日々雑談:1998年11月
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11/29
接続時間が
気が付くと11月の接続時間が16時間近くなっている。
15時間までは固定料金なので、なるべくその枠内に収めるようにしているのですが。
あんまりオーバーすると接続料の請求が大きくなって小遣い減らされるんですよ。

最近のわし
■11月28日
久しぶりに床屋へ。自宅から歩いて30分程の場所。
そのまま歩いて徳島のOAシステムプラザへ寄って、初めてiMacを見る。
徳島県内は(多分)ここでしか販売していないはずで、かなりの人だかりであった。
見た目がやっぱりおもちゃっぽい。
目新しいデザインもここまでやると好き嫌いがかなり分かれそうですね。
散歩の帰りに近所のJR新線の工事進み具合を見に行く。
27日から新しい線を電車が走っていて、旧線(数百メートル)はレールのボルトが抜かれていた。
この旧線はどうなるのだろう。
■11月29日
一日年賀状作りに没頭。
色付きの遣随使×(←古典的)、ケント紙に切り抜いた家族の写真をたくさん並べてあれこれ考える。
写真を適当に貼り付け、漫画シールや住所をワープロで印刷したものを貼り、手持ちのオートカメラで撮影。
んが、やっぱりトーシロが撮影すると、光の具合とか画面への収まり具合とか全然だめですね。
やっぱり写真屋に頼むかなあ。思案のしどころ。
夕食はすき焼き。ずいぶん大量に食べた様子で、とても苦しい。

11/27
「有酸素運動」(20分以上かけての徒歩・自転車)によるダイエットの試みを初めて2ヶ月以上になるのだが、効果があるようなないような。
始めた頃(9月の上旬)に57kgを越えていた体重が、現在は55kg前後になったが、これも週末とかに食べ過ぎるとすぐに56kgを上回る。
ながーい目でみれば、ちょっとづつ減っているのだろうが、なかなか数字としてはぱっとしませんね。
ところがです。今日ものすごく久しぶりに綿パンを出してきてはいたら、ウエストがぶかぶかなんですよ。
このズボンをいつ頃買ったのかよくわからないのだけれども、最近はジーンズ以外のズボン(スーツも含めて)が全部はけなくなっていた(なってこったい)ので、その点ではとりあえず改善方向にあるようです。
つまり、体重としてはあんまり減ってないけれども、腹回りは少しは締まってきたということでしょうか。

高校生の頃は食べても食べてもなかなか太れなくて、体つきが貧相だったのに、まさか中年になってダイエットに励むとは予想だにしてませんでした。
若い頃の私を知っている人にはわかってもらえると思うけれども、18歳の頃は体重が45kgで頬がげっそりといった風情だったのです。
ズボンを買うのに、なかなか合うウエストのものがなくて困ったものです。

ちなみに私は背も低いけれども、同時jに足がすごく小さいです。メーカーによって会うサイズがちがうのだけれども、大抵24.0の靴を履いています。
このサイズの靴が最近はなかなかなくて、デザインをどうこういって選択することができません。
これはもうしょうがないとあきらめていますが、今後ますます日本人の体格が向上して私に合う靴がなくなあったら困るなあ。
足が小さくて格好悪いのはボーリングに行ったときです。
当然シューズは借りるのだけども、24.0cmだと、どう見てもデザインが女性用なんだよね。ちょっとみっともない。

11/26
朝もはよから
実はないしょなのだが〜こんなところに書いたらないしょでもなんでもないが、明日は会社を休んで、朝も早くからでかける用事があるのでもう寝ます。
少し前からいろいろ準備していたのだが、そのうちレポートできると思います。わくわく、ぞくぞく。
####
会社のロビーにクリスマスツリー出現。
私は初めて見たが、例年飾られていたのだろうか?
だれも見ていない時にこっそりツリーに「願い事の紙」をぶら下げたら怒られるだろうか。(そりゃ七夕か)
「株価があがりますように」「赤字が解消されますように」それより「給料が少しでもあがりますように」「来夏のボーナスは普通にほしい」
「無能な役員が辞めますように」とか。

11/25
天神平あたりはもうばりばりにシーズンインらしくて、うらやましい。
スキーをしていた頃は寒くなるとそわそわ落着かなかったもんだ。

どういう巡り合わせか、突然何かに熱中することが時々あって、スキーを始めたのも理由はよくわからないのだけれど、まあ単に世の中バブリーで、だれもかれもが毎週スキーで、それに乗っかっただけだろうが、別に原田知世の映画は見なかったのだが、26歳の冬に、いきなりスキーを始めようと決心して、お茶の水に出かけて10万円くらいかけて道具を揃えた。
初心者が結構いい靴(サロモン)を買ったのだが、それ以後の流行りすたりは堪え忍んで、10年後の今日までその道具を使ってきたから、まああんまり無駄な投資にはならなかったようだ。
それに都合のよいことに、兄が結婚することになって兄嫁になるひとが車を手放したいということで、小さな車を安く売ってもらって、それにキャリアを付けたり、チェーンを買ったりして支度をしたのだが、実は全然雪道なんて走った事がないのでものすごく不安であった。
はじめに行ったのは1月の半ばの車山だと思う。これは今思うとなかなかハードはスキー場で、リフト1本分滑ってくるのに1時間くらいかかっていたのではないだろうか。
スキーは最初は大抵ひどい目に会うもので、寒いし転ぶし1m移動するのにも自由が効かなくて、いったい何が楽しくてこんなことやってんだとう心持ちになるのだが、やっぱり私もそうで、もともと運動神経悪いし、天気は良かったのだがあんまり楽しくはなかったですね。

しかし、道具と車と揃えたのでやめる訳にはいかなくて、加えてちょっと滑れる友達が行こういこうとせかすので、次の週にはやはり中央高速を走って白樺2in1というところへ行って、ここは紀子さんのお気に入りらしいが、私はやっぱりころころ転がって、足をひどく捻挫してしまい、次の週会社の行き帰りがひどく大変だったが、気力だけは妙にあったようで、仕事は忙しいのに週末はやっぱり出かけて今度は東北自動車道を北上して、那須塩原のスキー場へ行った。
それから磐梯山の近く羽鳥湖のスキー場、富士山麓の天神山スキー場、それから初めて新潟県に足を踏み入れて石打丸山、3月になって、再び塩原、年度末の連休に志賀高原
これだけ毎週スキーをしていると、さすがに感触がつかめてきて、大抵の斜面は転ばずに滑られるようになったのだが、そういえばバランスものはある程度まで経験でカバーできるそうで、運動神経のない人間が100日テニスをやってもものにならないが、100日スキーをすればかなりのものになるという村上龍の言葉は言い得ていると思う。
こうしてだんだん曲がったり止まったりが好きにできるようになると、どんどん楽しくなるので、いつまでも冬だといいのだが、暖冬だったその冬に、しぶとく4月になっても三国や苗場といった上越地方へ滑りにいっていた。

