「はじめに光あれ −−−古典のすすめ−−−」

(総合人間学部図書館報「バベルの図書館」第2巻2号掲載)

 創立記念日で閉館中の書庫に忍び込んでいて堤さんに見つかり、頼まれてしまいました。入り口でチラと姿を見かけたような気がしたので、館の奥まで泳がせて逃げられないようにしておいてからアミを仕掛けられたのでしょう。「バベルの...」と聞いて、連想からこんなタイトルで書き始めましたが、未完成「物理学概論」講義ノートのつまみ食いです。

 世紀の変わり目が科学の進展にさほど影響をもたらすとも思えませんが、1世紀前、物理学は2つの難問に直面していました。1900年4月の講演でケルビンは、これを「2つの暗雲」と呼びました。温度の単位に名前が残っている19世紀の物理学の大権威にすれば、19世紀に完成した古典物理学の見事な秩序に「1点の曇りもなく」としたかったのかもしれません。

 実はこれは気がかりな暗雲どころか、20世紀に入ってすぐに始まった現代物理学における2大革命、量子論相対性理論の2つの曙光だったのですが、ともにに関する疑問から発したもの(注)でした。

(注=追加)ケルビンの「2つの暗雲」が「ともに光に関する疑問から発したもの」というのは、少し正確さを欠いています。2つ目の暗雲については、ケルビンの講演録では直接、光 (熱放射) のことに言及していません。

 光については有史以来、その正体をめぐって様々な説、粒子説、波動説を経て、19世紀にマクスウェルが電磁場の理論を完成するに及んで、真空の空間をおよそ毎秒30万kmの速さで伝わる電磁波の一種であることが確認されていました。

 物質を構成する基本粒子は、粒子の種類によって異なる質量をもっており、質量をもった粒子は互いに重力(ニュートンの万有引力)を及ぼしあいます。

 粒子はこれ以外にも電気量をもっており、この電気量のこと(あるいは電気量をもった粒子のこと)を電荷(でんか)といいます。電気量は質量と違ってプラスとマイナスがあります。この電荷の間にも重力に比べるとずっと強い別の力、静電力(クーロンの力)が働きます。

 物質が存在して、重力とか電気的な力とか、あとで出てくる磁気的な力を伝えることが、我々の宇宙空間の基本的な性質です。これを次のように考えます。

 ----空間のどこかに電荷が置かれると、その周りの空間にある性質が生じる。どんな性質かというと、その中に置かれた別の電荷に静電力を及ぼす。空間に生じるこのような性質を電場(でんば)といいます。

 電荷が運動する、つまり電流が流れると、今度は周りの空間に磁場(じば)を生じます(電磁石の原理)。磁場は、その中を横切って運動する電荷(=電流)に先ほどの静電力とは別の性質の力を及ぼします(電動モータの原理)。見方を変えると、磁場が時間的に変動すると電場を誘発することになり(発電機の原理)、その逆の誘発現象も起きます。

 このようにして、電荷をもった粒子、たとえば電子が交流アンテナの中や原子の中で振動すると、その周りの空間に振動する電磁場が生じ、これが隣り合う空間に次々に誘発されて伝わっていく、これが電磁波です。

 つまり光を伝えることは我々の宇宙空間そのものの基本的な性質だということです。これはマクスウェル方程式という形で表現され、先ほどの2種類の誘発現象を表す方程式の係数から光の速さが決まります。そして、津波や地震波が到達すると巨大な破壊力を示すように、電磁波もエネルギーを運ぶことが示されます。エネルギーとは、仕事をしたり物体を熱したりする能力です。

 光は地球上における万物のエネルギーの源です。物体は電熱器の金属線のように、熱せられると熱放射といって光(正確には光や赤外線もその仲間である電磁波)を出します。これは分子や電子の熱振動によるもので、放射全体の強さや色は温度によって決まります。

