翔は、うらうらとふとんの中で考えていました。
(今日は何をしようかな。啓太がさそいにきてから決めてもいいし。でも春休みはいいなあ、のんびりできて)
階段の下からおかあさんの大きな声がしました。
「翔、いつまで寝てるの。早くしないと間に合わないわよ」
(なんだっけ? そうだ、おじいちゃんの家の大そうじか。夕べ、手伝い引受たんだったな)
「おかあさん、啓太が遊びにきたら、明日までおもしろいことはするなって言っておいてくれる」
翔は自転車をこぎました。全速力でペダルをこぐと風が耳のなかに巻くように入ってきます。冬は風がつめたすぎて何を言っているのかわからないけれど、春にはいつごろ花が咲くか、ってことや、もうすぐ雨が降ることや、どこかの家で子犬が生まれたことなんか、いろんなことを話しかけてくれます。翔の家から十五分も自転車で走ると田んぼが広がっていて、その周囲には白いしゃれた家と古い瓦屋根の家が奇妙なバランスでたっています。翔は、生け垣のある大きな家の前に自転車を置いて、
「こんにちは」
叫ぶように言いました。家のなかからおばあさんの声が聞こえました。
「おじいさん、こんなところにいないで、となりの部屋に行っててください」
翔が玄関の戸をそおっとあけると、
「あれ翔、早く来てくれたんだね。お正月から三ケ月しかたたないのに、また大きくなって。この春から五年生だものね」
おばあさんは、さっきとはまるでちがう明るい声でむかえてくれました。
「おかあさん、電話で言ってたけど、今日は学校の役でどうしても来られないんだって。よろしくって」
おばあさんは笑顔でうなずきました。翔はおじいさんに目をむけました。おじいさんは、パジャマのまま車イスにすわっています。手にはお酒の入った湯のみです。
「また、飲んでるんだね」
翔は、ブスッと言いました。おじいさんは、赤い顔でとろん、とした目を翔にむけると、くちびるをゆがめるように笑いました。お酒のにおいもおじいさんのまわりにこもっています。
(おじいちゃん、お酒ばかり飲んで… もう外は春なのに)
翔はおとうさんから、おじいさんは交通事故にあって両足と左手が思うように動かなくなり、かわいそうなんだ、と聞いていました。でも、翔にはおばあさんの方がかわいそうでした。
「おじいさんは、仕方がないの。それより、おいしいビスケットがあるんだけど、食べるかい?」
「いや、いいよ。先に大そうじ、すませてしまおうよ」
翔は、暗くなった気持ちをふっとばすかのように元気よく言いました。
おばあさんは翔に、そうかい、といいながら、
「おじいさん、むこうの部屋に行っていてくださいな。湯のみはそこに置いて」
おじいさんは口のなかで、翔たのむぞ、何回も繰り返していたか、と思うと、となりの部屋の戸が音をたててしまりました。
おばあさんは、その様子をくちびるをひきしめて見送っていましたが、戸がしまると自分のしている大きなエプロンに目をおとしました。それからエプロンを両手ではたくと、おばあさんは翔をみて、
「さあ、この部屋はわたしがやるから、翔には物置部屋のほうをたのむことにするよ。でも危ない、って思うことは置いておいて、あとでふたりでやろう」
物置部屋のまえには、ストーブや毛布などが積まれていました。翔は、腕まくりをしました。部屋のなかは、しめった空気のにおいがします。薄暗くて何も見えなかった部屋のなかに目がなれてくると、古いタンスや使われなくなったクッション、足が一本とれているテーブル、ほこりのかぶった紙の箱なども見えます。
(うちのかあさんだったら、全部すててしまうだろうな)
翔は、それらを重ねてストーブなどの置場をつくりました。毛布はこっちのタンスの上に積もう、そう思って踏み台の上に毛布をかついでのぼり、放り上げようとしたそのとき、足元がふらつき翔は床にころがりました。つんであった紙箱が、頭のうえにいくつも落ちてきました。びっくりしておばあさんが飛んできました。
「だいじょぶかい? 危ないところは、あとでって、言ったのに…」
おばあさんは、翔のうえに重なっている箱を放り出しました。
「やあ、おひさしぶり」
おばあさんの心配そのものの目と合って、翔は笑いながら言いました。
「なんだろうね、この子は」
