日々雑談:2002年05月
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5月2日
えらい久しぶりの日記ですが。
とりあえず、5/3から広島に一人で帰省します。
都合の合う人は飲みに出ましょう。

プロギタリスト
5/1に高校の同級生が「ゴスペラーズ」のサポートで高松に来てました。
ありがたいことに、チケットを2枚抑えてくれていたのですが、会社も休めないし、精神的にも出ていく元気がなくて、コンサートは行けなかった。
わりーことしたなあ。
このギタリスト、すっごくいいやつで、5/1の夜は久しぶりに電話で話しこみました。
フリーの音楽家として生活するのは大変らしいけど、さすがに20年以上の経験で、音楽的には余裕があるようでした。
「自分のできることはわかっているから、それをどうやってフロント(ゴスとか)に合わせるかがわかる」らしい。
つまり、まあ自分の個性を出しつつも、メインのミュージシャンをサポートできる、かなり「潰し」が効くみたいね。
大橋純子のCDに参加したり、柳ジョージのコンサートに参加したり、自分のバンドもあって、マイペースで「プロ」をしているのがすごく羨ましかった。

そいういえばオレは、5/4に突如ライブが入ったのだけど、帰省の予定があるから参加は見送り。
急な話だったので、マスター(ギタリスト)も、しょうがないと思った様子。
その変わり、5月末あたりの平日に阿南のイベントに出演依頼があったらしい。
これはフレックス退社で参加できるように今から調整が必要だな。

仕事あれこれ
今更ながら、今持ってるプロジェクトの影響範囲の広さに頭が痛い。
まさに百家総論状態で、こりゃスケジュールは守れません。
あんまりこちらからキメうちは作らずに、それとなくまとめていかなければ・・・。
とてもしんどいよ。

連休前半
連休前半は妻が子供を連れて岡山の実家に3日間帰省。
オレは気力レスで、ついていけず、一人で徳島に。
そのかわり、酒びたりのまったりした連休を過ごせました。

3日目に帰ってきた妻が嘆くに、「高松自動車道の引田あたりで警察に捕まった」
極端に交通量の少ない自動車道(まさに税金のムダ使い)で、30キロオーバー。
罰金2万5000円に、マイナス4点だと。
免許取って10数年、初めて警察にお世話になったのが、この違反になりました。
なんとなく笑えてしまった。
しかし、いくら制限時速70KMでも、あのガラガラの路では100キロは出るよなあ。


5月6日
といういわけで連休最終日ですが、ここ数日は一人で実家でヒッキーしてました。
5月3日
朝8時過ぎに自宅を出て、広島まで本四架橋以外は下道を使う。
こうするとだいたい8時間かかります。
ただし、2号線の福山〜三原あたりが空いていての時間。
三原から2号線を離れて海沿いを走る。
安浦での墓参りと、呉あたりの変化が知りたかった。

驚いたのが、呉市安賀〜中心分に至る山越え部分にトンネルが出来ていました。
以前なら東から来ると、そろそろ山越えだという坂道に入ることなく、トンネルに。
向こう側(西側)に出ると、いきなり呉本通6丁目あたりで、まったく山越えなしでこりゃおどろき。
その後の広島呉道路は早いが高かった。軽自動車でも天応で550円・坂で150円取られる。
仁保あたりでは東西南からの3つの道路が入り組んでいて、あたかも大阪の湾岸道路か東京首都高の隅田川あたりを思わす。
とても広島とは思えない風景。

その日は、征服者が家で一人ということで、おじゃまして飲んで泊まってきました。
広島の安古市あたりがここ数年急激に発展しているという話しはしっていましたが、驚き。
広島はまだまだ人や大型店やマンションが入りこむ「余地」があったのね。

5月4日
午前中に征服者の家を出て、アストラムで都心。
それから街中をかなりふらふらする。
そのうちすげー土砂降りになるも、割と平気。
日頃四国の片隅でじっとしていると、やはり百万都市の刺激はすごい。
人の多さに圧倒される部分もあるけど、孤独な人間には人ごみに安らぐ感じもあり。
・・・これって、昔の谷山浩子の歌みたいだ。
午後、ようこさんに迎えに来てもらって食事をしながら話しこむ。