こうなるとシーズンが終わって、やがて夏になってもスキーの夢を見る始末で、その次のシーズン前にはバンバン予定を入れて、11月には3月までのスキー予定が全部詰まってしまい、たしかその冬は全部合わせると20日くらいスキー場にいて、お金をずいぶん使ってしまったが、まあ独り者だし気楽なものだった。
時代もバブルで、シーズン初めから、上越道の入り口(練馬インター)は高速に乗るだけで数時間待ちいの、乗った高速は車でいっぱい、サービスエリアに止めることもできず、霧が出て通行規制とかあると高速道路が駐車場になる始末で、寝るにねられず我慢してそれでもスキー場へ着いたらうれしくて、うれしいのだがゲレンデも人がいっぱいのリフト待ち行列とひどい目にあうのだが、やっぱり次の週末には出かけてしまうあの気力はいったいどこから出ていたのでしょう?

11/23
最近のわし
自家用車のゴルフCLIは最初の車検までは故障知らずだったのだが、昨年車検を通してからはあちこち壊れる。
オイルセンサーが鳴りっぱなしになったり、電気系統がショートしてATが動かなくなったり。
後席の左スピーカーはずいぶん前から鳴っていない。
今回はいきなり左後ドアのガラスが閉まらなくなった。
パワーウインドウのリフタの故障で、修理に1時間と1万数千円かかった。

娘がおたふく風邪になった様なのだが、もともと下ぶくれの顔なので、本当に病気なのか、元からそういう顔なのかいまひとつ判然としない。
よく見ると耳の下あたりが膨れているようにも見えるが、あまり自信がない。
明日病院に連れて行くので、はっきりするだろう。
急に寒くなったためか子供が連続して風邪をひく。
娘は熱が下がったが、息子がひどい高熱でひーひーいっている。

11/22
ケーブルテレビにスーパーチャンネルというチャンネルがある。
海外のテレビドラマや映画を流している。
ここではスタートレックがチャンネルの目玉で、私はこれを見るためにケーブルテレビに加入したようなものだ。
昨日今日と、このチャンネルで特別企画があって、スタートレックを21日の13時から22日の15時までぶっ通しでやった。
これは全部見るのもしんどいので、時々テープを換えながら、部分的には見ながらとりあえず全部録画した。

この企画はスタートレックボイジャーの21話一挙放送であった。
スタートレックにはいくつかのシリーズがある。
邦題が「宇宙大作戦」のシリーズ、カーク船長やスポックが出てくるのは「オリジナルシリーズ」と呼ばれるもので、通常TOS(TrecOrignalSeries)と表記される。
ピカード艦長のエンタープライズが二作目で、スタートレック ネクストジェネレーションといって、TNGであらわす。
現在アメリカで放送中なのが、「ディープスペースナイン」(DS9、人工衛星での話)と「ボイジャー」(VGR)で、日本でもDS9はローカル番組として各地で放送されている。
関西放送は他の地方よりもかなり先行していて、うれしいのだが、平日の深夜で放送時間がまちまちなので、よく録画に失敗する。
ボイジャーは地上波(ケーブルや衛星放送でない通常の放送)ではまだ流されていないはずで、今回の21話放送は恐らく初放送だと思われる。

スーパーチャンネルがいいのはドラマの途中にCMが全く入らない。
普通の1時間番組でも、45分に収まるのは助かる。ボイジャーはVHS6時間に7話づつ、計3本に録画した。
TNGは半年くらい前から、週5本づつ放送していて、これも保存版として録画しているので、テープがものすごい量になってきた。
このシリーズは全部で170話くらいある。なかなかすごい。
録画したテープの半分も見てないが、なかなか見る暇もない。

11/20
夕飯を食って、家族が寝てしまったあと一人でテレビを見ていた。
NHKが山一證券の廃業発表までの2ヶ月程のドキュメンタリーを放送していた。
ああ、あれからちょうど1年になるんだな。
崩壊寸前の山一は富士銀行やらスイスの銀行やらに提携を持ち掛けてもだめで、頼りにしていた大蔵省(証券局長は「接待王」長野だ)にも見捨てられ、という話であった。
さていよいよ最後に廃業発表になるのだが、その直前で、玄関のチャイムが鳴った。

もう10時30分近い。
だれだろう?
恐いのでドアを閉めたままで「どちらさんで」と尋ねると「大阪から来た学生で、路が分からない。お話したい」という。
かなり力尽きた様子であったが、私は「お話したい」といわれると思いっきり警戒する。宗教と新聞勧誘は大嫌いだ。
「え?宗教ならだめだよ」「ちがいます、路がわからないんです。泊まるところを探しています」
しかし、何事も物騒な昨今なので、全然信用はしない。
「ホテルなら徳島駅あたりに行けばあるよ。」「徳島駅がどっちにあるのかわかりません」
「北に向かえばすぐだ」「北がわかりません」

多分、地図も持たずに、ふらふらこんな国道から離れた住宅地に迷い込んで困っているのだろう。
しかし、ドアをあけたとたん包丁が突き出されても恐いので、玄関が見える部屋にまわって、覗くとたしかに気の弱そうな若者が泣きそうな顔をしていた。
ちょっと気の毒になって、窓を開けて徳島駅の方向を指し示した。
「そこの信号を右に曲がって、ひたすらまっすぐに行けば市内の中心部にいけるから。」
「10分も走れば、ホテルとか見えてくるよ」
若者は丁寧にお礼を述べて去っていった。夜中で寒くて右も左もわからなくて途方にくれている様子だった。
しかし私の自宅は徳島駅からバスででも15分ほどで、市街地は比較的近い。
このへんなら迷いようもないような気がするのだが、知らない土地だとそういう「感」がないからね。
もう少し親切にしたげればよかったと思った。

