真っ暗な中にシャッターを開けるものすごい音が響いた。黒出目金のクロキチは体をぶるるんとふるわせた。
「いつものことだけど、この音なんとかならないのかなー」
「そうだよな、もう少しそおっと開けてくれるだけでも音は違うはずだよ」
いっしょの水槽に眠っていたクロタは目をパチクリパチクリさせながらぼやいた。ほかの仲間もうなずいている。
春の初めの淡いピンクの陽ざしが入ってきた。となりの水槽には一週間前に来た赤いしっぽをふわっとさせた赤出目金たちがいる。
その中の一匹と目が合った。クロキチはガラス越しに、おはよう、とあいさつした。いつもは無視されるのに、今朝は向こうも口を大きくあけて「おはよう」と言ってくれた。クロタが、
「おい、クロキチ、あの彼女はじめて口きいたな、可愛い声!」。
聞き慣れた長靴の足音が聞こえる。朝ご飯がまかれた。やがて、しばらくすると差し込む陽はオレンジ色になり、水温もあたたかくなり始めた。
クロキチはぼんやり浮いていた。あとは日長一日何ごともなければシャッターの閉まるまで差し込んでくる陽の色の変化を楽しんだり、クロタたちと鬼ごっこでもしていればいい。しかし、クロタはとなりの女の子を気にしているし、今日は静かに過ごせそうだ。水槽の底には出目金のカゲが揺らいでいる。
クロキチはしっぽをふんわり動かした。そうしたらカゲもふんわり動いた。優雅だな、クロキチは何となくうれしくなって、何回もふんわり、ふんわり、としていた。やがて、クロキチは自分の動きとカゲの動きが微妙にずれていくことに気がついた。
クロキチは自分で動くのをやめてしまった。それでもカゲは動き続けている。そのうち、しっぽのカゲから足が、そして目の真ん中から腕が、最後に鼻の先から頭のカゲがぬうっと出てきた。
クロキチは、じぃっとカゲを見続けている。いつの間にかクロタがそばでクロキチの目線の先を見ていた。
「クロタ、ぼくは動いてないのにカゲだけ動いてるよ。それに頭や手足まで出てきたよ・・・」
「おれには、おまえのカゲだけしか見えないんだけど・・・ おまえ、震えてる・・・」
クロキチにはクロタの声は聞こえていない。クロキチはカゲの声を聞いていた。
「よく眠っていた。ここはどこなんだろう?」
声は頭のなかの中心部分から聞こえる。クロキチは思い切って声を出した。
「ここは、黒出目金の水槽の中だよ」
「ええーっ。水槽の中だと?」
「君は、誰なの?」
「クロキチ、誰と話してるんだ? 頭はだいじょうぶか?」
クロタの大声にクロキチがようやく気づいた。
「おまえには見えないの? このカゲが」
となりの水槽では、彼女が心配そうにみつめている。
「私は・・・」
すーっとカゲは消えた。
と同時に聞き慣れない足音が聞こえてきた。その足音はクロキチたちの水槽の前で止まり、クロキチを指さした。その指先は桜色だった。クロキチはその指を見たとたん心臓がものすごい早さで打ち、頭に全身の血が集まったような感じがした。
(おかしい、変だ、どうしたんだろう。しかしなんて綺麗な指先なんだろう。もう一度見たい)
クロキチは突然、あの指先にふれていた感覚が鮮明によみがえった。
(もう一度あの指先にふれてみたい!)
強烈な思いが涌き上がった。
「クロキチ、どうした? 今度は目がおかしいよ。ほんとにどうかなっちゃったの? クロキチ!」
「クロタ・・・ ボク、おかしい・・・」
それがクロタがクロキチの声を聞いた最後だった。
その次の瞬間、クロキチは網にすくわれていた。クロタは網が水槽に入った勢いで反対側の壁に体をぶつけて「うわあー」と叫んでいる。赤出目金の女の子も口をパクパクさせている。クロキチが気付いたときにはビニール袋に入れられ、その袋は桜色の指先に渡されていた。
「クロター!」
クロキチは思いっきりの声で叫んだ。
2
電車とバスにゆられて、そのひとの家に着いたのはお日さまが真上を過ぎたころだった。ボクはその間、桜色の指先をずーっと見つめていた。いくら見ていても見飽きない指先だった。
ふと、クロタがとなりの赤出目金に出会ったとき、こんな感じだったんじゃなぃかな? と思った。ボクはこれからこの桜色の指先をしたひとと暮らすのかなあ。それなら、どんなに嬉しいだろう。
ボクは丸いガラスの鉢に入れられ、緑の垣根が見える窓のそばに置かれた。桜色の指先がコツンコツンと鉢をたたいてくれた。なんて、優しい響きなんだろう。ボクはうっとり浮かんだ。
桜色の指先を見た初めての時、それが初めてだったのに、ボクはなぜか懐かしく感じた。なぜだろう?