おばあさんが笑っています。翔は床にすわり込んで手近な紙箱をひろいはじめました。そのなかのひとつの箱が半分あいています。なかには画用紙に描いた絵がいっぱい詰まっていました。おばあさんが、
「かわいかったねえ」
その中から一枚を取出し、見入っています。翔がのぞくと赤ん坊が誰かの胸に抱かれていました。
「だれなの?」
「これは翔だよ。生まれて何日もたたないころのものだねえ」
おばあさんは翔の顔をちらっと見ると、また絵をくいいるようにみつめました。
「ぼく、こんなのだったんだ。だけどだれが描いたの?」
「これは、おじいさんの絵」
おばあさんは、ゆっくり目を遠くにやりました。翔にはとても信じられません。おばあさんは、大きなため息をつくと、
「おまえが生まれたとき、はじめての孫だったから、おじいさんがよろこんだの。かわいい、かわいいっておまえを離さないほどだった。おじいさんは、どうしてもかわいい翔を絵に残したいと思ったんだろうね」
翔は、おばあさんの話を聞きながら、箱のなかの絵をつぎつぎに取り出して、見ました。
「これは、翔がはじめて笑った日。それは、はいはいのころ。それから、これがはじめて歩いたところ」
お花畑の真ん中にすわっている翔、ともだちと遊んでいる翔、おとうさんに肩車をしてもらって得意な翔、お昼寝をしている翔。いろんな翔がいろんな場面で生き生きしていました。
「これ、ほんとにおじいちゃんが描いたの?」
翔は、どこにあるのかわからなかった心のありかがわかり、その心が急にあばれだしたように感じました。
「今は、飲んだくれてどうしようもないんだけど、昔はこの村では一番、絵がうまかったの。いつもスケッチブックを持ち歩いてた。その姿がかっこよかっくって…」
おばあさんはちょっとほほを赤くしました。翔は、
「どうして、おじいちゃんは事故にあったの?」。
翔は、事故のことをくわしくは知りません。知っているのは、その事故のあとおじいさんはいつも飲んだくれている、ということだけです。
「あれは、翔がものごころがつくかつかないか、のころだった。絵の具がなくなってきて、今、おまえたちが住んでいる町まで出かけたんだよ。ついでにいろんなものも買ってきてって頼んだの」
おばあさんは、両手で顔をなであげて、
「おじいさんは、たくさんの荷物をもって道を横切ろうとしたの。荷物のかげで車の来るのが見えなかったんだね…。それであの通り。おじいさんは、絵の具なんか買いにいかなきゃよかったと思っているのかもしれない。あのとき、わたしも一緒に行っていれば…」
おばあさんは、鼻をこすりました。
「さあ、むかしの話はこれでおしまい。さっさと仕事、しておくれ」。
翔は、たのまれた仕事を終えて、他のところのそうじも手伝って、外が暗くなりはじめたころ家のなかがすっきりしました。しばらくすると、おとうさんがやってきました。翔をむかえにきたのですが、それだけではなくて、おじいさんをお風呂に入れる手伝いをするためです。
帰り道、翔はおとうさんに、おじいさんの絵をみつけた話をしました。おとうさんは、
「そうなんだよ。おじいちゃんは、あの事故で何もかもなくしてしまったんだ。夢も、体の自由も」
「でも、あれだけの絵が描けてたんだよ。それに右手は平気じゃないか。なぜ絵を描かないんだろう」
おじいさんは、足や左手は動きにくそうですが、右手や口は普通です。翔は、もう一度絵を描いているおじいさんを見てみたい、と強く思いました。
その日の夜、翔は、おじいさんに絵を描いてもらうにはどうしたらよいのか、と考えるとなかなか眠れません。
(もし、ぼくに事故がおこって、車イスの生活になったら、ぼくはどうするだろう)
翔はそうなった自分の姿を思い浮べました。
(もう自分勝手に木の実取りにでかけたり、啓太たちと水あそびをしたり、探険なんかもできないな)
家のなかにこもりっきりの生活などとても考えられません。気持ちが敷きぶとんからたたみにまでめり込んでいくようです。翔をかわいそうに思う啓太の顔もでてきました。
(啓太が同情したの目で、ぼくを見てる)
翔は首を大急ぎでふると、ふとんを頭からかぶりました。
翌朝、翔は台所で食事の用意をしているおかあさんに、おじいさんの絵の話をしました。