11/19
征服者(正確には中国地方征服予定者)によると、「昔取った貝塚」の貝塚は東京の大森にあって、エドワード・モースが発見したらしいが、当たり前のことながら貝塚は縄文時代の遺跡で、モースが発見したのは明治初期だから、2000年以上(もっと?)そのままだった縄文人の遺跡をヨーロッパから来ていた生物学者(だったと思う)が、文明開化期に西洋の学問を教えに来日していて、開通したばかりの鉄道に乗っていて車窓から遺跡を発見したわけだ。
そういえば、初めて鉄道が開通した新橋〜横浜の「新橋駅」は現在の新橋ではない。いわゆる汐留がそうだったかな(不確か)。
今の新橋駅は以前は「烏森」だったような記憶もある。

10数年前に、どういう用事があったのか早朝(5時くらい)に新橋から東海道線の下り普通電車に乗ろうとして、改札を通ろうとしたら、駅員に「ちょっと下がって」といわれて改札から離れた。
すると駅のホームから次の瞬間大勢の男がものすごいスピードでこっちに走ってくる。
男たちはほとんど立ち止まらずに改札を通過(当時はまだ都内では自動改札が珍しかった)して駅を出ていった。
あれはいったいなんであったのだろう?
日雇いの仕事をゲットするための競争だったのだろうか。

11/18
そういうわけだかどいうわけだか、最近ちっとも仕事をしていないので、忙しい諸兄にはまことに申し訳ないのだが、少しは仕事をしている風を装わなくては、若干株価が持ち直したといっても、依然として業績の回復が見込めない昨今、リストラで失職するのもこまるので、昔取った貝塚×篠塚×(←古典的ギャグ)で、オフコンのプログラムを見てみるも、さすがに5年以上も離れているとコマンドの調べかたも忘れる始末で、また苦労して思い出してもそれがどのマシンのものだったかIBMだか富士通だか曖昧で、まあしかたないからあれこれ試しながら、しかし少し慣れてくるとやっぱりメインフレームの世界はしっかりできてるなあと、感心してばかりでは仕事にならない。
しかし時代はシンクライアントらしくて、いつまでもWindowsのような重いOSに頼っていてはいけないようで、でも結局は昔のダム端末に戻るような気がするのは往年のシステム屋なのだが、それは(シンクライアントとダム端末が)根本的に概念が異なる、といわれてもはいそうですかとわかったような顔をしているしかなくて、まあクライアントがシン(thin)ならまたメインフレームの時代がくるのかしらんと、勘違いして喜んでいる旧世代のシステム屋は世の中にたくさんいるにちがいない。
#####
若者にまじってネットワークの講習会を受講。
うーん、やっぱり全然わからんぞIPアドレス。
質問「はい、TCP/IPでは全銀手順は実現できるのでしょうか?」とかいう訳の分からないギャグを飛ばす勇気はなかったぞ。

11/17
小立腹帖
店をでると、酔った体にも北風が冷たかった。
割り勘を清算すると、少しだけお金が残った。でも給料日まではまだしばらくある。
二軒目をどうしようか一瞬考えたけれども、勢いではしごをするまでには酔っていなかった様子で、最終バスの時間が頭をよぎって、そこで失礼することにした。
盛り場のはずれをバス停までふらふら歩く。
バスの時間まではまだ10分ほどある。ラジオを取り出してFMに合わせた。
バス停に男が一人待っている。
妙な男で、傘を振り回している。
よく見るゴルフの練習をする風ではなく、無意味にやたらとぐるぐる振り回している。
近寄ると危なそうだ。ちょっと離れてラジオを聴きながらバスを待つ。
そのうちバスがやってきた。
私は当然傘男もそのバスに乗るのかと思っていたのだが、男は乗らないらしく、その意思表示でバス停から身をひいた。
バスはスピードを落とすことなく目の前を通過してしまった。
これは予想外の事態だ。
このバスを逃すと後がない。
あわてた私は次のバス停でつかまえようと、走った。
走ったが、不幸なことに次の信号が青で、バスはそのまま角を曲がって見えなくなった。

ちゃんとバス停で待っていれば乗れたはずだ。乗るために10分待っていたのだ。
傘男が傘をぶんぶん振り回していなければ、私がバス停から離れることもなかったのだ。
ひどく腹がっ立った。
その男になにか言いたかったが、なんとも言いようがない。
何か言って傘で殴られても恐い。
しょうがないので、JRの駅まで歩くことにした。

釈然としない気分で寒風のなか徳島駅まで歩いたが、次の電車まで20分以上あった。
前の電車が出たばかりであった。
更に釈然としない気分で、発車待ちの電車に乗ると、10時過ぎであるにもかかわらず結構車内は混んでいた。
電車と書いたけれども、実際には電化されていないローカル線なので、ジーゼルカーだ。
列車と書きたいけれども、1両編成のワンマンカーなので、列車とも書きづらい。
ともかくその車両に乗って、薄暗い町の光を見ながら漸く帰途に着いた。
####
リンゴ
結婚前は、二人で食事をする時は、僕が支払いをしていたけれども、夫婦になってからは妻が払うようになった。
家の財布を完全に妻が握っているから、それが当然になった。
なるほど、これが結婚することなんだなと思った。
それで思い出したのは、吉田たくろうの初期の曲で「リンゴ」という作品だ。
作詞はもちろん岡本おさみ。
〜このリンゴは昨日二人で買ったもの
〜僕のほうがお金を出しておつりは君がもらって
〜こんなことはなかった少し前までは
この曲と「高円寺」は初めて聴いた中学生の頃からずっと好きな曲です。

11/23
最近のわし
自家用車のゴルフCLIは最初の車検までは故障知らずだったのだが、昨年車検を通してからはあちこち壊れる。
オイルセンサーが鳴りっぱなしになったり、電気系統がショートしてATが動かなくなったり。
後席の左スピーカーはずいぶん前から鳴っていない。
今回はいきなり左後ドアのガラスが閉まらなくなった。
パワーウインドウのリフタの故障で、修理に1時間と1万数千円かかった。

娘がおたふく風邪になった様なのだが、もともと下ぶくれの顔なので、本当に病気なのか、元からそういう顔なのかいまひとつ判然としない。
よく見ると耳の下あたりが膨れているようにも見えるが、あまり自信がない。
明日病院に連れて行くので、はっきりするだろう。
急に寒くなったためか子供が連続して風邪をひく。
娘は熱が下がったが、息子がひどい高熱でひーひーいっている。

