一、
サン吉の耳に、聞きなれた口笛が聞こえてきました。
「おはよう、サン吉。よく眠れたかあ?」
サン吉の飼育係の橋本さんです。いつもの時間、いつもの作業着で、いつものように話しかけながら、きゅう舎のとびらをひらけてくれます。
(橋本さん、もう春なのに、けさは寒かったね)
サン吉は、わらにくるまって首だけあげ、横目で橋本さんを見ました。
きのうまでは、
(橋本さんが心配するからな)
と、無理をしてでもとびらのところまで出ていったのですが、今日はその元気がありません。
「きょうの朝ごはんは、リンゴ、ニンジン、ホウレンソウ、それに奮発してハチミツにバナナのスペシャルミックスジュースだ。これなら歯がわるいサン吉にも食べられるだろう」
あまい香りがサン吉の寝床までただよってきます。橋本さんの力をかりて、サン吉は立ち上がりました。
(おいしい。きのうまでのキザミごはんとちがって、なめらかに、のどを通っていくよ) サン吉は一息にたいらげ、バケツの底をていねいになめています。
橋本さんはそのようすをうれしそうにながめてから、きゅう舎のそうじにとりかかりました。その間サン吉は外に出て、ひなたぼっこです。
橋本さんが、そうじをしながら口ずさんでいるのは、ベートーベンの第九です。なんだか知らないのですが、毎年の大みそかの日に仲間といっしょに舞台にたっているのだそうです。だからせっかくおぼえたドイツ語の歌詞をわすれないように、毎朝、サン吉のところのそうじのときに歌っているのです。
サン吉はこの曲が好きでした。自然にしっぽが調子をとりだし、気持ちが空の上の方まで上がっていく感じがします。
「食べたかあ?」
橋本さんがゴミ袋をかかえて出てきました。
「サン吉は、この動物園の太陽だ、って昔から言っているだろう。元気出せよ」
橋本さんはブラシをかけながら、最近同じことばかり言っています。
橋本さんは二十年ほど前、大学を卒業と同時にこの動物園にきました。そして、はじめての仕事がサン吉の生まれるのを手伝うことでした。
たまにそのときのことをサン吉に話してくれます。名前は、おかあさんの三番目のこどもだったのでサン吉、と園長さんがつけました。でも橋本さんは、この動物園の太陽になるように、だと思っています。
「今日、昼から、久しぶりに散歩だぞ。いいな」
(散歩? いやだな。それなら寝ていた方がいいよ)
サン吉は、目をしかめて橋本さんをにらみました。橋本さんは知らない顔で、サン吉のおしりをかるくたたくと、口笛といっしょに出ていってしまいました。
入り口の方から子供たちの声が聞こえてきます。サン吉の目が一瞬かがやきました。サン吉の元気だったころは、子供たちをせなかに乗せて動物園のなかを歩いていました。でも、このごろのサン吉は、子供たちの声を聞くと、静かにきゅう舎に入るようになりました。
(ごめんよ。子供たち)
サン吉は、遠くにする子供たちの声を、耳だけ立てて聞きながら、いつのまにか眠ってしまいました。
さくを開ける音で、サン吉は目を覚ましました。
「きょうは、特別におやつだ。これを食べたら散歩にでよう」
橋本さんは、そういうとポケットから角砂糖をひとつ取り出して、サン吉の口に放りこみました。
サン吉は、大好物を口のなかでゆっくり溶かしながら味わいました。
(きょうは、おいしいものばかり食べられる日だなあ)
サン吉の意識が、ゆらゆらうすれていきました。
どれくらい時間がすぎたのか、サン吉は、頭のなかに霧がたちこめています。
(ここは、どこなのだろう)
サン吉は何回もまばたきをしました。
やわらかな毛布の上に寝かされているようです。それからまわりを見まわすと、緑の手術服を着た獣医さんや看護婦さんが、笑いながらサン吉の顔をのぞき込んでいました。
(どうしたんだろう)
サン吉は、四本の足の先から一本ず
つをしんちょうに動かしてみました。おなかにも力を入れてみました。背中の筋肉もなんともありません。サン吉は、もう一度へやのなかを見まわしました。
「サン吉、立ってみようか」
いつのまにか橋本さんが横にいました。サン吉は、ふらつきながら立ちあがりました。
「サン吉、よくがんばった…。ゆっくり歩こう」
橋本さんは、かすれた声でいいました。
どこかで夕焼けこやけのメロディが聞こえています。心地よいあたたかな風が、サン吉のたてがみをゆらしています。花の香りもただよっているようです。
