伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2018年9月9日:生老病死 雑感 GP生

 TG君が伝蔵荘日誌全記録を収録したCD-ROMを送ってくれた。伝蔵荘日誌の投稿内容をコピーするにはどうしたら良いかとの質問に応えてくれた結果だ。伝蔵荘日誌は山関係の紀行文を掲載するために、伝蔵荘仲間を対象にしてTG君が始めたブログである。一番古い記録は、2002年10月の10日間に亘る「エベレスト街道トレッキング」である。山行記録だけだと投稿数が少なくなることから、TG君は山とは関係ないテーマで投稿を始めた。最も旧い投稿は、2004年12月の「陸軍上等兵従軍日誌より」であり、以降、現在までの投稿総数633を数える。山関係の記録は2012年2月の「キリマンジャロ登頂始末記」を最後に途絶えている。これも老化の影響だろうか。

 自分が投稿を始めたのは、文章を書くことは老化防止に繋がるとTG君に勧められたことによる。その通りなのだが、退職以来書いてきた文章はマンション管理の業務用文であり、自分の思いを文字で表現することに自信を持てなかった。聞くところによれば、伝蔵荘の仲間以外にも不特定多数の読者が居ると言われれば、尻込みをすることになる。そんな自分を励ましてくれたTG君の熱意に押されて書いた日誌が、10年前の「生老病死を考える」であった。長年に亘りお世話になった公認会計士の先生が、喉頭ガンにより壮絶な死を遂げた現実に触発されて書いた記憶がある。自分の加齢が進行するにつれ、生老病死は他人事ではなく、自身の現実問題として考えるようになった。

 腎盂ガン治療のため左腎臓と尿管、そして膀胱の一部を切除してから1ヶ月が経過した。入院期間は僅か10日間であったが、退院してみて心身の衰えの激しさに驚いたものだ。下半身の筋力の衰えは、立っていることに苦痛を覚え、外で歩くことに辛さを感じさせられたのだ。午前中は何とかなっても、昼食後はベッドに倒れ込むことになった。車を運転できるようになったのは、退院5日後であった。車で近くのスーパーに行き、カート車に商品を入れて店内を歩き回った。酷暑の路上での歩行を避けるため、冷房の効いた店内での歩行訓練であった。テレビはニュース番組さえ見る気力もなく、通常の番組は騒音以外の何物でもなかった。このような日常が2週間近く続いた。生きているのではなく、唯生存しているだけの感さえ覚えた。手術後1ヶ月近く経過する頃から、完全ではないものの術前に近い生活が戻ってきた。短時間ではあるが、ジムのプールで水中歩行を始めた。水中で全身を動かしながら、水の感触を味わい、ゆっくりと歩いていると、生きている事が全身で感じられた。人が生存している事と、生きている事の違いを感じる一時でもあった。

 自分が栄養条件に意を注いだ食生活を始めて、20年近くになる。身体を動かすことにも十分心を砕いてきた。今回の手術前は体力には十分自信があった。しかし、手術と入院生活は、自分の年齢を思い知らされる十分な体験であった。5年前に発症した前立腺ガンの治療には2年を要した。一時的な体力消耗を感じても余力は残っていたが、今回は、全く別であった。手術と治療に体力を全て使い切り、退院した時、余力は残っていなかった。治療の程度の違いは有っても、5年の歳月は老化を進行させるのに十分な時間であったのだ。

 人が老化を意識するのは何歳頃だろうか。自分か子供の頃は、60歳を過ぎれば年寄りと呼ばれ、外見も年寄りそのものであった。世の中が豊かになり食生活が欧米化するにつれ、日本人の寿命が延びてきた。それでも、70歳前後で力尽き、この世を去って行った多くの友人達を思い出す。大病に見舞われるのも70歳前後である。自分に前立腺ガンが見つかったのは、70歳過ぎであったし、故父親が人工透析を始めたのが同じ年齢であった。70歳前後に大きな坂が有り、これを無事超えれば老後の人生が保証されるのではと錯覚を覚える程、厳しい坂に思える。老の進行が明らかになり、蓄積された身体上の問題が顕在化するのが70歳前後であるのかも知れない。

 家の近くに家人が利用する喫茶店がある。店主は70代初めの女性で、家人の長年の友人でもある。彼女は若いときから口八丁、手八丁で強気一点張りの生き方をしてきた。食べ物や栄養に全く無関心で、「人には生まれてから備わった物がある」が口癖であった。店の東側が道路に面し、全面ガラス張りの店内は明るい環境であった。その店主が最近、白内障と診断され両眼の手術を行った。手術が一段落したのも束の間、今度は両膝に痛みが生じてきた。変形性膝関節症との診断であった。喫茶店経営を始めてから25年、店での立ち通して働いてきた結果である。暫くして、今度は骨粗鬆症が発覚した。骨のカルシウムが溶け出し骨密度の低下する病である。転倒には十分注意するようにとは、医者のアドバイスである。

