私はJR湖西線に乗ることが多い。山科を過ぎ、長いトンネルを抜けると琵琶湖がみえる。そうすると、いつもの歌が頭のなかをぐるぐるまわる。
♪びわこがみえた、なーつかしのびわこ、ラララララ… ランランラン♪
これは、小学四年生から高校三年まで毎夏参加した琵琶湖サバエキャンプのキャンプソングだ。バスの窓から琵琶湖が見えたとき一番にこれを皆で歌う。
サバエは湖西線からみると対岸にある。キャンプ場は、松林のなかに木造の大小のキャビンが点々としている。キャビンは十人から十二、三人が寝られる。小学男子、女子、中学男子、女子くらいに分けられていたように思う。ひとつのキャビンごとに大学生のリーダーが二人ずつ付いてくれる。
キャンプの正式名称は「びわこ肢体不自由児療育キャンプ」といういかめしい名前だったように憶えている。
京都YMCAのキャンプ場を借りて京都肢体不自由児協会が主催していた。
後で聞いた話によると、同志社大学で社会福祉を教えられていた大塚達雄先生が中心になって、先駆者的に試みられたキャンプだったらしい。
日本ででも、外に出ることの少ない障害をもつ子供たちにキャンプの楽しさを味わせてやろう、ということだったのだろう。私が参加したのは、始められて間もない頃だったように思う。
今もそうだろうと思うが、カウンセラーやリーダーのひとたちが何回も家に来られて、親に、私の日常のあらゆることを聞かれていた。食事について言えば、好き嫌いに始まり、何を使って食べるか(スプーンか箸か、とか)、物理的に食べにくいもの、時間、量、など細かなところまで聞いていかれたそうだ。
今から思えば、ひとりの子供に対してこれだけの準備、というのは大変な努力だったに違いない。そして入念なプログラムのなかで行われたキャンプだったのだろう。だから親たちも安心して参加させてくれたのだと思う。
そんなスタッフさんたちの苦労も知らず、私たちは「サバエ」または「キャンプ」と呼び、ただただ「楽しみ」だった。期間は、最初は一週間ほどだった。
「明日の旗あげ、Yさんとえいこちゃんが当番。多数決で決定」
リーダーが言った。最初のキャンプでのことだ。私はかたくなって「はい」というのが精一杯だった。私は小学校を普通校に通っていたので、皆のなかで私が選ばれて何かをする、というのは皆無に近かった。他のメンバーたちはほとんどが同じ養護学校に通っていたので、今から思うとリーダーの配慮だったのかもしれない。Yがいるから大丈夫だ、とは思っているものの、その夜はなかなか眠れなかった。
旗揚げ、というのは、起床し洗面のあと、おはようのあいさつをかねて、一日の一番最初に行なうセレモニーだ。その日の当番とスタッフがポールのそばに行き、歌に合わせて旗をあげる。
翌朝、キャンプ長、ドクター、スタッフ、他のキャビンのひとたち全員がポールを囲んだ。心臓がドクンドクンと体に響いてくる。旗を持ったスタッフがポールに向かって走っていく。Yが私の手をひっぱった。緊張で悪い方の足がバランスを崩しながらついてきた。いっせいに皆が注目し、歌がはじまる。
いつもなら輪のなかのひとりとして、歌をうたいながらあがっていく旗を見、一方で空をみたり、湖の波をうかがったり、朝の風を味わったりしているのだが、その日は緊張感と歌の終りと旗がのぼり切るのが同時でないと…などと思っているので、脇見をすることもなく、気がつくと元の輪のなかにもどっていた。オーバーかもしれないが大役を果した、という気分だったことを憶えている。
午前には趣味の時間があった。いろんなメニューのなかからやりたいものを選ぶ。私は、アーチェリーや松かさでペンダントを創ったりした。どれもこれも生まれてはじめてのことばかりだった。
午後は水泳だ。私は最後まで泳ぎのできない組から抜け出せなかったが、何とか浮くことはできるようになった。
夜はキャンプファイアーだった。毎夜、スタッフのひとたちが趣向をこらして一緒に楽しむ。最初の夜のボンファイアーは特に楽しい。火の矢が闇のなかから突然あらわれて、木組みのなかに落ち燃え上がる。みんなの笑っている顔や口に手をあてて固まってしまったひとの顔などが、火に照らされている。歌がはじまり、ゲームをする。私はふと、これが冬で木のかげにマツユキソウをさがしにきた少女がいたりしたらロシア民話「森は生きている」の場面にそっくりだ、などと思いつき、喜んでいたこともあった。
つぎの夜はお化けやしきだったり、雨の日はメインホールに集まり、それぞれのキャビンごとに寸劇や手品やフアッションショーなど知恵をしぼったものを披露する。
また、誰かが「きょうは夜襲に行こう」なんて言い出すと夜中まで起きている。そして他のキャビンにそおーっと行って、洗濯物をかくしたり、はきものを持ち去って浜辺にならべたり、といういたずらをする。歩けないものは、リーダーにおぶわれて出かけるのだから、すごい。でも翌日にはバレていて水泳のときに沈められたり、夜にお返しを受けたりする。
最後の夜は、カンシルファイアーといって火を囲んで静かな夜を過ごす。そのあと同じ障害を持つ先輩たちの話に、大きくなることや、社会に出て行くことへの不安を感じたこともあった。
ひとつ忘れられない思い出がある。小学4、5年のときだった。明け方、トイレに行きたくなった。リーダーのFさんを起こしてついてきてもらった。
帰り道、Fさんが花を一輪つんでキャビンの入り口にあるビンにさした。そのビンにはもう十本ちかい花がさしてあった。不思議そうに私がみていると、「今夜、トイレに行ったひとの数」そういってFさんは微笑んだ。私はびっくりしたのと同時に、夜中に何度も起こされてなぜFさんはこんな素敵に笑えるのだろう、と思った。
サバエでのひとつひとつのことを思うとき、今は都会に出てきているひとたちの、遠いふるさとへの気持ちに似ているように思う。
今も一年に一回、その当時のリーダーやドクター、メンバーの集まりがある。困ったことを誰かがいうと、誰かか解決の糸口をみつけてくれる。うれしいことは我が事のように一緒によろこび、共に悩む。カラオケやお酒を楽しみながら、この日だけは午前様になることが多い。
空が青く、琵琶湖にヨットの浮かぶ季節になると、湖西線に乗るのがまた楽しくなる。
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