 例えば夜空に輝く恒星の温度はその色で判別します。表面温度が6000度の太陽からは、いわゆる可視光と呼ばれる範囲の電磁波が最も多く放射されており、可視光の中でもピークに位置するのが緑色の光で、地球を覆っている植物の大部分はこの緑の光を使って光合成を行い[注:この部分誤り。以下に訂正あり]、動物はそれを食べ、さらに人間は直接あるいは石炭になった植物を燃やして利用してきました。

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前号「はじめに光あれ」訂正
「緑の光を使って光合成を行い、...」は誤りでした。正しくはクロロフィルが緑色の色素をもっているためです。つまり、可視光帯の両側の赤色と青紫色の光を吸収して光合成をおこない、可視光の残部の緑色が支配的になるやめ、葉っぱは緑色に見えているそうです。(念のため:クロロフィルの緑色の色素が緑の波長の光を出しているわけではありません。)1回生農学部の坪田貴恵さんが、物理の試験の答案の余白で誤りを指摘してくれました。20年ほど前に聞いた話を間違って理解していて、考えもせずに書いてしまいました。ちょっと考えてみるだけで初歩的な間違い --- 緑を吸収したら緑ではなく補色のマゼンタに見えるはず --- がわかります。読者の皆さんにお詫びするとともに、坪田さんに感謝します。

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 あるいは太陽熱によって上空に持ち上げられた水のエネルギー(このようなエネルギーを位置エネルギーといいます)を、水車とか水力発電という形で利用します。最近ではこの太陽エネルギーを直接利用することが盛んになっています。

 太陽からやってくるエネルギー流は、地球上で1uあたり1400ワット、これを全部使うことができればクーラーなんてガラス窓1枚分くらいで軽々と動くし、1リットルの水なら5分足らずで沸かせます。

 地球全体では莫大なエネルギーを受け取っていることが想像できるでしょう。さてそうすると、地球にはどんどんエネルギーがたまり、しまいには太陽のように融けるのでは?と不安になるかもしれませんが、暖められた地球自身も熱放射を行ってエネルギーを放出します。

 吸収と放射でエネルギー収支がとれているとして計算すると、地球表面の温度は平均でセ氏10度弱、これは水が液体でいる温度で、地球上の殆どの生命はその水を使って活動を維持しています。

 地上の生命活動の必然性が、太陽系における地球という偶然から生じているのです。このように人類は光の申し子のようなものですから、光に対する科学的関心が高かったことは当然です。

 量子論は、この物体の温度と色の関係、いわば光の正体をめぐる疑問から生じたもので、普仏戦争後のドイツの鉄鋼生産の飛躍、溶鉱炉の研究という生臭い話が背景にあったと言われています。

 もともと科学なんて金儲けがからんで始めて飛躍する宿命にあり、その極みが戦争における兵器開発です。化学の元祖は錬金術だし、熱力学なんてきわめて露骨です。

 産業革命期に蒸気機関が発明されると「石炭を使わずに動かせないか?」これが無理(熱力学第一法則)だとわかると、今度は当然ながら欲張りな資本家達は「せっかく金で得た熱だから100%使わんと損」となり、これさえも果たせない夢であることを思い知らされる(熱力学第二法則)

 おかげで科学者の方は現代科学においても最も重要な概念の一つであるエントロピーの発見に至る、という調子です。

 最初に「波はエネルギーを運ぶ」といいましたが、このエネルギーは地震のように振動の強さ、すなわち波の振幅によって決まります。振幅というのは連続な量ですから電磁波のエネルギーも連続な量です。

 そうすると、あとで説明しますが物体の温度が上がればどの色の電磁波も一律に強められる(エネルギー等分配則)ため各色の構成比は変わらないことになり、物体の色あいが温度によって変化することの説明がどうしてもつきませんでした。これが暗雲の一つでした。

 これに対して「光のエネルギーは連続ではなく、色によって決まる最小単位のある、数えられる量」と考えれば説明できることに気付いたのがプランクで、1900年12月、19世紀幕切れ寸前のことでした。

