+破片+


1.

「どうして、俺が、躯の買い物に付き合わなくちゃいけないんだ?」
クラブが休みの日のこと。
躯に呼び出された飛影は、その内容を聞いた途端、口を尖らせた。
対して、躯はけろりとしたものだった。
「違う。これはオレの買い物じゃない。クラブの備品を買いに行くんだ。お前はうちのバイトだろ?だからこれは仕事の一環だ」
「蔵馬とか、幽助もいるだろうが」
「蔵馬に?」
躯は、いかにも承服しかねるという顔をしたが、飛影は言い募る。
「チーフだろう?適任じゃないか」
「却下。予定がぎっちり埋まってて、いつ体が空くか分からんあいつに頼むほど、オレも暇じゃない。それと、幽助に荷物持ちをさせるなんて、できるわけねぇよ。今日はグラスを買いに行くんだぜ?ほとんどあいつが割った分の補充のみたいなもんなのに・・・あいつに持たせたら、店に着くまでにいくつ割られるか。分かったもんじゃないだろう?」
「時雨は?」
あいつなら、躯の言うことなら絶対に文句など言わない。
「時雨、ね。うーん・・・」
ふてくされた顔の飛影を、躯は思案顔で見下ろした。
「あれは趣味がうるさくて、・・・無口だけどな。黙って逡巡し始めるんだ。趣味は悪くないが、あいつを連れてったら決まるものも決まらない」
「雷禅は」
「はなから頭数に入れてない。お前なら入れるか」
むむ、と飛影は唸った。
「備品だったら、店まで届けさせればいいだろう」
「配達を頼まなきゃならんほど、数は多くないし」
「じゃあ貴様一人で行けよ」
「一人で持つには重いんだ」
「・・・」

そんなやり取りがあって以来、躯が買い物に出るときの荷物持ちは飛影、と半ば固定されるに至った。

他のスタッフは、なにしろ緊張を強いられる、オーナーのお供を引き受けるのが自分でないことにほっとしたし、どんなに不服そうな顔をしても、結局は黙って仕事をこなしていく飛影が使いやすかったのか、躯もよく彼に声を掛けた。
(だからといって、いつまでお供を命じられてなきゃいけないんだ?)
飛影は、たしかに口にこそ出しはしなかったが、だから不平が何もない、というわけではない。
一体どれくらいのあいだ彼がお供を命じられているかというと、バイトとして雇われ始めてから今に至る2年あまり、ずっとである。
それまで、新しいスタッフが入ることはもちろんあったのに、飛影より若い人間が入ってくることはただの一度もなかった。
この業種の性質上、仕方のない状況ではある。とはいえ、都合、長らく下っ端扱いされている飛影がそれに不満を感じたとして、同情の余地はあるというものだ。

2.

だからその日、近くの百貨店へ出向いた躯のお供は、当然のように飛影だった。
その百貨店は、飛影にとってほとんど馴染みがなかった。
飛影が一人で来る用のある店ではないし、クラブの備品を買うためにも、これまで来たことはない。
何故かと思って躯に尋ねると、『欲しいブランドの欲しいデザインの在庫が今あるのが、ちょうどそこだけだったんだ』と答えが返った。
「注文すれば、もちろんいつもの店にも入ってくるが」
待たなくていいものを待つのは、躯の性分ではない。

百貨店へ向う車の中で、アクセルをふかして躯は言った。
「なぁ飛影、早く免許を取れ。これを貸すから」
「・・・は?」
どうにも面白くなさそうな返事を聞いて、躯はほんの一瞬、助手席に視線を向けた。
「欲しくないのか?免許が?」
「・・・荷物持ちのほかに、躯付きの運転手をやれってのかよ」
「なんだ、お前。」
躯はくすくすと笑った。
「免許を取れる歳になったのに取らないのは、それが嫌でか。」
(丸っきりそういうわけでもないんだが・・・)
飛影は思ったが、言葉にはしなかった。
確かに、そういう理由も多少ある。
今ですら、まるで躯のお付をやってるように見られてるのに、車の運転まで任されるようになったら、その雰囲気はますます強調されそうではないか。
「車の運転ぐらい、できたほうがいいと思うんだがなぁ」
飛影にしたって、免許が欲しくないとは思っていない。
それなのにまだ免許を取っていないのは、おおよそ金銭と時間が問題で、彼はむっつりと腕を組んだ。
「免許を取る、取らないは、まぁお前の勝手だ。だけど、大学が終わるまでには取った方がいいと思うぜ?」
「・・・そんなことは分かってる!」

