日々雑談:2000年01月
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1月31日
1/29の土曜日にジェットでうどってきました。
近日写真入りでレポート書きますが、とりあえず覚え書き。

########
うどんツアー1月29日
大型の寒気がが去った後だったがまだ随分寒かった。
その週の前半には徳島でも雪がふっていくらか積もった。
朝8時に会社の駐車場に集合。
今回参加人数が5人。釜号1台に詰め込んで出かけた。

徳島自動車道を美馬インターで降りて、いつものルートを北上する。
徳島と香川の県境あたりはかなり雪が残っている。

■彦江(坂出市)
10:00到着。
うどんツアーでは、もうほとんど惰性で行ってしまう店といえよう。
すぐ近くのトミー(スーパー)で幻の冷凍麺ピギーが入手できるということもある。
でもこの日はいまひとつでした。
どうしてかね?恐ろしくうまいときと何がちがうのかよく分からないが。

トミーでPG麺購入。
釜嬢が「人に送る」とかいって、えらい量を買い込んでいた。
1玉あたり50円ちょっとの安価な冷凍麺でありながらとてもおいしくてしかもよそでは入手しずらい
なんともマニアックなところがよろしい。

■田村(綾南町)
さて。二軒目はどうしよう。
坂出の明はまだ行ったことないけど開く時刻が遅い。
山下はこないだいったばかりだし、蒲生は休業中という情報あり。
とうことで、坂出から北上して、綾南町の田村に向かう。
久しぶりだったが、あいかわらず人の良さそうな老夫婦が淡々と作業していて、いい麺を出している。
そういえば、この手の店は同じようなおじさん、おばちゃんがセットで店をやっていることが多い。
ちくわ天と小で150円。

■池内(綾上町)
さて。三軒目はどうしよう。
2年ぶりくらいに池内に行きました。
ちょっと迷ったりして、店の向かいの路上に車を停めて店に入る。
といっても、店と隣の家のすきまを奥に入ると、池に面した裏庭にベンチが置いてある。
裏口から製麺所に入って、おばちゃんに麺をもらう。
ラーメンの器だ。それにえらく濃い味の出汁。だしというよりはタレといった濃さだ。
実はあんまり麺については期待してなくて、そのシチュエーションの面白さを狙ったのだ...が、うまかった!
かなりしゃきっとした麺だ。
とても意外においしいうどんでうれしくなった。
ところで、1玉100円に値上げしてました。

■松岡
そして四軒目は松岡。宮武ファミリー第四の店といわれる隠れた名店だ。
去年(1999年)の8月に1回だけ行ったことがある。
その時はしょうゆうどんんを食べたが、この日は寒かったのでかけ小をいただく。
宮武ファミリーらしく、天ぷらが充実している。
お約束のごとく、私はでかいゲソ天に手が伸びる。
ここで4杯目だったが、うまいうどんとゲソ天は全く抵抗なく胃袋に入ってく。
前回よりはエッジが取れてまるくなった気もした。宮武系らしさがなくなった?
でもほんとにうまいよ。

■谷川(琴南町)
そしていつもの「締め」は谷川米穀店。
僕は今年2回目だ。
先週は随分列が長かったらしいが、この日は空いていた。
なんと店の外に列がない!
扉が閉まっている谷川を初めて見たといえよう。
ここまでで既にうどん4玉+天ぷら2つをいただいていて結構苦しい。
が、谷川独特の酢と醤油のまじった空気を呼吸すると、胃袋の期待感ががぜん高まる。
苦しいくるしいといいながら、冷たいの小を2杯食べてしまいました。

なんで谷川は別腹といえるくらい、押し込めるのだろう?腹いっぱいでもおいしいのはなぜ?
いつも最後に谷川だからそれほどに思わないのかも。
もしかしたら谷川は恐ろしく群を抜いたレベルなのかもしれない。
##
今回初めて運転した釜嬢の車はサイドブレーキが足踏み式でタクシーのような仕様だ。
オーディオはベースとトレブルを別々にイコライジングにできる。
中抜けのいい音にしたくて、勝手にぐりぐりいじる。
購入して3年だが、持ち主はその機能を知らなかった様子であった。
タイガースとテンプターズとフィンガーファイブを聴く。
##
谷川のあとはそのまま県境を越えて、県道鳴池線を徳島に向かう。
例によって阿波町のジェラート屋。
この日は、とてもいい天気で昼前から暑いくらいだった。
...スキーにいったやつらは、雪はあるし暖かいしで最高だったんだろうなあ。