頭の奥でため息が聞こえた。ガラスの底のボクのカゲにゆらめきながら手足が、そして頭が見えてきた。
「ここは・・・?」
また、あの声が聞こえた。低く落ち着いた声だ。
「ボクを買ってくれたひとの家らしいよ」
ボクは夢見心地に答えた。カゲが大きく息を呑むのを感じた。そして、
「おまえは、だれだ?何者なんだ?」
「ボクは、黒出目金魚のクロキチだよ。君こそだれなの?」
それから長い沈黙が続いた。ボクは待った。それから、静かなため息がこぼれ、
「ようやく解った、わたしは金魚に生まれ変わったんだ。ああー、そういうことかー」
「君が、だれに生まれ変わった? 君はほんとにだれ?」
しかし、それから彼はいくら話しかけても翌朝までカゲすらも現さなかった。
その間、桜色をした指は何回も何回も鉢にふれ、話しかけてくれた。
「これからよろしくね」
「二人っきりなんだから仲良くしましょうね」
優しい声だった。
「前からね、黒い出目金が飼いたいね、って彼が言ってたのよ。彼は、もういないけど」
澄んだ目がガラス越しに少しゆがんで見えた。涙があふれているのがわかった。ボクは、ボクは、その涙をこの手ですくいたい。
やがて遠くから聞こえる桜色の指先をしたひとのハミングを懐かしく聴いた。
翌朝、カゲの声で目が覚めた。小鳥の声が窓の外から聞こえた。台所の方からパンを焼く香ばしい匂いがボクの鼻をくすぐりはじめた時だった。
「ああ、なんと懐かしい香りではないか。やはり彼女の生まれ変わりが、あのひとか?」
「いったい朝早くから何を言ってるんだい?」
ボクは美味しそうな匂いに酔いしれていたのを妨げられて、少し不愉快な声で応えた。その時、桜色の指先が金魚鉢の上で踊った。その香りは頭上鉢いっぱいに広がった。ボクはそれに向かって突進して思いっきりそれを頬ばった。
頭の奥にある光景が浮かんだ。長いテーブルに木製の椅子、部屋を飾る数々の絵画、紋章のついた壁紙、部屋の隅には白くおおきなストーブ。床にはえんじ色の絨毯。姿勢のいい黒い服の男達が焼きたてのパンやスープを運んでいる。私はテーブルに着いてパンに手を伸ばしているー。
「そうだ、それが私の前世の姿だったんだ」
いつの間にかカゲがくっきりと現れ、話し始めた。
「私の名はロメオ。ロメオ・モンターギュだ」
ボクはパンくずを飲み違えそうになった。
「エッエー! あのシェークスピアのロメオとジュリエットのロメオ?」
ボクはむせかえってしまった。
「まて、おまえがなぜ彼女の名前を知っているのか? シェークスピアとは、いったい何者だ?」
ボクは口の中のパンくずをきれいに飲み込んでから、その間に頭の中を整理して口を開いた。
「シェークスピアは昔のイギリスの劇作家。金魚のボクがなぜ知ってるのかわからないけど、知ってるんだから、とても有名なんだ。彼の作品の中でもっとも有名なのがロメオとジュリエット。この恋のお話は世界中が知っているよ」
ぼくは、少し威張って答えた。
「君たちは親から結婚を反対された。ジュリエットは神父さんに相談して一時的に仮死状態になる薬をもらった。それで親をびっくりさせて、そんなに好きなら結婚させばよかった、という言葉をいわせて、それから神父が、実は本当は死んでいないから結婚させてやろう 、とまとめるはずだった・・・」
「な、なんだって! 仮死状態でほんとは死んでない! どういうことだ、それは!」
ロメオは驚きのあまり声がかすれていた。
「私が駆けつけたときにはジュリエットは冷たくなっていた。胸に耳を当てても鼓動はしなかった。私は目の前が真っ暗になった。」
カゲは一息つくと、遠い日のことを静かに語り始めた。
「一刻も早く彼女を追いかけたかった。彼女ひとりに冥い道を歩かせるわけにはいかないー。私の思いはそれだけだった。しかし、しかし本当は彼女は死んでいなかったのか・・・ 。そうだとしたら、ジュリエットは私が死んだ後、目覚めて、そして、いったい、どうしたんだろう?」
