伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2011年2月1日: アーネスト・サトウ日記抄第7巻を読む。 T.G.

 厳寒の日本を脱出してグアムのリゾートホテルで1週間過ごした。元々会社同期のA君夫妻が同行するはずだったが、直前になってご母堂が体調を壊され、取りやめになった。グアムは3度目だし、家人と二人だけではほかにやることもない。もっぱらプールサイドで昼寝と読書三昧と決め、本を8冊持ち込んだ。そのうちの一冊、アーネスト・サトウ日記抄第7巻、「江戸開城」(朝日新聞社)を読む。この著書は幕末から明治にかけて日本に滞在したイギリス外交官、アーネスト・サトウの日記を主題にして書かれている。全14巻のうち、今までに第6巻の「大政奉還」まで読了した。内容が濃い分厚い書物でなかなか読み進まない。ほかにやることもないホテルのプールサイドでの格好の読み物になった。

 アーネスト・サトウは1862年(文久2年)にイギリス大使館通訳として来日し、明治維新前後を含め、計25年間日本に滞在した。日本語の達人で、幕末から明治にかけての日本の様子を日誌に克明に書き記している。前第6巻では慶応3年10月の大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いを経て倒幕軍が江戸に進軍を開始するまでが書かれているが、続くこの第7巻は江戸無血開城から戊辰戦争に至る経緯が書かれている。サトウの日記のみならず、フランスなど他国外交官の文書や日本側要人の書簡なども併記されていて、臨場感溢れた幕末見聞記になっている。特に面白かったのは、イギリス側から見た西郷隆盛と勝海舟による江戸無血開城の経緯と、官軍の依頼を受けて傷病兵の治療に当たったイギリス人医師ウイリスの戊辰戦争従軍記の下りである。

 明治維新最大の危機は江戸開城の際に惹起される大混乱である。薩長主導で京都に樹立された新政府内部には、徳川慶喜の厳罰(死罪)と、江戸の街の破壊を求める意見が強く、実際江戸総攻撃のために小田原あたりまで進出していた官軍には、そう言う主旨の指示が出されていた。対する幕府側も、官軍に攻め込まれた場合、市中に火を放ち、江戸を火の海にして迎え撃つ作戦が決定していた。そうなれば、主君を殺され怨念に駆られた幕府軍は徹底抗戦に出て、日本は本格的内戦に突入する。そう言う事態になれば、表向き内政不干渉を建前に様子眺めをしている英米仏露に介入の口実を与え、日本の独立が危うくなる。清と同じように欧米の植民地になりかねない。それを恐れた西郷は、政府軍に先行して単身江戸に入り、幕府側責任者の勝と交渉に当たる。勝も西郷と同じことを考えていた。

 ここから外交の天才、西郷と勝の虚々実々の駆け引きが始まる。両者がしたたかな条件闘争を繰り返した結果、江戸無血開城に至るのだが、このときの様子が「西郷と勝の演じた“高等政治”は、新政府、幕府、各国大使館など多くの関係者の頭越しに行われた」と書かれている。巷間よく言われる「パークスの圧力」と言うものがあって、本国の指示で表向き内政不干渉の立場をとるイギリス大使パークスが、横浜沖に軍艦7隻を並べ、双方に対し横浜外国人居留地保護を名目に軍事力行使をほのめかしていたことを指している。またパークスは慶喜の死罪に強く反対する姿勢を見せていた。この圧力が江戸無血開城を実現させたと言う歴史の見方である。しかし実際問題としてこの時期に西郷も勝もパークスと接触していない。二人ともパークスやサトウと親しい間柄なのに、あえて意識して接触を避けていた節がある。そのことは日誌や文献からも明らかだ。その上で、西郷と勝はこの風聞に過ぎない「パークスの圧力」をうまく利用して、官軍幕府双方の強行論者を宥め、無事江戸無血開城を成功させた。天才的政治家、西郷と勝の確固とした国家観、外交哲学、したたかな交渉力がなしえた離れ業である。今の頼りない民主党政府のへなちょこ連中に、爪の垢を煎じて飲ませたいものだ。

 そうは言っても、天才政治家西郷と勝が光り輝いた絶頂期はこれが最後で、維新後は鳴かず飛ばずである。同じ幕軍の雄であった榎本武揚と違って、勝は明治政府に取り立てられることはなかったし、西郷に至っては新政府のお荷物に成り下がり、追いつめられて西南戦争で討ち死にするしかなかったのは歴史の皮肉である。乱世には腕を振るえても、平時に不向きな政治家としては、イギリスのチャーチルに似ている。ヒトラーとの戦いの先頭に立ち、国民を奮い立たせ、大英帝国を守りきった英雄チャーチル首相は、第二次大戦が終わると直ちに失脚し、二度と返り咲くことはなかった。乱世と平時では、指導者に求められる資質が異なるのだろう。菅や鳩山など、民主党政権の指導者がそのいずれでもないのは、21世紀日本の大いなる不幸だ。

 幕末の世情や風物が具体的、客観的に書かれた文献はそれほど多くはない。多くはサトウやウイリスのような当時の在日外国人によるものだ。傷病兵の治療を依頼された医師ウイリスは、官軍の護衛兵とともに高崎、軽井沢、高田、新潟を経て戊辰戦争の主戦場、会津に向かう。その途中の出来事や風物が従軍日誌につぶさに書かれていて面白い。高崎あたりでは、「道中見かけた日本人は、女性は醜く、男性はひ弱で間抜けな顔つきをしている」などと書いているくせに、新潟では「住民の容貌は平均をかなり上回っていて、特に女性は日本の代表的美人だ。」などと持ち上げている。よほどいい女がいたのだろう。また道中治療に当たった傷病兵に幕軍の捕虜が見あたらないことを訝り、官軍が捕虜を生かさず、殺してしまうのだろうと推察している。傷病兵の傷はおおむね銃弾によるもので、刀傷はほとんど見られないとも書いている。幕末の戦いが刀剣によるものではなく、もっぱら銃撃戦だったことが分かる。

 興味を引くのは、目的地会津に関する記述である。彼が会津若松に入ったのは鶴ヶ城落城の2週間後だが、各地で農民の暴動騒ぎが頻発していた。いわゆる一揆ではなく、会津藩の圧政に苦しんだ農民達が、庄屋宅などに保管されている農地課税台帳を奪い、新政府に渡らぬよう焼却するのが目的だったと書いている。当時若松城下と近郊にあった3万戸の家屋のうち、実に2万戸が武士のもので、この多すぎる特権階級を養うために、会津藩は過酷な年貢米取り立てをしていた。落城後、会津藩主・松平容保が官軍に投降した際、「前領主の見送りに集まったのは十数名に満たず、誰もが無関心を装い、働いている農民も仕事の手を休めようとしなかった。残酷で不必要な戦争を起こしながら腹切りも出来なかったのだから、領民から尊敬を受ける資格を失っていた」と、ウイリスは日記に書いている。こういう領民にも見放される愚かな大名だから、京都守護職などと言う割の合わない損な役目を引き受けたのだろう。後世の我々は会津戦争に関して白虎隊の美談ばかり持て囃すが、愚昧な政治指導者を持つと国民が不幸になると言う、現代にも通じる教訓の方に目を向けるべきだ。どうか民主党バカ政権の4年間がそうなりませんように。

 第8巻はいよいよ明治だ。またプールサイドを探さなきゃ。

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