1月27日
関数のパラメータ
午後の3時くらいに、新しい関数のソースを書きはじめていた。
その関数、えらいパラメータの多くて、宣言部分だけ書いているうちに気分が悪くなってきた。
それは別に機嫌が悪くなったわけではなくて、パラメータの羅列を見ているとなんか吐き気がするのだ。
これはプログラムを作っていると割りとよくあることで、例えばひどく込み入ったロジックを考えていると胃がむかむかしてくる。

それからどうも気分がすぐれないし頭も痛いので、(また)風邪の兆候かしらんと思って、18:00には会社を出た。
帰っても胃がおかしてくて、夕食を半分くらいだけ食べてさっさと寝た。
今、翌朝の4時で、睡眠は十分とれた様子であるば、胃のむかつきは治りませんねえ。
明日(1/29)は例によってうどんツアーなんだけど、大丈夫かしらん。

昨年はジェット麺通団でさんざんうどん食いに香川県にでかけたが、最近あんまり人数が集らなくなった。
今回は4人くらいかなあ。
もしかして僕がこのまま不調だったら、3人で行ってきてね(無責任)。
まあ、うどんごときに、毎回大挙して車連ねて出かけることもない。
その回ごとに都合のつく人だけ集っていけばよろしい。
そういうルーズな集まりってのが僕の理想ともいえよう。

ハードディスクレコーディング
今年はパソコンを使ってハードディスクレコーディングだぜ!とか年頭から決意していたのだが、どうもそういう関係ソフトをJ社も扱うらしい。
http://www.watch.impress.co.jp/pc/docs/article/20000127/just.htm

以前に、MIDI関係に参入しかけてた(Jはシーケンサーメーカーだった)が、製品化されないうちにどっかに消えてしまった。
が、最近はMP3の先行きが明るいこともあって、この手の音楽分野は今後いろいろありそうでうれしい。
しかし僕もハードディスクレコーディングのためには、それなりのパソコン買わないとなあ。
HDの容量やCPUなんかは最近のマシンは必要十分だと思うけど、音源ボード(SBとかの)はレベルの高いものがいる。
このあたりしっかり研究しようっと。


1月26日
一期白書
書くことが無いので極めて非常につまらない理屈をこねてみよう。

いちご白書をもう一度は荒井由美が作ってバンバンが歌った名曲である。
12、3歳の頃の私が「夢の中へ」と「神田川」の次くらいにギターで覚えた曲だ。
中3の学園祭では、I原くんのボーカル&D羽くんのベース&K本くんのギター&ぼくのピアノで演奏した。
確かバンドの名前がコールドウルフとかいう恥ずかしい名前だったと思う。

この曲の2コーラス目で、
〜無精ひげと髪を伸ばして、学生集会へも時々でかけた
更にさびが
〜就職がきまって、髪を切ってきたときに、もう若くないさと君に言い訳したねえ
なのだが、
大学生が伸ばした髪を切るのは就職がきまってからでなくて就職活動を始める前ではないか?
というのが私の疑問です。
髪とひげを伸ばし放題で、スーツを着て会社を回っても相手にされないに違いない。
あるいはこの歌の主人公は、親のコネで面接もなしに就職先が決まってしまい、決まってからその会社に挨拶に行くので、散髪したのであろうか。

この曲をユーミンが自分で歌っているのを聞いたことがないが、当時やっぱり楽曲を提供していたハイファイセットとかとは全然曲調が違いますね。
歌っていたのはばんばひろふみだが、=バンバンというわけではなくて、バンバンはバンド名なわけで、ばんばの横でギターを弾いていた今井なんとかは今どうしているのだろう。
あの今井と、グレープの吉田正美とアリスの矢沢の行方が気になるのは私だけではあるまい。


01/25
ずる休み
朝起きたら妙にしんどい。
上体がひどくだるい。
幸い特に予定もない。
会社をずる休みすることにして、一日寝ていた。

就職したてのころ、朝がつらくて困った。
もともと夜型で、学生時分もなかなか午前中の授業に出られなくて、随分単位を落とした。
たいてい、昼の3時くらいまで寝ていて、それからバイトにでて、その後バンドの練習があったりした。
学校に行っている時間がない。
夜の2時3時まで起きているのは平気だが、朝9時よりはやく起きることは不可能だった。
低血圧かしらん...と思ったりしたが、今考えると単に生活のリズムが夜間にディペンドしていただけだ。