「私がお嫁にきたころは、おじいさん、まだまだ若くて素敵だったんだから。翔の絵を描きによくうちに来てくださったわ」
それからおかあさんは、一言一言考えながら、
「でも、翔の気持ちはわかるけど、今のおじいさんにもう一度絵を描いてもらうのは、むつかしいことね」
翔は、ためいきをつきながらうなずきました。
翔は、おじいさんが赤ん坊の翔を描いているところを思いました。幸せそうな風景でした。そして、おじいさんの今を思うと、
(おじいちゃんは、幸せじゃあないんだ)
翔は、はじめておじいさんの気持がわかったように思いました。
(お酒で今のつらいさを忘れようとしてるんだ)
翔は、自分をかわいいと思っているおじいさんに今までどんな態度でいたか、を思い出しました。翔はおじいさんがきらいでした。お酒に酔って翔を見る目は、白目も赤くてこわい気がしました。だから、ひとりではあまりあそびに行かなかったし、おとうさんやおかあさんと一緒でも、翔はおばあさんとばかりおしゃべりをしていました。
(おじいちゃんにつらい思いをさせていたんだな)
それで、おじいさんには、せめて絵は描かなくてもお酒をやめて元気に長生きしててもらいたい、と思いはじめました。
「いつもの川に魚のよく釣れる穴場、みつけたんだ。翔もいっしょに行かないかい」
啓太がさそいにきました。翔は、さっそく釣り道具をかついで一緒にでかけましたが、あまりしゃべりたくありません。
「どうかしたのかい。いつもより静かだなあ」
啓太が顔をのぞきこみました。翔は、思い切っておじいさんのことを話ました。
「一回、見てみたいよ。翔の赤ん坊のころの絵」
翔は少し照れ臭くなりましたが、つぎの瞬間あることを思いつきました。
「そうだ、展覧会をしよう」
そう口にすると、つぎつぎに場面がうかびました。
「ぼくの小さいころの絵や、ほかにもこの辺りの風景を描いた絵が残っているって、おばあちゃんが言ってたから、それらをみんな、かべにならべて展覧会したらどうかな」
啓太は、最初びっくりして聞いていましたが、最後に、
「それは、いいアイデアかも…」
「もし、おじいちゃんに会ったら、絵を見てみたいって啓太の口からも言ってくれる?」
翔は、少し調子にのりすぎたかな、とうわ目使いに啓太をみました。
「いいよ。ぼくはおじいちゃんがいないから、翔に協力してやってもいいよ」
啓太は、ちょっとえらそうに言いました。
夕食のとき、翔はおとうさんとおかあさんにこの計画を話しました。おかあさんは、ごはんを盛りつけながら、
「いいこと思いついたじゃない。おかあさんもできることは手伝うわ」
おとうさんは、お茶わんを受け取ると、
「そんなことで、どうにもならないと思うよ。あのおやじのことだ。かえって反発するんじゃあないかな」
翔は、おはしを口のなかに入れたまま考え込んでしまいました。しばらくして、おかあさんが、
「反発って、今の状態でしょう。だったら変わりようがないのじゃないかしら。展覧会でもなんでもやってみて、おとうさまにやる気がでてきたらいいと思わない?」
翔は、おかあさんの顔をみて大きくうなずいてから、おとうさんをみました。
「それもそうだな。翔の赤ん坊のころのことをみんなに思い出してもらうのもいいし、それで、おやじが絵筆をにぎる気になってくれたら、もうけもの、か」
つぎの日、翔はまたおじいさんの家にむかいました。おばあさんは、びっくりしながらも、よろこんで翔を迎えてくれました。
「わたしだって、いろいろためしてみたの。でもおじいさんはふくれるだけで、何も変わらなかった…。まあ考えてみれば、わたしに、おじいさんにどうしても、っていうエネルギーも足りなかったのかもしれない…」
おばあさんはしゃべりながら、ジュースを翔のコップにそそぎました。
「それが、この間、翔が絵をみつけた話をしたら…」
おばあさんが翔に何かを言おうとしたとき、となりの部屋からおじいさんが、
「ばあさん、起こしに来てくれ」
翔がおじいさんの部屋をのぞくと、
「おや、翔じゃないか。このあいだ、そうじの手伝いに来てくれたばかりなのに、また来てくれたのか」
おじいさんは、思ってもみない翔の姿におどろいて、そしてうれしそう言いました。何となく顔の色も普通に近く、お酒のにおいも薄くなっているようでした。