11/22
ケーブルテレビにスーパーチャンネルというチャンネルがある。
海外のテレビドラマや映画を流している。
ここではスタートレックがチャンネルの目玉で、私はこれを見るためにケーブルテレビに加入したようなものだ。
昨日今日と、このチャンネルで特別企画があって、スタートレックを21日の13時から22日の15時までぶっ通しでやった。
これは全部見るのもしんどいので、時々テープを換えながら、部分的には見ながらとりあえず全部録画した。

この企画はスタートレックボイジャーの21話一挙放送であった。
スタートレックにはいくつかのシリーズがある。
邦題が「宇宙大作戦」のシリーズ、カーク船長やスポックが出てくるのは「オリジナルシリーズ」と呼ばれるもので、通常TOS(TrecOrignalSeries)と表記される。
ピカード艦長のエンタープライズが二作目で、スタートレック ネクストジェネレーションといって、TNGであらわす。
現在アメリカで放送中なのが、「ディープスペースナイン」(DS9、人工衛星での話)と「ボイジャー」(VGR)で、日本でもDS9はローカル番組として各地で放送されている。
関西放送は他の地方よりもかなり先行していて、うれしいのだが、平日の深夜で放送時間がまちまちなので、よく録画に失敗する。
ボイジャーは地上波(ケーブルや衛星放送でない通常の放送)ではまだ流されていないはずで、今回の21話放送は恐らく初放送だと思われる。

スーパーチャンネルがいいのはドラマの途中にCMが全く入らない。
普通の1時間番組でも、45分に収まるのは助かる。ボイジャーはVHS6時間に7話づつ、計3本に録画した。
TNGは半年くらい前から、週5本づつ放送していて、これも保存版として録画しているので、テープがものすごい量になってきた。
このシリーズは全部で170話くらいある。なかなかすごい。
録画したテープの半分も見てないが、なかなか見る暇もない。

11/20
夕飯を食って、家族が寝てしまったあと一人でテレビを見ていた。
NHKが山一證券の廃業発表までの2ヶ月程のドキュメンタリーを放送していた。
ああ、あれからちょうど1年になるんだな。
崩壊寸前の山一は富士銀行やらスイスの銀行やらに提携を持ち掛けてもだめで、頼りにしていた大蔵省(証券局長は「接待王」長野だ)にも見捨てられ、という話であった。
さていよいよ最後に廃業発表になるのだが、その直前で、玄関のチャイムが鳴った。

もう10時30分近い。
だれだろう?
恐いのでドアを閉めたままで「どちらさんで」と尋ねると「大阪から来た学生で、路が分からない。お話したい」という。
かなり力尽きた様子であったが、私は「お話したい」といわれると思いっきり警戒する。宗教と新聞勧誘は大嫌いだ。
「え?宗教ならだめだよ」「ちがいます、路がわからないんです。泊まるところを探しています」
しかし、何事も物騒な昨今なので、全然信用はしない。
「ホテルなら徳島駅あたりに行けばあるよ。」「徳島駅がどっちにあるのかわかりません」
「北に向かえばすぐだ」「北がわかりません」

多分、地図も持たずに、ふらふらこんな国道から離れた住宅地に迷い込んで困っているのだろう。
しかし、ドアをあけたとたん包丁が突き出されても恐いので、玄関が見える部屋にまわって、覗くとたしかに気の弱そうな若者が泣きそうな顔をしていた。
ちょっと気の毒になって、窓を開けて徳島駅の方向を指し示した。
「そこの信号を右に曲がって、ひたすらまっすぐに行けば市内の中心部にいけるから。」
「10分も走れば、ホテルとか見えてくるよ」
若者は丁寧にお礼を述べて去っていった。夜中で寒くて右も左もわからなくて途方にくれている様子だった。
しかし私の自宅は徳島駅からバスででも15分ほどで、市街地は比較的近い。
このへんなら迷いようもないような気がするのだが、知らない土地だとそういう「感」がないからね。
もう少し親切にしたげればよかったと思った。

11/19
征服者(正確には中国地方征服予定者)によると、「昔取った貝塚」の貝塚は東京の大森にあって、エドワード・モースが発見したらしいが、当たり前のことながら貝塚は縄文時代の遺跡で、モースが発見したのは明治初期だから、2000年以上(もっと?)そのままだった縄文人の遺跡をヨーロッパから来ていた生物学者(だったと思う)が、文明開化期に西洋の学問を教えに来日していて、開通したばかりの鉄道に乗っていて車窓から遺跡を発見したわけだ。
そういえば、初めて鉄道が開通した新橋〜横浜の「新橋駅」は現在の新橋ではない。いわゆる汐留がそうだったかな(不確か)。
今の新橋駅は以前は「烏森」だったような記憶もある。

10数年前に、どういう用事があったのか早朝(5時くらい)に新橋から東海道線の下り普通電車に乗ろうとして、改札を通ろうとしたら、駅員に「ちょっと下がって」といわれて改札から離れた。
すると駅のホームから次の瞬間大勢の男がものすごいスピードでこっちに走ってくる。
男たちはほとんど立ち止まらずに改札を通過(当時はまだ都内では自動改札が珍しかった)して駅を出ていった。
あれはいったいなんであったのだろう?
日雇いの仕事をゲットするための競争だったのだろうか。