飛影は今、公立大学の2年である。
『大学に入れる頭があるなら入っておけ。損にはならないから』
飛影が、高校卒業後ここで雇ってくれないかと躯にかけ合ったとき、躯はこう答えた。
それに従ったというわけでもないが、受験して受かった大学へ、飛影は進学した。
その後、結局バイトとして働き続けることになったので、何か、代わり映えのないような気が飛影にはしていた。
それでも、2年経って変わったものもある。
飛影の背が、躯を追い越した。



割り込み・作者よりコメント

すいません!
突然19歳にしちゃいました。
そんでもって、躯より背が高くなったことにしちゃったよ・・・!
このあとの展開上、躯よりちっちゃいと、飛影、ちょっと大変かなと思ったから。
とはいえ、どんぐりの背比べです。まだ、差はほとんどない。あって2 cm?
どうか許してください・・・。



3.

包装が済むのを待つあいだ、躯は食器類を眺め、飛影はぼんやりとそれについて時間を潰していた。
躯は、一つのグラスを手に取った。
そして、光の下でそれを廻らしながらじっと見つめている。
「欲しいのか、それ」
「・・・いや?そうでもない」
しかし、躯はそのグラスを置かなかった。
それは鮮やかに青いカットグラスで、色ガラスであることが飛影には不思議だった。
クラブで出すグラスはどれも無色で、どんな色の入っているものもないからだ。
なお、ゆっくりと眺めている躯を見て、もう一度尋ねた。
「欲しいんなら買ったらどうだ」
「買う気は、ないんだ」
「決定権はお前が持ってるんだろ?」
躯はちょっと笑った。
「考えてみろよ。青い江戸切子なんて、店の雰囲気に合わないだろう。これ自体は美しいが・・・」
そう言って躯は、視線を手の中のグラスに落とした。
このグラスのデザインは、どちらかと言えば和風、ということになるんだろう。クラブ内は、内装からして和風という雰囲気はない。とはいえ・・・
「そういや、何でうちの店には、色の付いてるグラスが一つもないんだ」
色の入ったグラスにも、いかにもヨーロッパ風というものだってある。
躯は、意図を汲んだらしい。
へーえ、という調子に笑みを浮かべて、グラスを近くの照明にかざした。
「このグラスにウィスキーを注いで、うちのダウンライトの下で見てみたら、と想像してみろ」
明るい青のグラスに、琥珀色の液体が入る。薄暗い灯りの下で・・・
「どす黒く見えるのがオチだ。」
確かにそうかもしれない。
躯はまたグラスを眺め、笑みを浮かべた。
「このグラスが美しいのは、こんなふうに日中の明るさの中で見るからで」
青いグラスを置くと、まったく同じデザインで色は赤、というグラスに持ち替えると、飛影の顔を見た。
「せめて、こっちの色でないとな。黄色味の強い、暗めの灯りの下では、中身がおいしそうに見えない」
「そんなもんなのか」
「明るい光の中でなら、たぶんオレンジジュースを注いだって綺麗に見えるだろうさ。だが、この色は場面を選ぶ」
赤いグラスを手に、躯は青いグラスを目で指した。
「その点、透明なグラスは、どんな光にも反発しない。すべての色を透過して、何を入れても美しく見えるから」
躯はさらに持ち替えた。同じカットの刻まれた、透明なグラス。
「そうだな。これだったら、店に置いてもいいかもしれない・・・」
躯は、口ではそう言いながら、さして欲しそうでもない。
本当は青いグラスを欲しいと思っているんじゃないのかと、飛影は、内心で思った。

4.

