ウィリス医師の東北戦争従軍記録
Re:Dr Willis in North East Japan,1868

出典:



T.東北戦争の概要

1868年5月3日(慶応4年4月11日)、徳川慶喜は、恭順の姿勢を取り、
水戸に隠退した。新政府軍が江戸城を接収した。それからまもなく、会津藩は
家老連名の嘆願書を仙台に駐在する新政府軍の奥羽鎮撫総督に提出した。
また、仙台・米沢を始めとする奥羽列藩も、白石に公議府を設けて、会津藩
救済のための嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。しかし、長州藩士の参諜・
世良修蔵の拒絶にあつて、嘆願書はあえなく却下された。

このため、仙台・米沢・福島など奥羽の25藩は、薩長2藩を弾劾して、
攻守同盟を締結した。後に越後の諸藩も加盟して白石に奥羽越公議府をおいた。
新政府は、直ちに、有栖川宮を会津征討大総督とし、8月2日に、
越後口総督に仁和寺宮を、続いて東北遊撃軍将に久我通久を任じて、会津征討の
布陣を整えた。

信越方面には尾張・加賀の藩兵が主力として派遣され、旧幕府の衝鋒隊を飯山に
破ったが、この時、桑名の前藩主松平定敬が若干の藩兵を率いて柏崎に陣を張り、
これに会津・米沢の藩兵と水戸の脱走兵が加わって、あなどりがたい勢力になった。

この形勢に対処するため、大総督府は、強力な薩長2藩を会津征討軍に編入して
戦力を大幅に強化した。さらに、尾張・加賀・越前など15の藩の藩兵を投入した。

戦力強化された会津征討軍は、越後方面においては、高田、三国峠、小千谷、鯨波、
四日市で、北越同盟軍(会津・桑名・村松・村上・三根山・新発田の各藩)と死闘を
繰り広げた。

会津征討軍は7月8日に長岡城に入城していたが、北越同盟軍の猛攻を受け、
9月10日、北越同盟軍に奪回された。

一方、奥羽方面においては、白石同盟軍の掃蕩を急ぐ大総督府は、薩長2藩を
始めとする20数藩の藩兵を動員して、7月に先ず白河城を陥れ、ついで8月に
棚倉、泉、湯長谷、平を、さらに9月15日に二本松城を陥落させた。

越後方面の北越同盟軍は、山間の地の利を生かして頑強に抵抗したが、長岡城
奪回の2日後、9月12日、再び、会津征討軍に攻め落とされた。

長岡城落城を契機に、会津征討軍が断然優勢になった。10月19日、
先ず、米沢藩が越後口総督に降伏した。藩主・伊達慶邦が、自ら陣頭指揮していた
仙台藩も、平潟口総督に降伏した。庄内藩も、謝罪状を提出して降伏した。

北越同盟軍瓦解後も、独り会津藩だけは、四方を包囲する会津征討軍と死闘を
繰り返した。しかし、大勢はすでにいかんともしがたく、北国のきびしい冬がおとずれた
11月6日、藩主・松平容保父子は、家老らを引き連れて会津征討軍の陣門に降った。

ところで、新政府軍と北越同盟軍の戦争が熾烈をきわめるにつれ、
大総督府は西洋外科医の必要性を痛感した。パークス英国公使に西洋外科医派遣を
依頼した。その結果、新政府軍が会津若松城へ総進撃を開始した時期に、
ウィリスが招請に応じて出発することになった。会津若松城落城の1か月前であった。

10月5日(慶応4年8月20日)、ウィリスは筑前藩の護衛25人に守られて江戸を
出発した。現在の国鉄高崎線・信越本線沿いのコースを、駕籠や馬や徒歩によって
進んだ。ウィリスが指摘するように、日本に真の意味の中央統治機関がなかった
ために、重要な公共土木工事はまったく行なわれていなかった。

道路は、大雨が降れば、膝まで浸かる泥田のようであつた。
河川を渡るには未開地特有の渡し舟を利用するしかなかった。
河川に妨げられて、どんなに努力しても、地域によっては、1日に20マイル
(32キロメートル)も進めなかった。そのために、本庄、高崎を経て碓氷峠を越え、
上田から善光寺(長野市)を通って、最初の目的地である高田(上越市)に到着した
のは、江戸を発ってから12日目であった。