5月5日
4日・5日は実家に泊まる。
酒を飲みに出ることもなく、一人で4畳半にてごろごろする。
40歳の男がこんなことしてると、まるで離婚して失業して実家に泣きつくダメ人間になった気がしてくる。
それはそれでお気楽な気もして、もし万が一そうなれば、なにかしらそれなりに悟ることもあるだろう。
5日は福岡に行っていた弟のお土産の、明太子とラーメンをありがたくいただく。
みやげ物でこれだけ旨かったら、本場で食いたくなるね。
長浜ラーメンを大学時代の友人と食べに行ったのは10年以上前かなあ。

5月6日
9時過ぎに家を出て、2号線を登り西条から高速に乗る。
予想外に高速道路は空いていて、高速3時間弱で坂出に。
ちなみに 広島県の東広島インター〜坂出北まで軽自動車で6000円。
うち本四架橋が3600円になる。
一応坂出なので彦江でうどんを一杯食ってから、琴南・美馬経由で徳島に帰りました。


5月8日
毎朝起きあがるのがひどくつらいのですが、なんとか会社に行っています。
仕事のモチベーションは30%くらいかな。
チャーチルだったかルーズベルトもよくこういう状態になったらしい。
「黒い犬がやってくる」「血が凍る」ベルリオーズもシューマンも。
いつになったら解放されるだろう。

夜バンドの練習で鳴門へ。
9時過ぎに会社を出て車に乗ろうとして、鍵があかない。
あれ?全然他人に車に乗ろうとしていたのに気がつくのにしばらくかかった。
暗闇とはいえ、自分の軽自動車とマーチを間違えるか?1ブロック離れた場所で。

最近家でピアノを弾かないのでどんどん下手になっているのがよくわかる。
来月頭にライブがあるし、その後阿南で営業が入っているので、少しは「感」を戻しておかないと。

与太話をしていて、バンドの女性たちが、「どう見ても40歳に見えない」という。
30前半くらいの雰囲気らしい。
これは最近よく言われる。
大学時代の友人が「変わってない」と驚く。
あまりに皆に同様に言われるとバカに見えるような気がしてあまり面白くない。
マスター(ギタリスト)にこぼすと、どうも私は「少年ぽさ」が残っているらしい。
40歳のサラリーマンが少年ぽいのは、なんか問題ないかな。未熟ということで。


5月9日
感情的な物言いはやめましょう
どうも最近完全に鬱日記になっていますが。
最近の私は、
1.起床してから午前中は完全に調子が悪い。全く脳のCPUが動作しない。
2.昼休みの昼寝を経て、午後から徐々にCPUが動きだす。
3.だいたい20〜21時前後に正常な感覚になる。
という具合です。
起床から午前中のつらさはかなりのもんで、すぐにでも辞表を書きたくなります。
結局午後以降しか仕事にならないので、実作業時間が短いのが困りもんだ。
####
来月初旬の営業は4月初頭に自社のイベントに、格安&フル器材でPAをしてくれた方の関係なので、サボルわけにいかない。
それも「D-BOX指定のイベント」という形式らしい。
阿南のなんとかいうホテルで、保険会社関係の催しらしい。
18時入りということは、16:30くらいには会社を出る必要があり。
それまでにはなんとかプロジェクトを起動に乗せておかないと。


5月12日
というわけで5月12日日曜日の夜です。
この週末はわりかし心おだやかに過ごす。
金曜の夜に、広島の征服者に電話をかけて、長電話していた。
どうも話しながら恐ろしい量のウイスキーを飲んだようで、寝ようと思っていったん2階に上がると、降りられなくなった。
どう考えても二日酔いしそうなので、胃薬を台所取ってきたかったのだが、足元がまったく覚束なくて、階段が怖い。
しかたないので、寝ていた妻を起こして薬を取ってきてもらった。