「わぁ、きれい。ねえ、パパ?」
ふっと躯がその声のほうを見た。
「そうだね。綺麗だねえ」
(なんだ?)
それは飛影がちょうど背を向けていた方向だった。
振り返ってそちらを見ると、ショーウィンドーをかねたガラスの棚の向こうに、父親と幼い娘・・・というよりはおじいちゃんと孫娘、という感じの二人連れが見えた。
彼らはそこで豪華な首飾りを見ていた。

ブランド物の食器が並ぶあたりからわずかに離れたその一角は、宝飾品売り場になっていた。
常設の売り場というわけではなく、何かの企画で特別に飾られているようだった。
そこの手前寄りに、四方をガラス張りにした背の高いケースが設置され、人目を引くよう首飾りは展示されていた。
大きな赤い宝石はルビーだろうか。その周囲をきらきらと輝く白いが取り囲むデザインの飾りが、大小合わせて五つ。それが帯のように組まれた白い宝石の上に配置されている。
・・・もし、あれが本物のルビーとダイヤだったなら、とんでもない金額になるんだろう。見慣れない目には、あまりぴんとこないが・・・
考えながら飛影が振り向くと、躯は硬い表情でじっとガラス越しの二人を見つめ、手にしていたカットグラスをことりと置いた。
「躯?どうしかしたか」
その問いに、躯は答えなかった。

「きれいねえ・・・」
うっとりした声で、背伸びしながらガラスケースの前に張り付く少女を、恰幅のよい老人は福々と笑いながら見つめている。
「ねえパパ、わたしに似合うと思う?」
「うんうん、きっと似合う・・・ようになるんじゃないかな」
「これねぇ、わたし、ほしいなあ」
「え・・・ええっ?!」
「ねえ、パパぁ」
「そ、それは、ちょっと・・・」
「だめぇ?」
「いや、これはな・・・難しいな・・・。これは、お前にはちょっと早いよ」
「え〜?パパもきれいだって言ったじゃない?」
「いや・・・、だ・・・だけどね」
「パパ、わたしに似合うって言ったでしょ?」
女の子の無邪気なおねだりには、年の功でもかなわないのかもしれない。
彼には災難だろうが、人の良さそうな老人を、幼い少女があたふたさせるさまは、はたから見れば微笑ましい。
老人は上着のポケットからハンカチを引き出して、顔の汗をふいた。
「だけどね、これを今、お前の首にかけたら、長すぎて飾りがおへそまで来ちゃうよ。首飾りだからね。首の周りに飾りが来るくらい、お前が大きくなってから、それからなら考えるからね」
「あっ、ママー!」
少女は老人の言葉を聞いていない。
弾むように駆けて、近付いてきた婦人に飛びついた。
「パパがね、大きくなったらこれ買ってくれるって!」
「あらぁ、まあ、そんな約束を『おじいちゃん』としたの?」
「『パパ』、だよ。ママだってそう呼んでるじゃない」
「それは、ママにとってはパパだから、そう呼んでるのよ。パパったら、まだこの子に『パパ』って呼ばせてるの?」
「いいじゃないか。それに、お前がわしを『パパ』と呼ぶから、この子もわしを『パパ』と・・・」
「おじいちゃんて呼ぶようにパパが言えば、そのうち呼ぶようになるわ。パパが訂正しないから、この子も直らないんです」

5.

(なんだ、やっぱりじじいと孫じゃないか)
飛影が思ったそのとき。
躯がよろめいた。
「危ない!」
無意識にガラス棚へ手をかけようとした躯を、飛影はとっさに支えた。
「おい、どうした?!」
「な・・・なんでもな・・・」
「なんでもないわけあるか!顔が・・・顔が」
顔が青いし汗までかいてる、と言おうとした。
そのはずが、飛影の口は回らなくなった。
(こいつ、女だ・・・!)
何故、今の今まで気づかなかったのだろう。
支えている肩は明らかに薄く、筋肉もついていない。
腰も、男としてはあまりに細い。
それに胸が・・・
ここにいるのは、女以外の何者でもない。