11/18
そういうわけだかどいうわけだか、最近ちっとも仕事をしていないので、忙しい諸兄にはまことに申し訳ないのだが、少しは仕事をしている風を装わなくては、若干株価が持ち直したといっても、依然として業績の回復が見込めない昨今、リストラで失職するのもこまるので、昔取った貝塚×篠塚×(←古典的ギャグ)で、オフコンのプログラムを見てみるも、さすがに5年以上も離れているとコマンドの調べかたも忘れる始末で、また苦労して思い出してもそれがどのマシンのものだったかIBMだか富士通だか曖昧で、まあしかたないからあれこれ試しながら、しかし少し慣れてくるとやっぱりメインフレームの世界はしっかりできてるなあと、感心してばかりでは仕事にならない。
しかし時代はシンクライアントらしくて、いつまでもWindowsのような重いOSに頼っていてはいけないようで、でも結局は昔のダム端末に戻るような気がするのは往年のシステム屋なのだが、それは(シンクライアントとダム端末が)根本的に概念が異なる、といわれてもはいそうですかとわかったような顔をしているしかなくて、まあクライアントがシン(thin)ならまたメインフレームの時代がくるのかしらんと、勘違いして喜んでいる旧世代のシステム屋は世の中にたくさんいるにちがいない。
#####
若者にまじってネットワークの講習会を受講。
うーん、やっぱり全然わからんぞIPアドレス。
質問「はい、TCP/IPでは全銀手順は実現できるのでしょうか?」とかいう訳の分からないギャグを飛ばす勇気はなかったぞ。
11/17
小立腹帖
店をでると、酔った体にも北風が冷たかった。
割り勘を清算すると、少しだけお金が残った。でも給料日まではまだしばらくある。
二軒目をどうしようか一瞬考えたけれども、勢いではしごをするまでには酔っていなかった様子で、最終バスの時間が頭をよぎって、そこで失礼することにした。
盛り場のはずれをバス停までふらふら歩く。
バスの時間まではまだ10分ほどある。ラジオを取り出してFMに合わせた。
バス停に男が一人待っている。
妙な男で、傘を振り回している。
よく見るゴルフの練習をする風ではなく、無意味にやたらとぐるぐる振り回している。
近寄ると危なそうだ。ちょっと離れてラジオを聴きながらバスを待つ。
そのうちバスがやってきた。
私は当然傘男もそのバスに乗るのかと思っていたのだが、男は乗らないらしく、その意思表示でバス停から身をひいた。
バスはスピードを落とすことなく目の前を通過してしまった。
これは予想外の事態だ。
このバスを逃すと後がない。
あわてた私は次のバス停でつかまえようと、走った。
走ったが、不幸なことに次の信号が青で、バスはそのまま角を曲がって見えなくなった。

ちゃんとバス停で待っていれば乗れたはずだ。乗るために10分待っていたのだ。
傘男が傘をぶんぶん振り回していなければ、私がバス停から離れることもなかったのだ。
ひどく腹がっ立った。
その男になにか言いたかったが、なんとも言いようがない。
何か言って傘で殴られても恐い。
しょうがないので、JRの駅まで歩くことにした。

釈然としない気分で寒風のなか徳島駅まで歩いたが、次の電車まで20分以上あった。
前の電車が出たばかりであった。
更に釈然としない気分で、発車待ちの電車に乗ると、10時過ぎであるにもかかわらず結構車内は混んでいた。
電車と書いたけれども、実際には電化されていないローカル線なので、ジーゼルカーだ。
列車と書きたいけれども、1両編成のワンマンカーなので、列車とも書きづらい。
ともかくその車両に乗って、薄暗い町の光を見ながら漸く帰途に着いた。
####
リンゴ
結婚前は、二人で食事をする時は、僕が支払いをしていたけれども、夫婦になってからは妻が払うようになった。
家の財布を完全に妻が握っているから、それが当然になった。
なるほど、これが結婚することなんだなと思った。
それで思い出したのは、吉田たくろうの初期の曲で「リンゴ」という作品だ。
作詞はもちろん岡本おさみ。
〜このリンゴは昨日二人で買ったもの
〜僕のほうがお金を出しておつりは君がもらって
〜こんなことはなかった少し前までは
この曲と「高円寺」は初めて聴いた中学生の頃からずっと好きな曲です。

11/16
ソーサは異常におしゃべりであった。
ニュースステーションを見ていて、ドミニカ人でスペイン語をしゃべるソーサがものすごく能弁なのに感心した。
スペイン語圏の人間はみんなあんなにおしゃべりなのだろうか。
####
娘が幼稚園で「鉛筆」を使うらしくて、鉛筆削りを買ってきた。
考えてみれば鉛筆なんて使わなくなってものすごく久しい。
ぼくら子供のころはシャーペンは高くて、お大尽だけが持つものだったけど、今は逆に鉛筆使う方が珍しい。
それであんまり需要がないのか、鉛筆削りも種類が少ない。値段も高い。
自動の削り器が4000円くらい、手動式のが2000円くらいする。
結局手動式を購入した。

私が初めて自動の鉛筆削りを買ってもらったのは10歳くらいだっただろうか。
それまで手でくるくる回してごりごり削っていたのが、鉛筆を突っ込むだけでモーターがぐりぐり回って削ってくれる。
機械には削りこむ程度を調整するレバーがあって、鉛筆の鋭さも思いのままさ、というわけでうれしかった。

そういえば筆箱にもいろいろあって、5年生の時にかってもらったのが、「自動的に開く筆箱」。
説明しづらいのだけれども、鉛筆をセットしたプレートがバネでせりあがってくるという無意味に凝った筆箱だった。
まあ、子供にしてみればミサイルの発射基地みたいな感覚で面白がってたんだろうな。
それから「象が踏んでもこわれない」サンスターの筆箱。
セルロイドっぽい素材のケースとふたで、デザインはいたってシンプルだったが、たしかに丈夫で、ぼくら上に乗っかってみたが壊れなかった。
しかしたかが筆箱に「象が踏んでもこわれない」強度が必要なんかね。

11/15
11月も半ばというのにひどく天気がよくて暖かい。
徳島市に隣接する佐那河内村の大川原高原とうところへ、家族で出かけてきました。
徳島市から1時間ほどのところに、標高1000mを超える高原があって、紅葉が奇麗でした。
徳島県は吉野川沿い以外はたいてい山がちで、徳島市内からどちらにむかってもすぐに山奥です。
高原に資料館のような建物があって、そこの研究職らしいおじさんが親切で、そこで飼っているカエルやヘビ・沢蟹なんかを出して子どもに触らせてくれました。
わざわざ近くでミミズを取ってきて、カエルに食べさせてました。
山奥にいるミミズはものすごく生きがよくてぴょんぴょん飛び跳ねる。
私もカエルがミミズを食べるところを初めて見ました。
####
小学校の学級崩壊の話をきくと、教師も大変ですね。
しかしあらためて考えてみると、ぼくら子供の頃、なんであんなに大人しく授業を受けてたんでしょうかね。
子供が「向学心」とかあるとは思えないし、じっと座って勉強するのは嫌だった。
それを我慢させてたのはいったい何だったんだろう。