####
次の日は二日酔い状態ではなかったが、前夜の酩酊状態がそのまま続いている様子で、とても車で外にでる気にならない。
ちょっと自分としても珍しい状況です。

用があったのでしかたなく、市バスで駅まで出る。
帰りに本屋に寄ろうと思って、バス停から近い「アダムと島書房」に行ったら、あれだけ規模の大きかった本屋が、場所を変えて、駅のコンビニ程度の雑誌店になっていた。
「アダムと島書房」の品揃えは一種独特の指向性があって(特に鉄道好きには)好きだったのだが、残念。
さすがに目の前のそごうに紀伊国屋が来たら、近辺の本屋は仕事にならんわな。
小山助学館で、鬼平モノを一冊買う。
多分シリーズの9割は持っているので、うっかり重複して購入すると非常に後悔するのだが、手にした一冊は最初の1話を1ページ読んだだけで、「持っていない」確信が持てた。

ちょっと体調が戻っていて、食事がほぼ普通に取れるようになった。
なんといっても食欲不振で4月の1ヶ月で5キロ以上減ったので、このまま一生まともに飯が食えないのではないかと心配していた。
もうすぐ体重が50を切りそうだ。

で、17時頃には空腹で、食事にしたかったのだが、子供がどこにいったのか帰ってこない。
妻が随分心配して探し回って、少しはなれた公民館の公園から、ぷんぷん怒りながら連れ帰ってきた。
そのとき実は私はあまり心配する感情が出なくて、平然と夕食のうどんをすすっていた。
ちょっと変。このへんの感覚がマヒしているのかな。
別に 空腹>子供がいない というわけではなくて、まあそのうち帰ってくるだろうくらいにぼんやり考えていた。
帰宅したのが18時過ぎだから、妻が激怒していたが、私は何も言えなかった。
####
翌日の日曜日、子供と約束していたので、午前中に文化の森にでかける。
最近は自転車だ。
特に5歳の息子は補助輪も取れて、いすを高くして上手に乗っている。
オレが補助輪(広島ではコロという)が取れたのは、小学校2年生で、それもかなり転んでケガをしながらだったと思う。
この点は娘も息子も手間がかからなくて助かった。

暑すぎず寒すぎず、一番言い時期かな。文化の森の山の上にある遊具で一時間ほど遊ぶ。
午前中だと人も少ない。
それから3人で自転車連ねて、55号線まで出て、文具店のチャーリーと、ビデオレンタルのチャップリンに。
よくわからないが、たまに子供サービスで、文具店では遊戯王とポケモンのカード・ビデオレンタルではアニメを借りる。
帰宅して昼飯くってから、ビデオを見ている横で、バンドの新曲の採譜をする。
テープレコーダーの出力をピアノの外部端子に入れて、ピアノの音はヘッドフォン。
今回ソウルもの1つと、ジョーコッカーのピアノバラード一曲なのだが、後者がえらい大変。
イントロと1コーラス目までは音を取ったが、すごく時間がかかった。
この曲を「オレアレンジ」でどこまで認めてもらえるかなあ。

というわけで割とまったりとした週末に思えるのだが、結局ずっと仕事のことが頭にあって、全然休まらないのよね。
やだね。


5月13日
というわけで、5月13日月曜日の23時前です。
昨日採譜(コピー)に着手したジョー・コッカーの曲が気になっていたので、今日は早めに退社して、20:30には自宅に。
普通に考えれば、決して早い帰宅ではないのだが、幸い子供たちもまだ起きていて、相手ができた。
飯食って、昨晩録画した「X-FILE」を見て、それから1時間ほどピアノの練習。
ジョー・コッカーの曲は全体像はなんとなくつかめてきたが、途中の展開部分が訳わからん。
しかしアコースティックのピアノ弾きとしては、楽しい曲です。

でその後こうして日記を書いているがまだ23時前だ。

なんと時間とは貴重なものだろう(実感)。
会社でだらだら残業していたら、まだこの時間にPCに向かっているであろう。
子供が親を相手にしてくれるなんて、そう長い期間ではない。
中学生にでもなれば、おやじなんて相手にされない。
今のうちだ。今のうちになるべく時間を作ろう。
平日に子供と話すことも、ピアノを弾くことも、ビデオを見ることもままならないとしたら、それはそういう生活が間違っている。
そういう仕事の仕方が間違っている。
12時間かけてできない仕事が、16時間かければできるか?
人間の集中力には限界がある。
あるいは、人生なんのためにあるのか考えてみれば、個人によって生活パターンは変わってくるはずだ。