ず、と躯の膝が崩れかけ、飛影はその体を抱く腕に力を入れる。
しかし躯は足に力を入れて立ち直り、首を振って飛影の腕をはずした。
揺れた髪が香る。
躯は、頭だけはまっすぐに上げているが、額には脂汗が浮かんでいる。
今にも崩れそうな体を支えることは拒絶され、飛影の腕は行き場をなくした。
「お客様?!どうなさいましたか?」
こちらの様子に気付いて、店員が近付いてくる。
「具合が、・・・悪いらしいんだ」
見れば分かることしか言えない。
飛影は、苦い気分で躯を見下ろした。
「・・・躯?」
女は答えず、浅い息を繰り返している。
躯の異変の理由など、飛影にはまるで見当も付かなかった。

「あ!お父さん!」
向こうで、少女が嬉しげに声を上げた。
「あのね、あのね、『パパ』が、大人になったらこれを買ってくれるって!」
『お父さん』はそれを聞いて苦笑いした。
「それはまた・・・大変な約束をしてしまったものですね、『お義父さん』?」
「おいおい、話が違ってるよ〜。ああ、困ったな。大きくなったら、それから考えるってわしは言ったんだが」
「子供には、"考える"が遠まわしな断りとは分からないですからね」
「そうよねぇ。パパも悪いわよう?」
母親は笑った。
「・・・ああそうよ、ほらパパ。私は彼を名前で呼んでるけど、この子はちゃんと『お父さん』って呼んでるでしょ?だからパパも・・・」
ガラスケースの前を離れたこの家族の、声がだんだんと近付いてくる。
「ああ、分かった分かった。わしが気を付ければいいんだな」

躯が身じろぎした。
「大丈夫か、躯」
俯いた躯は、青白い手の甲で額をぬぐうと顔を上げた。
ガラス一枚隔てて、老人が通り過ぎる。
それに視線を走らせてから、躯は飛影に振り向いた。
「ああ、大丈夫だ」
長い息をついて、躯は家族の背を見やる。
「・・・あの男、見覚えがある」
「じじいか?」
自分でも驚くほど険のある声が出て、飛影は思わず口をつぐんだ。
「『父親』のほうだ」
躯は額にまとわりつく髪を掻き揚げて、うんざりした顔をした。
「店の近くでよく見る。見るたび違う女を連れてるけどな」
浮気・・・と飛影が呟いたのを、はっ、と小さく躯は吐き捨てた。
「玄人もいたな。いずれ妻から見れば浮気だろう」
「・・・気付かないのか」
さっき見た母親は、どちらかといえば美人の部類に入った、と思い出しながら、飛影も家族の行った方に目をやった。
「気付くさ。気付いていて、本人に確認しない、それだけだ。それで今度は腹いせに、そういう『奥方』がクラブに来たりする。・・・こちらには、どうでもいいことだが」
すでに、例の家族の姿は、こちらの視界から消えている。
「・・・運転しなくない。タクシーを呼んでくれ」
まだ顔色は悪いが、表情はいつもの躯だった。
飛影は、曲がりなりにも安堵した。

6.

クラブが店仕舞いするころ、辺りはまだ真っ暗である。
掃除を終えてゴミを集積所に出し、ドアに鍵をかけるころにやっと、空の色は変わり始める。
もちろん季節によってその程度は違って、冬なら真っ暗なままだ。
今日は、完全に閉めるころ、空の片隅に明るさが差すのが分かった。
「おーい、閉めるぞー?」
幽助が店内に叫ぶ。
「全員出たみたいだね。閉めて」
「おう」
ガチャンという音を立てて鍵が閉まる。
鍵を鍵穴から抜いて、幽助は蔵馬に手渡した。
「今日は蔵馬に預けるってことで」
「確かに」
蔵馬は受け取った鍵を鞄の中にしまう。
「行ってきたぜ」
「お、ごみ捨てごくろーさん」
「戻った?これで全員だね。じゃあ、みんな。お疲れさま」
「おつかれー」
口々に挨拶をして散っていく中で、何気なく店を振り返った飛影の目に、ほのかな明かりが見えた。
それは、店の上、躯の部屋に当たる窓だった。
本当についていたかどうか、薄明るい中では微妙なところだとも言えた。
しかし、飛影はなんとなく気になった。

