「えいこちゃん、ホームページ作ったげるわ。そしたら自分の作品がインターネットで発表できるやん」
そう言って、叔母が我が家に来てくれたのは三年前。私がパソコンを障害者福祉会館に習いに行って一年が過ぎた頃だ。
私は、出産異常で脳性小児マヒという障害を得て、この世を歩むことになった。八ヵ月の早産だった。○○年ほど前のことだ。その頃、保育器を置く病院は限られていて、早期破水の緊急入院では病院を選んでいる時間はなかった。結果、言葉も両手足もみんな不自由になった。
若い父と母は、それでも何とか普通に近い状態にならないかと、あらゆる医療機関を訪ねたらしい。ある病院に行ったとき、若い中国人の医師が、「残念だが、この障害は今の医療技術ではどうすることもできない。これから色んな宗教や呪い師がきて障害を治すと言うかも知れない。しかし、それは無理なのです。そんなものに惑わされず、育ててあげてください」とはっきり言われたそうだ。そのとき両親は改めて覚悟を決め、誰にも頼ることなく、愛情だけで育ててくれた。
言語障害というのは言葉をうまく発せられないばかりでなく、舌や口全体の動きが思うように出来ない。それは食べ物を噛んで飲み込むことまでも難しくする。その頃、まだミキサーは一般家庭には殆どなく、私が4、5才の頃までは母が自分の口で噛んで食べさせてくれていた。
言葉はいつまでも発しなかったので、母はなんとか返事だけでも出来ればと、私を背負い家事をしている間、「えいこちゃん、はーい。えいこちゃん、はーい」と言い続けたらしい。あるとき、母が「えいこちゃん」というと「あーい」と背中から聞こえたそうだ。3才を過ぎた頃である。母は「やったあ!」と思ったそうだ。それから、いろいろな言葉を話すようになるまでは長い時を要した。しゃべれるようになっても他人には不明瞭な言葉のため「はい」「いいえ」くらいしか理解してもらえず、小学校を卒業する頃まで限られた人たちとしか話は出来なかった。
家では、少しでもうまく話すことが出来るようにロウソクを一列に20本ほど立て、ひと息に消す訓練をしたり、手もボタン掛けや紐結びなど、今でいうリハビリを母の手作りの道具を使い、毎日行っていた。
足は幸いにも膝立ちで移動することができたが、ずっとその状態では足首が伸びきることになる。その頃はまだギブスやコルセットも無いに等しく、私は編み上げの革靴を年中履かされていた。やっと自分の足で立ち、歩き始めたのは幼稚園へ行く三ヵ月前くらいであったらしい。幼稚園は義務教育ではないので、行かない障害者が多いのだが、とにかく私は「行きたい」と言い張ったようだ。
しかし、歩くのに慣れていないのでよく転んだ。それにとてもおかしな歩き方だったので、道では好奇の目で見られることも多い。
母に聞くと、「えいこが可愛いからや」と答える。最初はその言葉を信じて、その人に向かってニッコリ笑っていた。時を経て小さいながらも視線の冷たさに気付くようになっていったが、それでもニッコリしていた。相手の驚くさまや目を伏せて逃げる姿がおもしろかったのだろう。
そのことは少しのイジメに遭っても笑ってすごせる精神を養うのに、いい経験になったように思う。
小学校は父の勤務の関係で四回の転校を余儀なくされたが、それぞれの学校で優しい友だちや先生に恵まれた。母はどの学校でも毎日、送り迎えをしてくれた。迎えに来るついでに、私がそうじ当番のときは「えいこの代わり」と言って、みんなと一緒にそうじをしたり、クラスの雑用をしてくれた。遠足や修学旅行のときなどは、私を背負ってクラスのみんなと行動を共にしてくれた。そのことが幸いしたのだろう、特にひどくイジメられることもなく、病弱ではあったが、楽しく小学校生活を過ごした。
中学は、「一度は障害者ばかりのところで友だちを作り、対等に人と付き合える経験があってもいいのではないか」との両親の考えで養護学校に進んだ。ここでの生活は小学校時代とは一変し、比較的自由に動くことのできる私は「普通の人」のように扱われた。
そのことで内向的な性格が外に向けられるようになった。学年を代表してリレーの選手になったことなどは、今にして思えば、これからの人生に思いがけないことばかりが起こる第一歩だったかも知れない。
小学校時代の助けてもらうばかりの生活から、お互いが助け合う生活に変った。そして自分を必要としてくれる友の出現は、生きる上で私の大きな励みになった。同時に言葉は一回言うだけで、先生にも同級生にも通じる。それだけでも養護学校にきてよかったと思った。卒業後は、その当時の養護学校に高等部はあまりなく、就職や職業訓練校へ行くものも多かったが、自分なりにいろいろ考え両親の希望もあって、私立の女子高へ進学した。