プログラマーのあなた。家庭があるのなら自分の生活を省みてみよう。


5月15日
左肩が痛い。
ほとんどいつもそうなのだけれども、いっしょに口内の左上歯茎が腫れている。
これも痛い。
歯茎が痛いので、肩が凝るのか、肩がこるから腫れるのか、いまだかつてよくわからない。
大抵体調が悪くて、ストレスが溜まるとこういう状態が続く。

寒い。ひたすら寒い。
外は日によっては初夏の天気らしいが、昼間1歩も外にでないのでわからない。
自席の場所の問題か、毎日めまいがするくらい空調が肩と膝を冷やしてくれる。
まだ冬モノのシャツ・セーターが手放せない。
多分、1年中こういった感じなんでしょう。

週に一度のバンドの練習で、21時過ぎに会社を出る。
外はかなり雨がきつい。やっぱり寒い。
気温差でフロントガラスが曇る。
前がちゃんと見えない。
いくらワイパーを動かしても、エアコンを利かせても視界がはっきりしない。

十分ほど走って、メガネをしていないに気がついた。
多分メガネなしで運転するのは、2回目だと思う。
1度目は浜松で一人暮らしをしていたころで、出勤時にアパートから50m走って気がついた。
あわてて戻って出なおした。
しかし今日は夜だし雨だし、会社に戻っても自席まで遠いしで、面倒なのでそのままということに。
ややこしいことに、帰りはバンドのベーシストを送っていく必要があったのでえらい緊張した。
晴れた昼間なら、多分普通通りに運転できる程度の近視なのだが、雨の夜は矢印信号がどっちを指しているのかわからない。
鳴門から自宅まで制限時速以上出すのが怖くて、えらい時間がかかった。


5月17日
あまりに肩やら背中やらが痛いので、17時前に早退して整体に行く。
平日で暇らしく、いつも40分〜1時間のところ、後になって時計を見たら2時間近く治療していた。
そこで教えてもらったことで、私はかなり足が変形していて、いわゆる「槌足」なるものらしい。
だいたいにして、片足で立っていることが殆ど不可能で、玄関で立ったまま靴をはくことが難しい。
どういう足かというと、足全体で体を支えていなくて、足先(指あたり)が妙にそりかえっている。
指で大地を踏みしめることができていない。
そのあたりの力が極端に弱いので、立った状態のバランスがかなり悪い。

足指の訓練で、タオルを床において、くるぶしを固定して指先でタオルを手繰りよせる。
これをオレがやってみると、先生の10分の1くらいしか力が出ていない。
なんでも指の関節が変形、固定化する病気(?)らしくて、ほっておくと足指の骨が妙な形(槌型)に固まってしまうらしい。
まあ歩けなくなるわけではないけれど、
(1)バランスが悪いので長時間歩くと下肢がつかれる。

(2)そのために下肢の血行が悪くなる。

(3)そのために下肢の病気になりやすい。

(3)が怖くて、これは「痛風になりやすい足」ということらしくて、更には糖尿を患ったときに、足先が壊死して切断という事態になりかねないらしい。
これは怖い。
一族で痛風の人間は知らないが、癌と糖尿には事欠かない。
60・70歳になって、足を切断したら当然、全然座ったきり動かなくなって、老いるのが早いに違いない。
(40にもなると老後のことはあれこれ考える)

というわけで日頃の運動不足はなんともしようがないにしても、足先に力をつける訓練は少しづつやろう。
それとやっぱり糖尿は気をつけないとね。


5月21日
朝から頭右側を中心に偏頭痛がするので、仕事にならず。
午後休みにして帰ってしまう。
最近よく、こういう状態で著しく思考力が低下する。
要はバカになるつつあるということか?
酒の飲みすぎが原因かも。
####
5年前の悪夢の再現?
明らかな退職勧奨が吹き荒れている。
営業利益が+になってもこういうことをすることが、社内の空気にどう影響するだろう。
イヤらしいのは間接部門に集中攻撃していることだ。
2月のシステムリプレースが失敗すれば、あの部門はまるごとなくなるという噂だった。
リプレースはいけたけど、結局そこから多数の退職者が出ている。どうしてでしょう?
最近、全然社内情報が入ってこないのでわからないのだけれども、希望退職を募集するでもなく、狙い撃ちで首切りする。
おいらとか、この不景気にどうしよう。


