【伝蔵荘日誌】

2013年6月17日: 大学教育の効用と価値 T.G.

 北海道のAbさんからしばしばメールが届く。しばらく前までは紙のハガキだったが、最近パソコンとインターネットに目覚められたようだ。Abさんは50年近く前、大学の寮で1年だけご一緒した大先輩である。当時は哲学科の大学院生であったが、卒業後北海道の大学に奉職され、退官後はかの地で悠々自適の生活を送られている。近くに町営の温泉が出来たので一度訪れられたしなどと便りをもらたりする。まだ果たせていない。時折詩のような文章を書いておられたら、教え子達からブログを作ることを奨められたという。ブログの投稿が上手く行かないときに、小生のところへ問い合わせのメールが来る。なぜ上手く行かないのか教えろと。そんなやり取りが続いている。

 昭和35年に大学に入って、国分町のお米屋さんの二階に下宿していた。親元を遠く離れ、見知らぬ地でまだ友達も出来ず、下宿と教室の往復だけの孤独な毎日を送っていた。5月初めに教養部の掲示板で「瑞鳳寮寮生募集」の張り紙を見つけた。授業が終わった後、霊屋下の瑞鳳寺まで歩いて出かけた。その時は知らなかったが、伊達政宗をはじめ、歴代の伊達家の墓所がある名刹である。昼下がりの、鬱蒼とした杉木立の中の境内に入り、本堂脇の人気のない庫裏の前で声をかけるが誰も出て来る気配がない。しばらくして、「どーれ」というやや時代がかった声がして、奥から現れたのがAbさんである。絣の着物に黒いマントを羽織り学生帽という、絵に描いたような旧制高校生の立ち姿である。周囲の古色蒼然とした雰囲気も手伝って、一瞬タイムスリップしたような気分になった。この後、「僕もそこまで出るから、歩きながら話そう」と言うAbさんと、霊屋裏のバス停まで連れ立って歩いた。それが瑞鳳寮とAbさんとの最初の出会いである。

 瑞鳳寮は戦後の貧しい学生のために、インド哲学科の先生達が瑞鳳寺の住職に掛け合って作った仏教青年会の自治寮である。入寮資格は学費に困窮していること、仏教を初め思索的であることだった。本堂の板敷きの間で旧寮生から受ける禅問答が入寮テストである。岩波文庫で読んだ哲学の本の受け売りで、適当な受け答えをしていたら入寮を許された。後で文学部の1年先輩の文学部のKiさんから聞いたところによると、付け焼き刃の生意気を言う奴を、寮へ入れてとっちめてやろうと言うことだったらしい。

 それもあってか、入寮が決まった晩、下宿の二階で寝ていたら外で呼ぶ声がする。窓の下を見ると、自転車に乗った文学部哲学科3年生のMuさんが、「コンパをやるから来ませんか」と言う。連れだって夜の瑞鳳寺に行くと、二階の薄暗い裸電球の下で、10人ぐらいが車座になって酒を飲んでいた。輪に加わって慣れないコップ酒を飲んでいると、つい先ほどまで高校生だった身には、何かえらく高尚でハイブローに聞こえる議論をしている。何とか話に加わったが、これが大学生のコンパというものかと、幾分大人になった気がした。そのうち皆の酔いが回って、若者特有のY談や下世話な話になったら安堵した。酒に弱い質で、その晩どうやって国分町の下宿に帰ったか覚えていない。

 寮生にはお寺のご子息が何人かおられたが、特段仏教的制約があるわけではなかった。寮生の学部も文科系中心と言うことはなく、小生のような理学部も工学部、農学部もいた。医学部だけはいなかったが、当時も医学部生の家は比較的裕福だったのだろう。寮は本堂脇の二階建ての古びた庫裏をベニヤ板で仕切って、20人が暮らしていた。朝起きると、皆で本堂の拭き掃除をして読経してから朝食を取るのが日課だった。これも厳格ではなく、真面目にやる者と、寝坊してさぼる者がいた。小生は後者である。それでも何度かお勤めをしたので、今でも般若心経は中程まで諳んじている。絵に描いたような門前の小僧である。