高校へ入学し二ヵ月が過ぎたころ、左腕のちょうど力瘤が異様に膨らんできた。痛みは全く無かったが、あまりにも大きくなるので病院へ行った。悪性肉腫であった。一刻も早く入院し手術が必要だった。ずっとのちに聞くのだが、「余命三ヵ月、左腕を切断すれば半年はもつでしょう」ということだったらしい。余命のことは伏せられていたが、悪性腫瘍で腕を切断しなければ助からない、ということはすぐに母から知らされた。そのとき、私はまったく取り乱すことなく承諾したことを憶えている。
養護学校のとき同級生の大方は入院や手術を経験していた。牛の腱を足の付け根に移植した話や、脊髄に毎週注射をしていた話などを友だちから聞かされていたし、手や足は全く動かず付いているだけ、という友だちも大勢いたので、「腕の一本くらい、死なずに済むならどうってことない」と軽く思ってしまった。それに左腕は右に比べるとあまり思うように動かなかったのが、そういう気持ちにさせたのだろう。入院してもよく笑っていた。もう笑っているしか仕方のない状態だったのかも知れない。それとも笑うとイヤな人が逃げていったように病気も去ってくれるのでは、と無意識に思っていたのだろうか。
当時、同じ病棟には私のほかに三人、同じ病気の同じ年頃の女の子がいた。私は異常に明るかったので看護士さんに認めらたのだろう。精神的にいちばん参っている女の子と同じ部屋になった。その女の子は右足切断が決まっていた。入院してから一週間、ずっと泣いていて食事も摂れなかったらしい。しかし、私が隣で面白いことばかり言うので、つられて笑い出してしまった。今でいうピア・カウンセリングだと思う。女の子が精神的に少しずつ落ち着いていくのをみて、将来こういうカウンセラーになってもいいな、と思った。それまで料理を作るのが好きで栄養士になりたいと思っていたが、左腕がなくなれば、それも無理か、と感じていたからかも知れない。
組織検査の結果は予想通り最悪のものだった。その当時の医療は今のように放射線もそれほど発達していず、アメリカで抗がん剤の前進の薬が開発されたところだった。日本にも実験段階的に輸入され、私は日本で47番目に制ガン剤を投与されることになった。私は47番目という数字が気に入った。「これで生きられる」と思い込んだのだ。私は小さい頃からチャンバラが大好きで、テレビの時代劇はほとんど見ていた。47という数字は赤穂浪士四十七士を思い出す。その最後の浪士、寺坂吉右衛門は討ち入り後赤穂へ本懐を知らせに走ったため切腹せず天命を成就した。だから47番目の私もここでは死なない、と思い込んだのだ。
こじ付けだとしても思い込むことは死を前に闘うとき、ものすごい力となる。しかし初期の抗ガン剤でも、髪の大方は白髪になり、高熱は続き、体重はひと月足らず十キロも減った。これ以上、制がん剤を入れると手術に耐えられなくなるとの判断で手術する日が決まった。七月十七日。祇園祭り山鉾巡行の日だ。疫病払いにはちょうどいい。
両親と切断を迫る執刀主治医との話し合いは手術室に入る直前まで行われた。「開けてみて、どうしようもなければ切断する」と言って執刀医は手術室に入ったそうだ。手術時間は八時間に及んだが、がん細胞は力瘤の中とそれにくっ付いている骨の一部だけで収まってくれていた。そして血管への侵略はなかった。私は切断を免れたのだ。
退院して家にいる七ヵ月が、生まれてから現在までのなかで一番つらく苦しかった時期のように思う。何もすることがなく、何も出来ない。時の過ぎるのを待つだけ。死刑囚もこんな時を過しているのではないかと思えた。
山鉾巡行の日から約四ヵ月後、骨の切除部分に金属をいれていたのだが、体の成長にその金属が耐えられず折れてしまった。自分の意思に関係なく風が吹いても揺れる腕は、本当に面白い体験だった。このとき、もう少し生きるだろう、という医師の判断で足の骨を移植することになった。膝下の骨は二本あるので、細い方を割り箸のように裂いて並べ、金属カバーを被せて骨の成長を待つ、という手術をした。
高校は翌年改めて一年になった。最初の同級生達は二年生になっていた。おかげでリポートやノートが借りられ、ずいぶん得をした。しかし、再発と転移の勢いは凄まじく、高校2回目の一年から三年の間、左腕に三回の再発、そして肺への転移があった。これほどガンに愛されると笑う以外になく「再発の歌」なるものを替え歌でうたっていた。たびたびの入院と手術、それに毎月の検査などで、最後の再発のときには学校の出席日数が不足しそうになり、一日も休めない状態だった。
これ以上の留年はなんとしても避けたかったので、午前中授業に出席、午後から手術、翌日また学校へ、ということもした。脂汗は流れたが悲壮感は全くなく、こんな離れ業、そう簡単にする人はいないだろうな、と楽しんでいたように思う。
