私は、小さい時から宇宙の話が好きだった。何万光年の星というのは、光の速さで何万年も走らないと行くことの出来ない星ということだ。実際には、その星は消滅しているかも知れないのに、地球では存在しているように見えている。反対に、今の地球の風景も何万年先にならないと、その星には到達しない、ということだ。
すると、光よりも速く走れる物に乗り込めば、そして地球から出ている光を追い越せば、私たちは過去の有り様を生中継のように見られるはずではないだろうか。そして、その光の河に飛び込めば、その時、そこに、生きているものの瞬間が見えるのでは? と、とりとめのないことを、考えていた。
そして、そこを細かく見れば、ひとが何かをしている姿やその場の風景、音などの一瞬が見えたり、聞こえたりするに違いない、というようなことを、子供心に思い浮かべていた。
いつだったか、坂東玉三郎が大阪で舞踊講演をした。メインプログラムは「阿古屋琴責(あこやことぜめ)」だった。これは阿古屋という花魁(おいらん)に「三曲糸の調べ」という曲を演奏させ、音色などから真実を調べよう、という話だ。最高級の遊女の魅力をみせつつ、舞台の上で実際に楽器を演奏しなければならないので、歌舞伎のなかでも特異な難役とされている。
私は、細々ながら?年ほど筝を習い続けている。この「三曲の調べ」は中心部に、筝、三弦、胡弓、という三種の弦楽器のパートがある。この舞台で、玉三郎は絢爛な花魁姿で、この三種の楽器の部分だけを演奏する、ということだった。私は、彼がどのような音色で、どのように弾くのか、興味があった。
舞台上で楽器を演奏するというのは、洋楽、邦楽を問わず大変なことだと思う。邦楽の楽器は民族楽器ということもあって、西洋楽器と比べると未完成な楽器なのだ。演奏することだけには集中できない。和楽器の弦などは、すぐに糸がゆるんだり、切れたりしてしまう。特に三弦の糸は切れやすいので、後ろにもう一棹置いていることも多い。
西洋楽器の弦はちゃんと調律したり、本番前に音合わせをしておけば、演奏中に締め直すことはまずない。
和楽器は、全般に天気や舞台のライティングによっても、音はまったく違ってくる。従って演奏中に起こり得るハプニングを覚悟しながら、自分の音が他と合っているかを気遣いながら、演奏しなければならない。それに邦楽には「絶対音」というものもない。あるのは音の幅だけ、という実にあいまいな楽器なのだ。
極端にいうと演奏者の好みで音が決まる。このことは、しかし逆にテクニックや感情移入のほかに、和楽器を演奏する上での魅力なのではないか、と私は感じている。
玉三郎の演奏は、後ろの地方(じかた)との掛け合いも素晴らしく、音は少し低めで澄んでいた。そして、何より指一本の動かし方にも品がにじんでいる。特に胡弓の場合、花魁は帯を前に結んでいるため、構えが難しいと思うのだが、その不安定さが却ってはかない身上を表しているようにもみえた。
華やかな衣装、時代、設定、すべてが異次元のものなのに、気持ちだけがリアルに伝わってくる。実に不思議な空間だった。
私は今まで独奏での胡弓を聞いたことがなかった。そのため、胡弓がここまで心に訴えかけ、語りかける、ということを知らずにいた。情けないと思った。
幕が下がり、今、私は宇宙の先の先の光の河に飛び込んで、本物の花魁阿古屋の演奏を聞いていたのではないか、という不思議な感覚に陥っていた。
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