 健康と元気を売り物に働いてきた彼女に老化が忍び寄っていたのだ。眼に敏感な家人は、昼間店に入ると紫外線を感じ、一番奥の椅子に座るのを常としていた。それでも紫外線を感じ、店主にカーテンを付けた方が良いとアドバイスをしてきたが、店主は大丈夫と言って一考もしなかった。白内障は、長年浴びた紫外線により角膜が酸化されたことにより発症する。眼球にはビタミンAとCが蓄積されているのは、眼球で発生する活性酸素の害を防止するために、それこそ人体に備わった機能である。これらのビタミンの摂取に手抜かりがあれば、活性酸素の害を阻止できない。骨の70%はタンパク質であり、骨組を形成している。この骨格にカルシウムが結合して骨としての機能を果たしている。骨細胞は時間と共に入れ替わっており、タンパク質とビタミン、そしてカルシウムの供給がなければ、骨格に綻びが出来る。新たな骨が作れず旧い骨が抜けた跡はスカスカ状態になる。膝関節症が悪化して人工関節を入れる手術も出なくなる可能性すらある。

 どのような人間でも、加齢の進行と共に身体機能は衰えてくる。勢いで頑張れるのにも限度がある。老化を自覚したとき、食生活でも足らざるを補い、如何に生きるかを考える実行することが、老後の生活安定に繋がると思っている。喫茶店主の言の通り、人には備わった物があるのは間違いない。備わった機能を生かすためには、栄養物質の摂取は必須である。備わった機能とて老化と共に衰えてくるのは必定なのだから。

 人の一生を考えれば、この世に誕生してから生を重ね、気がついた時は老いを自覚する事になる。その先には死が待っている。人の死には、人の生き様全てが集約されているように思える。葬儀に参列し出棺時のお別れで、故人と最後の対面する時、お棺に横たわる故人の顔から様々な想いを見ることが出来る。死の直前の苦しみや、死にたくない思いが克明に刻まれた表情に直面すると、眼を背けたくなる思いに駆られる。鉱山時代にお世話になった大先輩や父親の顔からは、満ち足りた生涯を感じたものだ。

 人の死は、単なる生物としての死ではないと思っている。人がこの世で生きる時、生を受けた目的や何のために生きるのかは一切判らない。潜在意識に隠された過去生からの閃きも一瞬である。社会人になってからも、自分の生活を支え家族を養うのに精一杯の努力を強いられる。現役の社会人としての役割を終えた時、人は老境を迎え、経済面や健康面、家族を含めた人間関係でも厳しい現実を生きなければならない。高齢期を迎えた時、人は何のために生きるのかとの命題を意識することになるのかも知れない。

 自分自身も70代前半で前立腺ガン、後半で腎盂ガンの治療を余儀なくされた。いずれも生命を脅かされるところまで進行していなかったことは僥倖であった。人の身体は何処かに遺伝的弱点を有しているものだ。発病して始めて自分の弱点を知る事になる。もし、自分が80歳台で同じ病が発症したとしたら、同じ治療は不可能であったろうし、苦しみながら死へと一直線であったかも知れない。70歳台で自分の弱点が発覚したことにも、意味があるのかも知れない。

 人の運命は自ら選択できる領域と、しからざる領域があるように思える。自分のガンにしても定期検査で発見されたではなく偶然の産物であった。それが早期発見に繋がり、完治の可能性に結びついていた。優秀な主治医達との出会いも自らの選択ではない。そこに至る人との出会いの連鎖の結果である。人の運命は、目には見えない力に導かれているように思える。過去に困難な状況に遭遇した時、予期せぬ僥倖に何度も助けられた事を思い出す。自らの選択を後押ししてくれる、何かの力があったように思えるのだ。自分に残された老後はそう長くはないだろう。けれど生きている限り面倒事から避ける事はできない。老後の悠々自適の生活は理想であっても現実ではないのだから。

 人が死す時、この世から持って行ける物は、自身の魂しかない。金も地位も名誉も全てこの世限りの物に過ぎないのだ。最近、メデイアを騒がしているアマチュアスポーツ界のボス達の生き様は、高齢者にとって反面教師でもある。この世で、自身の魂を丸く大きくすることこそが、生きる目的なのかも知れない。苦労や悩みから逃げず立ち向かい克服する努力が、心を磨く一助になるのだろう。真摯に生きた先に死が待っていたとしても、いずれ新しい生を迎えるステップなのかも知れない。色即是空とは、この世即ちあの世であり、あの世即ちこの世である事を意味する。この世とあの世は一体として存在している事を示している。人の魂が、あの世とこの世を転生する存在であるならば、あの世に還った時に、悔のないよう心を磨き生きる事が、高齢者の余生に求められていると信じている。

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