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脳性マヒ・二次障害レポート

感じたこと聞かせてね


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 [6]   赤い花
 こんな日は久しぶりだ、とたたんだ傘を手に沙和は思った。今朝まで降りつづいて雨がやんで、青い空に太陽が顔をのぞかせた。沙和は、自分を見つけるといつも吠え立てる犬にも微笑みかけられる気分だった。
 
(ちょっと遠回りやけど、川沿いの道にしよ)
 
 沙和は、思いついて次の角をまがった。梅雨の時期にこの道を通るのは初めてだ。いつも澄んでいる川の水は、山から赤土を運んで水かさも増し、音も濁って聞こえる。
 
(とんでもない『水辺の曲』やなあ。イメージ狂うわ)
 
 沙和の心に、一番好きな箏曲が流れ出た。
『水辺の曲』を初めて聞いたのは、小学四年のとき、沙和がお琴を習って二年目くらいのことだ。ちょうど堀内先生が箏曲の演奏家としても作曲家としても注目を集めかけているころだった。
 
(そうやったなあ)
 
 と、沙和は急カーブしている川下を見ながら、思い出していた。           
 ちょうど『水辺の曲』が出来上がり、先生がテープに吹き込もうとしているところに、けい古日を間違えて行ったことがあった。奥さんが、口に人差し指をあてて、飛び出してきた。それから、静かにしててね、と応接室で待たされたことがあった。
 
(あの部屋は外国の人形とかあって、楽しかったなあ)。
 
 それから、改めておけい古室に入ると、その一瞬前までどれだけ緊張していたか、子供の沙和にも解るほど、部屋の空気は張りつめられていた。
 
 沙和が「こんにちは」と言うと「待たせましたね」と、先生がいつものようにおだやかに言った。そして何を思ったのか、先生は、完成したばかりの曲を聴かせてあげよう、と言った。
 
(あのときの先生、すごくうれしかったんや)
 
 先生は、目を閉じたままゆっくりと弾き始めた。眉間にしわを寄せて、口を引き締めたりゆるめたり、肩をあげたりさげたりしながら曲は進んだ。
 
 そのとき、沙和は本当に美しい湖のそばに立っているような気がした。心地よく吹く風を感じたり、青草色の水の匂いまでが、今ここに漂っているようだった。音楽を聴いて心が澄み渡っていくように思われたのも初めてだった。
 
 そして、いつの日か、きっと自分もこの曲を弾くのだ、とはっきり決めたことを、沙和は思い出していた。
 
 沙和が『水辺の曲』を口ずさみながら玄関の戸を開けると、母が受話器を片手に何度もおじきしているのが見えた。沙和は、母が電話を切ると同時に声をかけた。
 
「なんか、あったん?」
「堀内先生の奥さんから。先生、入院しはったんやて、糖尿病で」
 
 沙和は、テーブルの上にあるリーフパイの缶にのばしかけた手を止めて、つぶやいた。
「先生、かわいそうにー。甘いもの食べるのが楽しみやったのに・・・」
 
 母は、リーフパイの缶を自分の方に引き寄せて、言った。
「目も不自由で、よけい気の毒やねえ。それより奥さん言うたはったけど、沙和さんには、休んでいる間もおけい古なまけないように、って。先生が言うたはるんやて」
 
「私、堀内社中では期待の星なんよ。知らんかったん? いつ師範試験受けるのか、て聞かれてるんやから」
 沙和は、母の反応を見ながら言った。
 
「それで? まさか今年、なんてこと言わなかったやろうね」
 母が思ったとおりのことを言ったので、沙和は笑ってしまった。
「だいじょうぶ。うまくいけば来年の春、大学に入ってからお願いします、って言うたから」
 母は、沙和の笑った意味が分かったのか、ふふん、という顔になった。
 
「けど師範になったら、お祝いにオリジナル曲書いてあげる、て。先生が」
「ほんまに」
 母は、うそに決まってる、というように言った。
 
「私が小学四年のことやから、忘れてはるかも知れんけど。せやけど、憶えてはる、と信じてがんばらんと」
「おけい古もええけど、勉強も頼むえ」
 そう言うと、母はパイをひとつ口に放り込んで、台所に立った。
 
 それから数日後、学校からの帰り道のことだ。電車の中で沙和は、眠っている目をこじ開けて時計を見た。あと十分は大丈夫、と目を閉じた。そのとき隣の話し声が聞こえてきた。
 
「赤い花は美しい、とする」
 聞き取りにくいくらい低い声がした。
 
「赤い花は美しい。これは決まっていることなんだ。その赤い花が遠い遠いところ、つまり人間が一度も足を踏み入れたこともないところに、一輪、ぽっ、と咲いた」
 
 沙和は薄目を開けて、そおっと隣を見た。ぽっ、というところで、関東からの学生らしいその男性は、両手を指先まで合わせて本当に、ぽっ、と花の咲くように広げた。それから彼は、隣に座っている髪の長い女性をゆっくりとみつめて言った。
 
「その赤い花、美しいと思うかい?」
 
 その言い方があまりにもキザだったので、沙和は寝たふりをしながら思わず、ニヤリ、としてしまった。それでも彼女がどう答えるのか、気になり耳をすませた。彼女は考えているのか、なかなか言葉が出てこない。沙和は、自分なら何と答えるかな、と思い始めた。
 
(赤い花が美しい、と決まっているなら、どんなところに咲いても美しいはずなのに?)
 