こういう生活をしていて果たしてまともな社会人になれるだろうか?
就職を考える頃になって、真面目に心配した。
そこで、夜の仕事にしようかしらんと考えた。
夜の仕事といっても水商売ではなくて、学習塾の講師だ。
学生時代はバイトでかなり経験を積んでいた。
子供に勉強を教えるのはそれなりに面白い。
んが、まっとうな教師になるための単位を今更取る気力はない。
塾の先生は、当時は一般企業よりも給料もかなりよかった。
だいたい午後からの仕事だ。
真面目に塾講師になろうと考えた。

で、友人が就職していた関西のある教育関連企業に出向いた。
かなりいい感触で、すぐにでもバイトで来てくれといった空気だった。
最終面接が9月だった。
それまでに私は本命のマスコミ関連が全てNG。
ただ一つメーカー系のソフト会社だけ受かりそうだった。
....かなり迷って、やっぱり学習塾はよしておくことにした。
一度はまともな会社員をやろうとその時の私は(なぜか)思ったのだ。
結果、今私はソフトウエア技術者で食っている。

今思うに、もっといろんな業界をあたってみるとよかった。
それは就職の年だけでなくて、それ以後転職するときも、選択肢はたくさんあったと思う。
しかし、なんというか、抗えない流れというか、当然の帰着として今があるような気もする。


随分話が飛んでしまったが、大学を出て就職しても、朝が起きれなくて<<ら抜き表現>>定時の8時30分に出社できない。
会社の寮から会社まで1時間ちょっとかかる。
そうすると7時には起床しなければならないのだが、それがとても困難なのだ。
それで、よく9時や10時頃出社していた。
これは遅刻になるのではなくて、「時差出勤」ということで処理してもらっていた。

その当時働いていた職場が、割合ルーズだったのが幸いして、定時に出られなかったら、「9時出勤」「10時出勤」といった特別扱いが許された。
今はこの業界はフレックスが当たり前でこういうことは一々気にしなくていい。

当時は、汎用機全盛期で、マシンの使用時間を限られることも多かった。
例えば1つのプログラムソースをコンパイルするとしても、そのためのCPUパワーは開発者皆で効率的に分配しなければならない。
だれでもすきな時にコンパイルできる環境ではなかった。
だから、開発作業が忙しい時は勤務時間をずらすといった制度があった。
工場といっしょで、夜勤とかいうシフト勤務があったわけです。
僕の仕事はそれほどシフトする必要があるものではなかったのだけど、上司があんまりうるさくなかったので、この「10時出勤」、時には「13時出勤」をしていた。
午後1時に出社すると、定時終了が夜10時になる。
そのうちフレックス制度になり、ますます朝が起きられなくなった。

それがどうしてかね。
歳のせいか、今は朝8時以降寝てられない。

####
吉野川
ばかやろう素人ががたがた抜かすんじゃあねえよ。
お上のすることは絶対正しいんだよ。
住民投票なんかで国策が左右されたら、政治家や省庁はいらなくなるだろ。
愚民どもにいちいち説明する必要なんかないの。
お上からいわれことは、おめえらだまっていうこと聞け。

..とう政府・自民党の姿勢に反対票が集ったのだと思います。
ぼくもそうです。
「反対」に投票はしたけれど、本当に可動堰が必要なのかどうかよくわかっていません。

でもニュースステーションの1/24の放送で、建設大臣を道化に仕立てた久米さんのやりかたはうまかった。
キャスターも市民団体の責任者も朝日新聞のコメンテーターも極めて冷静ななか、大臣は他人の話しを全然聞かずに従来の一方的に主張を繰り返すだけだった。
あれでは視聴者が大臣の権威主義に嫌悪感を抱かない訳ないよねえ。


1月23日
サラウンド
自宅のミニコンポはaiwaの安物〜確かヨドバシカメラで3万円くらいだった〜だが、いろいろ音源を突っ込んで使っている。
電子楽器やテレビもコンポに接続してある。
MDの機械はない。
すっかりMDの流れには取り残されてしまったので、ついでにMP3の普及を待とうと考えている。

このミニコンポはデフォルトのスピーカーの他に、SurroundSpeaker端子とSuperwoofer端子がある。
ウーハーは低音用のスピーカーがいるのだろうが、サラウンドとはいったいいかなるものか気になっていた。
SurroundSpeaker端子はピンプラグだ。
買って5年くらいになるコンポだが、今日初めてサラウンドにスピーカーをつないでみた。
自宅にある一番長いラインコードを探してきて、パソコン用のアンプ付きスピーカーと接続、ステレオとは逆に、部屋の後ろ側に置いてみる。
おおざっぱにいうと、4方を4つのスピーカーで囲まれる形になる。

