伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2018年3月15日:「留用された日本人」への想い(その1) U.H.

  小生は2月に75歳となり、ある意味で「何が起きても不思議でない」年齢となってしまった。この節目の年に何かを記したいと考えたのだが、思いついたのがここに述べる「留用された日本人」についてであった。

 もちろん小生は敗戦時に二歳であり、何の記憶も残ってはいない。しかし父親が「留用者」の一人であったこと、また件の留用者はすでにほとんどが鬼籍に入っていることから、自らが「語り部」たらんとする意識に基づいて記すこととしたものである。以下の記述は2002年に放映されたNHKスペシャル「留用された日本人:私たちは中国建国を支えた」の要約であるが、その内容がほとんどの日本人に知られていない事柄であり、また極めて重い事柄でもあるため、小生の感想などを交えず以下は内容紹介に徹することとしたい。

 語り部としての小生の経歴は次のようである。1943年(昭和18年)中国(旧満州)ハルピン市にて生誕。祖父(群馬県出身)は神田ニコライ堂のニコライ学院を卒業渡満して大連市、ハルピン市で南満州鉄道(満鉄)嘱託など歴任。白系ロシア人人脈との交流・各種調査等に従事。父(青森県出身)は満鉄に入社、終戦時ハルピン駅助役、「留用」される。1949年(昭和24年)、ハルピン市日本人小学校 入学。(敗戦後、中国の主要な都市には日本人学校が設けられ、共通化した教材で初等教育を受けた。)1953年(昭和28年)、故国に引揚げ。10歳、小学校5年の時である。

 ちなみに「NHKスペシャル」に取り上げられたのは日中国交正常化30年にあたる2002年であった。ということは4年後の2022年は国交正常化50年にあたる。しかし昨今の日中関係はどうであろうか。ソ連の崩壊、東欧地域の変質以降、中国は共産党による一党独裁を正当化するために、日本による中国侵略を打ち破ったのは中国共産党であるという一点に力点を置いている。そのためここ20年来反日教育に力を入れており、日中相互に反日、反中の機運が高まってしまっている。この様子では日中国交正常化50周年の節目(2022年)にもどうなっているかわからない状況である。しかし日中国交正常化30年当時には、中国建国に協力した留用者に感謝する中国側の姿があり、力強い友好の絆が芽吹いていたのである。

 以下、ドキュメンタリーのテーマの背景と経緯について要約する。約2時間のドキュメンタリーそのものは、次のリンクを辿られたい。

■日中国交正常化30年(2002年)NHK・ハイビジョン特集「留用された日本人〜日中・知られざる戦後史〜」(YouTube)

経緯
 1945年(昭和20年)8月の我が国敗戦後、共産党軍は満州各地に残留している邦人の内、社会インフラ(鉄道、医療、炭坑など)に携わっていた技術人材を組織ぐるみ「留用」して活用した。その中には飛行隊も含まれていて、新中国の空軍創設に協力した。この間、中国国内では中華民国勢力と共産勢力による内戦が進行し、1949年10月1日に中華人民共和国が成立したが、1953年頃までそれらの邦人は帰国できない状況が続いた。

旧満州地域における歴史的推移
 旧満州地域は清帝国(もとは満州人が建てた王朝。1616年〜1912年)支配領域であったが、不凍港を求めてやまない帝政ロシアが南下を図り、清帝国を圧迫して各地に権益を拡大した。日本はこの趨勢が朝鮮半島に及ぶことを恐れ、やがて日露戦争に至った。1905年、日露戦争が薄氷の展開ながら日本の勝利となった以降、日本は満州地域に参入し、やがて鉄道権益などを得るようになった。

 1931年満州事変勃発、その後日本は満州全土を掌握して「満州国」を設立した。広大な満州を支配するために軍事力のみでは不十分なため、各地に民間人や開拓団などが入り、終戦当時には155万人レベルの日本人(その内、27万人が開拓団)が在満した。ちなみに開拓団員27万人中、ソ連参戦以降10万人が死亡している。

 1945年5月ドイツが降伏すると、ソ連は極東方面に兵力を移送し、8月9日、ソ連は日ソ中立条約を反古にして満州地域に参戦した。兵員.150万人、大砲26000門、戦車5500両、航空機3400機。対する日本軍:関東軍は兵員75万人、火砲約1000門、戦車200両、航空機200機で、まともに対抗できるレベルではなかった。

 1945年2月にヤルタ会談が行われ、ルーズベルトはスターリンに対日参戦を求めている。1945年8月6日の原爆投下によって、終戦が近いことを悟ったソ連は、発言権を確保するために対日参戦を早めて8月9日の満州侵攻を行った。進駐したソ連軍は、在満州の日本人軍人を拘束し、シベリアに送致して使役に供した。

 ソ連は満州地域に未練を持ったが、国際的な批判を受けて1946年4月に撤退し中国側に施政権が移ったが、日本と交戦中は国共合作として停戦していた国民党軍と共産党軍の内戦が再開された。8月時点で、国民党軍約430万人、共産党軍約128万人、解放区の民兵約200万人。一方武装は米国が援助する国民党軍が圧倒的に優位だった。この頃、米国、ソ連共、中国の次期政権を担うのは国民党と考えていた。

 内戦中、国民党側は日本人の故国引揚げをおおむね容認した。一方で共産党軍側(主として満州地域を含む北方方面に支配勢力を張っていた)は「日本人技術者の留用」を図った。ちなみに敗戦の翌年から始まった中国からの邦人の集団引き上げは1948年8月に終了したが(約100万人)、これ以降旧満州に残された日本人は6万人以上と言われ、その中で「留用」対象となった者が1万人レベル(家族を含めて2万人)存在した。

 1949年10月1日、中華人民共和国が建国され、国民党勢力は台湾地域に撤退した。1950年6月、北朝鮮軍が韓国を攻撃して「朝鮮戦争」勃発した。その後、韓国側には米国を主体とする国連軍が、北朝鮮側には中国が支援した。しかし1951年には膠着状態となり、1953年7月に終結した。朝鮮戦争の膠着・終結方向と平行して、在中国邦人の引揚げが再開されることとなった。

「留用」におけるエピソード
  天蘭線の鉄道建設についてである。敗戦直後、旧満鉄関係者はインフラ維持の観点から協力を求められた。(終戦時の満鉄:社員約40万人、鉄道技術者に加え、鉱山/炭坑、港湾、学校、病院、図書館、研究機関など多岐にわたる人材を抱えていた。)しかし1950年に中ソ相互援助条約が締結されソ連の技術協力が始まり、やがて中国東北部において日本人技術者は不要となった。

 1950年から1952年にかけて、天蘭線(天水・蘭州間約354Km)が建設された。この鉄道建設に旧満鉄技術者(200人)とその家族計約800名が留用され、中国人スタッフと共に建設に従事した。鉄道技術者に加えて、医師、看護士、教師なども留用された。天水は人口3万人ほどの地方都市であるが、これまで在満した都市部には電気、上下水道などの都市インフラが整っていたのに対し、天水にはなく、飲用になる井戸の水を買うような土地であった。またこのルートは3000メートル級の高原地帯で、橋梁が約千カ所、トンネルが54箇所もある難所であった。・ しかし蘭州以西には豊富な石油資源があり、国家建設、および朝鮮戦争の完遂のために同資源が欠かせず、天蘭線建設は至上命令となった。

(その2へ続く)

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