 瑞鳳寮のことは前の日誌にも書いたが、多士済々というか、いろいろなタイプの寮生がいた。

 例えば文学部のMoさんである。3年先輩で西洋美術が専攻だった。最初は医学部に入ったが、どうしても美術をやりたいと文学部に入り直した。いつも汚い部屋の中で油絵を描いていた。ある時その絵の中の線が細いと感想を言ったら、君にそう言うことを言われる筋合いはないと怒られた。コンパの酒で酔っぱらった理学部は、単に描かれた線が物理的に太くないと言っただけだが、誤解されたらしい。この先輩は卒業後化学業界紙に長らく勤められていたが、鎌倉にアトリエを持っておられ、時々銀座の画廊で個展を開かれた。ある時見に行って、いい趣味ですねと言ったら、「趣味ではない。本業だよ」と叱られた。会社勤めは絵を描くための生活費稼ぎに、仕方なくやっているだけなのだそうである。さもあらん。先日新宿の居酒屋でOB会をやったら、幹事なのにいつまでたっても現れない。携帯に電話したら、出雲大社に旅行中、持病の腸閉塞が再発して松江の病院に入院中とのこと。相変わらず好奇心旺盛な先輩である。

 最初の同室者は経済学部博士課程のYoさんである。年の離れた大先輩で、出身地の小樽に婚約者がおられた。時折食堂の電話で話されていた。当時の大学の経済学部はマル系、いわゆるマルクス経済の牙城であった。Yoさんも共産党に入党されていたそうだったが、入学直後の安保反対騒動の時は、デモに付和雷同する軽佻浮薄な我々と違って、泰然自若としておられた。この先輩と過ごした半年の間、思想的な話を聞かされた記憶はない。授業をさぼって遊び回り、机に座ったことがない小生に、「G君は実に勉強しないね」と慨嘆されたことだけを覚えている。卒業後は北海道の大学に奉職されたという。

 インド哲学科大学院のHiさんは実家が弘前のお寺で、サンスクリット語の蔵書を大量に持っておられた。半年ごとの部屋変えの際は、部屋の移動が大変だと免除されていた。酒乱の質があり(Hi先輩、ご無礼ご容赦の程!)、食堂でコンパをやると、真っ先に酔っぱらって、よせばいいのに食堂の隅に置いてある電話で110番する。パトカーが霊屋下の坂道を駆け上がってきて、まだ酔いが廻っていない連中がお巡りさんに平身低頭して謝るのが常だった。本人は覚えておらず、平気な顔でいた。後に母校のインド哲学科の主任教授になられている。

 1年先輩の文学部社会学科のKiさんは寒河江のお寺のご子息で、お経が上手かった。夏休みに実家へ帰ったときは、お盆のアルバイトで檀家を廻ってお経を上げて小遣い稼ぎをしていたという。読経にはいる前の仕草が堂に入っていた。卒業後地元紙に入社され、報道部長から役員まで勤め上げられた。先日一緒にゴルフを楽しんだ。

 向かいの部屋に3年先輩の農学部のAtさんがおられた。1年中ほとんど部屋の掃除はせず、たまに万年床の布団を上げると、畳の目も見えないゴミの中に、カビだらけの四角い布団の跡が出てきた。生まれつき虚弱で神経質な質だったが、この先輩の部屋でコンパをやっているうちにずいぶん図太くなれた。大抵の汚さには驚かなくなった。卒業後は乳製品メーカーに入られ、仕事を終えられた今はアイスクリーム協会の理事をしておられる。

 コンパに誘いに来た2年先輩の文学部哲学科のMuさんは鎌倉のお寺のご子息である。酒が強く、しらふでも酔ったときでも口調が変わらない。冗談まで何となく哲学的である。Y談も哲学的になる。長らく女子大で教鞭を執っておられたが、女学生相手にあの口調で授業をされている様子を想像すると頬がゆるむ。時折女学生が教授室に来る話になって、皆にセクハラだとからかわれると、顔を赤くして否定される。昔とまったく同じである。

 その他個性的な面々ばかりだったが、まだ健在で東京近辺に住むメンバー7人で時々瑞鳳寮コンパをやる。新宿の樽一という居酒屋がもっぱらの開催場所である。樽一の古びた狭い個室が瑞鳳寮時代の部屋と似た雰囲気で、昔のコンパの再現である。さすがに話題は新しいが、皆の語り口も発想も、50年前のあの頃とまったく変わっていない。人間二十歳を過ぎると精神年齢の発達は止まるのだろうか。こういう価値観もものの考え方も違う個性的な人たちとの交流は、人生の大きな財産になっている。まだ若い、知性の発展途上でこういう邂逅を得、濃密な時間を共有できたのは、大学教育の別の側面、効用、価値ではないかと最近思うようになった。大学で学ぶことは、数学や工学や経済学だけではない。

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