 赤いチェリー、黄色のレモン、緑のスイカを別々に容器に入れることを想像して下さい。トラックの荷台くらいの容器であれば、それぞれ入る量は容器の大きさ(=温度)に比例して一律に増えます。

 しかし、バケツの大きさになると、チェリーとレモンはいいがスイカは1つ入るか入らないか、1か0かで、比例とはいきません。グラスではレモンもあやしくなります。これがジュースのように連続体であれば、入る量は常に容器の大きさに比例(等分配則)します。

 プランクの発想は今風に言えば「エネルギーもディジタル」というだけのことですが、「自然は飛躍せず」という思想が支配的であった当時としては革命的だったのです。同じ頃、光が波ではなく粒子のように電子を弾き出すと考えなくては説明のつかない現象が発見されました。光電効果といい、門柱の赤外線センサーに使われています。

 こうして18世紀に敗退した光の粒子説が復活し、光量子あるいは光子と名付けられました。もちろん光が波であることも厳然たる事実です。波というのは、音波のように塀の影に回り込んで侵入する性質(回折)や、波の山と山、谷と谷が重なると強めあい、逆の場合は消し合うという性質(干渉)を示します。

 追い打ちをかけるように、今度はそれまで粒子だとばかり思っていた電子が、この波の特徴を示すことが発見されました。

 このようにして、原子以下の微粒子の世界では、粒子といえば誰でも思い浮かべる「どこそこの位置をこれこれの速度で運動している」という、パチンコ玉のようなイメージを捨てなければならなくなったのです。こうして生まれたのが量子論です。

 「それなら、どんなもんなんや?」と問われても、既成の概念を使うなら「粒子と波の2重性格」としか言いようがないのですが、まだこれを的確に表す言葉を持ち合わせていないというか、未だに確たる合意に至っていないというのが現状です。

 我々は、たとえばある物体の速度を測定したら「毎秒○○mであった」、このことから速度のような物理量をuとかvという文字で表して足したり掛けたりの代数計算をしますが、量子論における物理量はこのような普通の数の代数規則に従う量ではないという否定的な表現にとどめておきます。

 実用的には、やや高級な数学を用いた体系が確立して精密な計算ができ、今日の化学やエレクトロニクスにとって欠かせない基本的な道具となっています。

 相対性理論の方は、光の速さ(光速度)に関するものです。光速度は毎秒30万kmという、とてつもない速さですが、太陽から地球まで達するのに500秒かかると言えば、手に負えないものでもありません。

 事実、すでに17世紀には季節による木星の衛星イオの見え隠れの間隔のズレから、これに近い値が測定されていました。問題はこの速さが「何に対する速さか?」ということです。

 速さというのは、それを測る基準系を決めないと意味を持ちません。音波ならば振動を伝える媒質は空気ですから、「シンフォニィホールで、あるいは飛行中の機内で静止している空気に対して毎秒300mの速さ」となります。最初に光は真空の空間を伝わる電磁波であると言いましたが、この何もない真空の空間とはどこかということです。

 当時は、光の振動を伝える媒質として真空を満たすエーテルというものが想像されていました。20世紀には消え去る運命にあるのですが、この奇妙なエーテルをめぐる疑問がもう一つの暗雲でした。

 エーテル(Ether)は英語読みではイーサで、これは現在でもイーサネットという呼び名に使われています。これを用いれば「エーテルは、どの空間において静止しているの?」という疑問になります。

 まもなく20世紀を迎えようという頃ですから、もはや地球が静止した絶対的存在であるなんて考える人はおらず、宇宙に静止した絶対静止空間(あるいは静止エーテル)というものを考えました。この空間で先のマクスウェル方程式が正しく成り立っており、光速度が決められるというわけです。

 これについては光行差といって、星の見える方向が季節によって微妙な差を示す現象が知られていました。雨が静かに真上から降っている中を自転車で走ると、雨は斜め上から降りかかってきます。

