1
亜子は、一人旅ははじめてだった。車窓からの景色は、都会から町へ、そして今は、青い稲が線路の間際までせまっている。
亜子は、6年生の夏休みを父が生まれ育った田舎で過ごすことにした。それは、田舎からときどき家に送られてくる野菜の箱の中に「今年の夏休みは、こちらですごしませんか」という祖母の手紙が入っていたからだった。
亜子の父は、亜子が一歳のときに肺ガンで亡くなった。母は、そのあと会社勤めをしながらひとりで兄の巧と亜子を育ててくれている。巧は、今年大学生になって寮に入り、夏休みは八月中ごろにしか帰れない、と言ってきていた。
「むこうに着いたら、おばあちゃん、おじさんやおばさんにちゃんとあいさつするのよ。おじさんとひさし君が駅まで迎えにきてくれるって言ってたけど、遅れてもそこを動かないで待っているのよ。わかった?」
母のボストンバックを手渡しながら言っていた顔が浮かんだ。
「だいじょぶだよ。あのおじさんは、時間は正確だから」
亜子は、笑って応えた。
叔父は年に二三回、様子を見にやってきた。電話で何時ごろに着くから、というと、本当にその時刻にチャイムがなる、というひとだった。
亜子は思い出してクスッと笑った。ガラス越しに腕に射す太陽は、冷房の効いている車内からでもひりひりとして外の暑さを想像させた。
「G駅、G駅」
車内放送が聞こえた。亜子は、ボストンバックを持ち上げながら窓の外を見た。遠くで誰かが白いハンカチを振っている。
『おばあちゃん』
亜子は、あわてて窓を開けた。ものすごい熱気に一瞬息がつまったが、窓から顔を出し大きく手を振った。 駅に降りたのは、亜子ひとりだけだった。
「ようきたな。また大きいなって。おかあさん元気か。疲れたやろ」
叔父が、日に焼けた四角い顔に白い歯をみせて言った。「よろしくお願いします」
亜子は、麦わら帽子をかぶったまま頭をさげた。日差しのわりに心地よい風がどこからともなく吹いていた。息をするたびに土のにおいと草のにおいが鼻の奥をくすぐった。亜子は、叔父の周りを見回した。
「ひさし、なに照れとるんや。こっちきて早ようあいさつせんか…」
亜子が振り返ると、ひさしは陸橋のかげから顔だけ出してニッと笑った。
「ひさしぶりだね」
亜子は、ひさしに大きな声をかけた。
2
「ひさし君、大きくなったね。もう4年生だったかな?」
亜子は、助手席からボストンバックといっしょに後部に座っているひさしに言った。
「なに言うてるんや。亜子こそ、だんだんおねえさんらしいなって」
車を運転しながら、叔父が笑った。
祖母が道に出てくれていた。
「遠いとこ、ようひとりできたな。うまいこと乗り継ぎできたか?」
叔父とひさしが勝手口から家の中に入っていった。亜子もそれに続こうとしたとき、祖母が、
「向こうまわって、玄関から入りよし。亜子が初めてひとりで来てくれたんやから」
ぐるりと生け垣をまわって、亜子は玄関から足を踏み入れた。全く知らない家にきてしまったような気分と、その家のにおいがみようになつかしい思いとが交じり合った。家のなかの風がどことなく甘く感じられた。
入ったところの衝立(ついたて)には、目が大きくてあごひげの濃い、黒い衣を着けた鍾馗(しょうき)さまが立っておられる。この前来たときはこの顔がこわかった。横の部屋が居間、そのむこうに台所と食堂、衝立の奥の部屋は仏間、その奥は庭になっていて、渡り廊下が続いてまた部屋がふたつある。
「田植えやなんやで忙しいて、衝立てかえるの忘れてた。亜子に今度手伝ってもらおかな」
横の部屋から叔父の声が聞こえた。
亜子は、衝立の部屋のすみの人形ケースに目が行った。そこにはかわいい人形と一緒に、飴色の木の輪切りのうえに黒いどろりとしたものが打ちあけたようにのっている置物がある。今にも木からはみ出そうになる寸前で黒いどろりとしたものはとまっていた。不思議な、あまりいい気持ちのしないものだった。亜子は、それをチラッとみてから居間に入った。
3
「おばあちゃん、亜子ちゃんが来るて聞いてから、ほんまに待って待ってしたはったんえ」
