伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2018年4月18日: アーネスト・サトウ日記抄「帰国」を読む。 T.G.

 久し振りに図書館で借りたアーネスト・サトウ日記抄を読む。アーネスト・サトウは幕末から明治にかけて日本に滞在したイギリスの外交官で、滞在中の出来事を詳しく日記に書き残している。その日誌を元に萩原延壽氏が書き下した「遠い崖」(朝日新聞社)は全14巻の大著でなかなか読み進まない。数年前に第7巻の「江戸開城」まで読んだところで中断していた。今読んでいるのは第8巻「帰国」である。

 サトウは1862年に21歳で書記官として日本に着任し、7年後の明治2年(1869年)に賜暇を得て一時帰国している。彼の一時帰国を挟んで、戊辰戦争末期の箱館戦争から明治4年の岩倉使節団派遣に至るまでの経緯がこの巻のテーマである。明治維新初期の混沌とした状況が、外国人の目でつぶさに観察されていて、とても興味深い。歴史教科書にはまず出てこない話ばかりである。

 箱館戦争である。戊辰戦争の後、榎本武揚を首領とする幕臣達が、軍艦開陽丸を引いて函館の五稜郭に立てこもり、出来たてほやほやの明治政府と対立した。榎本等は北海道を徳川家の新領地と認めてもらい、半独立国として本土政府と並立することを目論んだ。維新政府から見たら反乱軍であり、イギリスなど諸外国の目で見れば内戦そのものである。英米露仏とも「局外中立」の立場で成り行きを見守っていた。次第に旗色が悪くなった榎本軍は、英仏両国の箱館領事を通じて江戸の新政府との和議調停を依頼する。明治政府にとって、諸外国にこの戦いを同格の主権者同士の争いと認識され、調停に乗り出されたらすこぶる都合が悪い。フランスあたりが「局外中立」を破って榎本軍に加担すれば、本格的な内戦に発展し、明治政府が瓦解しかねない。結局は榎本軍の降伏で箱館戦争は終結するのだが、その間の岩倉具視を中心とする新政府の、薄氷を渡るような外交上の悪戦苦闘ぶりがサトウの日誌からひしひしと伝わってくる

 廃藩置県である。維新を成就した新政権にとって最重要課題は、諸藩に分散している施政権と徴税権の中央集権化である。それがなくては統一国家は出来ない。そのための廃藩置県は避けて通れない大事業だが、既得権益を全否定される諸藩からは強い反発が起きるだろう。特に維新の中核となった薩摩藩は、依然として軍事力を保ちながら、江戸政府への批判も強い。日本中が蜂の巣をつついたような騒ぎになりかねない。サトウ等外国勢もこういう中央集権化の難事業はもうしばらく先のことだろうと考えていた。それが維新3年後の明治4年にあっけなく実現されてしまったのだ。維新のエネルギーの大きさと首謀者達の果断な実行力が窺える。森友加計如きで身動きが取れなくなった今の日本の政治と較べると、とても同じ国とは思えない。

 ウィキペディアによれば、「明治4年7月9日に西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長要人が木戸邸で案を作成し、その後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者、三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得、同7月14日、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。」とある。実に電光石火の早業ならぬ荒技だったのだ。

 廃藩置県に触れたサトウの日記では。「招かれて岩倉を訪ね朝食を共にした。彼は政情について話をし、廃藩置県は少なくとも向こう5、6年は無理だと最初は考えていた。しかし時勢の動きを見てその激しい流れを利用した方がいいと判断した。流血を伴うと予想していたが、(そうならなくて)嬉しい誤算だったと語った」と書かれている。この頃の明治政府の外交はもっぱら岩倉が担っていたようで、サトウもイギリス大使も、交渉相手としての岩倉に信頼を置いていたことが文面から伝わってくる。

 廃藩置県では反対派の急先鋒である薩摩の島津久光の説得が難儀だったが、これには西郷隆盛が帰国し説得に当たった。その後西郷は薩摩に引っ込んだままで、表舞台に出ることは少なくなった。6年後の西南戦争の遠因であろう。この頃の西郷は、かって討幕運動の先頭に立ち、外交をもっぱら担った人物の面影はなく、極めて無口であったらしい。サトウの日誌では、「7月28日、西郷が訪ねてきた。彼は非常に無口で、いつまで東京にいるか分からないと言った。」とだけ書かれている。討幕運動のさなか何度も面談し、熱い議論を戦わせた維新の大立て者のこの変わりように、サトウも戸惑った様子である。

 岩倉使節団である。廃藩置県騒動の熱気が覚めやらぬ明治4年12月に、岩倉を代表とする大使節団がサンフランシスコ経由で世界一周の旅に出た。目的は 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出すること、江戸時代後期に結ばれた不平等条約の改正、 西洋文明の調査で、メンバーは岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳以下46名、随員18名の大デレゲーションである。国内未だ不安定な状況で、明治政府の半分以上が日本を留守にすることになる。不在中にクーデターでも起きたらどうするのか。無謀に過ぎて、いい度胸と言わざるを得ないが、このような果敢さが維新の原動力だったのだろう。

 この使節団をイギリス大使館は陰に陽に手助けしている。その様子がサトウの日誌に書かれている。イギリスが懸念したのは、アメリカが御門(天皇)を御簾の外に引っ張り出して大統領化を進めさせようとしていることや、明治政府が清国と結んだ日清修好条約に、今風に言えば集団的自衛権にあたる「攻守同盟」の文言が含まれていることなどである。いずれも日本の対外イメージを損ない、使節団の外交交渉に支障が出かねないことをサトウを通じて岩倉や木戸に伝え、あれこれサジェッションを与えている。あたかも外交指南役の雰囲気である。

 第8巻は使節団が横浜を出発し、サンフランシスコに到着したところで終わる。興味深いのは、使節団を乗せた太平洋郵船のアメリカ丸が12月23日に横浜を出港し、翌1月15日にサンフランシスコに着いていることである。討幕運動さなかには、イギリスに至るヨーロッパ航路が片道2ヶ月近く要していたことがサトウの日誌に度々書かれているが、わずか数年後の明治4年の太平洋航路は、たったの3週間でアメリカに到着するようになっていた。さらに岩倉公実記には「1月15日、メリケン、サンフランシスコに至る。(中略)モントゴメリー街のグランドホテルに入る。電信を持って長崎に報じ、之を太政官に通告せしむ」と書かれていて、当時すでに太平洋を跨いだ電信が実現できていたことが分かる。日進月歩とはこのことだろう。

 次巻第9巻のタイトルは「岩倉使節団」である。近いうちに図書館から借り出そう。

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