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2007年9月21日: 瑞鳳寮のこと

 昨日家人と四万温泉に行った。元禄時代に建てられたという古い旅館の黴臭い廊下を歩いていたら瑞鳳寮を思い出した。

 60年安保の年に大学に入った。教養部の掲示板で寮生募集の張り紙を見つけ、お霊屋下の瑞鳳寺へ出向いた。瑞鳳寺は今では仙台の観光名所だが、当時は昼なお暗い杉木立の中のお化け寺であった。街中にこんな所があるのかと驚いた。寺の本堂で古参寮生の口頭試問を受ける。適当な受け答えをしていたら入寮を許された。

 戦後間もない頃、学生の窮乏を見かねたインド哲学科の先生方が寺の和尚に頼み込み、古い庫裏を借り上げて瑞鳳寮を作った。寮生の何人かはお寺のご子息であった。朝食前に皆で本堂の拭き掃除をし、その後木魚を叩いて読経をする習慣だった。そのうち怠けてやらなくなったが、今でも般若心経は中程までそらんじている。

 今にも壊れそうな古い二階建ての庫裏を、ベニヤ板で仕切って20人の寮生が生活していた。部屋には裸電球が1つ。暖房などなく、冬には窓の隙間から雪が吹き込んで、朝起きると布団の裾が白くなっていた。かろうじて電気は来ていたが、ガスも水道もなく、炊事用の水は境内の井戸で汲んで、寮生が交代で天秤棒で運んだ。そのための水汲み当番が決められていた。

 若い学生の共同生活はまるで原始共産社会の風であった。三食付きで、昼の弁当は住み込みのオバサンが、入寮時に各自持ち込んだ大小様々な弁当箱に作り置いてくれる。早く授業に出掛けたものが大きい方から持っていくので、寝過ごすと小さいやつしか残っていない。傘も早い者勝ちで、雨の日に遅く起きると傘が無く、学校へ行きそびれた。だれも傘や弁当箱を私有物とは思っていなかった。誰かの所へ仕送りの書留が届くと、5百円握って皆で一番丁に出掛けた。百円でトンちゃん一皿と梅割焼酎が一杯飲めた。

 何の娯楽もない時代、コンパと称して毎晩のように酒を飲んだ。ろくな肴もなく、大きなヤカンに酒を入れて、車座になって湯呑みで回し飲む。はじめのうちは真面目な議論をしているが、そのうちにへべれけになって落花狼藉。酔いそびれた奴が反吐の後始末をさせられた。裏手の山の上に伊達政宗の墓があって、月夜の晩に墓の前で酒盛りをやった。今では瑞鳳殿とかいう無粋なきんきらきんが建っている。

 貧乏学生が多く、まともな仕送りを受けている者が少なかった。三食付き三千円の寮費が払えず、滞納者が絶えなかった。しばしば支払いが滞って、米屋が会計係の先輩の所に押しかけてきた。皆で居留守を使って追い返した。そのうち米を届けてくれなくなり、数日残飯で凌いだことがある。米屋の方が根負けし、学生さんにひもじい思いをさせられないと米を持ってきた。寮生大会で寮費滞納問題が議論になったが、誰一人退寮を言い出すものがいなかった。

 あまりの居心地の良さに、親元を離れた開放感も手伝ってほとんど勉強をしなかった。同室の経済学部博士課程の先輩に、「君は実に勉強をしないね」と嘆息された。まるっきり授業に出なかったドイツ語の読本は、試験直前になっても全ページの全単語に字引が要った。途方に暮れて別の哲学科大学院の先輩に泣きついたら、 目の前ですらすら日本語に訳してくれる。その口述筆記を丸暗記して何とか学期末試験を乗り切った。両先輩ともその後大学教授になられている。かく言う当方は超低空飛行で、危うく教養部をドッペリそうになったが、何とか脱出して今これを書いている。 

 1年生の終わり頃、お寺の和尚と揉めて瑞鳳寮をたたんだ。その後北仙台の、院長さんが自殺して空き家になった精神病院の建物を借りて、道行寮という別の名の新しい寮を作って移り住み、卒業まで過ごした。しかし瑞鳳寮で過ごした1年は特別だ。50年経った今でも夢のように思える。一生のうち1年だけ、好きなところをやり直させてやると言われたら、文句なしに瑞鳳寮の1年だ。

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