叔母が、夕食のあと居間でスイカを配りながら言った。
そのとき、叔父がどこからかアルバムを持ってきて、亜子の横に腰をおろした。紺の表紙は布張りで、房は変色し、からまっている。
「これには、亜子のおとうさんの子供のときのが写ってる」
亜子が開けると紙の湿けた臭いと座布団の上に寝かされている赤ん坊の姿が、同時に飛び込んできた。
亜子に父の思い出は何もない。でも亜子の体のなかの血が激しく動きだそうとしているのが、心に伝わってくる。
ページをめくっていくと、玄関前で若い祖父に抱かれたむつかしい顔の父がいたり、着物姿の祖母とランドセルを背負った四角い顔の父がいる。
「この頃、おれが生まれたんやな」
叔父が祖母にアルバムをのぞきながら話している。祖母はうなずいて、
「亜子のおとうさんはやさしいて。おばあちゃんは百姓してたさかい、この頃から弟のめんどう、ようみてくれた」
「そうやった。兄貴の後ばっかりついていってた。兄貴やそのともだちとも川で泳いだり、柿どろぼうしてみたり。そのときな見つかりそうになったんや、おれが木のうえにいたんやけど、兄貴のともだちは逃げたのに、兄貴はおれ待ってたばっかりに、そこのおばはんに怒鳴られた。せやけど、怒鳴られながら後の手でおれに早よう逃げ、言うてくれてるのや」
「そんなことだけと違ごうても、おまえがドンやさかい、いつも亜子のおとうさんが怒鳴られたりあやまったり。せやけど、おまえには怒ったことなかったなあ」
祖母が笑いながら言っている。
丸刈りにハチマキ、白い運動着で友達とふざけている写真に、亜子はそれまで思っていたことを口に出した。「おにいちゃんにそっくり」
祖母は、ほほ笑み、うなずき、目をこすった。
「巧は小さいときから、おとうさんによう似てたさかい」「亜子ちゃんは、おかあさん似やね」
叔母が口をはさんだ。
「ぼくは、どっちに似てると思う? 亜子ちゃん」
ひさしが言った。
「ひさしは、おばあちゃんに似てるの」
叔父と叔母が同時に言った。ひさしがいやな顔をした。亜子が吹き出し、みんなも笑った。
「亜子の寝る部屋、考えたんやけど、兄貴の使こうてた離れがええやろ思うて。うちのに掃除させといたから。となりの部屋はひさしの部屋になってるさかい、何かあったらあの子起こしたらええ」
父の七回忌に母と兄とで来たとき、この部屋は古いタンスやダンボールの箱がいくつも置いてあった。亜子は、ここで兄の巧がタンスにもたれてたたずんでいるのを、思い出した。
『おにいちゃん、あのとき、おとうさんと話をしていたのかもしれない』
ふと、亜子は思った。ふとんに横になると天井の木目が目に写った。木目は、ひとの横顔や鳥の羽根やいろんな形にみえた。
夢のなかで、亜子は父とドッジボールをしていた。が、それはいつのまにか父は巧になっていた。
4
亜子は、ひんやりとした空気のにおいで目を覚ました。すぐには、自分がどこにいるのか、わからなかった。遠くで祖母と叔母が話ながら朝食の用意をしている。亜子は、あわてて服を着替えた。ひさしはまだ眠っているようだ。
「なんや、もう起きてきたんか。もっと寝てたらよかったのに」
祖母と叔母が口々に同じようなことを言った。
朝食のあと、亜子はひさしに誘われて外に出た。ひさしは、虫かごとあみを両手に山の方に向かった。
「採ってほしい蝶やら虫がいたら言いや。…あっ、ちょうどええもん みつけた」
亜子があみの先に目をやると、透き通った緑色の羽のセミが木にとまっている。横にはセミの殻があった。「いま、生まれたばっかりや。きれいな色やろ」
ひさしは手に乗せて目を輝かせた。
「セミって、何年も土のなかにいて、地上に出てきても一週間くらいで死ぬんだよ。かわいそうだから放してやったら」
まだ一度も鳴いたり飛んだりしないうちにとらわれてしまったセミが、緑色の足をゆっくり動かしていた。
「いやや」
ひさしはそう言うと、箱のなかにあわててしまった。 お昼がすむと、祖母が、
「きょうは、おばあちゃんがおいしいおやつ作ろうかな」