ウィリスは、高田からパークスに1通の手紙と、高田までの旅行、及び
負傷兵治療に関する報告書を送った。それらは1868年11月4日付の、
ハモンド英国外務次官に宛てたパークス英国公使の書簡に同封された。

             
U.ハモンド英国外務次官宛・パークス英国公使の書簡
   (1868年11月4日・横浜)

私は、この手紙で私自身については何も申し述べることはありませんが、
蝦夷(北海道)に行ったアダムズの先の報告書よりも、さらに面白い読み物を
お送りいたします。同封した報告書は、私がウィリス医師から受け取ったものです。

両者の報告書の内容はそれぞれに興味があり、また、この2人が長い旅程を
たどっていった努力は、いかに高く評価しても評価しきれるものではありません。

ウィリス医師の事実の簡明な叙述から、この国の現状についての多くの情報が
得られることと存じます。ウィリス医師による間接的な証言は、各部隊の現時点に
おける形勢や、この戦争の結末について判断を下すのに大いに役立つことと
思われます。

いまや、天皇の権威があまねく確立されると予測される十分な根拠があります。

もちろん、今行なわれている戦争のあとに、参政官会議における闘争が起こる
ことでしょうが、結局は、私どもが従来見聞してきたような弱小諸侯の同盟と
いうものの代わりに、日本は一つの国家としての形態を整えていくに違いありません。

ウィリス医師の報告は、私に個人的に送られてきたものです。
公表すべきではない資料として報告することを特に申し添えます。
ウィリス自身、この記録は、手を加えていない単なる覚書だと言っております。

公的な事柄に利用する前には、校訂加筆して、それらを要約して、
まとまった報告書にする機会を彼に与えてやらねばならぬと存じます。
また、その場合、彼は必ずそのような報告書を提出するでしょう。

ウィリス医師は、今、新潟からほど遠からぬ地点に到達しておりますので、
新潟を訪れて、その実情を確認することができるに違いありません。

閣下のお手紙と、新潟港について差止めを維持する私の方針をご承認下さった
9月8日付の急送公文書を拝受いたしました。

私はプロシアやイタリアの在日公使たちから、私のこの方針に反対されていました
ので、閣下の急送公文書を拝読して大変嬉しく存じます。

商人たちのなかで、公使たちの助言に基づいて行動した者たちは、新潟での
事業がひどい失敗に終わったことに、非常に後悔しておりました。

英国の商人たちも、新潟での事業に従事したかもしれませんが、しかし、彼らは、
明らかに、損害を受けた場合は自腹を切る覚悟で行なったのです。

キリスト教徒に対するの迫害は続行されていません。
この問題についての私の懸念はかなり落着きを取り戻しております。

しかしながら、この、気まぐれな国民の、他宗教を許容することのできぬ
偏狭な性向が、また不意に狂い出してくるのを阻止するために、
私が抗議や勧告を行なうことができますのも、スタンレー外務大臣が
公文書によって、絶えず、私を督励して下さったからだと思っております。

私は、ひどく痛んだこれまでの宿舎の代わりとして、江戸に仮宿泊所を得る
ことに奔走してきました。天皇が江戸にお出でになった場合、
私ども英国公使館員は、今までよりもっと江戸に滞在していなければなりません
ので、それに間に合うように宿舎の準備にとりかかったのです。
あまり経費をかけないで、以前の宿舎と同額の賃貸料で、別の家を入手できました
ことをご報告申しあげます。
          
V.パークス英国公使宛・ウィリス医師の報告書
   (1868年10月16日・高田)

今日、高田に無事到着したことを先ずご報告申しあげます。そして、私が健康を
損ねているとすれば、それは途中で風邪をひいたことが原因となるわけですが、
1〜2日もすれば回復するに違いありません。

旅行中のノートから抽出した走り書きの記録を同封いたします。高田における
詳細な事柄や、この地の負傷兵のこと、また、私自身が自ら見聞して得た
すべての情報をお送りする機会がすぐに訪れると思います。