 同じことが星から降り注ぐ光についても起きるのです。星の光は宇宙空間をまっすぐに降ってくる、この中を地球は少なくとも公転速度=毎秒30kmの速さで走っているので、真上にあるはずの星の光は斜めに降り注ぐ、春と秋で地球の公転速度の方向が逆だから星の見える方向が季節によりずれる、というわけです。(注:自転速度は赤道上で毎秒460m)

 そこで、この静止エーテルに対する地球の速さ、つまり自転・公転だけでなく太陽系の速さ、銀河系の速さ等々も加わった正味の速さを測定しようということになりました。速さcで走っている「光号」の速さを、速さvの車で追いかけながら測ればc−v、すれ違いながらであればc+v、その差を測ればvがわかるという理屈です。

 相手が光でも同じです。地球は少なくとも公転運動をしており、その速さvは光速度cの約1万分の1くらいありますから、その程度の差であれば十分検出できる装置を工夫して挑戦したのがマイケルソンとモーレでした。

 何度目かの測定の際には、振動を与えないようクリーブランドの全交通が止められたといいますから大したものです。実際には光が東西方向と南北方向の同じ距離を往復するのにかかる時間の差を検出しようとしたのですが、何度も実験を繰り返したにもかかわらず、目的であった地球の運動は遂に観測されなかったのです。

 もし300年早ければガリレイの地動説に対抗する強力な反証として大歓迎されただろうに、「失敗に終わった世紀の大実験」となりました。

 マイケルソン達の実験が正確だとすると、光の速さは追いかけながら測っても、すれ違いながら測っても、つまり地球の運動に関係なく同じという不可解なことになります。これを不可解とは考えなかったのがアインシュタインです。彼は別の道を通ってたどり着くのですが、ここでは省略します。

 速度を決めるには長さの基準とともに時計、つまり時間の基準が必要です。彼はこの時間に注目し「宇宙空間と動いている地球で時間の進み方が違い、どこでも光速度が同じになるように進んでいるんだ」と考えたのです。

 空間は相対的、つまり地球上でどこそこの位置といっても、地球の運動のため宇宙空間においてはどんどん変わります。これに対して時間の方は全宇宙で共通、つまり絶対的時間を我々は信じきっています。

 しかし、時間という概念の獲得の過程を想像すれば彼の発想は決して不自然ではないのです。もともと時間は、太陽とか月の運動という自然現象の認識から獲得されたものにちがいありません。その自然現象との間に矛盾が生じれば、少なくとも自然法則を記述するために用いる時間は修正せざるを得ないのです。

 彼の考えは、光に関する観測結果をそのまま事実として受け入れる、最も素直なものだったのです。言うなれば、自然の最も基本的な性質である光の速さを新たに時間の基準にしようということです。

 ここを突破してしまえば、こちらの方は本当に中学校程度の数学だけを用いて理論を紹介できるのですが、省略します[付録参照]。

 この結果、光速度に近い速さの世界では、同時に起きた2つの出来事が別の立場から見れば同時でなかったり、動いている物体の長さが縮んで測られたり、時計が遅れたりということが現実に起きます。

 そもそも我々が用いる時間と空間の尺度は、自然を認識するために持ち込まれた枠組みです。我々の認識以前に自然現象が存在し、ある事象を我々は「いつ、どこそこで起きた」という形で認識します。

 我々は「いつ」=時間(t)を全宇宙に共通として特別視し、「どこ」=(x,y,z)の3次元座標で表される空間とは全く別ものとして考えることに慣れきっていますが、光速度の値が不変であるようにするためには、自然事象は時間と空間とを統一した(x,y,z,t)の4次元の世界で記述しなければ完全ではないのです。

