十月十八日午後五時三十分、高度三万一千フィート、有明海上空にさしかかっていた。
機長の雅男は、心のなかでつぶやいていた。
(ひろし、やっと、おまえと俺の昔の夢がかなう・・・)
コックピットの中は、これから起ころうとしている空のイベントに白い歯がこぼれあった。
「おーい、まさお。でてこいや」
ひろしの声が外から聞こえる。
(また、おもしろいこと考えついたな)
まさおは勉強をほっぽりだし、運動ぐつをはきはき家を飛び出した。うしろの方で「夕飯までには帰ってくるのやで・・・」という母の声がしていた。
「こないだ、鎮守の森の奥でちょっとええもんみつけたんや。まだ誰にもいうてない。見にいこか」
目をぎょろつかせて、ひろしは言った。まさおは、つばを飲み込んだ。
「じつはな、ヤマドリの巣や。卵抱いてたさかい今日あたり、ひなが見られるかもしれんのや。いこ」
言うか言わないうちに、ひろしはもう走りだしている。まさおもあわててその後につづいた。
ひろしは木に登りながら、
「きょうは、絶対にうつくしい夕焼けや」
ふっと空に目をそらせている。
「ヤマドリのひな、どうやあ」
まさおが下からどなっても、目は遠くの空と山の間をみつめている。
ひろしは弟や同級生たちとあそんでいても、ふと空をみあげて「きょうは見えそうやな」とつぶやいた。しかし、それがはずれると、いつも先頭を歩くひろしが、みんなの後から石などけりながら帰った。
まさおは、そんなひろしが何となく好きだった。
「ひなは、まだみたいや。それより、ここきてみ。汽車走ってくるのがようみえるわ」
まさおは木に足をかけた。ひろしのようにするする登れないのが自分でも腹立たしかった。やっとひろしの座っている反対側の枝に腰をかけた。村の真ん中を大きく曲った川が流れている。その中央には鉄橋がかかっている。
(なるほど)と、まさおは思った。
「陽がくれるまで、ここにいたいなあ」
まさおの言葉に、ひろしは足をぶらぶらさせながら思いっきり首をたてにふった。上を見ると、白い雲の一部分が虹いろになっている。
「とうちゃんの生きとったころ、とうちゃんとおれとかあちゃんと弟とで、よう茜の空みながら畑から帰ったんや。それ見ながら、とうちゃんは、明日はええことがある、ていつでもいうてた。せやけど、とうちゃんの死ぬまえの日は雨ふってた。あの日、夕日がちょっとでも空をあこうしてくれてたら、死なへんかったかもしれん」
麦わら帽子がひろしの顔をかくして、いがんでいた。
まさおの父はサラリーマンで夜おそくにしか帰ってこないし、よほどきげんがよくないと休みの日でもいっしょに外に出ることもない。まさおは、一度夕暮れの道を父と歩いてみたい、と思った。
ひろしが帽子を頭にもどして、顔を手でぶるぶるっとなでた。まさおは、何か言わなければ、とあわてた。
「ひろし、大きいなったら何になりたい?」
ひろしは一息ついてから、まさおの目をみて、
「おれは、飛行機のパイロットや」
まさおは、ふーん、といいながら、ひろしの目がかがやくのをみた。
また、こんなこともあった。
「おれ、ずーっと考えてたんやけど、線路のうえに石置いてそのうえを汽車が通ったら、石よう飛ぶやろ。どのくらい大きい石のせたら、汽車止まるのやろな。いっかい実験してみいひんか」
と、理科の勉強のようにひろしは言った。最終的にはミカン箱にいっぱい石を入れて線路の真ん中に置いたとき、汽車は止まった。もうすぐ駅だったので脱線しないですんだのは、なにより幸運なことだった。
そのときは、まさおと両親、ひろしと母親が駐在所と学校によびだされて、きびしく注意された。まさおは、父と母と三人で夕暮れの道をはじめて歩いた。西の山を見ると、うすばら色の雲が浮かんでいる。
(なんで、こんな日に・・・)
まさおは、道端に落ちている木切れをけとばした。母が横目でぎゅうっとにらんだ。父はそんなまさおに小さく微笑んだ。
(やっぱり、今日は少しだけの夕焼けや)
まさおは、父の顔を伏し目がちにみた。
それから年月が経ち、中学生になった秋のある日、ひろしが大屋根から落ちた。
翌日、まさおが見舞いにかけつけると、ひろしのおかあさんが、青白い顔ですわっているのもおかまいなしに、
「ひじが鬼がわらのカーブをつるんて、すべったんや。そしたらその拍子にバランスくずれて、このとおりや」
そういうと、顔の半分をひきつるようにして笑った。
「いたないんか」
まさおは、むすっと聞いた。
「さっきまでうなっていたのに、痛み止め打ってもろたら、もうこれなんやから」
おかあさんは、ひろしの顔をのぞきこむように言った。きれいな優しい声だった。まさおが、ひろしをみると、
「きのうの夕方、屋根の上からみた空は、金色からみかん色になって、最後はわたあめみたいなうすーい桃色や。あんな雲のなかパイロットになって飛んだら、ずーっとええことばっかりかもしれんなあ・・・」
ひろしは首だけ横に向けて、窓から空の遠いところを見上げた。しばらくしてからまさおに、
「かあちゃん、ちょっとの間やけど、畑休んでそばにいてくれるねん」と、耳打ちした。
ひろしは、それから長い入院生活を送った。機能訓練もしたが、学校にもどったときは松葉杖だったらしい。らしい、というのは、まさおはひろしが退院するまでに父のつごうで遠くに引っ越したからだった。
それから、雅男は手紙のやりとりだけで、ひろしとは一度も会っていない。しかし、雅男が航空大学に入ったことを報せたときは、普通のよろこび方でないほどうれしさにあふれた手紙がひろしから届いた。たまに雅男が出張でひろしの住む近くまで行くこともあるのだが、ひろしは、そのつど理由をつけて会おうとしない。
雅男は、マイクを持つ手が震えるのを感じながら、
「機長よりお客さまにご案内申し上げます。あと二分くらいで、私どもの飛行機は夕焼けの中に入ります。乱気流のない雲ですから揺れる心配はございません。まもなくです。お楽しみください」
飛行機は、吸い込まれるように茜雲のなかに入っていった。とたんに前面、側面の窓も、雲のなかも、コックピットのなかの空気までも、みんな夕焼け色になっている。見合わせる笑顔もばらいろに輝いている。
(うわあー、すごいぞー。ひろし・・・)
雅男は、今度こそ、ひろしに会いに行こうと思った。
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