高田の手前約8里の関川関所(妙高高原町)を通過する時、見張番は、乱暴にも
私に帽子を脱げと極めて傲慢無礼な態度でした。私は、関所の守備隊長に、
この傲慢無礼な態度に対する謝罪と、見張番から傲慢な態度であしらわれる
ことなく関所を通過させよと要求しました。

しかし、私のこの要求を、関所の守備隊長は拒絶しました。そこで、私は
満足のいく回答がこの関所を所管する高田藩から得られるまで、この旅行を
進めていくことを拒否しました。そして高田藩に抗議の書状を送りました。
翌日、高田藩から2名の役人が来ました。そして、守備隊長に、私に謝罪せよと
命じました。

守備隊長は、翌朝も出てきて、前日の傲慢無礼な無作法を改めて謝罪しました。

この、私が取った謝罪要求行動を公使閣下はご承認下さると思います。

その守備隊長は、今後、なにか外国人の感情を害する無法行為が起きた場合は、
サムライとして即座に切腹するとまで申しましたので、私は好んでこの事件に
関わりたいとは思いません。私が関川の関所で受けた処遇は、他の場所で
経験したものと異なり、きわめて礼儀を無視した傲慢無礼な振舞いであったので、
たとえ行程が一日延びようとも、傲慢無礼な連中の態度を改めさせることが必要
となったのです。

謝罪があったので、私は、一切を水に流してやろうと約束したのですが、
関所の見張番らに対しては、存分に説教しておきました。すなわち、このように
傲慢無礼にあしらわれたのでは、旅行を続けるわけにいかないのだと。
日本政府の懇請によって、当地に来た私の身分上からも丁重に応待されるべき
である。時と場合によっては、無礼な行為を見逃してやらぬわけではないが、
傲慢無礼な乱暴狼籍だけは決して許すわけにはいかないのだと。

最後に、通行権のある外国人が関所を通る時、外国人の方から脱帽して見張番に
敬礼することはありえない。脱帽を強制されるなど論外である、と説教しました。

関川関所を所管する大名はサカキバラ(高田藩主・榊原政敬・15万石)ですが、
彼は、私に対する無礼な行為に対して、たいそう恐縮していると聞きました。

このことについて、私の報告書にはなにも書きません。今後、無礼な行為が
なければ、一切を水に流してやろうと約束したのですから。

W.ウィリス医師が観察した当時の日本の政治情勢

私が通り過ぎたそれぞれの場所で観察したかぎり、現在の統治機関は人民に
容認されているようにみえた。また、私の調査の及ぶかぎり、概して、
人民は、最近の政変が将来にとってより良い状態を招くものと考えている。

旧体制の各藩の領民であった農民らは、とりわけ、新体制を歓迎している。
タイクン(幕府の将軍)統治下の各藩藩主らは、相当に圧制的な領主で
あったのだろうか。

土地に課せられる年貢の額の画一的な施行は、今後も続くものと思われる。
私が出合ったり、私の通訳が話を交えたりした農民たちからは、旧体制に
対する同情心は片鱗も伺うことができなかった。

大領主(大藩)に隷属する農民らは、最近の政変に無関心であるようにみえる。
彼らにとっては関係がないことだと言っていた。

しかし、小領主(小藩)に隷属する農民らは、すなわち、先に述べたように、
始末におえぬ暴君であるとの評判を自ら招いている小領主(小藩)に隷属する
農民らは、まったく違っている。

新政府の権威は、いたるところで容認されているようである。

各地の関所、本陣(旅館)は、私を、新政府の要請による公的な旅行者として
受け入れてくれた。私が宿泊するか、昼食のために立ち寄ったところでは、
どこでも、公式の服装をした村の役人たちが出迎えにきた。
いたるところで受けたお辞儀には気がめいるほどであった。