 そうすると、4次元世界における2つの出来事の間の3次元的距離(普通の意味での長さ)や1次元の時間間隔は、どの方向を向いた枠組みで見るかによって異なってきます。

 普通の3次元空間で、ある長さをもった棒を2次元平面上(または1次元の直線上)に投影することを想像してください。平面(または直線)の方向によっていろんな長さに映る、場合によっては長さのない点にも見える、これと同じです。棒の固有の長さは、平面(または直線)が棒に平行になっているときにだけ正しく映されます。

 アインシュタインは「自然の基本法則(運動の法則、電磁場の法則)は、宇宙空間、地球、その他どの時空の枠組みにおいても同等の形で表現されるものであるはずだ」という要請からこの結論に到達しました。正確にはこのことを「相対性原理」といいます。この思想の原型は当時より遡ること300年、ガリレイにあります。

 いくら速くても一定の速度で静かに走っている新幹線の中では、研究室の椅子に座っているのと全く同じ調子でコーヒーを飲むことができます。スプーンを落とせばそれぞれの床に向かってまっすぐ落ちていきます。これは、地面でも列車内でも運動の法則が全く同じ形で成り立っているからです。

 端的に言えば、地面(地球)が静止して列車(天)が運動しているとしてもいいし、夜行列車で錯覚するように逆に列車(天)が静止して地面(地球)が運動しているとしても全く同等だということです。これを相対性原理といい、この立場に立てば先の絶対静止空間というものは全く必要ないのです。

 ただ、ガリレイの時代にはまだ電磁気現象は解明されていませんから、相対性原理は運動の法則に限られており、時間の相対性というところまで考え及ぶ条件は整っていなかったのです。

 もし時間の絶対性まで否定していたら監禁どころか処刑されたに違いないのですが、幸い彼が手にすることのできた道具は望遠鏡くらいで、なんと水時計を用いて振り子の等時性を発見し、新しい時計の原理として提唱したのがガリレイ自身であったという時代でした。

 アインシュタインの方はどうかというと、ここまで話してきた時間の相対性を基本とする特殊相対性理論にとどまらず、重力場のある空間と一般の加速度運動に拡張した一般相対性理論まで、あっという間にたどり着きました。

 光の速さが宇宙空間と動いている地球上で同じか違うかなんて日常生活には全く関係ないと思われるかもしれません。

 しかし、昔はプラチナのメートル原器で約束されていた長さの国際基準は、すでに1983年以来「これこれの時間に光が進む距離」とされ、時間の方は「セシウム133という原子の出す光が○○回振動するのにかかる時間」というふうに、どこでも共通な基本的自然法則を用いて、それぞれの場所で決めるように約束されているのです。

 国際というよりも宇宙的規約と言った方がいいかもしれません。また、今日では光や電波が通信手段の主流ですが、光通信といっても「のろし」とか手旗で情報を伝えていた時代ではなく、衛星から送られてくる時報電波のずれで車の位置を決めるような時代です。

 カーナビの場合、1万分の1どころか千万分の1秒の差から位置を計算する、この装置を何万円か出して買うとなると、もはや無関心ではおれないというものです。

光から生まれた量子論と相対性理論は、100年たった現在ではもはや「古典物理」に属します。アインシュタインはこの両方の分野で偉大な功績を残していますが、歴代の物理学者、いや科学者の中で彼ほど出版物を賑わした人はいないでしょう。

 その何分の一かは「相対性理論は間違っている」の類であることでも特異な存在です。現代の物理学は少し専門が違えば物理家でさえ用語がわからない「バベル」に陥っていますから、先ず古典から取りつくのが賢明と思います。ホラー小説の世界ではなく、人知が未知を確実に解き明かしていく推理小説のおもしろさがあります。この記事がそのきっかけになれば幸いです。

[付]ローレンツ変換の導出

数式は難しいという先入観にとらわれずにフォローしてみてください。使ってあるのは、中学校の一次方程式と平方根の記号だけです。

 『運動物体を、速さVで走る列車から観測する』 光 〜〜> 速さc :列車から見れば c-V ? |===> V | Vt | x' 運動物体 |-------------->|------------------> ● (x', t'):列車から見た場合 |----------------------------------> (x , t ):地面から見た場合 | x | | |__________________________________________ | O' >>> 列 車>>> V x' |___________________________________ O |||||||地 面||||||| x