(いつのまに、こんなに春になったのだろう)
サン吉が、園内を歩くのはひさしぶりのことでした。横で橋本さんが、サン吉の歩き方や顔の表情などに、さりげなく気をくばっています。
サン吉は、急に第九が聞きたくなりました。サン吉は立ち止まって、橋本さんの目をみつめながら、しっぽをリズミカルにふりました。
橋本さんがサン吉をじいっと見ました。サン吉は前足で地面を二三回たたきました。橋本さんは、サン吉をしばらくながめてから、ようやくにっこりしました。それから息を吸い込むと、歌いだしました。
最初は小さな声で、でもだんだんその声は大きくなっていきます。 サン吉は、きげんよくしっぽをふりながら歩きだしました。
橋本さんは、サン吉の首をなでながら、
「サン吉、あしたからは何でも好きなものが食べられるぞ。リンゴのまるかじりだって平気だぞ」
と、歯のほとんどをなくしているサン吉には、夢のような話をつぶやきながら、歌いつづけます。
サン吉が、橋本さんの言っていた本当の意味を知ったのは、よく朝のことでした。
橋本さんは、丸いままのリンゴや牧草やフスマの入った、何年も前から食べていないような朝ごはんを持ってきました。
「サン吉、ごはんの前に水を飲もうか」
サン吉は入れたてのバケツの水に顔を近づけました。
水にうつった自分の顔に、サン吉はびっくりして思わず五歩ほどさがってしまいました。歯がきれいにそろっていたのです。それがなんと、みんな金色にかがやいていました。
(なんだ、これは?)
サン吉は、おそるおそるもう一度水の中を見ました。やっぱり金色の歯がずらりとサン吉の口のなかにならんでいました。
「サン吉、まるでシシ舞いのシシだ」
橋本さんが声をたてて笑いました。それからサン吉の口にリンゴを丸いまま放りこみました。
サン吉は思いっきりリンゴをかみました。サン吉の口のなかにくだけたリンゴとリンゴのジュースでいっぱいになりました。
その瞬間、サン吉の頭のなかにベートーベンの第九、よろこびの歌が勢いよく流れでていました。
二、
サン吉が、金色の総入歯になってから半年がたちました。今では何でもがおいしくてしかたありません。きょうもサン吉は、橋本さんにねだってリンゴをふたつも丸かじりしました。
「サン吉、元気に夏がこせてよかったなあ。このごろ毛のつやもよくなってきたぞ」
秋の気配がする風のなかで、橋本さんのブラシをかける手に力が入ります。
「若いときにもどったみいだ…。だがな、子供たちを乗せて歩くのは、やっぱり、もう無理だ」
そこで、橋本さんはくちびるをゆがめて考えながら言いました。
「今度、となりのきゅう舎に若いロバが来ることになった。夏休み中の子供たちの希望で園長も思い切ったみたいだ。でも、おまえはずーっとこの動物園で太陽だ。いばっていればいい」
サン吉は、橋本さんがなぜそんなに言いにくそうなのか、わかりません。サン吉は、二メートルばかりある鉄さくのむこうの、今はだれもいない庭をながめました。
(若いロバが来るのか。かあさんが死んで、兄貴たちが別の動物園にもらわれていってから、仲間のロバに会うのなんて何年ぶりだろう)
サン吉は、わくわくして思いました。
(そいつと会ったら何を話そう、園内も案内してやらないとなあ。ほかの動物園の話も聞けるぞ)
サン吉のしっぽが自然にゆれてきます。
「なんだか、うれしそうだね」
橋本さんは、気がぬけたようにつぶやきました。それから、
「そうか、サン吉にとったら仲間がふえるんだものな」
橋本さんは、自分にも納得するように言いました。
一週間ほどして、新しいロバがやってきました。
「名前はマリーンだ。仲良くしてもらえ、サン吉」
橋本さんが、となりのさくからサン吉に言いました。サン吉は、マリーンを見てからまばたきを二、三回しました。それから目を見開いたまま、ぼーっとマリーンを見つづけています。
「サン吉。なんだ、その顔は」
橋本さんは笑いながら、となりのさくから手をのばしました。
マリーンは、さくの向こうはしからこちらを見るような見ないような感じで、美しく立っています。
(マリーンという名前がぴったりの、きれいなロバだ)
でもサン吉は、一日たっても二日たってもマリーンと話ができずにいました。マリーンもサン吉を遠くの方から、ときどき見ているだけです。
マリーンは、来たつぎの日から子供たちをのせて園内を回りはじめました。