買い物から店へ戻るタクシーの中で、躯は、『体調が悪いから今日は仕事を休む』と飛影に言った。
それも当然だと、飛影一人で店に荷物を運び込んだ。
そして、運び終わったときにはもう、タクシーはいなくなっていた。
きっとその足で自宅に帰ったんだろう・・・飛影は考えて、クラブの仲間にもそう連絡した。
乗ってきた車の移動を、飛影は躯の自宅を知っている時雨に頼んだ。
しかし時雨は、その時点で躯が自宅に戻っていたかどうか、確認していなかった。
もっとも、駐車場に行っただけの時雨が、躯の帰宅を確認するのは難しい。
だから、心配性の彼が安否を確認しなかったことを、飛影も不思議に思わなかった。

けれども、躯の部屋に今も明かりがついている。
ということは、躯はそこにいるのかもしれない。
いないことを確認していないのだ、可能性はある。
もし、躯がいなかったとしても、明かりがついたままなら消したほうがいいだろう。
飛影は店の合鍵を取り出した。
しょっちゅう買い物に付き合わされる関係で、『お前も持っていたほうが便利だ』と躯から渡されていた鍵。
妙なことで役に立った、と飛影は一人ごちた。
重い金属音とともにドアの鍵を開け、中に入る。
そして上階へとあがった。
(事務所の鍵が閉まってない・・・)
躯の部屋に入るには、手前にある事務所を通らなければならない。
事務所を使うのは主に躯であるため、仕事のためにやってきた彼女が、始めにこの部屋の鍵を開ける。事務所の鍵を閉めるのも、躯の仕事だ。
今日は買い物に出る前に躯がここのドアを開け、その鍵はいつもの場所にない。
もしここが閉まっていたら、躯がその奥にいることは確実だったのに、と飛影は思って中に入った。
そして、躯の部屋の鍵を持っているのは、もちろん躯だけだ。
仕事中なら、持病の頭痛に見舞われていても躯は鍵をかけない。
けれども仕事を休むと言った躯が、中にいて果たして鍵を開けておくだろうか?

だが。
(鍵がかかっていない?)
かちゃ、という音とともにドアのノブは回った。
飛影は、ドアを押した。

7.

躯はいた。
飛影がたびたび昼寝に借用しているソファにだらりと座って、グラスを開けている。
「躯、」
「・・・飛影?」
驚いたように頭を上げ、眉を顰めた躯は舌打ちした。
「鍵をかけ忘れてたのか・・・」
はーっ息を吐いて脱力し、そして、グラスを上げた。
「お前も飲むか?」
戸棚のガラス戸は開けっ放しで、酒数本分のスペースが空いている。
躯の足元には、そのとおりに空き瓶が転がっていた。
「いつから飲んでる」
「さっきから」
それは嘘だ、と飛影は眉を寄せた。
「いいだろ。付き合えよ」
躯は、頭の辺りに立つ飛影にグラスを押し付ける。
ふらふらと立ち上がると、テーブルに置かれていた酒を手にとって、注ぎ足した。
「オレにも『パパ』がいた」
躯は、くすりと笑った。
「大粒のルビーだったな」
そして戸棚に向かうとグラスをもう一つ取り、くるりと振り向いた。
「ほしいと言ったものは大抵買い与えられた。かわいらしい服も、アクセサリーも。どうせ言わなくても奴は好きに買ってきてはオレを飾り立てた。・・・子供には分不相応なモノをな。奴には、金だけはあったんだ。・・・といって、思い通りになるものは、なかなか手に入れられなかったらしいが」
自嘲気味に鼻で笑い、左手のグラスに酒を注ぐ。
「小さな子供に力はない。できるのは、保護してくれそうな大人に、笑いかけて、かわいい顔をすることだ。人間というものは、害意あるものには害意で、好意には好意で返そうとする習性がある。・・・あなたに危害は加えませんよ、あなたに好意がありますよ、と本気で心を寄せることだけが、唯一、無力な子供に与えられた戦略」
床に瓶を置き、躯はグラスを口元まで上げた。
「なあ、飲めよ」
「こんな状態で」
飛影は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「男の前で、酒なんか飲んでんじゃねぇよ」
躯はゆっくりと目を見開いた。
「お前・・・」
しばらくのあいだ男を凝視していた女は、片手で目を覆い、乾いた笑いを漏らした。
「ああ、そうだな。さっきの話を、お前が疑問もなく聞いていた時点で」
女は、目を開けた。
「オレは、おかしいと思わなきゃならなかったんだ・・・」
躯は酒に口をつけ、一歩、一歩と歩み寄り、グラスをテーブルに置いた。
「聞くが」
女はゆったりとソファに腰を下ろし、男を見上げた。
「なら、こんな状態の女の部屋に居座るお前は何なんだ」
飛影は目元を歪め、ぐっと唇を閉じる。
「飲めよ」
元々緩めてあったネクタイを、躯はほどいて抜き取った。
「躯・・・、」
「オレの代わりに」
「!」
それをぽいと床に放り、躯は目を細めた。
「飲め。飛影」
彼は女の瞳を見、・・・グラスの中身を一気にあおった。