5月22日
外務省のガウンさん
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/7809/photo/gaun.html
いったいいつの時代の名前だ?
####
半日寝ていたら頭痛は治ったが、やはり調子が悪い。
自席にいるとやっぱり寒くてたまらん。
時々熱を計ってみると、37度くらいから徐々に上がって夕方には37度5分あった。
しんどいので、バンドの練習もキャンセルをいれて、20時には帰宅する。
クーラーの効きすぎか、ストレスのせいか、他の原因か、自律神経に問題がある?
5月も半分以上過ぎたのに、平気で冬服で歩き回っていると、これは妙だ。
####
日曜日に子供のビデオを借りる折、アニメ100円だったので、ガンダムものを1本借りてきた。
1年戦争と、Zの「間」(多分3、4年の間隔がある)の話だ。
機動戦士ガンダム0083 〜ジオンの残光〜
http://www.gundam.channel.or.jp/program/_0083m_ova.shtml
おなじみのキャラは全然出てこなくて、僕が認識できたのは、ジャミトフとバスク大佐(ともに後チターンズ)だけ。
連邦の的はジオンの再興を目指す団体だが、アクシズではない。
アクシズは中立組織として存在を示すが、ハマーンはそのマントの影だけ見せてセリフはなかった。
月のフォンブラウン市が敵方に通じていて、コロニーを結局地球に落とすあたりが、敵味方入り組んでいて面白い。
(これだけでなんとなく雰囲気のわかる人はマニアです)

それはいいのだけれども、全部見終わっても気がつかなかったのだが、妻が言うには「これは前に借りたことがある」らしい。
ちょっとショックだった。
私は割とガンダム好きで、かれこれ20年以上シリーズを追っていて、ビデオ借りてみている。
それを全然内容を忘れてしまうとは、どうしてでしょう?
確かにそう言われると最期のスタッフロールで、連邦の兵士がチターンズの黒い制服に着替えて喜んでいる風景は見た覚えがある。
んが、それ以外は全く記憶になかった。
ガンダムなんぞに興味のない妻は最初をちょっと見てすぐわかったそうで、同じビデオを借りてくるとはよっぽど面白かったんだろうと思ったそうだ。
どうも「ある種」の映画なり小説なりについて記憶がなくなることはよくあって、いつも我ながら可笑しいのだけれども、作品数が限られているシャーロックホームズや、鬼平犯科帳は何度でも読める。
ホームズなど、小学生の頃から読んでいるが、つまりは結末をすぐ忘れてしまうらしい。


5月26日
側溝の清掃
本日は町内会のドブ掃除の日であった。
これは別に町内会に所属する家庭の義務というものでもなくて、班ごとにやりたければやりなさい。
道具やドロの後始末は市が面倒を見ましょうというものだ。
多分、殆どの班が実施しなかったと思われるが、私が班長のところは何の因果か全員参加希望で、曖昧に済ませるというわけにいかなくなった。
確か昨年の今時分も同様の行事があって、あの時は班からは3世帯くらいしか参加していなかったと記憶している。

拙宅前の道路を共有してコの字型に宅地が造成されている。
私が引っ越してきた3年前はうちが2軒目であとは雑草の空き地だった。
それが今は全部埋まって、7軒になった。
30坪から50坪程度だが、どう見ても我が家が一番小さい。
だいたい似たような世代の夫婦と子供が2・3人いて、老親と同居の人もいればそうでない人もいる。

さて、ドブ掃除の前の日になって、「道具」の手配が今年は行われていないことが発覚して困った。
昨年は実施する班が多かったので、町内会の方で手配してくれたらしいのだが、新参モノの私は知らないから、何もしていない。
こりゃ中止か延期にするべか、と思っていると、隣のSさんが道具は会社から借りてくるからやろうという。
Sさんは土建屋勤務だから、こういうことには詳しい。
結局熱心な人がどういうわけだか多くて、実施することになった。