11/14
ずいぶん息切れ状態。こういう時は単なる日記になります。
11/13(金)
仕事で久方ぶりにRPGのプログラムを見る。5年ぶりくらいかな。
RPGてのはゲームソフトではなくて、AS-400というIBMのオフコンで動くデーターベース操作の簡易言語です。
最近はTCP/IP接続でWindowsからイミュレーションできるので、それ専用の接続ボード(これを3270PCというのだったかな・・もう忘れた)を差したり、そっから同軸ケーブル(ハンダ付けが必要)をつないだりしなくていいんですね。
しかしエディタの画面がたったの27行。以前はこんなにせまい画面で仕事をしていたのかと感心します。
TCP/IP接続での利用は予想外に快適です。
この日は会社→自宅を自転車で40分。まだなんとか耐えられるが、これ以上寒くなると無理かな。

11/14(土)
土曜日は原則として、娘の幼稚園のお迎え(11:30)に私が出向きます。
これは何度やっても慣れないもんです。幼稚園の玄関前で子どもが出てくるのを待ってる間は、父親はほんとに居場所がなくて落着かない。
カメラ屋に写真の現像を出しにいったついでに、8mmテープを購入する。
最近はHI8もかなり安くなっていて、FUJIフイルムのHI8が10本パックで2,980円。
これだけ安いと保存したい番組の録画は8mmテープにした方が、保管場所を取らないだけ得ですね。
VHSテープはあまりにでかい。

11/12
今日はもう眠いのでエレクトリックギターの年表を掲示します。
11/10に書いたローズの記事の中で、ローズの歴史といっしょにエレキギターとベースのことが載っていたものです。

1931 リッケンバッカーが最初のエレクトリックギターを発表
1935 ギブソンが最初のエレクトリックギターを発表
1950 フェンダーがテレキャスターを発表
1951 フェンダーがプレジションベースを発表
1952 ギブソンがレスポール
1954 フェンダーがストラトキャスター
1960 フェンダーがJAZZベース

リッケンバッカーなんてポールマッカートニーが弾いていたベースしかしりませんでいたが、すごい昔にエレキを出してたんですね。
レスポールもストラトもテレキャスもこんなに昔からあったとは。
私はフェルナンデスのストラト(ジェフベックモデル)とメーカー不明のエクスプローラー、レスポールを所有していたことがあります。
ギターはあんまり弾けないし、アパート暮らしだとじゃまなんで、人にあげたり売ったりして今は持っていません。

11/11
今日は11月11日で1が並んでいますが、そのことで どうでもいい過去を思い出しました。
思い出すのは中学校一年の時の数学の先生です。名前は忘れました。
その先生はなんでも11年間も大学生をしていたらしく、それが単なるうわさだったのか、先生が自分でいっていたのか、もう記憶が定かではありませんが、とにかくその数学教師といえば「11年」でした。
今思うに、いくらなんでも11年も大学生はできないので、大学に入るのに何年も浪人したのか、留年したのか、大学院が長かったのか、大学院に入れずに研究生が長かったのか、あるいはそれら全部なのかだったのでしょう。
私のクラスでその先生のことをいつも「11年」とからかっていたのが、みちやんでした。
みちやんは子どもの頃から(多分今もそうだと思うが)年上とか大人とか先生とか有名俳優(千葉真一)とかいった「権威」にものおじしない性格(多分上司にもそうだと思うが)だったので、その先生に対しても、授業中に「11年」を連呼していました。
その当時、(多分)英語教材か英語学校のCMで「ABCは知ってても〜それだけーじゃ困ります〜」というコマソンがあったのですが、みちやんはそれをもじって、「大学には行ってても、11年じゃあ困ります〜」とか歌っていました。

それで中学校一年生の11月11日の午前中にちょうどその先生の授業があって、授業中11時11分が近づくと、もうクラス全体が妙に盛り上がっているわけですよ。
それでみちやんがあんまりに「11月11日11時11分11秒」と騒ぐので、普段はそんなに怒らない先生だったのだけれども、腹を立てて、「三刀屋、廊下で立っとけ」とのたまい、みちやんは結局その瞬間を廊下で迎えたのでした。
私が通っていた中学校はわりかしおぼっちゃん学校で真面目な生徒が多かったので、厳しい先生もいたけれど授業中にだれか立たされたってのはそれ一回しか記憶にないですね。
三刀屋君は覚えているでしょうか。ぼくら13歳だから23年前の「今日の出来事」でした。
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岡山県の井原鉄道がこの冬1月に開業だそうで、うれしくてたまりません。
別にわざわざ出かけなければ乗ることもないだろうし、井原(いばら)に縁があるわけでもないのですが、鉄道が好きなので国鉄末期から廃線一方の鉄道界で新線が開通するのは、まことに痛快です。
路線図や開通までも経緯(国鉄の計画中止〜第三セクターでの工事の継続)はこちらのNIFTYフォーラムのWEBに詳しく載っています。
もともとは吉備線(岡山〜総社)の延長だそうです。
井原鉄道は伯備線(倉敷〜米子)の清音から西に向かい、井原を経由して広島の神辺(かんなべ・・福山市の北)に達する路線です。
ちなみに清音というと金田一耕助シリーズの舞台で出てくる作品があったと思います(不確か)。

このあたりはその昔「井笠鉄道」という軽便鉄道の路線がありました。
手元の「軽便鉄道」(保育社)を見ると、笠岡〜井原〜神辺をつなぐ鉄道で、1971年に廃止されています。
この井笠鉄道のおもちゃのような蒸気機関車は岡山市の池田動物園に飾ってあって見に行ったことがあります。
岡山県は軽便鉄道の路線が比較的最近まで残っていました。
岡山市と瀬戸内の港町下津井を結ぶ下津井電鉄は、JR瀬戸大橋線が開通した後もしばらくは営業していたような記憶があるし、吉井川に沿ってくねくねと中国山地に入り込む片上鉄道は廃業前(1990年頃)に大阪から乗りに行きました。
古いのでは西大寺と後楽園を結ぶ西大寺鉄道というのもあって1962年に廃止されています。
今でも現役で走っている軽便鉄道は静岡県の大井川鉄道(アプト式の区間がある)くらいしか思い当たらないのですが、まともな道路もないような山中や川岸をことこと走っていたり、のどかの田園風景の中を単線の小さい列車が走っている写真を見るだけで胸踊るものがあります。