これがなかなか心地ちよい。

サランド用につないだスピーカーに耳をあてて聴いてみると、どうも音源にリバーブをかけた残響を出力しているようだ。
つまりコンサートホールなんかで、前面のPAの音が一旦周りの壁に反響してから、聞こえてくる環境を作り出している。
生で直接聞こえる音が前方から、少し後れて聞こえて来る音が後ろから聞こえるので、音場に四方を囲まれている気分になる。
大昔に一時流行りかけたがすぐに消えてしまった4チャンネルステレオとは全然異なるものだと思う。

メインのスピーカーとサランドスピーカーの音量バランスがちょっと難しい。
サランドのリバーブ音が鳴りすぎると不自然だ。
音源によってサランド側に出力される音量が異なる。
面白いのは、モノラルの場合はほとんど音が出てないのだ。
どうしてだろう?
サランド出力の左右の位相を逆に設定してあって、音源がモノラルだとそれがちょうど打ち消し会って音がでなくなるのかもしれん。
ぐるりと音に囲まれていると、映画も映画館で見ているような気分になれる。
せっかくなので、パソコン用のチープなスピーカーではなくて、もすこしまともなものを用意したい。
コードの先がピンプラグのスピーカーってあんまりみないような気がしますが。

そういえば4チャンネルステレオは中学生の頃、お大尽の友人にスキーに連れていってもらって、その別荘(!)で初めて4チャンネルの装置を見て音を聴いた覚えがある。
そこのお父さんがお医者で広島駅前で大きなビルで開業していた。かなりのお金持ちの様子であった。
フレンチポップスの好きな人で、確かポールモーリアかフランクプールセルあたりの4チャンネルレコードを聴いたと思う。
4つの音のバランスを調節するのに、現在のテレビゲームのジョイスティックみたいなのがあって、ぐりぐり動かすと音の中心が頭上で動き回って面白かった。
この仕組みも、一時は次世代の音響装置だと目されていたが、Lカセット(笑)とおんなじで、結局普及せずに消えていった。


1月23日
サラウンド
自宅のミニコンポはaiwaの安物〜確かヨドバシカメラで3万円くらいだった〜だが、いろいろ音源を突っ込んで使っている。
電子楽器やテレビもコンポに接続してある。
MDの機械はない。
すっかりMDの流れには取り残されてしまったので、ついでにMP3の普及を待とうと考えている。

このミニコンポはデフォルトのスピーカーの他に、SurroundSpeaker端子とSuperwoofer端子がある。
ウーハーは低音用のスピーカーがいるのだろうが、サラウンドとはいったいいかなるものか気になっていた。
SurroundSpeaker端子はピンプラグだ。
買って5年くらいになるコンポだが、今日初めてサラウンドにスピーカーをつないでみた。
自宅にある一番長いラインコードを探してきて、パソコン用のアンプ付きスピーカーと接続、ステレオとは逆に、部屋の後ろ側に置いてみる。
おおざっぱにいうと、4方を4つのスピーカーで囲まれる形になる。

これがなかなか心地ちよい。

サランド用につないだスピーカーに耳をあてて聴いてみると、どうも音源にリバーブをかけた残響を出力しているようだ。
つまりコンサートホールなんかで、前面のPAの音が一旦周りの壁に反響してから、聞こえてくる環境を作り出している。
生で直接聞こえる音が前方から、少し後れて聞こえて来る音が後ろから聞こえるので、音場に四方を囲まれている気分になる。
大昔に一時流行りかけたがすぐに消えてしまった4チャンネルステレオとは全然異なるものだと思う。

メインのスピーカーとサランドスピーカーの音量バランスがちょっと難しい。
サランドのリバーブ音が鳴りすぎると不自然だ。
音源によってサランド側に出力される音量が異なる。
面白いのは、モノラルの場合はほとんど音が出てないのだ。
どうしてだろう?
サランド出力の左右の位相を逆に設定してあって、音源がモノラルだとそれがちょうど打ち消し会って音がでなくなるのかもしれん。
ぐるりと音に囲まれていると、映画も映画館で見ているような気分になれる。
せっかくなので、パソコン用のチープなスピーカーではなくて、もすこしまともなものを用意したい。
コードの先がピンプラグのスピーカーってあんまりみないような気がしますが。

