伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年10月11日: 瀬峰寮・遙かなり GP生

 TG君とメールのやり取りをしていて、大学時代の寮生活に話が弾んだ。TG君は入学後間もなくインド哲学科の先生方が作った仏教青年会の瑞鳳寮に入寮した。寮は伊達政宗の墓所として名のある瑞鳳寺の境内にあった。TG君は以前、瑞鳳寮の生活を日誌に投稿したことがある。彼は語っている。この寮での1年間の生活は、青春時代の貴重な経験であり、学生時代の原点でもあると。同じように、自分にとっての瀬峰寮での3年間は、今も心に深く残る生活であった。

 瀬峰寮は岩手県との県境に近い宮城県栗原郡瀬峰町(現、栗原市)東側の丘陵に建つ旧鉱山工学科の学生寮である。本来はボーリングの実習のため、学生が宿泊する施設であった。ボーリング実習が科目から無くなり、不要になった施設が学生寮として再利用されていた。寮は8町歩に及ぶ広大な山林の南端に建てられたトタン葺きの長屋で、真ん中を貫く廊下の両側に6畳間が連なっていた。入寮した時、畳はなく、所謂ムシロが床板の上に引き詰められていた。以前台風により屋根が飛ばされ、腐った畳は、撤去されたまま修復される事無く使用していたのだ。春先には床の隙間から寝曲がり竹が伸びてくることもあった。冬季にはゆがんだ窓枠の隙間から吹き込んだ粉雪が、布団の上に線状に積もることもあった。暖房装置はなく、四季を問わず室内は外気と同一温度である。東北の冬は厳しく、室温は氷点下まで低下した。対策は重ね着であり、布団の中に寝袋を持ち込む事であった。このような生活環境に苦痛を感じなかったのは若さ故であったのだろう。

 当時プロパンガスなどは無く、煮炊きや風呂は全て薪であった。薪の材料は裏山に無尽蔵である。計画的に伐採をしていくと、時を経て伐採跡に新しい樹木が伸びてくる。何しろ8町歩の山林である。伐採した樹木を切断した後、鉈で割り、寮の軒下に積み上げて乾燥させた。伐採と薪割りは寮生の仕事であった。山林には柿の木が沢山自生していた。全て渋柿である。秋に収穫した柿の実を寮生が皮をむき、軒に吊した。干し柿は朝寝坊した時、通学の車中で朝食となった。山にはキノコが自生していた。初茸である。秋のキノコ狩りは定例行事であった。井戸は無く、飲料水や風呂水は沢水を汲み溜めて利用していた。寮の前を流れる川に沿って、寮が所有する2反の田があり、春の田植えと秋の刈り取りは寮生の仕事であった。この間の稲の手入れは近くの農家に委託していた。この川に掛かっている橋が台風時の洪水で流されたことがある。寮生総出で下流を探索して持ち帰ったこともあった。

 通学は上野-青森間の東北本線の普通列車による汽車通学である。当時仙台以北は電化されておらず、蒸気機関車しか走っていなかった。瀬峰−仙台間の所要時間は1時間35分、朝一番の授業に出席するには、6時半の列車に乗車する必要があった。瀬峰駅改札は寮の反対側に在ったため、ホームへは踏切を渡り、跨線橋を上下する必要があった。これでは間に合わない事が多く、線路横断、ホームへ飛び乗りが常態であった。駅員は見て見ぬ振りをしてくれていた。帰寮の列車は、仙台発20時35分発青森行きが最終で、これを逃すと友人の下宿に転がり込む事になった。

 コンパ等で酔っ払った時が問題である。最終列車に間に合っても、座席で寝込んでしまい、瀬峰駅の乗り過ごしを二回経験している。一回目は目覚めたのが瀬峰の次の駅・梅ヶ沢であり、二回目は更に次の新田駅であった。上り列車は既に無く、帰寮は線路伝いに歩くしかなかった。当時通学は下駄履きであった。月明かりを頼りに、暗い線路を瀬峰目指してカラコロと歩いた。梅ヶ沢からは1時間半、新田からは3時間を要した。さすが翌日の授業はサボりとなった。乗り越しにはまだ上が居た。岩手県の一ノ関まで乗り越した先輩は、上りの貨物列車に乗り込んで再び寝てしまい、目を覚ました時は水戸駅であった。

 通常、教養部は1、2年の2年間である。自分が教養部で3年間を過ごしたのは当然訳がある。ドイツ語の単位を落としたためだ。原因は語学が苦手な自分がワンゲルの山行きにかまけて、授業をサボることが多かったことによる。もちろん確定していた鉱山工学科への進学は叶わない。実家に帰り、申し訳ありませんと両親に平謝りしたが、ドッペリが元に戻るわけはない。教養部時代は仙台で下宿をしていたが、これから一年、今までと同じ生活では惰性に流されると感じた。瀬峰に鉱山工学科の寮があるのは知っていたが、入寮できるのは学部の学生と大学院生だけだ。それでも寮に入り、生活環境を変えたい想いは強かった。当時の学部長であったSU先生のお宅を訪ね、事情を話して入寮したいことを訴えた。先生は快諾してくれたのだ。アポ無しで飛び込んできた、一面識も無い学生の話を聞いてくれた上、教養部の学生の入寮を許可してくれたのだ。救われた思いであった。この歳の3月末、下宿を引き払い、2トントラックの助手席に座って瀬峰を目指した。