ともかく死に体の旧国鉄から計画を引き継いで、智頭急行に続き井原鉄道も開通させてしまうとは「偉いぜ!岡山県」といった所感です。

11/10
Rhodes
今月のキーボードマガジンにエレクトリックピアノ・ローズ(RHODES)のヒストリが特集してあって、往年のキーボーディストはうれしくなった。
この特集ではかなり詳しい流れが解説されているが、「RHODESの歴史」とか一口にいっても正確な資料を集めるだけでも相当大変だと思う。
ハロルド・ローズという人が電気式のピアノを最初に出したのが1940年代、その後フェンダー・CBS・ローランドといったメーカーの傘下を生き延び今日まで存在する楽器としてのローズの歴史はなかなかすごい。
こうやって私のようなシロートが中途半端に引用するのも失礼な気がする。こういった類のライターは実に地味な仕事だけに好きじゃなきゃできないよな。

さて、我々が通常に「ローズの音」と言うときの音はスーツケースモデルやステージモデルといわれるもので、1970〜1980年代のものだ。
現代の「電子ピアノ」ではなく、あくまで物理的に打鍵して発生した音をピックアップでひらう「電気式」の楽器である。
発振するのはトーンバーといわれる金属の棒で、全鍵盤(76鍵や88鍵)に一本ずつある。
当然低い音はバーが長くて、高い音ほど短くなっている。
このトーンバーの先にスプリングがついていてこれを上げ下げして振幅する長さを調整=チューニングができるのである。
つまり、ローズピアノのチューニングは生ピアノと同様に、全鍵盤の発信源を調節しなければならなかった。
これは今時の電子楽器を考えると、想像できない面倒くささであるが、私たちはコンサートがあるたびにピアノの上ブタをあけて一本々々調整したもんだ。
もちろん耳でチューニングしたのではなくて、電子チューナーを使ったけどね。

昔の写真を探したのがこちらで、コンサート前に若者がローズをチューニングしている。
これは私ではない。実はだれだか不明なのだが、もしかしたら中国地方征服者と名乗る高校教師の同僚(生物の先生)かもしれない。こちらも同じ頃撮った写真。コンサートはPAのセッティングが大変だあ。

鍵盤を叩くと、鍵盤に連動したハンマーがトーンバーを叩いて音がでる。それをピックアップマイクが拾ってアンプに出力する。
要するにエレキギターと同じ原理なのだが、この楽器のタッチや音色変化がプロ受けしてアナログ時代のロックやJAZZの世界では必須楽器になっていた。
キーボードマガジンでは代表的な演奏者としてハービーハンコックチックコリアジョーサンプル(クルセイダーズ)、リチャード・ティー(スタッフ)といったフュージョン界の大御所をあげている。
日本でもたくさんのキーボード奏者がローズを弾いてきたと思うが、私がすぐに思い浮かぶのはローズを弾きながら「シャンプー」を歌う山下達郎ですね。

フェンダー・ローズというブランドは1987年にローランドがローズを買収することで消える。
日本のローズになったわけだが、私は今でもそのままだと思い込んでいたら実はRhodesは創業者のハロルド・ローズのもとに帰っているそうだ。
これは知らなかった。
手元にローランドの古いカタログがないので、キーボードマガジンを探ってみると90年・91年あたりはたしかにローランド・ローズとしてModel760やVK(オルガン)などの広告がある。
ところが94年の総合カタログではRD-500はあってもブランドがローズではない。
ローランドとしてのローズブランドは存在しない。
現在でもステージピアノとしてのRDは存在していて、その系譜は確かにRHODESにたどることができるのであろうが、RHODESの商標はついていない。

ハロルド・ローズは1910年生まれだそうで相当な年齢だが、またあらたにエレクトリックピアノを開発するつもりらしい。

11/09
ニュースを見ていて気が付いたのだけれども、NECは「NEC」で「日本電気」とは言わないんですね。
これはいつからか社名をNECに変えたんでしょうか。CIでNECになったんですかね。
防衛庁やその他からみで毎日報道されているので、その度に思い出すんですが、自分の結婚披露宴のときに乾杯の音頭を●山日本電気ソフトウエア(株)のMさんに頼んだんですが〜声が大きいから乾杯をやってもらんてんですが〜、司会をしてくれた(微々たる報酬で)征服者くんがその人を紹介するときに「日本電気●山支社のMさん」といったので、つまり会社名が微妙にちがっていたわけですが、"こりゃ失礼なことしたな"と思ったのを思い出します。
これは、ちゃんと司会者に教えておかなかった私が悪いわけですが、まあM氏は割とおおざっぱな人柄なので多分そんなことはもう忘れているでしょう。
そうするとあのころ(6年前)はまだ「日本電気」で「NEC」ではなかったのだろうか。

関係ないけど、自動車のマツダがほんの数年前まで社名が「東洋工業」だったことや、カープの正式名称の「広島東洋カープ」の東洋がマツダのことをさしているなんて、知らない人が多いんでしょうね。
マツダは松田ではなくて(創業者が松田家だが)マズダというギリシャの神様の名前だったと記憶していますが、本当のところはどうなんでしょう。

しかし今回NECの一連の不祥事で一番ガッツポーズに力が入るのは富士通でしょうか。
ディスクパワーですっかりNECのPCシェアを食い荒らしている富士通ですが、来年くらいには一挙に逆転を狙っているにちがいない。
富士通のパソコンの品質の悪さは前に書いたような気がしますが、私が音楽ソフトの営業をしてるときに富士通の人に聞いたら、プリインストールソフトの経費は半導体の宣伝費にしているとかで、それであれだけ安いパソコンが作れるんでしょうが、それにしても故障が多くて安かろう悪かろうなのに、なんでこんなに売れ続けるのでしょうか。
でもいくらシェアあげてもそんな安いパソコンでは儲かるはずがないので(儲け度外視だからシェアがあがる)すが、業績は悪くはないのか、冬のボーナスを見ていると電気関連が軒並み大幅ダウンなのに富士通はいいですね。

NECも富士通ももともとメインフレーム中心で、独自のOSやプロトコルで商売をしてきたのだけれども、その世界の中だけで仕事をしてきた人てのは今はどうしているんでしょう。
ワープロでいえば、文豪やらオアシスやらLANワードやらEPOワードとかいった独自ソフト一筋にやってきた人は大変でしょうね。
ついこのあいだまで、DOSはゲーム用、UNIXは金にならない研究用という扱いで、ビジネス=メインフレームだったわけですから、オープン環境になかなかなじめないのではないかしらん。
私は別にワープロを作っているわけではないけれども、メインフレームの閉じた世界での仕事が長かったから、このへんの「オープンで自由な環境に対する言い知れぬ不安」がよくわかります。