そういえば4チャンネルステレオは中学生の頃、お大尽の友人にスキーに連れていってもらって、その別荘(!)で初めて4チャンネルの装置を見て音を聴いた覚えがある。
そこのお父さんがお医者で広島駅前で大きなビルで開業していた。かなりのお金持ちの様子であった。
フレンチポップスの好きな人で、確かポールモーリアかフランクプールセルあたりの4チャンネルレコードを聴いたと思う。
4つの音のバランスを調節するのに、現在のテレビゲームのジョイスティックみたいなのがあって、ぐりぐり動かすと音の中心が頭上で動き回って面白かった。
この仕組みも、一時は次世代の音響装置だと目されていたが、Lカセット(笑)とおんなじで、結局普及せずに消えていった。
####
吉野川第十堰改築賛否の住民投票はとりあえず投票率が50%を越えてよかった。
結果は予想通り反対票が圧倒的だ。
当然建設省は「たかが自治体の住民投票。国政に影響はない」という態度になるでしょうね。
ま、徳島の市民団体も、うがった考え方をすれば、地元エゴ丸出しで国策に楯突いていると言えなくてもない。
結局建設省のごり押しで、住民投票の結果は無視されそうでもある。
が、これだけ多数の有権者が意思表明をした以上、少なくとも徳島市議会・行政部は住民の意志を考慮せざる負えない。


1月18日
どうも不調
毎年この季節はどうも調子がよくない。
夕方7時過ぎにひどい悪寒、しんどくてたまらなくなりすぐ帰る。
んが、自宅では比較的元気。
夕食を半分ほど食べて、松たか子のドラマを妻と見る。

久しぶりにピアノの練習。
坂本龍一の「energy flow」始め8小節を延々と繰り返す。
リズム・メロディ単純、左手は普通の分散和音なのだが、なかなかまともに弾けない。
どしてかね。どんどん指の動きが退化している。
まあ今年はこの曲を譜面通り忠実に弾けるようにがんばろう。

実はピアノの練習といっても61鍵シンセサイザーの、プアーなタッチで弾いている訳で、あんまり環境はよくない。
たまにはアコピ...とはいわなくても、まともなデジタルピアノが弾きたい。
時たま、ジャスコやサティの電子楽器売り場で、遠慮しながらヤマハのデジピを弾いていたりする。
買うわけではないからかなり遠慮しているのだが、気を使いながらもついつい長時間弾いているのはどうもみっともない。

そういえば正月のラジオで、坂崎幸之助が最近のフォークギター中心の音楽について話していた。
一時バンドブームの頃は、アコギのソロやデュオなんて、なんてアナクロと笑われたものだ。
それが、昨今のサムエルやドリームオブなんとか(知らん)なんかモロアコースティックな時代に戻っている。
山下達郎は「サムエルとNSPは基本的に全然変わらない」といっていた。
んが、坂崎がいうには「今のフォークは、ギターの弾き方に工夫がないよね」
なるほど。
僕らギターを始めた頃、たくろうやかぐや姫の曲が弾きたくて、アルペジオやスリーフィンガーやカーターファミリーピッキングを練習したもんだ。
こういうカントリーオリジンなギター奏法はあんまり継承されてないですねえ。


1月14日
山田パンダのパンダフルワールド
というわけで1月14日金曜日の夜中です。
明日は今年初めてのうどんです。
ホントはこの時期はうどんよりもスキーに行きたいのだが、徳島に住んでいるとなかなか行けない。
だれか連れていってくれないだろうか。
昨シーズンは一回だけ島根の瑞穂に行ってきたが、天気が悪くてあんまり楽しくなかった。
徳島からバスツアーもあるようなので、一人でどっかメジャーなスキー場に行ってこようかな。

年末の紅白で、恐ろしく久しぶりにかぐや姫を見た。
もしかしたらテレビ番組で3人揃って演奏しているところを見たのは初めてかもしれない。
バイオリンやフラット・マンドリンがついていてかなり原曲に近い「神田川」だった。
南こうせつはそれでもたまーにテレビで見ていたが、後の..いったい何して生きているんだろう?と不思議な伊勢正三や、山田パンダは顔が違うぞ。
正やんはあんなに不細工な顔だったか?二枚目のイメージだったが。
山田パンダはハゲたおやじになっていた。
歌の2番〜24色のクレパス買って、あなたが描いた私の似顔絵〜
のあたりを、正やんや、パンダがちょっとだけリードで歌ったのは妙な感じだった。下手だ。
紅白でしっかりアップになっておいて、「来年は少しは仕事が増えないかなあ」とか思っていたのだろうか。