ひさしは、ウォーと声をあげて、亜子に微笑みかけた。
亜子も手伝って、フルーツみつ豆が出来上がった。叔父も田んぼから帰ってきてみんなで食べた。おやつを家族が集まって食べる、というのは、亜子は意外だった。しかし、亜子が来ているから特別、というでもなさそうだった。
ひさしが、果物だけ先に食べてしまって寒天だけが残っている自分の皿と亜子の皿を見比べている。亜子は、手作りの寒天がおいしくて、皿には果物の方が多く残っていた。
「ひさし、いじましいことしたらあかんよ」
叔母がきつい声で言った。祖母と叔父は知らない顔でいる。亜子は、
「ひさしくん、お願いがあるんだけどな」
ひさしがびっくりしたような顔をして亜子を見た。
「この果物と交換しない? さっきのセミ」
ひさしは、それを聞くとすぐに走ってセミの箱を取りに行った。亜子は、その間に自分の皿から果物をみんなひさしの皿に移してやった。叔母が、
「亜子ちゃん、ごめんね。あの子は切りがないんやから。気使わんで」
「果物なら冷蔵庫にまだあるし、切ってこうか」
祖母が立ち上がりかけた。亜子は、
「でも私、もうたくさん食べたから。それにあまり食べてばかりだと太るからいいよ」
祖母は、そうお、といいながら座布団のうえに座りなおした。ひさしが、にこにこしながら箱を亜子に渡した。叔父が、
「ひさしは、ゲンキンやな」
と笑った。ひさしはもう果物にかぶりついている。
「亜子は、はや田舎の子になったみたいやな。セミ、好きなんか」
叔父がうれしそうに言った。
「このセミ、生まれたところだったから。一度、空を飛ばせてやりたい、と思って」
叔父が驚いたように祖母と目を合わせた。祖母は、やっぱり、という顔でうなずきながら亜子をみつめた。亜子と叔母が、なになに、と二人をみた。
「亜子は、間違いなく兄貴の子や。なあ、おかあちゃん」
「亜子のおとうさん、亜子と同じころに、同じこと言うてセミを逃がしてやったことがあったんや」
亜子は、熱いお茶を一息に飲んだように胸がカーッと熱くなった。
「そんなことが、あったんだ」
亜子は、しばらくしてそれだけ言うと、箱を持って外に出てきてしまっていた。青い田んぼを風が渡っていく。亜子は、大きく深呼吸をした。そして、少し震える手で箱を開けた。セミは緑でもなんでもなく普通の黒っぽいセミになっていた。ただ目が急に光にあたったためか、虹色に見えた。亜子は、そおっとセミを門の柱につかまらせてやった。
「飛んでごらん」
亜子は、ささやいた。
5
一週間が過ぎた。亜子の白かった顔が日焼けし、ひさしとは本当の姉弟のようになっていた。一日の大半を野や山を、ときにはひさしの友達もいっしょに駈けていた。
「今日は田んぼは昼からにして、衝立て変えてしまうわ。もうすぐお盆やからな。亜子とひさし、手伝うてや」
叔父の言葉に、ひさしは頬をふくらませた。亜子が横から人差し指でその頬をつついた。
叔父は笑いながら納戸にむかった。離れに続く廊下の端に二階への階段がある。納戸は、その二階へ上る階段の途中の部屋だった。祖父のこどものころ、そこは養蚕部屋だったそうだ。
『薄暗くて気持ちわるい』
と思ったとたん電気がついた。ほこりがそこにあるもの全部を白っぽくしていた。亜子が部屋のなかを見回した。入ったところに大きな木の箱がある。亜子は、そっと箱に手を置いた。
「その箱は、灰いっぱい入れといて渋柿の渋抜いたり、ゆでた大豆をわらに巻いて納豆作ったりするときの箱なんや。おれらの小さいころは、よう兄貴と覗いたもんや。おばあちゃんの嫁入りのとき、着物入れてきた箱らしい」
叔父が作業をしながら言った。亜子が手でほこりを払うと、渡り廊下の艶と同じ色の木の感じだった。
『私がお嫁に行くときも、こんなのをひとつ持っていきたいな』
亜子は、トラックにほかの荷物と一緒にこの箱を乗せて紅白のひもがかかっているすがたを想像した。
『そこに雪が降っていたら素敵』
叔父は、籐(とう)の衝立てに手をのばしかけた。
「そうや、亜子にええもん見せたろ」
