partition of Kinetic Energy" (Phil. Mag. Ser.5, Vol.49, p.98, 1900年)に詳細にまとめられている。 (論文には日付がなく前後関係は正確ではないが、 このような共通の問題意識は煮詰まってきていたものと考えてよいだろう。 )

  熱放射の問題にエネルギー等分配則の考えが初めて適用されたのは、 実はケルビンの講演より 2 ヶ 月 あ と、 このレイリー (同誌、 p.539) によってなのである。 後にジーンズによって 「レイリー-ジーンズの式」(1905年) としてまとめられたものの種本である。 したがってケルビンもレイリーもこの瞬間 (4月) までは、 「等分配則を熱放射に適用した場合の矛盾」 という問題意識はなかったのではなかろうか? どう見てもそれ以前の問題として、 まだ得体の知れぬエーテルではなく原子・分子の運動の範囲で、 等分配則そのものが正しいのかどうか、 そちらに関心が集中していたと思われるのである。

  実はレイリーの論文では、 熱放射スペクトルの式として後の世の量子力学の入門書に 「レイリー-ジーンズの式」 として紹介されることになる 長波長域でよく合う式 ではなく

     T λ-4 e-C/λT

と、 全放射エネルギーの積分を短波長側で収束させるために、 後の 「レイリー-ジーンズの式」 にはない 指数因子 が こ っ そ り と 経 験 的 に持ち込まれている。 指数因子を含む式は、 すでにウイーンが少し異なる

     T4 × (λT)-5e-C/λT d(λT) =λ-5 e-C/λT

の形で導いていた。

  ウイーンは分子の速度 u と分子が放出する放射の波長 λ (または振動数 ν ニュー) が関数関係にあると仮定した上で、 分子の速度に対してマクスウェル分布 ∽ exp (-au2/T) を適用し、 自身が熱力学に基づいて導いた、 あのエレガントな 変位則 「スペクトル強度∽F(ν/T)」 に合うように、この指数因子の形を決めた (1896年)。 あとの因子はシュテファン-ボルツマン則 「総放射エネルギー∽T4」 に合う最も簡単な形をとればよかった。

  レイリーはこれをなんとか直接、 電磁場の理論から根拠づけようと試みたのである。 何よりもウイーンの式では高温ではスペクトルが温度によらず、波長による有限な一定値になってしまうことが許せなかった。 そこで、

... According to this (Boltzmann-Maxwell) doctrine every mode of vibration should be alike favoured; and although for some reason not yet explained the doctrine fails in general, it seems possible that it may apply to the graver modes. ...

すなわち、 「等分配則は、 まだ説明できていない何らかの理由で (電磁場に適用した場合ではなくて) 一 般 に うまくいかないことはあるのであるが」 と断った上で、 (こちらはウイーンの指数因子をこっそりとまねておき、) T4則に 合 う よ う に ではなく、 電磁場の自由度に対する等分配則から残りの因子を決定して T4則を 導 き 出 し た といえよう。

  しかしながら、 このときレイリーはまだ電磁場の自由度を弦や音波のモード分布から単に類推したにすぎず、 これを電磁場の理論によって正しく導いたのが後のジーンズ (1905年) であった。 (On the Partition of Energy between Matter and Aether, Phil. Mag. Ser.6, Vol.10, 1905) つまり、ここに至って初めて 「電磁場の自由度 (むしろこの時期でも 「エーテルの振動」 か?) にエネルギー等分配則を適用したときの矛盾」 が露呈したといえよう。

  ウイーンの放射式は、 少なくともこの時点までに観測されていたスペクトルを 大 域 的 に はよく再現するものであった。 その後の測定 (1899年) により、 どちらかといえば長波長域で少しあわないことが判明した。 この 長波長域での微妙なずれ を解決すべく奮闘していたのがプランクであった。 そしてレイリーとは全く独立に、 ほとんど同時 (1900年10月) に、 レイリーの分子運動論とは別の流れであるボルツマン、 ウイーンの熱力学的な考察に幸運な こ じ つ け (としか、私には思えない)を付け加えることにより、 有名な熱放射公式

     λ-5 dλ / [ eC/λT - 1]