基本的に紅白歌合戦は歌番組として面白くないので、ダルい部分は適当にチャンネルを変えたりしていて全部はみていない。
演歌歌手が続くと我慢して見続けられない。

今でも南極越冬隊から「●組がんばれ」の電文が入っているのだろうか。
南伸介は袴と下駄で出てきて”袴下駄”→”はかまげた”→”赤負けた”というギャグを披露したのだろうか(こらこら)。
藤山一郎は合唱団(何の曲だっけ)の指揮をはりきってやっていただろうか(こらこらこら)。
そもそもどっちが勝ったのだ?この勝ち負けに何か意味があるのか?
やっぱり日本野鳥の会が出たのだろうか。

とかなんとか結局はろくに見ていないというのがよくわかった。


1月8日
イメージの詩
正月に岡山の実家で昼間から酒を飲みながらテレビをちゃかちゃか変えていて面白いものを見た。
ちょっと驚いた。
キンキと吉田たくろうがいっしょに「イメージの詩」を歌っている。
この曲は吉田たくろうがメジャーレーベルに移る前にいたエレックという今で言うインディーズみたいなレコード会社時代の曲だと思う。
大昔のメッセージソングを正月の番組で歌うこと自体すごいが、キンキもいっしょとうのが更にすごい。

というわけで、翌日岡山の丸善で購入したなぎら健壱の「日本フォーク私的大全」で調べてみると、1970年に発表したデビュー曲(!)らしい。
エレックレコードは後に倒産してしまって、今では当時の音源が入手できるのかわからない。
んが、僕がフォークソングを聞きはじめた25年前にはまだレコード屋にエレック時代のたくろうのレコードがたくさんあった。
...というわけで、徳島に帰って昔のカセットテープを掘り起こしてみると、あった。
「吉田たくろうオンステージ・友だち」というライブ版をテープに録音したものが出てきた。
このなかに「イメージの詩」が入っている。

この歌のなかで、僕が当時好きだった歌詞が
--古い船を今動かせるのは古い水夫じゃあないだろう。
--なぜなら古い船も新しい船のように新しい海に出る。
--古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを。
「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃあないだろう」というのは別アルバムのタイトルにもなっている。
確か広島フォーク村作成のレコードだったと思う。
まだフォークがアングラとかメッセージとか反戦・反体制とかを標榜した社会性の強い時代の作品だ。
ライブでは〜古い船を〜の歌詞のところで、聴衆が拍手するんだよ。

この「オンステージ・友だち」というLPはバックに広島フォーク村関係のメンバーが演奏している。
一人は今は広島で大手家具屋の役員で、一人はやはり広島で獣医をしている。

また、斉藤哲夫の「されど我が人生」も演奏しているのだが、この斉藤哲夫はなんと、「今の君はぴかぴかに光って」を歌っていた人であった。(なぎらの本で初めて知った)
このあたり、他に加川良や高田渡、三上寛という歌手の名前にピンと来る人は、是非なぎらの「日本フォーク私的大全」を読むことをおすすめしたい。(僕はグラスホッパー君からすすめられた)。
アングラフォーク創成期の話がよくわかる。

どうもテレビで見るなぎら健壱はおちゃらけていて格好良くないのだが、この本はすごくよくできている。
実際はかなり頭のいい人みたいだ。

###

放送禁止歌
それと今日(1/8に)関西テレビで再放送していた「放送禁止歌」のドキュメンタリーは恐ろしく考えさせる作品だった。
ビデオにとって2回みた。
こういうのをフジテレビが作成するというあたりは、ちょっと流れが変わっているのだろうか。
僕のような不勉強ものが軽々しく述べることができないのだけれども。

実際には「放送禁止」を定める組織というのはあくまで目安を示すだけらしくて、罰則規定等の拘束力はないそうだ。
しかしマスコミは触らぬ神に祟りなしを基本的な姿勢としてきた。
つまり社会的に文句がでてきそうな曲は「放送禁止歌」としてテレビでもラジオでも流さない。
高倉健の「網走〜」というやくざもののシリーズは全部だめらしいよ。
インタビューでフジテレビの偉い人が言っていたが、制作現場が「自分で考えることを避けてきた」歴史がある。

このドキュメンタリーでは、通常ラジオでも聞くことのできない過去の名曲がフルコーラスでたくさん流れた。
岡林信康の「手紙」・フォークルの「イムジン河」・なぎらの「悲惨な戦い」・高田渡「自衛隊に入ろう」
そして「竹田の子守り歌」。この赤い鳥の代表曲が放送禁止とは知らなかった。
サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」に匹敵する、日本音楽史上屈指の名曲ですよ。