ロメオの声は次第に消えていった。同時にカゲも薄らいでいった。
「ロメオ、待って。確かシェークスピアによると、ジュリエットは目覚めて君が死んでしまったと知ると、すぐに君の後を追ったんだよ」
消えかけていたカゲか濃くなった。そして、
「私は彼女を追いかけようとして必死で走ったんだ。冥い道を・・・ しかしー、それは彼女から遠ざかることだったんだ。見えなかったはずだ。どんなに走ったところで・・・」
あとは言葉にならなかった。ボクはこんなにつらい無言を初めて知った。
やがて、
「私は、この道を歩いていけば彼女に会えると信じて歩いたんだ。彼女がこの道を歩いたんだと思えば、何も怖くはなかった。何もない道だった。遠くで風の舞う音はする。しかし、私の所まで風は吹いてこない。はるか上空には月が上がっているような気はするが、光のかけらさえ届かない。それでも彼女の歩いた道だと思えばなんてことはなかった。ただひとつのことを除けば」
カゲが両手で頭をかかえた。ボクは待った。
「ひとつだけ、ひとつだけどうしても耐えれないことがあったー。それは手に触れるものがまったく何もないことー。歩いている足にも石ころひとつ当たらないんだ・・・ 彼女が歩いた道と信じなければ、歩けない道だった・・・」
ロメオは大きな息をすると消えてしまった。ボクはしばらく動けずにいた。いくら思い描こうとしても冥い道を歩いたことは出てこなかった。
もう夜になっていた。桜色をした指がガラスを叩いた。やがて心地よい音楽が流れ、ボクたちは二日目の夜を過ごした。
「この曲は彼女の好そうな曲・・・ この桜色の指をしたひとこそジュリエット、君なのか?」
ボクは夢のなかでこの独り言を聞いた。
三日目の朝、きのうと同じ香りのパンくずが桜色の指先からまかれた。そして優しい瞳が見つめている。これから、ずっとこの日が繰り返される。ボクはふんわり浮かび、思いに浸った。
開け放たれた窓のそば、温かくなった春の日ざしのなかで、ボクはクロタのことを思い出していた。どうしてるかなー、クロタのやつ。赤出目金の彼女としゃべれるようになったかな? ロメオは夜に何やらをつぶやいていたみたいだけど、今朝は姿も現さないなあ。ボクは底に写ったカゲをみつめていた。
そのときだった。カシャカシャとガラスをひっかく音がした。何か不気味な不安がボクを襲った。いつもの桜色の指先とは程遠い、白い毛に覆われた鋭い爪がガラスの向こうに見えた。
「クックックッ、おととい来たときから、うまそうなやつだ、と思ってたのよ。ここのご主人さまは買い物に出かけた。そのすきにごちそうにありつこうってわけだ。おとなしくわたしに食べられておしまい!」
光った爪が真上からボクをめがけて一直線に来た。ボクはガラスにピッタと体をくっつけて逃れた。
「こしゃくな!」
思いっきり白い毛をした手が鉢の中にはいって、激しく水をかき回した。つぎの瞬間、鉢がひっくり返されて、ガラスの割れる音といっしょに水が飛び散り、ボクは畳の上に投げ出された。
「クロキチ、どうした!」
ロメオの声が響いた。
「そ、その声はロメオさま」
白い毛の光る爪がボクの顔の真上でピタッと止まっている。
「えっ、君はジュリエットなのか?」
「はい、わたくしです。やっとみつけました。わたくしのロメオさま。どれほどお捜ししたことか」
「ジュリエット、逢いたかった!」
「なぜ、わたしゃあ、ここでストップしてる? こんなうまそうなものを目の前にして!」
ボクは桜色の指先を必死に探した。そして、ボクの頭の中は真っ白になった。
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