 ガリレイ変換: 静止した地面における座標と時間(x, t)と、地面に対して Vで走っている列車の中の座標と時間(x', t')の間の関係は、時間は共通であるとして

  x'=x−Vt、 t'=t        (1)

で与えられ、運動物体の速さは v' = v - V となる。この一次方程式を、x, t を未知数とみなして逆に解けば、逆の関係つまり「逆変換」

  x=x'+Vt'、 t=t'        (2)

が得られる。つまり(1)で V のところを-Vに置き換えれば逆変換の式になるのである。これは「地面に対して列車がVで走っている」と考えても、「列車に対して地面が−Vで走っている」と考えてもよいという、「ガリレイの相対性原理」に対応する。

 この変換では地面に対して右向きにcで走る光の速さは、列車にとっては c-V になり、時間が共通であるとする以上、「光速度不変」にはならない。光速度不変になるためには、時間も座標とともに同じような変換を受けるものとしなければならない。(ローレンツ変換)

 ローレンツ変換:この場合

@逆変換の式がやはり「単にVが−Vに置き換わるだけで、形は変わらない」ためには、変換の式はやはり1次式であればよい。t=t'=0で原点が一致(x=x'=0)しているとして一次式を

 x'=Ax+Bt、  t'=Cx+Dt

と書いておく。これを上のガリレイ変換の場合と同じように逆に解くと、やはり一次式となり

 x=[D/(AD-BC)] x'−[B/(AD-BC)] t'、 t=−[C/(AD-BC)] x'+[A/(AD-BC)] t'

この2組の式が、相対性「V⇔−Vと変えただけ」の関係になっているように、係数A,B,C,Dを決めればよい。ちょっと眺めただけで、まず AD-BC=1、D=A らしい。したがって C=A2/B だ。あとはAとBだ。そこで

A「列車の原点 x'=0 は、速さVで進んでいるから地上では常に x=Vt の位置である。」ことから

x'=A(x - Vt)

の形のはず、したがって B=AV となり、残りはAを決めることだけだ。

以上から、変換(一次式)はただ一つ a(=1/A)を未知の係数として

  x'=(x−Vt)/a、t'=[t−(1−a2)x/V]/a  (3)

の形に書くことができる。実際、逆に解けば

  x=(x'+Vt')/a、t=[t'+(1−a2)x'/V]/a  (4)

となり、確かに Vを−Vに置き換えただけの同じ形の式になっている。あとは

B地面でも列車内でも、どちらでも光速度が同じになるように係数 a を決める。

t=0 に x=0 を発した光の位置は、t秒後に地面では x=ct、列車内では、これを(3)に代入して

  x'=(ct−Vt)/a=(c−V)t/a

  t'=[t−(1−a2)ct/V]/a=[1−(1−a2)c/V]t/a 

これが列車内でもやはり x'=ct' となっていなければならないから

  (c−V)/a = c[1−(1−a2)c/V]/a   ∴ a2=1−(V/c)2

(ローレンツ変換)

 以上より、運動の影響を受けない y,z も含めて書いておくと、「ローレンツ変換」(4次元の座標軸回転の式)が得られる。

 時間 t の代わりに「光が t秒 の間に進む距離 ct 光秒」を用いて、時間を長さで表してもかまわず、その方が式がわかりやすいので、ここからは ct を単に t と書く。速さ V も「光速の何倍」という表し方になる。ちょうど高速ジェット機の速さを、音速を単位にして「マッハ何とか」と表すやり方である。ただし、マッハと違って V は常に1より小さい。