1月8日
イメージの詩
正月に岡山の実家で昼間から酒を飲みながらテレビをちゃかちゃか変えていて面白いものを見た。
ちょっと驚いた。
キンキと吉田たくろうがいっしょに「イメージの詩」を歌っている。
この曲は吉田たくろうがメジャーレーベルに移る前にいたエレックという今で言うインディーズみたいなレコード会社時代の曲だと思う。
大昔のメッセージソングを正月の番組で歌うこと自体すごいが、キンキもいっしょとうのが更にすごい。

というわけで、翌日岡山の丸善で購入したなぎら健壱の「日本フォーク私的大全」で調べてみると、1970年に発表したデビュー曲(!)らしい。
エレックレコードは後に倒産してしまって、今では当時の音源が入手できるのかわからない。
んが、僕がフォークソングを聞きはじめた25年前にはまだレコード屋にエレック時代のたくろうのレコードがたくさんあった。
...というわけで、徳島に帰って昔のカセットテープを掘り起こしてみると、あった。
「吉田たくろうオンステージ・友だち」というライブ版をテープに録音したものが出てきた。
このなかに「イメージの詩」が入っている。

この歌のなかで、僕が当時好きだった歌詞が
--古い船を今動かせるのは古い水夫じゃあないだろう。
--なぜなら古い船も新しい船のように新しい海に出る。
--古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを。
「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃあないだろう」というのは別アルバムのタイトルにもなっている。
確か広島フォーク村作成のレコードだったと思う。
まだフォークがアングラとかメッセージとか反戦・反体制とかを標榜した社会性の強い時代の作品だ。
ライブでは〜古い船を〜の歌詞のところで、聴衆が拍手するんだよ。

この「オンステージ・友だち」というLPはバックに広島フォーク村関係のメンバーが演奏している。
一人は今は広島で大手家具屋の役員で、一人はやはり広島で獣医をしている。

また、斉藤哲夫の「されど我が人生」も演奏しているのだが、この斉藤哲夫はなんと、「今の君はぴかぴかに光って」を歌っていた人であった。(なぎらの本で初めて知った)
このあたり、他に加川良や高田渡、三上寛という歌手の名前にピンと来る人は、是非なぎらの「日本フォーク私的大全」を読むことをおすすめしたい。(僕はグラスホッパー君からすすめられた)。
アングラフォーク創成期の話がよくわかる。

どうもテレビで見るなぎら健壱はおちゃらけていて格好良くないのだが、この本はすごくよくできている。
実際はかなり頭のいい人みたいだ。
###
放送禁止歌
それと今日(1/8に)関西テレビで再放送していた「放送禁止歌」のドキュメンタリーは恐ろしく考えさせる作品だった。
ビデオにとって2回みた。
こういうのをフジテレビが作成するというあたりは、ちょっと流れが変わっているのだろうか。
僕のような不勉強ものが軽々しく述べることができないのだけれども。

実際には「放送禁止」を定める組織というのはあくまで目安を示すだけらしくて、罰則規定等の拘束力はないそうだ。
しかしマスコミは触らぬ神に祟りなしを基本的な姿勢としてきた。
つまり社会的に文句がでてきそうな曲は「放送禁止歌」としてテレビでもラジオでも流さない。
高倉健の「網走〜」というやくざもののシリーズは全部だめらしいよ。
インタビューでフジテレビの偉い人が言っていたが、制作現場が「自分で考えることを避けてきた」歴史がある。

このドキュメンタリーでは、通常ラジオでも聞くことのできない過去の名曲がフルコーラスでたくさん流れた。
岡林信康の「手紙」・フォークルの「イムジン河」・なぎらの「悲惨な戦い」・高田渡「自衛隊に入ろう」
そして「竹田の子守り歌」。この紙風船の代表曲が放送禁止とは知らなかった。
サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」に匹敵する、日本音楽史上屈指の名曲ですよ。


1月7日
1999年から2000年の冬休み概略
というわけで年が明けて7日目にもなってしまいましたが、ここのところ風邪気味でしんどかったのが、やっと復調したところです。誰も興味ないだろうけど、年末年始の行動をここに記しておこう。

1999年12月28日
この日が仕事納め。
12/20にスタートしたシステムが漸く安定していたけど、最後まで結構忙しかった。
Y2K対策のためのデータバックアップをしたりして、18時過ぎに退社、忘年会に。
場所は二軒屋駅の0番線に。
翌朝が早いので、適当に切り上げて帰る。