現在、抗戦中の会津藩軍にたいする共感は全然ない。

私が耳にすることができたものといえば、皆、タイクンの幕府は廃止された。
旧政治体制は、もはや復活することはできないということであった。

私が知りえた情報から判断すれば、いまや会津藩軍は、各地の無法な
両刀差しの連中で補充されているとのことであった。

各地の旅館主や商人たちは、大名やその家臣らが、道中でふんだんに
金銭を費やしていた往時の人の往来がなくなったことを残念がっている。

大名が、必ず江戸に住まわねばならなかった古くからの慣習は、
過去のものとみなされ、もはや二度と甦りそうにもなかった。

生糸の生産地帯では、関連する各種の労働に支払われる金額が相当な
ものであるから、それがある程度、かつての人の往来が落としていったものの
償いになる、と旅館主たちは言っている。

大名が、強制的に江戸に住居を置かされた昔のしきたりが行なわれて
いたころ、彼らは自分の領地からの往復にずいぶん中山道を通ったらしく、
旅館主たちにはその当時が忘れがたくて、あの頃はよかったと言うのである。

しかし、旧幕府に同情する言葉は、一言も耳にすることができなかった。

私は心ゆくまで旅の楽しみを味わった。従者たちは、皆、私が要求する情報を
集めてくれた。旧政治体制の疑い深い役人らのように隠しだてをしたり、
些細なことにつまらぬ反対をすることなどはなかった。

これまでのところ、戦闘があったり、村が焼かれたりしたというような形跡には
出合わず、一般市民を動揺させるものはなにも目にとまらない。一般市民は
彼らの日常の生業にいそしんでいるように見えた。

日本には、真の意味の中央統治機関が本当に必要だ、と思うことがあった。
江戸に近いところでも重要な公共土木工事は行なわれていない。

日本の道路は、私がこれまで見たもののうちで最悪である。大雨があると
膝まで泥に浸かってしまう。どんなに努力をしてみたところで、一日に
20マイル(32キロメートル)進むこともできぬ地域がいくらもあるのだ。

河川にかかる大切な橋もなく、あらゆる交通は、まったく未開時代特有の
渡し舟に依存している。

沿道のすべての町には、日本の最近の政変を伝え、外国人の処遇改善の
対策などを講じた政府の告示板が立てられていた。

私は高崎に掲示されていたものの写しをとったが、きっと横浜に張られて
いたのと同じものではないかと思う。

会津藩主(松平容保)と彼の部下たちは包囲され、最終的には、ミカド軍が
勝利することは疑いない。しかし、戦闘が年内に終結するかどうかは疑わしい。

戦闘は来年には終わることは確実であろう。

現時点では、仙台藩が、会津藩にどこまで加担しているかは疑問であるとの
ことだ。すでに、越後では、すべての藩がミカド軍の側になった。

私が聞いたところでは、だれひとり、会津藩でさえも、旧幕府の全面的な
復活を予想してはいない。しかし、会津藩主と彼の部下は、最後まで
ミカド軍と戦うだろうとの噂である。

噂を信ずれば、ミカド軍は、確実に前進しているとのこと、会津藩は、
いずれは、征服されてしまうとのことである。

もっとも、だれから聞いても、ミカド軍は、敵兵を繊滅させながら征服して
いくのだが。

私が通過した牟礼の村から5マイルの犬山というところでは、旧暦4月に
戦闘があり、6名ほどが死亡した。ミカド軍の真田信濃守の部下が勝利を得た。

反乱者らは会津若松へ逃げていった。

新潟は焼かれることなく、ミカド軍の手中にあり、大部隊で維持されている
そうである。

道を行きながら、私は3か所で武装した無頼漢ども処刑の掲示を見た。
武蔵の国では武装した無頼漢どもが毎日のように出没し、農民から金銭を
不法に強奪することが習慣のようになっていた。