サン吉は、マリーンがいないあいだも、夜、きゅう舎で寝てからも、マリーンのすっとした立ち姿や長いまつげや、つやのあるひずめなどが目の前にちらついてきます。
マリーンが来て、三日がたちました。
(あしたの朝は、きっと声をかけるぞ。マリーン、一度君の声が聞きたい)
朝です。橋本さんが口笛をふきながら、きゅう舎を開けてくれました。サン吉は、あわてて外にでました。もうマリーンは外にいます。サン吉は、さくに顔をよせました。マリーンは、だまってこちらを見ています。
「マリーン。おはよう、マリーン、よく眠れたかい?」
サン吉の足がこきざみにふるえています。橋本さんはほほえみながら、そうじをしています。
「ええ」
マリーンは、遠くからうなずきました。その声はサン吉の胸にこだましてひびきました。
「どうだい、ここの住みごこちは?」
サン吉は頭をフル回転させて聞きました。自然にくちびるがめくれてきます。
マリーンはまだ遠くにいて、それから、
「その歯、どうしてそんな色なの? サン吉さん」
サン吉さん、と言ってくれた声がサン吉の頭のなかで反響しています。目をとろりさせていると、
「なんだか、おかしいわ」
サン吉は、突然、夢のなかから現実に引きもどされたというか、最悪の状態におかれてしまったような気持ちになりました。サン吉は、何も言わずにくるりとマリーンに背を向けるときゅう舎に入ってしまいました。橋本さんの、どうしたんだい、という声も聞こえません。
(そりゃあ、そうだよな。こんなシシ頭みたいな金色の歯じゃ、笑われたってしようがないものな。だれがぼくの歯をこんなにしてくれって頼んだ…)
サン吉の目から、大粒のなみだがいくつもいくつも流れ落ちました。大好きな橋本さんにも腹がたちました。
(何も食べられなくて、あのまま死んだ方がよかった)
サン吉は、その日一日きゅう舎から出ようとしませんでした。つぎの朝、橋本さんがきゅう舎のとびらを開けても外に出ることができません。橋本さんは、朝ごはんをとびらのわきに置いて、となりのきゅう舎に行きました。
橋本さんが第九を口ずさみながら、マリーンのとびらを開けました。そして、話しかけています。
「サン吉が急に元気をなくしてね、心配しているんだ。ふつうロバは年をとると足がおとろえて、どうしようもなくなるんだが、あいつはめずらしく歯をわるくして、死にそうだった。でも、歯だったら何とかなるのじゃないかって、園長も獣医もみんなで考えたんだ。おれも出来る限り元気で長生きさせてやりたい」
それから、しみじみと、
「あいつは、おれの親友だからな」
サン吉は耳をそばだてました。それからサン吉は思い出しました。生まれて二年ぐらいが過ぎたころでした。散歩に出たとき、橋本さんがはじめて秘密の場所につれていってくれました。
ライオンたちがくらしているオリの後がわで、あまり人の行かないようなところでした。小さな空き地にコスモスがいっぱい咲いていました。
橋本さんは「もうすぐ冬がくる。でも子供たちはサン吉に会いに来てくれる。風邪ひかないようにがんばろうな。ぼくも、もう少し、がんばってみるよ」
そういって、サン吉の首を力なくたたきました。そんなとき、いつもサン吉は、「元気出して」と鼻で橋本さんの胸をつついていました。
(あのころは、よくあの空き地へ連れていってもらったな。帰りぎわの橋本さんの言葉はいつも、もう少しがんばってみるよ、だった。あの空き地にもずいぶん行ってないなあ…)
サン吉はきゅう舎のとびらから、そおっと顔を出しました。橋本さんはマリーンと外に出てきて、ブラッシングをはじめています。
「マリーンはマリーンで大切だ。だがサン吉は、生まれてからずーっといっしょなんだ。生まれるって不思議なことだ。もし、あいつの母親が生まれていなければ、そして三頭産まなければ、サン吉は生まれていない。同じロバはいっぱいいる。でも、サン吉というロバはこの世界に一頭しかいない。マリーン、おまえだって同じだ。世界に一頭しかいないもの同士、仲良くしてやってくれ」
サン吉は、思わず鼻をふるわせました。橋本さんはちらっとサン吉の方を見ましたが、すぐに背をむけて、そうじを始めました。マリーンは朝ごはんを食べながら、サン吉を横目で見ています。サン吉は、ゆうべのマリーンの言葉を思い出していました。
(マリーンは、あたりまえのことをふつうに言っただけなのかもしれない。金色の歯をしたロバなんて、めったにいないものな)