叔父は、のばした手を衝立てのそばにあるみかん箱に移した。
「これは、亜子のおとうさんの若かりし頃の遺品や。これも出しておくから、後でゆっくり見たらええ」
叔父とひさしが、衝立てを取り替えたりかたずけたりしている間に、亜子は仏間の隅でみかん箱を開けた。むわっとした臭いに思わず顔をしかめた。なかには木地そのままのお碗や、ペンキを入れるような缶や、鉈(なた)のようなもの、それに筆やハケ、隅にはノートなどがぎっちり詰まっていた。
亜子の様子をみながら仕事をしていた叔父が、
「兄貴は、高校生のころ漆(うるし)の採取や工芸に凝ってなあ。ここらへんは、昔わりとええ漆が取れたんや。近くに漆の工芸家もいはってな、兄貴ようその先生のところに行ってたなあ」
亜子は、粉っぽいノートを開けた。三月十二日190グラム、三月十三日223グラム…四月七日275グラム…それは延々と続いている。叔父が、
「それは、漆を採取した記録ノートや。先生に集めた漆を持っていっては教えてもうてたみたいやった。朝の四時半ごろ起きて山に入ってた。五時ごろ傷つけたんが一番たくさん取れる、とか言うてたわ」
亜子の思いもよらない父がそこにいた。亜子は、みかん箱に入っているひとつひとつをゆっくり取り出した。やぶれたところや端っこが茶色になった紙で包まれた箱が出てきた。墨で、顔料、と書いてあるようだ。黒い粉がちりちり手に広がった。先が固まっている筆で手のひらの顔料を集めた。
「それは、亜鉛やからあまり触らんほうがええ。漆は透明の金色みたいなもんなんや。そやからそういう色粉を混ぜて使うみたいや」
いつのまにか衝立てはきれいに替わっていた。叔父が亜子の後で説明してくれている。ひさしは横に座ってのぞき込んでいた。
「ぜんぜん知らなかった」
亜子は大きく息をしながら言った。
「巧に聞いてへんかったんか。おとうさんの七回忌のとき、巧には見せたんやけどなあ」
『おにいちゃんのやつ』
亜子は、とっさに思ったが、何となく巧が何も言わないで心の奥にしまいこんでおきたかった気持ちもわかるような気がした。
「そこにあるのが先生が絶賛してくれた、と兄貴がほんまにうれしそうな顔しよった作品や」
亜子が叔父の視線をたどると、人形ケースのなかの木の上にどろりと黒いものが乗っている置物に行き着いた。
「これ、ここに来た日に気がついたの。でも何となく気持ちがわるくて近付けなかった」
亜子は、心臓がどきどきしていた。叔父はうなずいて、
「はじめて見たときは、おれもあんまりええ気持ちはせえへんかった。そやけど何回もみてるうちに、ええなあて思えてきた」
叔父はしばらく考えていたが、突然、
「亜子は、コーラはじめて飲んだときのこと憶えてるか?」
亜子の頭のなかでエンジンがフル回転した。それからあわてて首をふった。
「コーラが輸入されてきて、おれが生まれてはじめて飲んだんが、今のひさしくらいかなあ。そのとき、一口飲んだだけで捨ててしもた。風邪のときの水薬とおんなじ味やった」
亜子は、叔父がなぜ急にコーラの話をしだしたのか、考えていた。ひさしは信じられない顔をしている。叔父は、亜子とひさしの顔に少し笑って続けた。
「ちょっとしてから、兄貴がコーラてうまいもんや、て言いだしたんや。二度と飲まへんって思うてたけど、あんまり兄貴がおいしそうに飲むもんやから、ためしにまた飲んだんや。そしたら、うそみたいにおいしかった。うまいことよう言わんけど、おれは、この作品はそんな感じのもんや、て思うわ」
叔父の頬が少しピンク色になっている。それに自分で気がついたのか急に照れ笑いをしながら居間の方に行ってしまった。ひさしがからかいながら後を追った。台所からは昼食の用意をしている音が聞こえていた。
6
午後、亜子はまた父の残したみかん箱のなかをゆっくり見ようと思っていた。ひさしは、学校で集まりがあるとかで出ていってしまった。
亜子がテーブルから離れようとしたとき、祖母が声をかけた。
「これから、おばあちゃんの畑に行くけど、亜子も一緒に行かへんか」