昨年は9時くらいからやったに違いないのだが、朝の7時に子供に起こされた。
出てみると皆さん準備してすでに取りかかっている。
この時期になると7時といえどもかなり日が高い。

ドブさらいの作業は、側溝のフタをはずすことから始まる。
昔は側溝(みぞ)にフタなどなかったもんだが、最近は道路を広くとるためか、洪水を防ぐのか大抵コンクリートのフタがある。
これがすごく重い。
フタと側溝の間にどろや小石が詰まって接着剤の働きをしているので、なかなか持ちあがらない。
それ専用の器材で2人がかりで持ち上げるのだが、中腰で随分汗をかかされる。
これにはコツがあって、持ち上げる前に、別の鉄棒でフタをずらせばよい。
そうすれば「接着剤」で固まっている部分の摩擦がなくなって容易に持ちあがる。
ところが、フタは3つか4つの単位で左右の余裕なく設置されているので、「1つめ」を持ち上げるのに相当苦労する。

うちの筋だけで20個以上のフタを持ち上げた上で、ドロをすくいだす。
側溝は当然ながら連続している。
個人宅から出た排水は他人の家の前を通って、途中合流もあって、最終的に農水道に流れ込む。
今回関係している全世帯が参加したからよかったけど、不参加世帯があってもその家の前の溝を無視するわけにいかない。
さぼっていると、他人が掃除することになり、その家はちょっと面目を逸することとなる。

殆どの世帯から夫婦が出てきたので随分な人数になった。
手伝える子供がいないのも皆の均質性を表していて面白い。
しかもほとんど初心者なのだが、異常に熱心な清掃活動が3時間以上続いた。
これは多分に、となりのSさんが職業がら、側溝の構造等に詳しく、ドロが溜まった部分を的確に指摘、かきだすことに執心したので、皆もその空気に飲まれたのだと思う。
一種の集団心理だろうか。

ドロも溜まってから数年、熟成されてくると、コンクリートと区別がつかないほど固い。
ちょっとつついただけでは素人は判断でけん。
そこをSさんは、「ここはドロです」「こっちはもっと深いはず」と的確な判断をし、排水が設計通りに流れるよう、「塊」を粉砕する。
みなはそれに従って、半ば石化したドロや建設時の廃棄物を取り除く。

最期には側溝の底(当然コンクリート)が見えるくらいきれいになった。
私は底など永遠に見ることもないと思っていたのでかなり驚いた。

さてそろそろきれいになったのでフタを閉めて終わろうかなと思っていると、これも拙宅の東隣のおばさんが出てきて「うちの前は掃除してもらえんのだろうか」という。
その家の前は側溝は、構造上行き止まりになっていて、他の世帯に関係しない上、そもそも町内会に入っていないので初めから無視していた。

初めから言ってもらえばどうにかしたのだが、もういい加減しんどくなっていたので、私も妻もだまっていた。
できれば、「まあ来年はやりますから」ということで済ましたかった。
ところが別世帯のいかにも好人物といったご主人が直接いわれたらしく、「あの人困っていますよ」と僕にいう。
元々よそ者の我々が、そん中で、村八分というのもイヤなので、「じゃあフタ開けましょうか」ということで、掃除することにした。

その家は私らより前からあって、この筋ではただ1軒の平屋なのだが、妙齢のおばさんが一人で暮らしている。
正体がはっきりしない。近所付き合いも全然ない。
平屋だが、40坪はあるから、今時なかなか贅沢な作りになっている。
時々でかいオフロードカーに乗ったじじいがやってくる。
それ以外に人が訪ねたのを知らない。正月もお盆もどっかにいく様子もない。
ま、誰がどう考えても「2号さん」という趣だが、今時そんなのいるの?というので、どうも判然としない。
時にはオフロードのじいさんが孫を連れてきて、うちの子供がいっしょに遊んでいたりする。
なにはともあれ、清掃終了後に、そのおばさんに町内会に入ってもらったのは言うまでもない。