橋本さんはサン吉にウインクすると、そのまま何も言わずに行ってしまいました。
「もう、ここになれたかい。マリーン」
サン吉は、できるだけふつうの声で言いました。
「ええ。ここに来るまでは、ずいぶん心配したわ。今までいた動物園では、ロバのおばさん連中にお行儀が悪いだの、言葉づかいがなってない、なんてしかられてばかりいたから。けど、ここは最高よ。サン吉さんは、歯は少し変だけど、いじは悪くなさそうだし、助かったわ」
マリーンは、目をくるりとさせてこたえました。サン吉はちょっとびっくりしましたが、自分はきらわれてはいないことがわかって、ほっとしました。
「ねえ、橋本さんって、どんなひと?」
サン吉は、橋本さんのことやこの動物園のことをしゃべりはじめました。そして、最後に、
「困ったことがあったら、なんでも言ってくれ。ここには長くいるから」
三、
十二月になりました。
サン吉は、橋本さんがきゅう舎のとびらを開ける音で目をさましました。
「けさ、初雪がふって、さむかったろう?」 サン吉は、自分におどろいていました。
(いつもなら、橋本さんの足音で目がさめるのに…。どうしたんだろう。それに雪なんて) サン吉は、ふらふらと外に出ました。外の景色が白くぼやけていました。
サン吉は、やっと橋本さんの言ったことがわかりました。息も白く見え、あらためて寒さが感じられました。
マリーンはもう外に出ていて、うっすら化粧をした木や休けい所のテントの上の雪などをながめていました。サン吉に気がつくと、
「いつもの景色が、少しの雪でこんなに新鮮に見えるなんておもしろいと思わない? でも、きょうはさむいからかしら。鳥の声が少ないわ」
と、耳を動かしながら言いました。
(鳥の声? そういえば何日も聞かないな)
サン吉は思いましだが、マリーンには、ああ、とうなずいただけにしました。
このごろ、橋本さんの歌う声にいつにもまして力がこもっています。
(もうすぐだね)
サン吉は、マリーンのさくのなかに入る橋本さんを見ました。橋本さんもサン吉を見てうなずいています。
「橋本さん、どんなところで、どんなふうに歌っているのかしら。一度、見てみたいわ」
マリーンは、橋本さんの第九を聞きながら目をかがやかせて言いました。サン吉もマリーンと同じことを毎年思っていました。
十二月三十一日が来ました。橋本さんは、いつものように朝ごはんを持ってきて、そうじもすませると、サン吉に、
「きょう、昼から休みにしてもらった。ここまで聞こえると思って、がんばって歌ってくるからな」
そういうと背すじをのばして、行ってしまいました。
夕暮れになり動物園が閉まる時間がくると、あたりは急に静かになります。
「今ごろ、橋本さん、きんちょうして舞台に立っているんだろうな」
「そうだと思うわ。耳をすませば、橋本さんの歌が聞こえそうね」
サン吉は、マリーンとこんなふうに過ごせるしあわせを、かみしめていました。
そのときです。ゾウの声が動物園にひびき、鳥たちのはばたく音がうるさく聞こえました。それが一瞬静まったかと思うと、地面が波立つのを感じました。
(地震だ!)
サン吉の足がふらつきました。と同時に何もかもが大きくゆれはじめました。
「サン吉さん」
マリーンがころんで、さけびました。顔はひきつり、目はサン吉を追っています。サン吉はよろけながら、マリーンとの間のさくに鼻を押しあてました。
「サン吉さん、こちらに来て。はやく」
マリーンがふるえています。どうしよう、サン吉は、けんめいに考えました。ようやく決心すると、さくから遠くにはなれ、全速力で走り出しました。
「マリーン、今、行くよ」
その声と同時に、サン吉は鉄さくを飛びこえました。そして、つぎの瞬間、サン吉はおなかを激しく地面にたたきつけていました。足には思いっきり力を入れていたのですが、何の役にもたちませんでした。
「マリーン」
言葉と同時にサン吉の口から血がふきだしました。サン吉は、マリーンの息が顔にかかるのを感じました。
「サン吉さん」
マリーンの声が遠くに聞こえました。耳の奥の方では橋本さんの第九が流れています。しっぽがかすかにゆれました。そして、ゆるやかに何もかもがうすらいでいきました。
やがて、サン吉の上に空から白いものが静かに舞いおりてきました。
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