祖母の畑は、線路をはさんだ向こうの山のすそにあった。祖母は、地下足袋をはいてくわを持ち、亜子は、長ぐつをはき肩にかごをかついだ。かごのなかにはポットとゆでたまご、それにムシロが入っている。畑に着いてふりかえるとまわりの家より一回り大きい生け垣の祖母の家が小さく見えた。
「トマトとキュウリ、今夜食べる分だけ採っといて」
祖母はそういうと、亜子にはさみを渡した。木で熟したトマトの味は格別だ。
毎夏、家に送られてくる箱のなかには必ず真っ赤なトマトがたくさん入っていた。巧も亜子もスーパーのトマトはあまり食べないが、田舎から送られてくるトマトは、奪い合ってよく食べた。
「ほしかったら食べてもええよ。農薬かかってへんから」 ニンジンを掘出しながら祖母が言った。亜子は、祖母の腰の曲がり具合から、
『農業って、やっぱり大変なんだ』
亜子は、小さな赤いトマトをもいでかぶりついた。生あたたかな果汁が口いっぱいに広がり、外にもこぼれた。亜子はあわてて顔を前に突きだした。トマトは冷やしてしか食べたことがなかったが、今のこの甘さには驚いてしまう。でも缶ジュースなどの甘さとはちがって後味はすっきりしている。
キュウリは、まっすぐなのは一本もなく、黄色の可憐な花の下をみるとミニチュアのキュウリがあったり、また大きくなったキュウリには花が半分茶色になってついているものもあった。
亜子は、片手では持てないほどの大きなトマト3つと、曲がりのおもしろいキュウリを5本ほどをかごに入れた。祖母が、ニンジン畑のむこうでムシロを広げている。
「ここらへんは高原で、むかし牧ていうて、皇室で使う馬育ててたらしい。うちにも牛や馬がいて、亜子のおとうさんもおじさんも世話をようしてた。そやけど田んぼや畑は、おとうさんよりおじさんの方が好きみたいやったなあ」
祖母はゆでたまごをむいてから、亜子に渡した。
「おとうさん、だから東京の大学にいって、そのままそこで暮らしたんだね」
亜子は、たまごを一口食べた。しっとりとした黄身がみえている。
「亜子のおとうさん、大学へ行くとき、おじいさんと大げんかしてな。美術の方に進みたい、というおとうさんに、おじいさんがそれでは絶対食べられへん、いうてな。結局、おとうさんの行きたかったところは、みんなすべった。一年浪人して翌年も美術の方はあかんかって、あきらめたんやろな。そやけど農業はやる気なかったみたいや。長男やけど家を出る、あとはおじさんに継がせる。いうて出てしもた」
「それで会社につとめて、おかあさんと結婚したのね」
亜子は、母から父と出会った頃のことは、よく聞かされた。遠くのほうから風が吹いて稲がゆれている。
「なんだか透明人間の大男が田んぼのうえを走っているようだね」
「亜子は、おもしろい子やなあ」
祖母は、手で口を半分かくして笑った。そして、突然その目から涙があふれた。亜子は、不思議そうに祖母の顔をみつめた。
「おとうさんに、今の亜子をみせてやりたいなあ…。おとうさん、意識のなくなるまえ、巧も亜子もたくましいに、優しいになってほしい、て…。おかあさんがずっとおとうさんの気持ちくんで、がんばってくれたおかげやなあ」
亜子は、思い出していた。いつだったか兄に「おとうさんの死んだときのことおぼえてる?」とたずねた。兄は、しばらく考えてから「そうとう苦しんで死んだらしい。かあさんに聞いたんだ。そのとき、いつも笑っている顔が急にゆがんできて泣いたからな。おまえが大人になったら、かあさんから言い出すかもしれない。それまで待っててやれよ」と言った。
母からは何回も「おとうさんは、亜子が自由にのびのび育ってほしい、とよく言ってた」と聞かされていた。しかし、祖母の口からあらためて父の思いを聞くと、亜子は、知らないところから父が自分をずーっと見守ってくれているような気持ちになった。
7
亜子は夕飯を終わって、ひとり人形ケースの前に立った。居間からはテレビを見ながら笑っている声が聞こえる。