結局何がいいたいのかわけがわかりませんが、つまりは、最近よくテレビで見るNEC本社(ロケットビル)の社長室だか会長室だかに私は入ったことがあるのが自慢なんです。
もちろん本社が稼動する前の話ですが、部屋の窓からすぐそこに東京タワーが見えるんです。
本社自体がかなりの高さを持っているので、東京タワーを見上げるというよりはタメで向かい合っているという感覚なんです。
こういう部屋で仕事をしていれば、いい気分だろうし、いろんな意味で勘違いしたくもなるような。

11/08
喉がひどく痛くて寒くてどうも風邪をひいた様子でこの土日の2日間ずっと寝ていた。
外は11月とは思えないくらい暖かいのだが、部屋にいても寒くてかなわん。
しかし食欲だけは妙にあるので、調子に乗って食べていたらせっかく減少気味だった体重がいっきに戻ってしまった。

ゲストブックを久しぶりに整理しました。
読み返してみると相変わらずぐちゃぐちゃしてていいですね。

11/07
大学生の就職率が低いそうだけれでも、これだけ不景気だから大変だろうなと思う。
私が就職活動をしていたのは1986年で、時代はバブル前夜の「円高不況」と呼ばれた年だ。
その頃の私は5年目の大学生活ですっかり自堕落が身についてしまい、就職活動であれこれ苦労するのがひどく面倒だった。
就職も頭が痛かったが、それ以上に、残った単位が莫大で、最後の1年間かなりがんばって勉強しないと卒業も危なかった。
しかしそれにしても、とりあえず就職先を見つけなければならない。
地方の学生にとって、説明会に出かけるだけでも大事である。
広島での説明会以外に岡山や大阪・神戸・北九州あたりに出かけていった。
こんなこと今更いうのも恥ずかしいのだけれども、実はマスコミ志望で、新聞社や出版社などを何社か受けたけれど全然話にならなかった。
面接でアピールできるのは、3ヶ月弱のスペイン旅行だけ。英語も学校の成績も全く自信がない。
新聞社なんて一次試験の筆記で落とされた。

どうしてソフトの世界にしたのか今もって判然としないが、滑り止めのつもりで,ある電気メーカーのソフト子会社に内定をもらった。
それ以外では教育産業に一社。そういうとかっこいいが要するに塾の先生である。
結局いい加減な気持ちで求職をしていた私は面倒くさくて(最初から面倒だった)そのソフト会社に入った。
この会社はその後なかなかの人気企業になっていたが、私が受けたときはとても出身大学で胸をはって人に言えるような会社ではなかった。
11月の内定式に出席したときに隣に座った学生が大阪の三流私立で、少しショックだった。
後にいろんな場面で、仕事のできるできないと学校の難易度の相関がいかに当てにならないか実感することになるのだが、この頃の私にとって価値尺度はかなり大学名にディペンドしていた。

就職するまで全然コンピュータは知らなかったのだが、幸か不幸かそのままソフト関連の仕事を今もって続けている。
あの時に会社の知名度にひかれて証券や保険の世界に入らなくてよかったとは思う。
証券の営業マンなんて絶対に勤まらなくて、すぐ辞めていろんな業界を転々として結局何にもものになっていないに違いない。
最初の会社がソフト会社だったおかげでその道の経験が積めて、今は「私はエンジニア」とかいう大きな顔をして生活が成り立っている。

しかしマスコミの世界へのあこがれは今でもありますね。
20代の頃に思い切ってライターの道にチャレンジしたら、もしかしてそれで飯を食える程度にはならなかったかしらんと、思うことがあります。
しかし思うだけで実際には冒険はできなかった。結局人間の器量の問題かなあ。

11/04
思い出せなくて気持ち悪いはなし
日本画家の平山郁夫がなんとかいう勲章をもらったという話を新聞で読んで、確かこの人は広島出身であることを思い出して、妻に「この人、修道出てるはずだぜ」とかいうと、そんなに昔から広島修道高校があったのかというので、この学校は昔もむかし、江戸時代の藩校に由来があるはずだがと思い返すが、その藩校はなんという名称だったかは全く思い出せなくて、その藩校の出身者で有名な学者がいたはずだが誰だったか思い出したいのだが、なかなか出てこなくて酒を飲みながら飯をくっていて、風呂に入っても、テレビを見ててもそのことが気になって落着かないまましばらくたって、いらいらするのでよっぽど修道の卒業生に電話をして聞こうかと本気で考えはじめたところ、ようやく頼山陽が出現したので、やっと安心して、妻に自慢したが、そんな人は聞いたこともないとのたまうので、なんとなくさみしい気分になったが、とりあえず思い出したくても思い出せない人名が出てきて解決したので、こころ穏やかに過ごせることは幸せだと思うが、ちなみに平山郁夫は安芸津町の出身で相撲の安芸の島といっしょだが、私の姻戚関係もそのあたりで、ずいぶん長 いことあのあたりに行っていないので、冬休みに帰郷できたら、ちょっと寄って先祖の墓参りでもしようと思う次第であった。

11/03
文化の日だからとうわけではないのだけれども、朝から「文化の森公園」に行って数時間をすごした。
これは正確には「徳島県文化の森総合公園」というらしくて、こちらを見ると詳しいことがわかります。
つまりは県の文化施設&公園で、図書館や博物館・美術館・コンサートホールなんかがいっしょにある多目的施設だ。
徳島市の南部にあるのだけれども、私の自宅から近い(車で5分、歩いてでも行ける)ので、最近は休みになると子どもを二人つれて出かけている。
面白いのは、コロシアム風の野外劇場があって、時々無料のコンサートをやっている。
夏にはジョージ川口や今田勝のJAZZフェスや、ゴンチチコンサートを見に行った。
最近ではワーグナーの合唱団(ドイツからか?)、フランス宮廷音楽合奏団、エジプトの民族芸能団なんかが公演をしている。
なかなか文化の香りが高いのである。
いつからある施設なのか知らないが、多分みかん畑しかなかった小さな山を切り崩してつくったものと思われる。
複数の施設と広い公園があって、博物館裏の山側には人工の滝がある。これがかなり大掛かりなもので、維持するだけの費用を心配してしまう。
かなりバブリーな施設だ。景気のいい頃に作ったのだろう。


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