1999年12月29日
同郷のU木氏一家と車を連ねて徳島を出る。
実はうどんが目的。
池田で高速を降りて、32号を山越え、山内に行く。
相変らずトップレベルの麺はすばらしい。
冷や冷やの大と、熱いの小をいただく。
ここはいつ来ても裏切らない。これはすごいことだと思う。
U木氏奥さんに「こんなおいしい店を教えてもらって」と感謝される。
このあたりが「自称」マニアの醍醐味ですね。
その後善通寺の山下で土産の乾麺を購入し、高速→瀬戸大橋で広島へ。
この日は予想外に高速が空いていて徳島から正味4時間ほどで広島の実家に帰った。

すこし休んでから街に出る。
ひこ氏とソフマップ。
その後、F川さん・グラスホッパーfrom福山・Hさんと合流して飲みにでる。
征服者がヒジョーに重い事情で参加できず残念だった。
それでも結構飲んで、最後は向洋駅前の不味い居酒屋でお茶漬けを食っていた。

1999年12月30日
苦労田父母&弟家族と広島駅前の福屋で買い物。
帰省の度にデパートでブランド物の洋服を子供に買ってもらうのがすっかり習慣化してしまった。
これは適当な時期にやめてしまいたい。
福屋の中にある中華料理屋で昼食。

その後、広島の白島というところにある叔母の家を訪ねる。
事情があって、僕は母方の親戚に会うためには、ここに出向く必要がある。
久しぶり(2年前の祖母の葬儀以来)に、いとこ連中に会う。
ちょっと合わない間に随分子供が増えている。
築100年を越えるすごい純和風家屋なのだ。原爆でも壊れなかったところがすごい。
相変らず猫やら犬やらたくさんいる。
ここの家族は妙に動物好きなのだ。
全員で記念写真。いい思い出になるであろう。

1999年12月31日
実家にあった僕のアルバムを持ってかえることにする。
幼少の頃の写真は3歳の息子に似ていて笑ってしまう。
あと、幼稚園から小学校にかけて書いた作文やら絵やら。
僕が3歳の時に書いた鯉のぼりの絵。絵の先生が驚愕したと言い伝えられている。
しかしその後は才能が伸びなかったようで。
でももしかしてそのまま絵の勉強をしていれば今ごろ美術の教師くらいにはなれたのでは。

昼過ぎに岡山着。
久しぶりに2号線ぞいのラーメン屋に行くが、そんなにうまいとは思わなかった。

2000年1月1日
問題なく越年できてよかったあ。
岡山の実家で食って寝てすごす。

2000年1月2日
倉敷チボリ公園に。予想外に客が少なかった。
娘と二人でウオータースライダーに乗るが、怖くてビビッて後悔する。
僕はどうもジェットコースターモノに弱い。子供の頃は楽しかったんだがなあ。
午後、うどん道M安師匠の家におじゃまする。
新倉敷駅裏のその場所は一回いったきりだったが、適当に運転していたら着いた。
1999の年末に完成した随分立派な和風建築なんだが、M安は東京転勤で、その家には住んでない。

2000年1月3日
一人で岡山の街に出る。
丸善と紀伊国屋で買い物。
坂本龍一の「energy flow」の譜面購入。あと本やカレンダー。

広島と比べると岡山は一回り小さい印象である。
瀬戸大橋ができた頃は、これで岡山が広島に追いつくと思ったものだが、どうしてそうならなかったのだろう。
駅前のバスターミナルが全く変わっていて驚く。

2000年1月4日
朝はやく出て徳島に向かう。
久しぶりに宇野港からフェリーに乗る。
宇野港は改築中らしくて、いつもとちがう場所から乗船。
いつも通りに、「ゴルフは4mありません」と言い張って運賃をごまかす。
どっか高松市内のうどん屋で昼飯を...と思って前回のジェットで行った馬渕へ。
あんまりおいしくなかった。
妻が随分不満そうであった。
徳島阿波町ドルチェでジェラートしたくてわざわざ193号塩江経由で山越えするが、悲しいことにドルチェは休みだった。

2000年1月5日
冬休み最終日。
天気がよくて暖かかったので、家族で歩いて文化の森公園にでかける。
子供が大きくなったので、家族そろって歩き回るのがかなり楽になってきた。
そのうち、近いうちに、子供の機動力が親のそれを越えるんだろうな。

というわけで、休み中、幸いトラブルもなかった様子である程度覚悟していた呼出しもなく平和だった。


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日々雑談:2000年01月