           1
  x' = ---------- (x−Vt)
          [1−V2]1/2

  y' = y

  z' = z
              1
  t' = ---------- (t−Vx)
          [1−V2]1/2

この座標回転の式は以下の不変量(4次元固有距離または固有時間)をもつ:

  x' 2+y' 2+z' 2−t' 2 =x2+y2+z2−t2

我々の空間で起こった二つの事象(自然現象、社会現象など)
       A事件: 時刻 0 に場所( 0, 0, 0)で起きた。
       B事件: 時刻 t に場所( x, y, z)で起きた。
の間の3次元空間距離(x2+y2+z2)1/2 と1次元の時間間隔 t は、我々の常識ではそれぞれが独立した不変量(=見方によって変わらない量)であるが、相対性理論ではどの時空座標系で見るかによって変わってくる。

 しかし、今度は上の4次元時空距離が不変量になるのである。つまり、相対性理論は「絶対的なもの(不変量)を全て捨てた」のではなく、時空を統一した4次元空間で世界を見よというだけのことなのである。ただし時間と空間は完全に対等ではなく、上のように4次元距離を定義するときに、時間の2乗の項には負号がついている。

(カーナビゲータの場合)

 静止衛星[ほんとは静止衛星ではないのですが、ここではわかりやすいようにしておきます。]に時計を積んでおき、衛星から送られてくる時報信号電波(これも光と同じ電磁波の仲間)の到着時刻の遅れから衛星との距離を測り、自分の位置を決めようというのがカーナビゲータの原理です。

 静止衛星は地球の半径(6400キロメートル)の6.6倍くらいの高さで静止していますから、電波が届くのにおよそ0.1秒かかります。これなら陸上競技で使うストップウォッチでも差が計れるし、衛星中継テレビで海外特派員とのやりとりを見ていたら人間の感覚でも十分に時差を感じ取れます。しかし、この程度の精度では日本国中どこで受けても殆ど違いはありません。

 今日では少し上等の時計に使われているクォーツ素子なら、1ナノ秒すなわち10億分の1秒くらいまでは測定可能です。光速度は1秒間に30万キロメートル(地球の周長の7.5倍、半径の47倍)と、途方もない速さに思えますが、1ナノ秒に進む距離となるとわずか 0.3メートル です。

 そこで、複数の衛星から到着する時報の遅れの、ナノ秒精度での差を検出すれば、数メートル程度の精度で自分の位置が決定できることになります。(注:この方法なら、わざわざ静止衛星を使わなくても、京都市内なら吉田山と船岡山と京都駅ビル屋上の3点から電波を出すだけでも測定可能なのですが、軍事目的の衛星開発が先行していた、その電波のおこぼれをもらったというわけです。)

 ここで重要なことは、カーナビゲータは、地球と静止衛星の座標系(慣性系)において光はどの方向にも正確に同じ速さで伝わることを前提にして設計されているということです。

 もしそうではなくて、宇宙空間に対して光はどの方向にも同じ速さで伝わるだけで、それに対して地球がどの方向に運動するかによって光の速さが異なるのだとしたら、公転による地球の運動だけでも光速度の1万分の1くらいありますから、例えば 「2つの衛星からの時報のズレがない中間点」 の位置は衛星間の距離の1万分の1くらいずれてしまいます。

 静止衛星はおよそ4万キロメートルくらいの高さにありますから、この地球の公転運動だけでも数キロメートルの誤差が出てしまい、せっかくの「ナノ秒時計」も単なる高級品趣味の自己満足にすぎません。

 しかも実際には、マイケルソン-モーレーの実験で地球の宇宙空間に対する速さが検出されなかったように、地球の絶対的な速さは決めようがないのですから、カーナビゲータなんてインチキ商品そのものということになってしまうのです。

 マイケルソン-モーレーの実験は、当時としては最先端の技術のギリギリの限界で行われたものですから、「間違っていた」という人が出てきても仕方がないのですが、上で補足したように今日の技術ではわずか数万円そこそこの装置で、悠々と同じことをやってのけることができるようになっているのです。