最近、モーツァルトのCDを買った。私は昔からアイネ・クライネ・ナハト・ムジークが好きだった。
毎晩、ベッドに入るときセットして聞きな
がら眠ることにした。
目を閉じて聞いていると遠くの方から白いものが見えてきた。それはだんだん眼前に迫ってくる。よくみると、モランディの絵だ。彼が晩年に描いた風景だった。
彼は静物を主に描いているイタリアの画家だ。はじめて美術館でその絵に出会ったときの印象を未だに忘れられない。
テーブルの上に無造作にオレンジ色のびんやグレーの箱が並べてあるのだが、決して写実ではない。光がどこからどこへ向かっているのかもはっきりとわからない。とても静かな絵、なのだ。ひとつひとつの作品をじっくり観ていても特別に訴えるものは、私には感じられなかった。
しかし、全体をみわたしたとき「ものが存在する」ということや「自分の存在のあり方」などを考え続けたひとなのではないだろうか、と思えてきた。
初期の作品からは、自分を含むものの存在は不確かなものだ、と聞こえるように思うし、中期に入ると、その存在を確かなものにしようとしているようにも見える。そして、晩年は、確かな輪郭を残しながらも不確かな存在に戻っていくように感じる。
彼が一生をかけて考えたことを静かに語りかけてくれているような展覧会だった。
私は、この画家に出会うまでは、観るひとの心に原子爆弾を落とすほどの衝撃を与えるものが本物なのだ、と思っていたが、原子炉のなかで行われている核融合もまた同じくなのだと思った。表現が180度ちがうだけのことのようだ。
この展覧会を観ている間、ずーっと、ここでしか聞くことのできない音楽を聴いていた気がする。
モーツァルトはアイネ・クライネ・ナハト・ムジークを晩餐のあとのやすらぎの音楽だ、と言っている。
眠りに就こうとする私の目の前に現れた晩年のモランディ作「月明かりに照らされている家」の風景も、また実に居心地の良いやすらぎを、私に与えてくれているのかも知れない。
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