伝蔵荘ホームページ              【伝蔵荘日誌】

■思い出話−その2   T.G.

 銀翼連ねて南の前線、
 揺るがぬ守りの海鷲たちが、
 肉弾砕く敵の主力を、
 栄えある我らラバウル航空隊。
        (ラバウル航空隊)

 中学生の頃、友達と千葉の映画館で封切られた「太平洋の荒鷲」という戦争映画を見に行った。主演俳優は覚えていないが、真珠湾攻撃に至る経過を書いた典型的な戦争賛美映画だった。今にして思えば、朝鮮戦争後間もない、まだ進駐軍が残っている時代に、よくあんな好戦的な反米映画が作れたものだ。プールに小さな模型の空母や戦艦を浮かべた、子供の目にも分かるお粗末な特撮だったが、真珠湾に向け勇躍出撃する帝国海軍機動部隊が、豊後水道を堂々南下する最後のシーンで、突如として館内に軍艦マーチが勇壮に鳴り響くと、子供ながら背筋に鳥肌が立つような興奮を覚えた。戦争で父を失い、地獄のような大空襲のなかを逃げまどい、戦争未亡人である母の地を這うような苦労を目にしながら、今に至るまで、知識や理屈は別として、とうとう自分には生理的反戦意識は生まれなかった。どうしたことか、今考えても不思議である。戦後60年、たいした戦争体験などないのに、自国の安全保障などそっちのけで、平和がどうの、軍国主義がどうのとしたり顔に言う、リベラル知識人の頭の中が理解出来ない。

  我が大君に召されたる、
  命栄えある朝ぼらけ、
  称えて送る一億の、
  歓呼は高く天を突く、
  いざ行け強者、日本男児。 (出征兵士を送る歌)

 右翼の街宣車が最も好む軍歌である。新橋駅前で時々やっている。行進曲風の勇壮なリズムと日本人好みの短調のメロディー、天皇制賛美の単純で扇情的な歌詞が好まれるのだろう。

 赤紙一枚で大君に召された父親が、フィリッピンのジャングルでのたうち回っている頃、残された我々は母に連れられて名古屋大空襲の中を逃げまどっていた。かすかにぼんやり覚えているのだが、夜中母に起こされ、防空頭巾を被せられ逃げ出す寸前、玄関先が火の海になった。焼夷弾が落ちたのだと後で聞かされた。裏手に回って、田圃のあぜ道を、おそらく小学生だった長姉に手を引かれて逃げる途中、あたり一面火事で真っ赤になった空から、たくさんの黒い針のようなものが音もなく降り注ぐのが見えた。これも後で知ったのだが、B29爆撃機から雨あられとばらまかれた焼夷弾だった。小さなお寺の前にさしかかったとき、木立にぱらぱらと豆をまくような音がした。グラマン戦闘機の機銃掃射だと誰かが言った。一緒に逃げたよその他人だったのだろう。

 焼け出されて、母と幼い兄弟姉妹6人、遠い親戚の農家に身を寄せた。暑い夏で、開け放たれた一部屋に蚊帳を吊り、空襲で大火傷を負った女の人が寝かされていた。全身の皮膚がずるむけで、数日後に亡くなった。大人の人たちが、桑名沖に浮上した敵の潜水艦を見に行った。青いランプが点いていたと話していたのを憶えている。すべての記憶が断片的で繋がりがない。おそらく半分以上は自分の記憶ではなく、後になって母や姉に聞かされた話が作り出したイメージなのだろう。

  此処はお国を何百里、
  離れて遠き満州の、
  赤い夕日に照らされて、
  友は野末の石の下。  (戦友)

 昭和30年代、森繁久弥が紅白歌合戦の常連だった。ギターの伴奏で彼がこの有名な軍歌を、例の森繁節で哀調たっぷりに唄い出すと、それまで騒がしかった会場がしんと静まりかえった。戦後10年ちょっと、まだ戦争の記憶が人々の中に生々しく残っていた頃だ。この歌は軍歌ではなく一種の反戦歌なのだ。それが証拠に、戦意を喪失させると一時陸軍が禁じたこともあると言う。

 60年安保の年、大学に入った。日和見学生だった自分も、友人達と連れ立ってデモに参加した。その頃コミンテルンに操られた共産党や日教組が宣撫し、左翼学生の間で流行っていた「インターナショナル」や「原爆許すまじ」を、皆と声を合わせて唄った。左翼の連中はこれらの労働歌を軍歌とは正反対の反戦歌だと言うが、扇情的で、好戦的で、自分にはほとんど同じように聞こえる。当時の左翼的風潮で、ロシア民謡が大流行した。新宿にロシア民謡の喫茶店が幾つもあった。その頃聞いたロシア民謡に「道」という歌がある。ロシア民謡の中でも特に好きな歌だ。ヒットラーのナチズムや資本主義陣営と戦う孤独なソ連軍兵士の歌なのだが、内容や情感は日本軍歌の「戦友」とまったく変わらない。

  おお道よ、
  立つ埃、
  寒さに震え、
  茂るブーリャン、
  明日をも我知らず、
  いつ荒れ野の露と消えん、
  埃は畑に野辺に山に、
  あたりは火の海弾は飛ぶ。  (ロシア民謡、道)

【その3に続く】

      

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