坂道を上がっていくと、小さな石の橋がみえてきます。下を澄んだ水音のする小川が流れ、そのほとりには、大きな桜の木が一本立っています。布川さんの家は、その橋を渡って、しばらくのところにありました。
古い木造で、瓦の色も四、五枚違います。一階の屋根と二階の窓の間には、あちらこちらにサビの出ている看板がかかっていて、白地に色あせた字で『浄書・フカワ楽譜』と書かれてあるようです。
実をいうと、三十年ほどの間かけっぱなしで、よく見ないと読めないのです。浄書というのは、写譜屋さんのことで、管弦楽曲から踊りの伴奏曲まで、作曲家が新しく書いた様々な曲を、きれいに、演奏家が読みやすいように、書き直す仕事です。
布川さんが、おたまじゃくしをていねいに、正確に、写しています。少し青白く、細い顔に、銀ぶちのメガネと黒のセーターが似合っています。ちょっと長めの髪の半分は白髪です。時々、こめかみのあたりをカクン、カクン、とさせながら、ペンだこの目立つ手が、インク壺と譜面の間を無駄なく往復しています。
その横には、鍵盤の、指あとも茶色くなったピアノが並び、机の後ろの丸テーブルには、奥さんの作った湯気の上がる夜食が置かれていました。
いつの間にか、仕事の手が止まり、布川さんは一週間前のことを思い出していました。
布川さんが仕事をしていると、奥さんが夜食を持ってきました。いつもなら何も言わずに、そっと置いて出て行くのですが、その夜は、カーテンを引き直してみたり、床のごみを拾ってみたりして、ちょっと違っていました。それでもだまって仕事を続けていると、奥さんはおずおずと、
「あのお、おとうさん・・・」
遠慮がちに、それでも意を決したような声で、
「おとうさんのおかげで、子供たちも一人前になって独立しました。もう年金もいただける年になります。わずかですが、貯金もできています・・・」
布川さんのペンが、おたまじゃくしをぬりつぶす直前でとまっていました。前かけをいじりながら言っている奥さんの姿は、見なくてもわかりました。
「もう、そろそろ、おとうさんのやりたいこと、してもらってもバチの当たらない年になったのと、ちがいますか・・・」
口ごもりがちにいう奥さんの言葉を、布川さんは背中で聞きました。
「あいつ・・・」
布川さんはつぶやきました。その夜から、奥さんの言葉がコッブの中に浮かぶひとかけらの氷のように、ゆっくりと溶けて、布川さんの心に浸み入ってくるのです。
布川さんは若い頃、作曲家をめざして勉強していました。交響曲をつくるのが夢でした。でも、ちょうど桜が散りそめのころ、写譜屋をしていたお父さんが急に亡くなりました。布川さんはお葬式を出した翌日、小川の花筏(はないかだ)の流れるのを見つめながら、父親のあとを継ぐ決心をしました。若かった布川さんは、その仕事につく前の晩、それまで少しずつ書き溜めていた楽譜を、桜の木の下で一枚、一枚、焼きました。
「あいつ・・・」
布川さんはペンを止めて、もう一度、壁に向かってつぶやきました。そして作曲をやめて、どのくらいの年月が過ぎたのかを、思い起こしていました。
「しかし・・・」
布川さんは大きく息をして、両手で髪をすきました。窓のすき間からは、桜の香りのするやわらかな風にカーテンがゆれています。布川さんは、ペンを譜面の上に置くと、立ち上がって窓を大きく開け放ちました。
布川さんは、奥さんと出会った頃のことを思い出していました。早春でした。この坂道を歩きながら、自分が志していた作曲家への思いを一度だけ、話したことがありました。奥さんは、桜のまだ堅い蕾をみつめ、黙って聞いていました。
今、布川さんは、桜の方に目をやっています。春にはめずらしく、リンとした月に、もうすぐ満開という桜が映えていました。やさしい風に乗って、花びらが、ひとひら、ふたひら、と、散っています。布川さんは、桜が呼んでいるような不思議な空気を感じました。そんな馬鹿な、と思いながらも、月明かりの道を久しぶりに散歩してみようと思いました。
桜のそばまで来て、布川さんは微かに叫び声をあげました。そして小走りに橋の真ん中から下をのぞき込みました。それから、あわてて仕事場にとってかえり、新しい譜面とえんぴつをかかえて、橋の上にやってきました。そして、橋の欄干に腰をかけて、小川と譜面を交互に見ながら、今、一心不乱に、えんぴつを動かしているのです。
小川のさざ波に、月が光をそそいでいました。そしてよく見ると、それは銀色にひかる五線譜になっていました。桜は、その譜面を使って、花びらの音符で曲をつくっていたのです。それは、布川さんの気持ちや思い出を綴ったものでした。小川で水遊びをしている布川さんも、橋の上で友と語り合っていた青春の頃の布川さんも、灰になっていく楽譜をみつめる布川さんの姿をも、桜は織り込んでゆきます。
ときたま落とす蕾は、フラットになったり、ヘルマーターになったりしています。そばをゆくつる草や小枝の助けも借りて、曲が、ゆったりと流れているのです。
布川さんは、夢中で採譜していました。夜明け前の、空気がぴーんと張りつめたのを感じたとき、一枚の終止符が舞い降りました。そして、桜は散るのをやめ、銀色の五線譜も消えていました。
布川さんは、深いため息をついて、えんぴつを置きました。そして、その譜面を赤ちゃんのように抱きしめていました。
布川さんは翌日、一日ピアノに向かっていました。
奥さんは、台所で、静かに耳をかたむけています。
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