翔は、おじいさんを車イスに乗せる手伝いをしながら、
「今日は、外はいいお天気だよ。あたたかいし、散歩にでようか。ぼくが連れていってやるよ」
おじいさんは、うれしいのかいやなのか、わからない顔をしました。横からおばあさんが、
「翔がせっかく言ってくれているんだから。花も咲いているし、行っておいでなさい」。
車イスをがたがた道で、それもおじいさんを乗せて押すのは、とてもたいへんでした。
それでも翔は元気よく、
「空気が気持ちいいね」
と言いました。車イスが大きな石をふんでおじいさんの体がとびあがりしました。
「だいじょうぶだった?」
翔は、進みながら明るく言います。でもおじいさんは何も言いません。心のなかでためいきをついていると、急におじいさんが声をあげました。
「ふんでいる」
翔はおどろいて足元をみると、車イスの車輪が道端に咲いているアマリリスの茎を折っていました。翔はあわてて車を引きました。
「ごめんごめん」
翔はあやまりながらも、おじいさんの優しさをみつけたことに、そして、はじめてお酒を飲んでいないおじいさんと普通にしゃべれたことに、うれしくなっていました。翔は何気なく、
「おじいちゃん、この間、ぼくの赤ちゃんのときの絵、みつけたよ」
おじいさんは、だまっていました。
「ぼく、すごく、うれしかった」
おじいさんは、首をかすかにふりました。
翔は、しばらく何も言わずに歩きました。青い空に白い雲が浮かんでいました。空のうえの方をとんびがゆったり飛んでいます。翔は、また、
「気持ちがいいね」
といいました。おじいさんが、
「ああ」
と、こたえました。翔は、
「このあいだ、友だちの啓太たちと魚釣りに行ったんだ。啓太が穴場をみつけておいてくれたんだけど、アユがたくさん釣れたよ」
しばらくしてから、
「よかったなあ」
おじいさんの言葉は、口のなかから出るのがいやなのかな、と思うような言い方でした。ずいぶん行ってから、
「穴場をみつけたからって、あまり、遠くまで行かない方がいいぞ」
「うん。だいじょうぶだよ」
翔は、心がうれしくなって大きな声でこたえました。遠くの国道にはトラックや自動車が連なります。その下は土手になっていてツツジの花で「この町にようこそ」と書いてあるようです。
「あそこの土手まで行ってみようか」
「あんな遠くまで行ったら、帰りがたいへんだ。翔のうでをいためてしまう。このへんで、もう帰ろう」
やわらかな風が翔とおじいさんのまわりを包んでいました。
それから二、三日して、翔はまたおじいさんの家に行きました。おどろいたことにおじいさんが家のまえで、服も着て、陽なたぼっこをしていました。よくみると左手を動かしているようです。おじいさんが翔をみつけました。声を聞いておばあさんが出てきました。
「ちょうどよかった。いちごのかんてんを作ったから、昼からでも翔のところへ持っていこうかと思ってたんだよ」
そういいながら、おばあさんは翔を家のなかにひっぱりました。
「おじいさんのようすが何となく変わってきたの。」
おばあさんがいうには、翔が絵をみつけた夜におじいさんにそのことを言ったら、お酒も飲まずにベッドに入ったそうで、そのつぎの日からお酒の量が半分になり、翔と散歩に行った日からは、おばあさんに気付かれないように左手を動かそうとしている、とのことでした。
「おじいちゃん、今日はすこし遠いけど、昼からぼくの友だちと釣りに行こうか」
翔は、啓太といつもの釣り場で落ち合うことにしていました。
「今夜のおかずはアユの塩焼きだよ。おばあちゃん」
翔は、おばあさんと交替で車イスを押して、釣り場にたどりつきました。
「遠いところまで。だいじょうぶでしたか」
啓太は、そういいながら自分の釣り竿をおじいさんに持たせました。おじいさんはだまって釣り竿の先をみています。やがて、
「翔から、絵がすばらしかった、と聞きました。一度みせてほしいなあって。翔の赤ちゃんのころの絵なんか」
翔がすまなそうな顔をして啓太をみました。啓太は、ちょっと顔を赤くして話ををつづけてくれます。
「このあいだもぼくの友だちに、おじいさんの絵の話をしたら、みんな見たいって言ってました」
翔も、
「そうだよ、おじいちゃん。うちのおかあさんもおぼえていて、なつかしがっていた」