高校卒業後はとりあえず短大に進学し、社会福祉の道を目指した。その在学中には、左腕の中で骨を止めているビスが神経にあたり痛んだ。もう骨も出来ているだろう、ということで金属のカバーを外すことになった。ところが開けてみると金属カバーの上にまで骨が巻いていて、カバーを外すことが出来なかった。結局ビスを骨の巾のものに交換するのみになった。今も骨と金属の混ざった鉄腕の左腕だ。もし死んだあと火葬にされて、この腕を見た人たちの誰かが、「ひょっとしてサイボーグだったのかな?」とチラリと思ってくれれば、おもしろい。
福祉の道を目指して短大に進んだものの、福祉の実情を知れば知るほど、実践できる体力の無さを感じ、その道は断念せざるを得なかった。しかし学生時代の友だちとの出会いは今も人生を豊かにしてくれている。
やがて、小さい頃からお世話になっている肢体不自由児協会の事務局長の紹介で「七宝」と出会った。字もまともに書けない私が七宝をするなどとても考えられなかったが、短大を卒業したものの就職もなく、私は生きているだけだった。「一度やってみてもいいな」初めはそんな感覚だった。
紹介されたところは清鳳七宝共同作業所という小さな工房で障害者が三人ほど働いていた。そこで、秋田清鳳先生に七宝の基礎から教えてもらった。銅板の上にガラスの粉末を水で溶いたものを面相筆で乗せて焼く。だが、筆は細すぎて持ちにくく、力が入りすぎて、釉薬をうまく銅板に乗せられない。考えて筆をピンポン球に突き刺し、力を球に吸収させて筆先に力が入らないようにした。そのおかげで銅板の上にふわっと釉薬が乗るようになった。そして乗せた釉薬は、一回書くと動かせない鉛筆や絵の具と違って、銅板の上で思い通りのところに置けるまで動かすことが出来る。もしかしたら、七宝は私に向いているかも知れないと思い始めた。
作業所に通い始めるようになって一年が過ぎた夏休み、みんなの思いを作品に創ってみよう、との秋田先生の提案で自分の作品を創ることになった。作品を創る、ということは、自分と向き合い、追い詰めなければ出来ない。そのとき私は初めて「自分の思いを訴えられるもの」に出会ったように思う。それがきっかけとなり、それまでの私は一体なんだったのか、と思うほど制作意欲が高まった。自宅に窯を備え、休みの日には作品を創る生活が始まった。デッサン力の必要性を感じて、知り合いの絵描きさんを訪ね、教えてもらうことにした。だんだん自分の作品と言えるものが出来上がる。そのとき、私は初めて自分の意思を形として伝えられる手段を得た。
そして七宝に初めてふれてから八年目で個展を開くことが出来た。今から思うと未熟で恥かしい作品ばかりだが、そのときそれは自分の限界だった。
その個展は作品の良し悪しに関係なく、「ガンと脳性小児マヒ」ということでNHKをはじめとする殆どのマスコミに取り上げられた。何回ものテレビ出演は容赦なく自分の障害を自分に見せ付けてくれる。自分の作品をバックに自身を見たとき、笑い話のようだが、「こんな不自由な人に、こんな作品が創れるわけない」と本気で思った。それまでも、いろんな人たちに「ほんまに自分で創ってるの?」と聞かれて腹立たしく思っていたが、自分のテレビを見て、初めて納得した。マスコミのおかげで6日間のあいだに1000人を越える数の方々が足を運んでくださった。しかし、作品のみの力でこれだけのお客さまが来てくださったわけではない。このお客さまの数に見合うだけの作品をこれから創っていかなければ、と思いを新たにした。
その個展には上枝敏秀先生も来てくださった。七宝界の中でも独特の技法をつぎつぎに考案され、従来の七宝とまるで違う現代感覚の作品を創られる先生だ。その翌年から清鳳七宝共同作業所で仕事をさせてもらいつつ、上枝先生の大阪の教室に通うことになった。
先生は、私の障害を理解した上で、「出来ない」としり込みすることでも「出来る」と断言し、出来るように工夫を重ねてくださった。バーナーで銅板の淵を溶かしたり、厚さ1ミリの銅板を糸ノコで切り抜く、銀や錫をルツボで溶かす、自分で出来るとは夢にも思っていないことが自分の手で出来る。
それは今まで「出来ないなら、してあげる」と言われ続けてきた生活を一変させるものであった。そして、それらは作品を創るうえでは必要不可欠のものだったし、加えて、先生はあらゆる七宝の技術も惜しみなくマスターさせてくださった。そこでは本当の「ものつくり」の姿勢をも学んだような気がする。