を導き出したのである。 その結果があまりにもみごとに観測されているスペクトルとあうことから理屈を探し求め、 なんとか19世紀の幕切れ直前の12月に、 今日で言う 「エネルギー量子」 の考えを提唱した。 現在ではボルツマンの名が冠せられている関係式 「S=k log W」 を実用的な問題に初めて採用し、 連続量を 「状態数 W」 として数え上げるためにエネルギーの最小単位の 要素 (量子) の考えを導入せざるを得なかった。 このエネルギーの離散化の考えは、「熱力学第三法則」 に名前が現れるプランクにとっては必然的な決着であった。

  しかしながら、 プランクの理論はそのめざましい結果とは裏腹に、 なかなか信用されず、 現に 「レイリー-ジーンズの式」 でさえ、 プランクの式よりずっと後になって発表される余地がまだあったのである。 ここでもし仮に、 私が誤解したように、当時すでにレイリーあるいはプランクが、 「等分配則を熱放射に適用した場合の矛盾」 という認識のもとに研究を展開していたとすれば、 アインシュタインの光量子仮説を待たずとも、 直ちに エネルギー量子 が受け入れられ、 プランクの公式の初期の地位は全く違ったものになったのではなかろうか?当初の評価は、熱放射によりボルツマン定数(ひいてはアボガドロ数)を精密に決定できることの方に歴史的な重要性があった。

  プランクは最初は 「共鳴子と放射の平衡」 という考えを採用していた。 この共鳴子に対してなぜ分子運動論による等分配則を適用してみなかったのかは不思議である。 すでに、 そ れ で は 説 明 が つ か な い ということが 常 識 になっていたのかもしれない。 それならばケルビンが 「等分配則の問題」 と言えば、 誰でも 「熱放射の問題」 と受け取る背景が十分にできあがっていたとも考えられる。 幸か不幸か共鳴子(振動子)の可逆性により熱平衡に達することはできないというボルツマンの批判が念頭にあったため、 プランクは 放射のエントロピー といういささか妖しげな概念を持ち込むことにより結果的には成功への近道を選んだのであるが、この意味でプランクの論文は、 早すぎた名論文と言えるかもしれない。


  以上のように歴史をたどってみると、 ケルビンの 「第二の暗雲 = 熱放射をめぐる問題」 と解するのはどう見ても短絡ではないかと思われるのである。 1900年4月の時点で、 熱放射の問題そのものが19世紀物理学では解決できなかった問題の一つであったことは 「結果的には」 間違いないが、 当時はそれほど問題点は煮詰まっていなかった。 むしろウイーンの理論により 「あと一歩だ」 と思われていた、 あるいは逆に、放 射 の 仕 組 み さえまだわかっていなかったではないか、と言ってもよいだろう。実際、後にアインシュタインは、ボーアの励起原子による光放射の理論が発表されるや、そこに 「誘導放出」 を追加することにより、苦もなくプランクの式を導いてしまった。


  ケルビンの第二の暗雲に関する誤解は、 どうやら私だけではなかった。 おそらく21世紀の到来を意識して書かれたと思われる佐藤文隆氏の 『物理学の世紀』(集英社新書、 1999) にもちゃんと 「実験でエーテルが検出されないこと」 と 「黒体放射と呼ばれる熱放射の理論の破綻」 と書かれている。 気がついたものでは、 米沢富美子氏の名著 『ブラウン運動』(共立出版、 物理学Oneポイント) にも、 さりげなく現れる。 このことから、 つい最近までは、 京都大学理学部で誰かが 「20世紀初頭の物理学革命」 とでも称した講義でアジテーションを行ったことによる、 ロ ー カ ル な 誤 解 の連鎖ではないだろうかとさえ考えるようになっていた。

  ところが、 最近刊行された小山慶太氏の 『科学史年表』(中公新書、 2003年)−−−大学の講義で重宝する貴重な話題の提供には感謝している−−− に、 「エーテルに関する地球の運動」 と 「熱放射のスペクトルに関する問題」 と書かれているのを発見したのである。 氏の 『異貌の科学者』(丸善ライブラリー、 1993年 ) のことを思い出して読み返してみると、 やはり 「ケルビン」 の章には同様のことが書かれていた。 ただし、 こちらはケルビンの論文の冒頭部分が正しく引用され、 等分配則に関する問題とされているにもかかわらず、 続く本文では当時の熱放射をめぐる問題点が詳細に紹介されている。

  古いところでは、 広重徹氏の 『物理学史』(培風館、 新物理学シリーズ、 1968年) でも 「熱放射の問題」 となっていた( I巻、 152ページ)。 冒頭に紹介した記事を書いたときにはこの記述に気がつかなかったため、 あらためてこの下りを読み返してみると、

 ...Kelvinはロイヤル・インスティテューションで、 19世紀の物理学を誇らしげに回顧して、 原理的な問題はすべて解決してしまい、 いまや物理学は、 地平線上に小さな雲が二つ見られるほかは、 きれいに晴れわたった青空にも比せられる、 と講演した。 ...