そして、これを無くすために、法律が、珍しく、機敏に厳然と執行されていた。

しかしながら、日本の警察組織はきわめて不完全であると断言せざるをえない。

聞くところによれば、両刀差しの無頼漢が暴行を犯しながら、刑罰を免れる
こともあるとのこと。

X.生糸についてのウィリス医師の見聞

今シーズンは、生糸の収穫はいちじるしく良かったらしく、質量ともに評判が良い。
旅行の道すがら、生糸の値段を聞いてみた。横浜相場とあまり隔たりがなかった。

これまでのところの話では、生糸には重税は課せられていないようだ。
生糸の生産農家・生産業者たちはわが世の春といったところだ。

過去10年間に生糸の価格は5〜6倍に跳ね上がったとのこと。
今年、横浜で蚕卵紙の供給を請負った生糸生産地の商人たちは、このところ
蚕卵紙の価格が、横浜よりも生産地のほうが高くなっているので、多額の損害を
蒙るだろうとの話である。蚕卵紙の生産地の土地所有者は、蚕卵紙1枚を、
だいたい天保銭5枚で購入するのだが、新政府は、その蚕卵紙に検査証印を
押すのに、天保銭五枚の税金を取るのである。

今年の蚕卵紙供給の請負業者の損害は、売値の50%にもなるだろうといわれている。

養蚕地は、年々、広がっている。武蔵の各地では、ここ2〜3年の間に倍増した
そうである。武蔵・上野等の広大な江戸平野の桑の栽培は計り知れないものがある。

もし日本人が、米の収穫を最重要視しなければ、生糸の産出量には、限りなく
増加するものと思われる。

私は、日本人が米を最も重くみるのは、土地の賃借料が米という日常の必需品に
よって支払われるので、どんな場合でも、手元に米を用意しなければならぬという
事情があるからだろうと想像する。

私が見た各地の桑の木はまだ若かった。桑の木が不足している養蚕場では、
養蚕をするのに、近隣の余った桑の葉を買わなければならない。

蚕の卵には、春物と夏物との2種類あり、春物の方が、夏物よりはるかに良いと
考えられている。値段も春物の方が、夏物より3分の1ほど高いと教えられた。

私は各地で、村の娘たちが繭から生糸を繰り取っているのを見た。

信濃の国の生糸の生産者たちは、信濃の国と江戸平野の上野の国と国境にある
碓氷峠という難所を通っていかねばならない横浜に、過剰な生糸の販路を求めて
いるようだ。

もし、新潟が、生糸の販路として開拓されたならば、千曲川や、丹波川(犀川)や、
それらの河川が合流する信濃川の流域で生産された過剰な生糸は、新潟に
流れていく可能性はある。

信濃川が物資運搬に非常に便利であることは広く知られている。

私の旅行の道すじでは、大阪が生産物のはけ口として言及されたことは一度も
なかった。話によれば、非常に立派な生糸は公家用の絹織物をつくるために
上野の国から京都に送られるそうである。

Y.コメ・稲作・小麦・各種野菜・綿花についてのウィリス医師の見聞

今年の雨のはげしさから考えるとコメの収穫はせいぜい平年の半分ぐらい
であり、河川沿いの各地のコメの収穫は氾濫のために全滅したものと予想
される。ある種のコメが高原地帯にも育つが、その味はまずいといわれ、
コメ粒は平地産のものより大きい。

私はまた餅コメの稲も見た。餅コメは菓子を作るのに用いられる。
沿道のコメは、横浜より11分の1か、12分の1ほど安いのだが、
悪路を運搬する費用や苦労を考えると、コメの価格については、
考えられる以上の統制が行なわれているようにみえた。

小麦は雨季が始まるまえに刈り取られて、今年の小麦の収穫は大変よかった。
例外的な大量の降雨量のために、このシーズンの、蕎麦の収穫は平年より
ずっと少ないであろう。

江戸の需.要を賄うために、江戸近辺の肥沃な土地では、計り知れないほど
多量の作物が栽培されている。葉菜類根菜類はとりわけ作柄がよいようにみえた。

碓氷峠を越えると、わずかにじゃがいもが植えてあった。それは、私が会った
どの人の記憶にもない遠い昔からからこの地方で栽培されてきたらしい。
よく生い茂って、病気に全然かかっていない。しかし、じゃがいも
日本人たちにたいして好まれていないの。やまいもや、日本人がさといも
呼んでいる根菜などはあまりよくなく、平年並は見込めなかった。

