伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2018年3月15日: 「留用された日本人」への想い(その2) U.H.

「留用」におけるエピソードの続き。
 留用された者の中でもっとも多かったのは医療関係者で医師、看護士、傷病兵を運ぶ担架係など3000人が留用され共産党軍の行軍に同行した。行軍は国民党軍との攻防・進退に対応して、各地を転戦するものとなり、遠く華中まで行った関係者もいた。旧満州には軍医、満鉄病院、製鉄所病院など組織的な医療関係者がいたが、前述のほかにも鉄道建設に、炭坑支援等に留用された。

空軍創設への協力
 戦争末期には在満州の日本軍(関東軍)は、日ソ中立条約を建前として精鋭部隊を南方戦線に引き抜いた。一方で1945年6月「根こそぎ動員」が実施され満州在の成人男子35万人中25万人が現地招集された。敗戦時、満州には66万人の日本軍人がいたが、その57万人がソ連によりシベリアへ強制移送された。そうした中で共産党軍の空軍創設のために留用された飛行隊が存在した。関東軍第二航空軍団所属の錬成飛行隊(パイロット養成と防空任務担当)は、ソ連軍の侵攻に際して迎撃の任務についが、まもなく敗戦の報に接した。司令部からの指令は「ソ連軍の武装解除を受け、臨機に対応せよ」というレベルであった。飛行隊長・林弥一郎少佐(パイロット:34歳)は、三百数十人の部隊員(内300人は整備担当者)を抱え、皆を故国へ無事連れ帰るにはどうすれば良いか悩んだ。シベリアへ送られるのではないかという不安もあった。

 一方で、300人規模の飛行隊が存在することが共産軍の知るところとなり、やがて共産軍の捕虜になり、林少佐は本部に呼ばれた。会見に臨んだのは共産党の三首脳だった。総司令官・林彪、党東北局総書記・ほう真、参謀長・伍修権。そこで空軍創設への協力を依頼された。林少佐は3条件を出した。すなわち、捕虜扱いをしないこと、飛行操縦の訓練は危険を伴うため学生への立場が重要。 日本人の生活習慣を考慮し、教える側の体力・気力に配慮する。 家庭生活を保障する。独身者の結婚を認める。ほう真は即答で、「何の問題もない」と応えた。

 部隊は東北各地の飛行場に残っている機体や部品、整備関係品等を収集し、飛行訓練のための体勢を整えた。その後、各地残留の航空関係者、医療関係者なども加わって500人規模となった。1946年1月「東北民主連軍航空学校」が創設され、以降組織的にパイロットの育成や整備技術の教育が行われた。1949年10月1日の中華人民共和国建国式典において、同校で育成された中国人パイロットが搭乗する航空機による航空ページェントが天安門広場上空に繰り広げられた。

邦人の故国引揚げ
 ポツダム宣言には軍人・軍属の帰国のみが詠われ、一般邦人への言及がなかった。また日本国政府は敗戦直後からしばらく、軍人の帰還を優先する判断を取った。1950年10月モナコで赤十字社連盟理事会が開催された。日赤代表・島津氏が中国紅十字会代表・李徳全女史に接触し、一般邦人引揚げへの協力を要請、女史も応諾した。しかし朝鮮戦争に中国が参戦し、日本は米国側の存在のため交渉は暗礁に乗り上げた。1952年7月赤十字国際会議で「(世界的な)抑留者の釈放」を決議した。同年12月北京放送が突然「日本が船を出せば、中国は在中の邦人帰国に協力する」と一方的に放送した。1953年2月、日中両者の合意がなり、同年3月帰国第一船が舞鶴に入港。引揚げは1958年まで継続し、この間「留用者」も含め38000人が帰国した。

国交正常化、その後
 1958年5月「長崎国旗事件」が起き、日中関係がこじれた。1966年文化大革命が始まり、再び経済交流は停滞したが、日本国際貿易促進協会が地道な活動を「友好貿易」として続けた。1971年ニクソンが中国訪問、ここから日本政府も対中政策を転換した。1972年田中内閣のもとで国交正常化が実施された。

 嘗ての留用者を中心に、1977年10月「中国帰国者友好会」を旗揚げし、1979年から帰国者の現地訪問が始まる。毎年1〜2回のペースで訪中団が組まれた。中国側は多くの日本人が中国建国に協力したことへ感謝の意を表し、合わせて民間交流の場が多数持たれた。経済協力の橋渡し、各分野の専門家の派遣、青年の研修受け入れ・人材育成に寄与した。2002年、中国の「中国中日関係史学会」が留用者の記録をまとめた本を発行した。

終わりにあたって。
 敗戦時、旧満州からの引揚げ者は開拓団員の悲惨な逃避行や残留孤児の問題などが多く印象づけられたが、一方で中国側に「留用」され中国建国に協力した一団が存在したことはあまり記憶されていない。そうした留用者は故国へ帰国した以降「共産党思想に洗脳された」という先入観からまともな仕事にも就けず晩年まで苦労が絶えなかった人も多いという。しかしながら留用者のその時代への感想を聞くと「苦労はしたが貴重な経験であった。」という肯定的な答えが多かったとNHKの聞き手が伝えている。人間とはある意味で非常にしたたかな存在であり、懐の深いもののようである。

 中国は共産党による一党独裁を正当化するために、日本の中国侵略を打破したのは中国共産党であるという一点に力点を置いている。そのためここ20年来反日教育に力を入れており、日中相互に反日、反中の機運が高まってしまっている。この様子では日中国交正常化50周年の節目(2022年)にも日中関係がどうなっているかわからない状況である。しかし日中国交正常化30年当時には、中国建国に協力した留用者に感謝する中国側の姿があり、力強い友好の絆が芽吹いていたことを思うと、何とかならないかと思う次第である。

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