おじいさんは、おばあさんの顔をまぶしそうに見上げました。おばあさんは、おじいさんの肩に手を置いています。こんな幸せそうなおばあさんの顔を見るのは、翔ははじめてでした。
「なんなら、どこかに場所をかりて、おじいさんの絵の展覧会、ってもわるくないな」
翔は、思いっきりさりげなく言いました。おばあさんもその調子に合わせて、
「おじいさん、わたしたちは幸せですね」
と、言いながら、おじいさんを見ました。
おじいさんは、意外な成り行きに口をへの字にふんばっていました。
それから数日たって、おばあさんが翔の家に来ました。
「おじいさんは、最初のうちはへりくつばかりこねてたんだけど、わたしにはおじいさんの気持ちはわかっていたの。それにこのあたりのひとたちにも、おじいさんのことをわかってもらえるいい機会だし。そしたらおじいさんが、おまえや翔がそれほどまでに言ってくれるならって、ふと言ったんだよ」
おばあさんは、翔とおかあさんの顔を交互に見ながら言いました。
「あの絵を見れば、みなさんも、おじいさんを見なおしますわ。そしたらおじいさん自身もいままでのような生活はしていられませんものね」
「わたしは、それだけでいいと思っているの。それから先は、おじいさんが自分で考えるだろうと思って」
おかあさんは、翔に地図を持ってくるように言いました。それをテーブルに広げると、
「この間から、おとうさんとも相談していたのですが、この池のそばに小さな画廊があって、このあたりなら、みんなも来やすいと思うんです。どうでしょう?」
「わたしにはわからないから、まかせますよ。それより翔、また一緒に散歩、おじいさん待っているようだから」
翔は、大きくうなずきました。
それからが大変でした。翔は展覧会のポスターをつくるかかりになり、おとうさんは絵に合う額縁をさがしにあちこち行き、おかあさんは画廊へ手続きをしたり、いろんなグループに顔を出してよびかけたりしました。啓太やほかの友だちもいろんなところにポスターをはって歩いてくれたり、いろいろ手伝ってくれました。おばあさんは来てくださったみんなに持ってかえってもらうんだ、とクッキーをたくさん焼きました。
そのなかで、おじいさんは展覧会に来てくれるみんなを自分の足で立って出迎えたいと思ったようで、毎日つえをついて立つ練習をはじめた、と聞きましたが、翔には半分信じられないことでした。
会場の飾り付けは、おとうさんやおとうさんの弟や妹が遠くからやってきて一緒に思い出話などわいわい言いながらしました。
さわやかな風の吹く初夏のある日、展覧会ははじまりました。
翔は、大きな花束を持って会場に一番乗りしました。翔は、おじいさんを見てびっくりしました。蝶ネクタイに背広をきちんと着ています。そして入り口につえを支えにおじいさんは立っていました。
おばあさんは翔に、おじいさん立派だろ?というようにめくばせしました。
「おめでとう。おじいちゃん」
翔は、おじいさんが翔のおじいちゃんであることがうれしくてなりません。花束はおばあさんが受け取り、横にある車イスに乗せました。そして、みるみる車イスは花車にかわっていきました。
「すばらしい絵ね、心があたたかくなるわ」
「あのおじいさんが描いたんだって。今も描いているんだろうか」
「わたしが若かったころ、あのおじいさんにあこがれてたの。わかるでしょ」
「孫ができる、って、こんなに気持ちになるものなんだね。ぼくも絵を習おうか」
「この辺も、むかしはこんな風だったのね。今にもキツネやタヌキがでてきそうだわ」
いろんな声がそこかしこから聞こえてきます。
おじいさんは昼から車イスにすわりましたが、黒い目をきらきらさせて、お客と話をしています。
翔は、かけつけてくれた啓太とVサインを出しあいました。
期間中、この辺りのひとたち全員が来てくれたのかと思うほど大勢が会場にあふれて、おじいさんの展覧会はおわりました。
おじいさんもおばあさんも、おとうさんもおかあさんも、そして翔も、とても疲れました。
それからしばらくして、翔は、おじいさんのキャンバスの前に座ることが多くなりました。
(原稿用紙二十六枚)
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