 沙和の心に宇宙空間が浮かんだ。いろんな星たちのそのまた向こうに、赤い花がかすんで見えている。ズームアップすると、その花は彼岸花になっていた。
 
(へーえ、彼岸花か。私の思う赤い花ってこれなんやなあ…)
 
 沙和には、まったく別のところで赤い花が具体化してくるのは不思議な感覚だった。
 眠気はいつの間にか消えていた。
 
(その赤い花が人間の見ていないところに咲いた、としたら、美しいと認める人間がいないわけだから、美しくないのかも知れない。でも赤い花は美しい、という前提なのだから、やっぱりどこに咲こうが美しいはず・・・)
 
「わからへんわ・・・」
 甘い声が聞こえた。彼が満足そうにうなづいている。沙和は、すんでのところで唾を飲み違えてむせてしまうところだった。
 
(男のひとにモテたいのなら、この言い方だな)
 
 しかし、ふたりが電車を降りてしまってからも、沙和は赤い花のことを考えつづけた。
 
「今日、電車のなかで、ふたりがしゃべってたんやけど・・・」
 沙和は帰るなり、母に赤い花の話をした。
「どう思う?」
「そりゃあ、赤い花は美しいって決まってるなら、どこに咲こうと美しいのとちがうの。そんな何にもならへんこと考えてんと。早よう着替えよし」。
 
 しかし、その夜は勉強していても、赤い花のことが頭から離れなかった。それから一週間ほど、いつも心のすみにひっかかっていた。
 クラスメイトの何人かにも聞いてみたが、
「まじめな顔で何を聞くのか、と思ったら。どうでもええやん? そのふたりが何話そうと」とか、「へーえ、沙和さんて、そういう問題に興味があるんやね」とか、言われた。
 
 そして、親友の多恵子には、
「沙和、ひょっとしてその男のひとに一目ぼれ?」
 と、腕をつつかれた。沙和は、
「ちがうて。赤い花のことが気になるだけやん」
 と、笑ってしまった。
 
「そんなに気になるのやったら、兄貴にでも聞いてみよか?」
 多恵子の兄は美術館の学芸員をしている。沙和は、専門家がどんな答えを出すのか、楽しみになった。
 
 翌朝、購買部で消しゴムを買っていると、多恵子が走ってくるのが見えた。
 
「美しくはないんやって。絵の裏側をみているのと同じなんやて。兄貴の答え」
 
 息を切らしながら、それだけ言うと、
「今日の日直、わたしやったんやて。ほなあとで」
 沙和の「ありがとう」も聞かずに走り去ってしまった。
 
(でも、その絵が美しい、という前提なら、その美しさを想像して、やっぱり美しいのではないのかなあ?)
 
 梅雨が明けた。
 とたんに、ものすごいとしか言いようのない暑さが襲ってきた。冷房のよく効いた電車のなかで、沙和は何気なく自分の手をみた。
 
 期末試験のためにお琴のけい古を休んでいたのが、はっきりわかる。お琴のけい古をし始めたとき、水ぶくれのできた左手の指先や右手の薬指など、糸のあたるところが白くなり、皮がももけたようになっている。
 
(また、おけい古始めたら、二、三回皮がむけそうやわ)
 
 家に帰ると、母が奥から小走りに出てきた。
「沙和、大変。堀内先生が危ないらしいわ。そのままでいいから、すぐ病院に行きなさい」
 
 沙和は大急ぎで、かばんだけ取り替えて家を出た。道々、沙和は心のなかで「どうして」「そんなあほなこと」を繰り返した。
 
 沙和が病院に着くと、師範を取っている姉弟子の何人かが病室のまえでヒソヒソ話している。
 
 沙和をみつけると、そのなかの一人が、「先生が待ってはるわ。私たち、もうお目にかかったさかい。沙和さん早く入って、さあ」 そう言うと、沙和の背中を軽く押した。
 
 病室のなかは、太陽が照りつけないようにカーテンが引いてあった。沙和は、奥さんと目を合わせた。
「沙和さんよ、先生。沙和さんが来てくれはりましたよ」
 
 奥さんは、小さい声でそう言うと沙和を手招きした。沙和は思い切って、先生の顔を見た。先生は、いつもに増して青白い顔色だった。点滴の針が白い腕にささっている。
 
「先生、だいじょうぶ?」
 沙和は自分で、何を言うてるのやろ、と思った。先生は長いまつげをしばたたせて、沙和の名前をつぶやいた。
 
 奥さんが、沙和の手をとって先生の手に渡した。先生の手は骨張っているのに表面はやわらかい。沙和はもう一度、
「先生、だいじょうぶ?」
 と言った。
 
 先生は唾を飲みにくそうにしていたが、
「約束の曲、考えていたのだけど、間に合いそうもないね」
 と、ささやいた。
 
 沙和はおどろいて奥さんを見た。奥さんは少しだけ微笑むと、
「ときどき、あのときの約束を思い出してはるみたいで、どんな曲にしようかって言うたはったんよ。小さいひと、教え始めたのは沙和さんが最初やったから、沙和さんを妹か娘みたいや、て先生からよう聞いてたんえ・・・」
 
 沙和は、小さいとき、手をとって教えてもらいながらも、先生の脇に置いてあるボンボン入れを見ては、ここ弾けるようになったらそのなかのキャンディちょうだい、と甘えていたころのことが思い出された。
 
 沙和は意志に関係なく涙が流れた。握りしめたハンカチを黙って目にあてていると、
「泣かんでもええのに・・・」
 と、先生は言った。沙和はいまだに先生の目は見えているのかもしれない、と思うことがあった。
 
 それから、しばらくして、堀内先生は逝ってしまった。
 
 お葬式の日、お寺の境内で姉弟子たちの話しているのが聞こえた。
「先生、どれだけの曲を持って逝かはったんやろね」
 
 沙和は、赤い花のことを、ふと思い出した。
 
                                原稿用紙十三枚
update:
2003/06/06