作者コメント

こんなところで終わらせてすみません・・・!m(_ _)m

気を取り直して。
作中で躯が言っている『人間の習性』は、原作でも多分そうなんだろうな、と私が思っていることです。
これを、心理学用語で『好意の返報性』というのですが。
たとえ何か仕掛けを施されていなくても、それが親であるということを唯一の根拠に、躯は痴皇を愛していた(親としてね)だろうと思います。

そして、子供時代の親との関係は、のちの恋愛観に影響するそうです。
父親が“男”のモデルとして娘の心理に刷り込まれ、父親との関係の持ち方を、他の男とのかかわり方の基準にするんだそうですよ。
それだけでもう、幸せな恋愛の邪魔を痴皇がTT

ただ、原作で『可愛がられた記憶』が復讐の歯止めとして仕組まれていましたね。
私は、このことが躯にとって幸運だったと思います。
何が幸福だったって、それが、たとえどんな意図が裏にあったとしても、子供としてまっとうに愛された記憶があり、それを『幸せ』と認識していたからです。
それってつまり、傷つけられることなく大切にされることを、愛情だと感じられる神経回路が形成されてるってこと。
それが正常な愛し方、愛され方だと思うけれど、躯にとって当たり前だったかというと、疑問符が付く。

愛するとか、恋するとか、それは人間の本能だと思うけれど、それをどう表現するかは、学習しなければ身に着けられないと思います。
つまり、もし、愛を求めた相手から傷つけられた記憶しかなければ、傷つけられることでしか愛情を感じられず、傷つけることでしか示せなくなるじゃないか。
それよりは、偽りであっても愛された記憶があるなら、ないより多分ずっとまし、と・・・

もっとも、傷つけられた記憶と、可愛がられた記憶の両方を持って『父』を愛し、しかも同時に激しく憎んでいる躯の精神を、「愛情というもの」が歪めているのは間違いないわけで。

それは躯の不幸ですが、心理学的にそういう現象があるのだと知っている(ことに私がした!)躯は、心の救済の端緒をもう握っています。
が、糸口だけでは、彼女は救われません。
躯自身、救われようとも思ってこなかった気がするしなぁ。

その辺は、飛影に、ね。
なんとか働きかけてもらいたいところであります。
・・・あるんだけど、まだネタが。
まだちょっと、十分こなれてないので、彼の話はしばらく書けそうに・・・
すいませんスイマセンm(_ _)m


あくびの感想

続編きましたよ〜!(喜)
ここで一番カッコいいシーンはなんと言っても、ラストで躯サマがネクタイを 抜き取るシーン。想像するだけで心拍数があがっちゃいます。 まるで飛影の視点で、躯サマを見つめているような気分になります。 その辺りも、みかささんの小説の素晴らしさなんだと思います。みかささん曰く、この仕草にはかなり表現に苦労したそうです。私はこれがベストだと思いますよ♪

「このグラスが美しいのは、こんなふうに日中の明るさの中で見るから」 というセリフに、夜の世界を生業とする者の、ちょっとした悲哀のような ものを感じてしまいました。 それに続いて、女の子とおじいさんとの一件で、悲哀のひとかけらが 垣間見えるわけですが、オーナーが女性と知った飛影の気持ちが、 これからどんな風に動いていくのか、とってもとーーーーっても 気になるところです。