とあり、このあとに上記の2つの暗雲が紹介されている。

  私が京都大学理学部物理学科に在学していた1965年頃には毎年、 広重氏による物理学史の集中講義が行われていた。 冒頭の私の文と比較してみると、 あたかもその歴史的な現場にいあわせたかのような臨場感あふれた格調が実に似通っており、 私の脳裏にケルビンの暗雲のことを刷り込んだのは、 広重氏の集中講義に違いないという気がしてきた次第である。 ただし、 氏の名誉のために断っておくが、 同著 II 巻15章 「量子論」 においては、 上で述べたような熱放射から量子力学に至る物理学の発展史が正しく追跡されていることは言うまでもなく、 今回のこの雑文もそれに照らしながら検討し直した。

  「1900年を契機にして起こった20世紀初頭の現代物理学革命と、 去りゆく19世紀物理学の傑物」 という、 このあたりの物理学史を学んだ者なら誰しも思い浮べたくなるドラマティックな構図であるが故に、 このような誤解を生んだのかもしれない。

未 完 (→ 研究会講演[pptファイル])(2003/12/13)

  犯人捜しとしては国外の書物も調べてみる必要があろう。 例えば、 Phil. Mag. に収録されたものとは別に講演原稿あるいは直接講演を聞いた人の記録があるのかもしれない。 論文には 「講演の要旨に、 13ヶ月かけて多くの追加を加えて再現した」 と書かれている。 なによりも広重氏の上記の紹介文は劇的で、 「地平線」 とか 「晴れわたった青空」 とか、 修飾が多すぎるのである。 論文の冒頭から Clouds が現れるまでの部分には単に

 §1  The beauty and clearness of the dynamical theory, which asserts heat and light to be modes of motion, is at present obscured by two clouds. ...

と原文ではわずか3行が、 いとも控え目に書き下されているいるだけなのである。

  広重氏の 「誇らしげに」 という表現からは、会場に居合わせた誰かが、 何年か後に量子力学が完成したあと、 あるいはケルビンの没後 (1907年) に、 この偉大な科学者を回顧しながら書いたものが種本になっているのではないかという想像もできる。 ついでであるが、 理学部地質学鉱物学図書室に所蔵されているケルビンの講演論文集 "Baltimore lectures on molecular dynamics and the wave theory of light" に収録されたものも、 克明に比較したわけではないが同じものと思われた。

  なお、 関連する問題として、 量子力学の教科書によく書かれている 「プランクは、 長波長でよくあうレイリー-ジーンズの式と、 短波長でよくあうウイーンの公式の内挿公式を考えた」 (例えば、我々の世代にとって量子力学のバイブルであった名著・朝永振一郎 「量子力学」 Iの28ページ) というのも誤解である。 実際、 レイリーの最初の論文とプランクのそれとはほとんど同時期であり、 ジーンズの式は5年後である。 上に述べたようにウイーンの式は大域的によく合っており、 プランクには 「長波長域でそれよりも優れたレイリーの式」 という認識はなかったと考えてよい。



(追記 2016/5) 第二次大戦前後に活躍していた科学史家・天野清の「量子力学史」に同様の記述(2つの暗雲)がある(という指摘がある)ことを、ある人から聞かされた。学生時代に復刻海賊版を手に入れていたのだが、どこかに失せてしまった。吉田南図書館に行き、質の悪い接着剤で製本されているためページがバラバラになってしまっている本を恐る恐るめくってみた。確かに1つの暗雲は「熱放射」になっていた。第1章でプランクに至るまでの量子論前史が丁寧に扱われている流れからすればごく自然な成り行きであり、あっさりとわずか2行で書かれているだけで広重本の臨場感はなく、読者にさほどの影響を与えたとは思えない。