豆類もわるい。全体として、今年の農作物の全収穫高は平均よりかなり低いであろう。

日常消費されるすべての品物の価格がかなり高まることが心配である。

絶え間なく雨が降り続いたため今シーズンの綿花の収穫はまったく
惨めなものであった。一番良質の綿は1斤当たり2分銀で売られているそうだ。
沿道で見かけた綿畑の作柄は、確かに、良くなかった。その土地の農民は、
綿の収穫は、平年の5分の1に落ち込むだろうといっていた。私か通った
道の近辺には綿の大規模な栽培地はなかった。明らかに、その地域の需要を
賄う程度の畑だけであった。

Z.地形についてのウィリス医師の見聞


私が通ってきた広大な江戸平野は、まったく平坦というわけではなく、
あちらこちらに丘陵が起伏している。中山道の左右は山なみが覆いかぶさって
くるようである。やがて中山道は山道となり碓氷峠が最高点である。
碓氷峠からの下り道は、最初は険しく、それから、米作が行なわれている
平坦地に向かってなだらかに延びていく。

山なみが狭い渓谷の淵にそそり立ち、その谷あいに道すじが走っていた。

ある場所では近くの丘はきれいな木立ちに覆われていた。
またある場所では禿げ山であったりした。

武蔵の国や上野の国では、農民が土地を農作物栽培にうまく利用しているようには
みえなかった。肥えた土地が雑木林や小さな森になっているのを見かけることも
しばしばであった。近隣の山から木材を運ぶのが困難なので、建築用などの樹木が
なくてはならぬ村は、どうしても近くに植林しておく必要があって、肥えた土地に
雑木林や小さな森があるのではないかと思われる。

奥地の多くの山々は火山系統であるらしい。信濃の国に浅問山という巨大な活火山が
あった。84年前に大噴火があり、人命財産に多大の損害が生じたとのこと。

数マイル四方にわたって、さまざまな大きさの不格好な溶岩が噴火口から流れ出し、
今も地表を覆っている。

碓氷峠を過ぎると、気温は、丁度、華氏10(摂氏5.6度)も下がる。
碓氷峠から西側にある平原は、江戸平野よりもはるかに高度があるのだろう。

おびただしく増水し、水が周辺の土地にあふれ出して、農作物に多大な
損害を与えている川が各地にあった。今年は、このような洪水災害を受けた
水田の面積が相当広範囲にわたるに違いない。

旅の途中では、私は、鉱産物が産出するかどうかも調べた。高崎では
近くの山で石炭が掘られているという話を聞いたが、その見本を手に入れる
ことはできなかった。石炭が掘り出されているとしても、私が調査した
ところでは、石炭は利用されていないようだ。

いたるところの丘陵の斜面は羊や牛を飼う状況に見事なほど適合しているのに
目を見張った。しかし、今のところ、それらの丘陵の斜面はまったく利用されていない。

道路の全距離から考えてみて、流域の平原は、その範囲がかなり狭いといえる
のだが、地味は豊かで生産性が高く、温暖地帯のあらゆる植物がよく育つようにみえた。

ある樫の木の周囲を測ってみたら34フィート(10.36メートル)
おなじく杉の木は39フィートもあった。さまざまの、また時として大小の
日本の樹木は、まったく風景の見どころである。とりわけ私は、この高原に
いると、ほとんどすべての英国の道端にある植物に出くわしているように感じた。
そして、日本と英国の植物群の大部分は同じものだといえるのではないかと思う。

しかし、動物はさっぱり似つかない(につかない)。もっとも、冬場になると、
多くの鳥が来るそうである。鹿や熊や狼なども見ることができるそうである。
野兎・雉・鳩は買えたが、値段は横浜より高い。奥地は魚が乏しいから、
すべての鳥肉の値段が高いのだと言われている。

大量の物資が、高崎の近くの倉賀野から、水路で江戸へ送られているらしい。
私が倉賀野川(利根川)を渡ったときは、水流が堤防からあふれ出していて、
その周辺地帯は甚大な洪水被害を受けていた。

多くの人々が、もし、新潟が外国貿易に開港されるならば、現在、横浜に
送られている大量の生産物が信濃川によって新潟に運ばれるであろうと言っていた。

信濃川は大きな川であり船の航行は難しくないそうである。私は信濃川の二つの
支流である千曲川と丹波川(界川)とを渡った。この2川は暴れん坊川で、
度々大洪水を起こしていると。今年も堤防が決壊し人家田畑を破壊した。