というわけで、日頃使わない筋肉を思いっきり酷使して3時間以上のドブさらいを終えた。
多分明日はうでも膝も腰も痛いだろうなあ。
それより心配なのは、これがここの班の習慣になって、毎年々々3時間も重労働させられるのでは。
次の班長は多分、今回大活躍のSさんになるだろうし。
####
体温調節がどうかなったのか、先週木曜日金曜日と微熱が下がらない。
しんどくてしかたないので、2日休む。
土曜日にかなりの距離を自転車で走ったのと、日曜日のドブさらいで、かなり汗をかいた。
これで少しは「暑さ」がわかるようになった気がしたのだが、夕方から雨が振り出して、やはり寒かった。


5月28日
多分初夏だったと思う。
私は広島で高校1年か、2年生だったと思う。
両親と3人で有名文士の講演を聞きに行った。
初夏だと思うのは、行きかえりの自動車の窓が全開だったことを鮮明に覚えているからだ。
もっとも、当時実家の自動車はエアコンが付いてなくて、年の半分は窓を開けていた。
大きなセダンなのに4速マニュアルでエアコン・パワステ・パワーウインドー・・何も付いていなかった。
父は当時自動車会社でそれなりの地位にあったのに、そんな車に乗っていたということは、結局自動車に興味がなかったように思える。

講演会には3人作家の先生が来た。
父の長兄が商事会社を経営していた。その関係で作家の阿川弘之と懇意である。
なんで商事会社と阿川先生が結びつくのかは面倒だから書かないけれど、社名は阿川なんとかだった。

多分創立○周年とかいう会社主催の行事で、阿川先生がお友達を2人連れて広島にやってきたのだった。
ちなみに阿川弘之は附属高校の先輩にあたるが、テレビでよく見る阿川佐和子のお父さんでもある。
しかしだからといって、どちらとも全く面識はないので、何の自慢にもならないのは悲しい。

場所はもう今は存在しない広島市公会堂ではなかったかと思うのだけれど、時間になると最初に叔父さんが壇上に出てきて、何事か挨拶をした。
多分聴衆のほとんどは叔父さんの会社の社員とその関係者だったと思う。

どういう順番で文士の話しがあったか記憶にないが、遠藤周作がすごく印象的だった。
話しの内容はどうでもいい雑談だった。
旧制中学を出た後随分苦労して(確か3年浪人)、神戸の灘高校に進んだ。
本当は旧制高校に行きたくて、あちこち(広島高校も)受験したが、ダメだったらしい。
顔も初めてみたし、しゃべる声もそうだったが、当時軽妙なエッセーは大抵読んでいたので、イメージ通りの人だった。
これほど著作と本人のイメージが一致しているのも珍しいと関心した。
講演の話しの落ちは随分つまらないことで、本家か親戚かが広島県なので、みなさんも私の著作を買ってくださいといった感じだった。

で、なんでこんな面白くない昔話を書くかというと、3人目が誰かが3日前からどうしても思い出せなかったから。
北杜夫でも、吉行淳之介でもないが、僕でも名前くらいは知っている作家だった。
それを今日、会社からの帰り車の窓を開けて、初夏の生暖かい風をうけながら走っていると、ふと思い出した。
「日大の先生をしていて・・」という話しの一節を思い出して、そうならば三浦朱門だ。
三浦先生が一番まともな講演らしい講演だったという印象があるが、内容は全然覚えていない。
きっと面白くなかったのだろう。

だいたい保守嫌いの私が阿川弘之や三浦朱門の話しを聞いて面白いわけがない。

3人の作家の話しを聞いて、それだけの催し物だったと思うのだが、その後に誰かのサインをもらいに楽屋に行くこともなく、そのまま帰った。
母が帰りの車の中で言ったのか、それ以外の時に言っていたのか判然としないが、三浦朱門の名前は「赤門」だが、これは東大進学の意味があって、親がつけた名前なのだろうか?・・・とかもらしていた。
実際のところ三浦朱門はペンネームかもしれないし、そうであれば冗談めいた名前だ。

その母も当時は既に享年に近い年齢で、自分が毎年そこにかなり近づいていることを自覚するも、運命を感じるのはしかたないが、しばらくして、叔父さんの会社は何かの理由で倒産してしまって、債権者逃れの盆栽が一つ我が家にやってきた。
かなり立派なものだったらしいが、父親は全くそういうものに興味がなかったらしくすぐに枯らしてしまった。
もう22年くらい昔の話だ。


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