上枝先生のところへ行って二年後、国際七宝日本展に初出品した。東京の上野の森美術館で、自分の作品と対面して、ほかの作品と冷静に比べてみても見劣りしない作品の出来に、上枝先生に師事できたことを感謝した。それを皮切りに国内の作品展、海外美術展への招待出品、その間から現在まで5回もの個展を開かせていただいた。そのほか有料老人ホームのカルチャー倶楽部でお年寄りの方々に、また福祉施設で障害をもつ人たちに七宝を教えつつ共に楽しんでいる。そして、自宅での七宝教室や「京都市立ひとまち交流会館」ではハンディをもたない方々とも七宝を通じて絆が生まれている。こうしたことは今、七宝作品を創るのと同じくらいに私にとって大切なことになっている。
また四回目の個展の際には今までの集大成として『物語のはじまり』という七宝写真集を出版した。この写真集は、全国自費出版文化賞というコンクールでグラフィック賞を受賞。審査委員長からは特別に「これほどの色を使っている七宝は見たことがない」という嬉しい言葉まで戴いた。
しかし、七宝は「言葉」ではない。七宝によって自分を表現できるようになった私は、もっと直接的に自分の思いを話し掛けたくなっていた。そんなときワープロが出現。これは字の書けない私にとっては夢の器機だった。これさえあれば、私の書いたものは何の苦もなく、誰にでも読んでもらえる。障害者にとって文明とはなんと有り難いものだろう。文章を書く上で私は障害者でなくなった。
ちょうどそのころ、童話を書く友人と知り合った。そして、私が「自分だけの物語を書きたい」と思うようになるまで、そんなに時間はかからなかった。キーボードを一本指でポツン、ポツンと打つのは普通のひとから見れば、まどろっこしいに違いない。しかし、私にとっては夢を紡いでいられる至福の一瞬、一瞬だ。やっと出来上がった初めての童話をもって、カルチャーの童話教室の門を叩いた。その頃、私は七宝を一生続けるには体力的に限界がある、と感じ始めていて、それでは七宝が出来なくなった後、何をして生きていけばいいだろう、と思い始めていたからだ。何もしないで時間の過ぎるのを待つ生活は高校の頃にいやというほど味わっている。そういう思いは二度としたくはない。
その童話教室のひとたちが中心となった同人誌の仲間にも入れてもらえ、初めて自分の作品が載った冊子を手にしたときの喜びは筆舌に尽くしがたい。京都児童文学森の会同人になって二年目、童話の終わりのページの余白に、「モグラのこと」という我が家で飼っていた犬の話を小さくまとめた。それが出版社の目に留まり原稿依頼が舞い込んだ。それまで33枚しか書いたことのない私に編集者は一瞬絶句されたが、それでも一ヵ月という期間でなんとか120枚を書ききることができた。原稿を送付して二日後、出版決定の知らせが届いた。そして、その「私の愛犬モグラ物語」(汐文社)は京都新聞社のお話を絵にするコンクールの選定図書になり、森の会主宰の出版パーティまで開いてもらった。
こんなにも面白く楽しい、幸運な人生はめったにあるものではないだろう。いつ、どこで、死ぬことになっても悔いはない。
今、私のホームページは七宝作品、童話やエッセー、旅行の写真、それに日々のよしなし事を書く日記のページなどに分かれている。言葉も満足に話せない、字も書けない私が不特定多数のひとたちに語りかけられる喜びは何にも替えがたい。インターネットの中で、私は障害者ではない。社会経験のきわめて乏しい障害者には多くのことを見知らぬ人々と語り合うことで、間接的にいろんなことを経験できる。叔母が作ってくれたホームページのおかげで、今までの関係からは絶対に接点のない人たちと友だちになり、遠くから個展を見に来てくれたり、一緒に遊びに行ったり、友情を育んでいる。インターネットの威力は障害の有無に関係なく、平等に開かれている扉だ。これからも思いっきりこの扉を広げて多くのことを教わっていきたい。
現在、私の体は急速に老化してきている。養護学校で、私と同じくらいの障害だった友だちは今、寝たきり状態だし、その他、定年をはるか手前でリタイアする先輩も多い。私の体の中で比較的障害の少ない足もいつまで歩けるか、疑問だ。果敢に自分に挑戦できるのも、今のうちだろう。
来年、私はこの人生の最後の冒険になるであろう地球一周のひとり旅に出る。
あとがき
今、私の体はちょっとガタがきています。9月くらいから首が痛くなり出したり、11月の末あたりから「めまい」に襲われるようになりました。首は私のような障害では時間の問題のようなところがあり、とうとう来たか、という感じです。
従って、最後に書いた地球一周ひとり旅は、出航ぎりぎりまで迷いに迷うことになるでしょう。。。
どうして予定通り進まないのでしょうね。Eikoを乗せた船は。
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