私は容易に橋を架けられそうな小さな川をいくつも渡し舟で渡った。
どこにも、橋という便利なものが無いのが目につくばかりだった。

[.道中で見た日本人の印象

道中で見た日本人は、肉体的な面でも、知的な面でも、ほめられたものではない
と言わざるをえない。婦人は醜く、男は人種としても虚弱でのろまな顔付きである。

江戸平野の住民と、碓氷峠の西の気温がずっと低くさわやかな所の住民との、
相違に気がついた。後者のほうがまだましである。

武蔵や上野の国の多くの村落を通ってきた。外国人は珍しい見ものであったに
違いないのに誰もほとんど振り向こうともしなかった。

しかし、碓氷峠から西の地方では天候が悪い時でも大勢の住民が後ろから
ぞろぞろとついてくる。

都会の住民と辺鄙(へんぴ)な田舎の住民との間にも大きな相違がある。
知能は都会の住民のほうがはるかに優れている。

養蚕地帯に来ると、ほとんど裕福な家ばかりであった。聞くところによると、
大きな農家(地主農家)は土地の耕作を小作人にさせているとのこと。
そして、小作人たちは非常に貧しいとのことである。

この旅行の道中で、目もあてられないほど悲惨な乞食を目にしなかった。
聞くところによると、乞食は、今は、非常に少なくなったとのこと。

人間の数は非常に多いようにみえた。私が見聞したすぺての事から判断すると、
日本には、人口増加の余地はないようである。

私が通ってきた村々は、模倣しあったように同じたたずまいであった。
家並みに流れる嫌な臭気はかなり不愉快であった。便所として使用される
大きな桶が、家ごとに庭の片隅の地面に埋められているので、住居の空気が
いつも不潔極まりないのだ。この非衛生な生活環境が日本人の病弱な顔付きの
主な原因ではないだろうか。

大きな村や町には、売春宿(遊郭)があるのが普通であった。そして売春宿の
ないところでは、お茶屋の女が売春婦をつとめていた。住民の間に、梅毒が
広く蔓延していた。その梅毒の知識や治療法が不足しているので住民の健康が
ひどく損なわれていると考えざるを得ない。

宿屋の接待料は10年前のほぼ10倍にもなっているそうである。
この地方の人々は、私が大阪から駿河へと日本を横断しながら見た人たちより
ずっと貧弱である。

ほとんどの女性の顔立ちは美しくない。着物に粋なところがなく、装身具も
着けていない。しかし、これは場所によるのかもしれない。また場所によっては、
道路や天候が極端に悪かったためかもしれない。

私はある宿泊地で、もっとも年老いた何人かに会いに行った。本庄で会った
老婆は100歳であるといわれた。確かに彼女は、非常に老けて、皺深く、
私がこれまで見たどの日本人よりも100歳らしくみえた。

居心地の悪い家に住み、毎日、粗末な食物を食べて暮らして、本当に、
100歳という寿命の極限まで生きながらえることができるのだろうか?
その老婆は本当に100歳であったか? 私は信じることができなかった。

武蔵の国のもっとも裕福な地方でさえ、村は極めてみすぼらしい。
非常に肥沃な土地の村でも、この上なく卑しい下品な人たちを見た。

本当に大きな寺院を一つだけ見た。長野の善光寺である。
善光寺の憎侶は、礼儀正しく、かつ聡明であった。

善光寺では病気の婦人の診察を頼まれた。彼女は武士の妻で、武士階級の
習慣に従って、病気でも正座の姿勢を崩さなかった。そのため、膝関節の
炎症や、水腫症になったようでである。武士階級の正座の習慣は大きな苦痛を
引き起こすようだ。さらに時としては重い病気をもたらすらしい。

外国人医師としての私の評判は、私が行く前から広まっていた。
20年間以上、まともな治療を受けられなかった人たちが、
私の評判を聞いて多数押しかけてきた。まったくうんざりした。