 当時、寮の居住者は学部の4年生と大学院生、それに食事の世話をしてくれる年配の女性と女性の息子さんの4人であった。息子さんは地元で小学校の教師をしていた。新学期になり、大阪の大学から2人の編入学部生が入寮してきた。仙台通学は週1回のドイツ語の授業とワンゲルの部室通いが目的である。部活動を別にすれば、平日は寮で過ごす事が多く、寮の仕事は暇つぶしには恰好の作業であった。寮のおばさんは気さくな苦労人で、戦後、小さかった息子さんを連れて大陸から引き揚げてきた寡婦であった。寮生が居なくなった平日は、おばさんと2人で食事をすることが常であり、気心が知れるにつれ、何時の間にか何でも話せる間柄になっていった。この関係は実の母親以上であった。秋には、おばさんと2人で弁当持参、キノコ狩りに供した事もある。居心地の良さは実家以上で、正月の実家滞在は三が日のみ、直ぐに寮に戻った。入寮翌年の3月、ドイツ語の単位は無事習得、晴れて正式寮生に昇格した。

 この年、2人の入寮者があった。1人は大阪の大学からの転入生Ka君、もう1人は教養部からの進級生のMS君である。MS君は山形県の山間部の出身で、近来稀な純な心の持ち主であった。学業は優秀、全て現役で進んできた経歴は自分と真逆であった。従って、彼の年齢は自分より3歳年下である。生活を共にする内に、MS君とは肝胆相照らす仲になっていった。身なりに無頓着なところは自分と全く同じであり、友人達からは「おまえ達は兄弟か」とよく冷やかされた。

 入寮3年目に2人が入寮してきた。1人は大阪の大学からの編入生であった。瀬峰寮での生活は、現代から見れば原始生活に近かったと言える。文明の恩恵は電気だけである。特に冬の寒さは尋常ではない。自分は入学以来、多くの時間を山歩きに費やし、テント生活には慣れ親しんでいた。ムシロ敷きの床とは言え、布団で寝られ雨露を防ぐ屋根まである寮は快適な環境であったのだ。都会地の大阪から、東北の片田舎のぼろ屋に住むことになった編入生にとっては、冬の寒さは耐えがたいものであったと思う。この編入生が寒さに耐えかね禁断のヒーターを使ったのだ。老朽化していた電気配線が漏電を起こし、寮は焼失した。卒業を目前にした3月初めの事である。この頃、自分は卒論の追い込みのため、学校に寝袋を持ち込み泊まり込んでいた。夜、寮焼失の一報を学校から聞き、瀬峰までタクシーを走らせた。山行きの写真や記録、登山道具を含む物品一切を焼失した。焼け跡から取り出した愛用ピッケルのヘッドを手に取り、呆然として佇んだ記憶は今も鮮明である。山行きの記録は記憶だけになってしまった。こうして3年間に及ぶ瀬峰寮での生活は終焉を迎えた。

 仲の良かったMS君とは、卒業式で別れてから会うことはなく、音信不通が続いた。自分は九州離島の鉱山、彼は北海道の鉱山に就職したためだ。メールなど言う通信手段がない時代だ。一度、出張で上京した時、彼と東京で会った事がある。彼は鉱山を1年で退職していた。人間関係の塊みたいな鉱山社会に彼が不向きなのは分かっていたので、心配はしていた。教育関係の出版社で仕事をしていると聞かされた。鉱山閉山後、本社でプラント関係の仕事をしていた時、旧鉱山の同窓会でMS君が死んだと聞いた。入水自殺であった。妻子がある身であったそうだ。原因は分からない。彼の性格を想うと、人間関係の悩みがあったのかも知れない。純な心の持ち主の彼を、理解してくれる者は居たのだろうか。もし卒業後も彼との交誼が続いていたら、彼の悩みを受け止める事ができたかも知れない。これも運命の然らしめる残酷な結果であるのだろう。同期のもう1人の同期生も、40代で自ら命を絶ったと風の便りで聞こえてきた。

 ネットの航空写真を拡大してみると、寮が存在していた場所は全て樹木で覆われ、寮の痕跡は何処にも見られなかった。当然である。あれから既に60年近い歳月が過ぎ去っているのだ。親しかった関係者も殆どこの世を去ってしまった。同期唯一の生き残りである自分も、寿命を数えられる歳になった。若い時代は、挫折を何回経験しても、明日に希望を持って生きられたが、今は望むべくもない。当時ですら浮世離れしていた瀬峰寮での生活経験は、遙かなる存在となってしまった。

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