昨秋から今年の初めにかけて、ピア・カウンセリングの講習を受けてみた。この言葉は最近ようやく新聞などで目にするようになった。
ピアは仲間とか同士という意味がある。つまり何らかの障害を持つものが同じ障害を持つひとの話を聞き、そのひとの持っている問題を、そのひとと共に考え、サポートをする、というものだ。
ただただ聞くだけのことだが、それが優れた技術のいることだ、と知ったのは第一回目の講習時からだった。
相談をしに来る全てのひとに対して、興味を持ち、共感し、尚且つ、冷静に本当は何を言おうとしているのか、ということを見極めねばならない。
そういうことをするために何が必要なのか、と言えば「自己覚知」なのだそうだ。自分の価値判断の基準はどこにあるのか、とか、どういうことに自分は興味を示すのか、とか、大方の講義内容はそれに徹している。
講習中の話だが、親しくなったひとたちと一緒に昼食に行く。私以外は全員視覚障害の方で全盲や弱視、視野の九十五%以上の欠損などである。
食事をしながら話をしていると、弱視の方から、今少しは見えていてもいずれ全盲になるだろう、という話を聞いた。自分の問題としてそれを思うとき、私は耐えられない、と思った。
それを微笑みながら話されるのをみて、思い切って「怖くない?」聞いてみた。
すると「めちゃめちゃ怖い。そやから考えんようにしてる」もうひとりが「今わずかでも見えてるのに、先のこと思って暗くなっても仕方ない。今のうちに見えるものを見とかないと」という応えが返ってきた。
そうか、このひとたちはそういう思いで強く生きているのだな、と本心から感動をおぼえた。そして、これをテーマに童話も書けるなあ、とずいぶん得をしたようにも感じた。
家に帰り、母に「今日、いい話、きいたわあ」とその話をした。すると母はニヤリとして「あんたはどうなん?このごろ体の動きが悪くなった、って言うてるやん。これで私が死んだり、あんたが寝たきりになることを想像したら、他人は、あんたのこと、よう笑って生きてるって思うたはるで」と。
「そんな将来のことまで考えてたら生きてられへん。今やれること、しとかな…」と、言いつつ吹き出してしまった。
事ほど左様に、いくら講習を受けて、毎回原稿用紙五枚のリポートも提出していて、ひとかどの事が分ったような気にはなっても、このようなものだ。ひとのことを考える暇があれば、自分のことを考えろ、という声も聞こえてくる。
ひとのことを考えていると自分も見えてくる、と言いたいが、これは希望的観測というやつか。
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