旅の途中で、ハンセン氏病にかかった人を2名見た。ハンセン氏病のことは
誰もが非常に嫌悪感をあらわに示して話す。ハンセン氏病にかかった人は
住んでいた土地にいられなくなって乞食になって遠い地方へ行くのだそうである。

ある村で私は流行性赤痢が蔓延し多数の人々が死んだことがわかった。
気候不願がその原因であった。しかし、流行性赤痢の蔓延はこの村の範囲に
限られていた。

多くの村々では家並みの中央を小川が流れている。ある村ではそれを部分的に
塞いでいた。別の村では、全然、蓋で覆っていない。この村では、いたるところの水は、
汚らしく、不潔で、家々から放出された汚水が小川に淀んでいるように見えた。

私が見たところから判断すれば、空気にも、水にも、日本人は極めて無関心だといえる。

\.旅行の途中で学んだ事柄

私の護衛は筑前出身の25名で若くて気持のよい連中であった。
備前藩の役人・水田賢三が会計担当として同行した。
備前藩主お抱えの医師と薩摩出身の若い医師が随行した。
この若い医師は横浜の寺島司令官(神奈川県知事・寺島陶蔵)の親戚である。
私自身の従者は、日本人の通訳、料理人、召使いの3名であった。

私は旅行の途中でいろいろと学んだ。日本人ならば、旅行前にいろいろと
調査して、十分な準備もできただろうが、英国人の私が事前調査をすることは
不可能であつた。

私の護衛たちはよく尽くしてくれた。護衛という仕事は、別の見方をすれば、
個人の行動を縛ることでもある。

私は一言も不平を言わなかったが、一人で調査をしたくても、護衛たちから
離れるわけにはいかないのである。いわば囚人のようなものである。

しかし、護衛たちは非常に協力的であつた。私の希望は全面的に十分に
かなえられたと言わねばならない。

私は道すがら、米・生糸・魚肥・塩・煙草などの荷を積んだ馬や牛を見かけた。
道路はまだ混雑していなかったが、道路の重要さを考えると、この点は
私の期待に沿うものではなかった。

天候が悪かったことが相当に往来の妨げとなったのかもしれない。
雨は、多かれ少なかれ、毎日のように降った。朝から夜まで降り続く
日も何日かあった。

生糸は横浜の市場に出すために江戸に運ばれていた。

私が途中で見た記録に値する町は、高崎、上田、長野善光寺である。
高崎と上田には大名の居城があり、町中で非常にたくさんの商売が
行なわれているようである。上田では美しい絹織物が作られていた。
絹織物は町からちょっと離れたところの農民たちが織るのである。

高崎、上田、長野で大規僕な製造業が営まれていろのを見ることは
できなかった。あらゆる家庭用器具は、ごく素朴な物を除き、皆、
江戸か京都から入手するとのことであった。

私は往来の賑やかな大きな町で外国製の綿織物を見たが、毛織物は
見かけなかった。将来、遠洋航海が行われるようになるにつれて、
毛織物がかなり必要とされるだろう。

私が通ったいくつかの村では、冬、降雪は15フィートも積もると
言われた。6フィートぐらいの積雪はまったく普通とのこと。

上田で、ヨーロッパの服装をきちんと着こなした老紳士に会った。
彼は騎兵教練を教えたアプリン大尉(英国公使館付陸軍騎馬護衛隊長)の
教え子で、大尉が日本を去る時、愛用の鞍を買った。その鞍は
きちんと保存され、私が見た時は、見事な日本馬に取り付けてあった。
その老紳士は松平備後守の家臣で、名は門倉伝次郎である。

私の旅行は12日間であった。距離にすれば180マイル以上であった。

高田にて1868年10月17日
ウィリアム・ウィリス

          
参考文献:Dr Willis in North East Japan,1868

ヒュー・コータッツィ氏の著書
          

ウィリアム・ウィリスの報告書・書簡の集大成:総頁890頁:定価(本体)14,000円
                             創泉堂出版 2003年11月発行
          



Hugh Cortazzi: Dr Willis in Japan: Published by The Athlone Press in 1985
          
Re会津戦争 母成峠の戦い