亜子の周りだけがしーんとしていた。よく観たい気持ちといやだという気持ちが百メートル競争をしているようだった。亜子は思い切って、父の作品をみつめた。それは、みつめた、というより、にらみつけた、という方が正しいのかも知れない。まばたきもせずにみつめていると、作品のまわりから青いけむりがゆらめいた。
『おとうさん、どんな思いであれをつくったのかなあ。おかあさんは知っているのかしら? 行きたいと思った大学に行けなくて、きっと悔しかっただろうな…』
その夜、亜子はいろんな思いがつぎからつぎに湧いてきて、なかなか寝付けなかった。そして、あることを思い出した。
亜子が2年生くらいの頃だった。母がタンスの奥に大事そうに桐の箱をしまっていた。「それ、なあに」と聞くと、母はにっこりして「おかあさんの宝物」と言った。「みせて」と言うと「大きくなったらね」そして、亜子のひたいを指で軽く押して、幸せそうに笑いながら行ってしまった。
亜子は、たった今確信した。
『きっと、おとうさんのつくった何かが入ってるんだ』。
スズメのさえずりで、亜子は目をさました。時計をみると5時まえだった。まだみんな眠っている。亜子は、パジャマのまま人形ケースの前に立った。
父の作品に障子のすきまから朝のひかりが射していた。今までのようないやな気持ちはしなかった。静かな気持ちでみつめられた。
その日、亜子はひさしに、
「うるしの木、って知ってる? どこにいけば見られるかしら」
ひさしは、
「知ってる。そやけど僕、かぶれるし、いやや」
亜子は、遠くから教えてくれたらいいから、とひさしを頼んで、山のほうに向かった。
「あの木や」
亜子は、ひとりでひさしの指す方向に歩いた。
「そのひだりの、むこうや」
離れたところから、ひさしがさけんでいる。亜子が指をさすとひさしは大きくうなずいた。
『なんて、お行儀のわるい木なの』
亜子の第一印象だった。かぶれるから触ってはいけない、と何度もひさしは言ったが、そっと手をあててみた。手には何も起こる気配はなかった。
それほど高くはないよじれたような木に、桜の葉っぱより少しスマートな葉がゆれている。この木に傷をつければ、漆が採れるのか、と思ったとき、亜子はひらめいた。
『うるし、って、この木のなみだ』
ひさしが大きな声で呼んでいる。亜子は、もう一度木を一周してから、ひさしのもとに戻った。
帰って祖母に話すと、
「亜子は、おとうさんの体質を受け継いだみたいやな」 と、言いながら、亜子の手のひらをなでた。
亜子は時間をみつけては、さりげなく父の作品のまえに立つようになった。
このごろでは父といっしょにいるような感覚になってきていた。
亜子が東京へ帰る日が近付いていた。
「おばあちゃん、おとうさんのあれ、出して観てもいいかなあ」
祖母が驚いて、
「まだ、手にとってへんかったんか。あほやなあ、遠慮なんかせんでもええのに」
亜子は、首を横にふった。
「ほんとにいい、って思えないうちに手にとったら、何だかおとうさんに悪いような気がして。でも、本当にいい、って思っているのかどうか、まだ自分ではわからないのだけど…」
祖母は、どう言っていいのかわからない表情のまま人形ケースの前に行き、なかに手をのばした。そして、黙って亜子に手渡してくれた。
すごく重たいだろう、と思っていたが、それは予想以上に軽かった。
亜子は、そばに祖母がいることも忘れて見入った。そして、木のうえにどろりとしている漆のなかにいくつかの気泡をみつけた。それは、その漆が、そして作品そのものが、生きている証拠のようだった。
「おとうさん、生きていたかったんだね」
亜子は、自分の言ったことに自分で驚いていた。そして、亜子は本当にそれを実感していた。祖母が目をうるませて亜子をみつめている。亜子は、父が死んだ、ということが悲しくて初めて泣いた。祖母が背中をなでてくれていた。
亜子は、新幹線のなかから富士をみつめている。亜子のひざのうえには、父の作品の入った箱が置かれていた。
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