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2009年7月10日: 戦争の記憶  T.G.

 老境に達した姉弟5人、その連れ合いを入れて総勢10人で温泉に行った。夜一杯飲みながら昔話に花が咲いた。年寄りの共通の話題は、おおむね少年少女時代のこと。戦前戦後の混乱期の話である。あの頃の身を切るほどの苦労も、辛い記憶も、今は懐かしい思い出話。人間と言う動物は、嫌なこと辛かったことは忘れ、いい思い出しか残らないように出来ている。その反対だったらたまらない。誰しも鬱病になって体がもたない。その思い出話である。

思い出話−その1

 見よ東海の空明けて、
 旭日高く輝けば、
 天地の精気溌剌と、
 希望は踊る大八州、
 ああ晴朗の朝ぼらけ、
 聳ゆる富士の姿こそ、
 金甌無欠揺るぎなき、
 我が日本の譽れなり。   (愛国行進曲)

 真珠湾攻撃の前年に生まれた。幼児期家に手回し蓄音機と軍歌のレコードがあり、他にろくなオモチャもない時代、毎日これを聴いて育った。子守歌代わりだったのだろう。終戦直前の空襲で家もレコードも失うまでに、ほとんどの軍歌をそらんじていた。もちろん難しい歌詞の意味など分かるわけもなく、「キンオウムケツユルギナキ…」などと丸覚えである。それでもこの勇壮快活な行進曲は好きだった。今でも時々口をついて出る。歌詞の意味や漢字がほぼ推察できたのは、ずっと後の中学生の頃である。文字にした歌詞など見たことがないから、漢字は当てずっぽうである。

 昭和19年に父親がフィリッピンで戦死し、生家は空襲で焼け、6人の子供を抱えた戦争未亡人の母親との戦後生活は過酷そのものだった。いわゆる戦争被害者の典型である。にもかかわらず、今でも軍歌を聴くと懐かしさが蘇る。少なくとも軍歌やあのころのかすかな記憶が、決して不愉快であったり、忌まわしい思い出に感じられたりはしない。どうしたことか我ながら訝るほどだ。悲惨な戦争経験を後世に語り伝えるなどと、知識人やリベラル派ジャーナリズムがしたり顔に言うが、理屈はともあれ、自分にはどうにも実感が湧かない。本当に彼らはそう感じ、そう思っているのだろうか。彼らのうち、自分程度以上の戦争体験者はどれだけいるというのだろう。人はつくづく観念の生き物だ。

 ああ、あの顔であの声で、
 手柄頼むと妻や子が、
 千切れるほどに振った旗、
 遠い雲間にまた浮かぶ。

 ああ堂々の輸送船、
 さらば祖国よ栄えあれ、
 はるかに拝む宮城の、
 空に誓ったこの決意。     (暁に祈る)

 戦争も押し詰まった昭和19年、小さな呉服商を営んでいた父が陸軍に徴兵され、フィリッピンへ出征した。典型的な赤紙上等兵、幼い子供が6人もいる30過ぎの老兵である。高射砲部隊だったそうだ。生まれたばかりの末の弟を背負い、自分と姉の手を引いて名古屋港から出航する輸送船を見送りに行った母に、「高いところを飛ぶ敵機に弾がとどかない」とこぼしていたそうだ。いわば軍事機密漏洩である。負け戦を覚悟していたのだろう。当然のことながら、まだ4歳だった自分にはまったく記憶がない。父の顔さえ覚えていない。戦後に聞いたの母の昔話である。何度聞かされても切ない光景だ。

 その頃すでに米軍に太平洋の制空、制海権を奪われていた日本陸軍の輸送船は、台湾沖を通過する際に多くが撃沈された。幸か不幸か父の乗った輸送船は無事フィリッピンにたどり着いたが、半年後、父はミンダナオ島で戦死した。送られてきた骨壺には小さな骨のかけらが二つ入っていた。「誰のものか分からないよね」、と戦後母がいつも愚痴をこぼしていたのを憶えている。

 父よあなたは強かった、
 兜も焦がす炎熱に、
 敵の屍と共に寝て、
 泥水すすり草をかみ、
 荒れた山河を幾千里、
 よくこそ撃って下さった。

 夫よあなたは強かった、
 骨身も凍るクリークに、
 三日も浸かっていたとやら、
 十日も食べずにいたとやら、
 荒れた山河を幾千里、
 よくこそ勝って下さった。  (父よ、あなたは強かった)

 戦死公報によれば父は戦病死だったそうだ。末期のフィリッピン戦線だから、おそらくマラリアと栄養失調なのだろう。少なくとも敵兵と撃ち合って銃弾に倒れるような勇ましい死に方ではなかったようだ。そのためか、今に至るまで靖国神社からは何の通知も連絡もない。おそらく銃も撃たずに死んだ軟弱な老病兵は祀られていないのだろう。だから通常の戦没遺族のように、靖国神社に特段の思い入れはない。さりとてリベラル派知識人のような反発、反感もない。死者は誰でも、自分のやり方で、好きなように弔えばいい。無関係の他人がとやかく言うことではない。ましてや他国が口を挟む問題ではありえない。

 何万もの兵士を失ったガダルカナルインパール作戦では、ほとんどが餓死だったと言う。戦史の伝えるところによれば、末期のフィリッピンも同様な状況で、反攻上陸したマッカーサー米軍に押しまくられた日本軍は、マラリアと栄養失調で動けなくなった傷病兵を残置し、敗走したと言う。父もその中の一人だったのだろう。遺体をきちんと荼毘に付す余裕などあるわけがない。母の言うとおり、遺骨が他人のものである可能性は大である。もしかしたら石ころかも知れない。今は母と一緒に墓に入っている。武勇拙かったとは言え、歌詞に言うところの、泥水すすり草をはみ、十日も食べずにいたのは間違いない。なぜそんな断末魔の島へ、さして役にも立たない30過ぎの6人の子持ちを連れ出さねばならなかったのか。国家というものは実に不条理だ。

 【その2に続く】

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