「4分07…8…9…」
 加減圧室の操作席で、薫の測距用の秒数計を膝の上の掌に握った佳子が読み上げる。
 (…)
 傍らで、腰に手を当てて仁王立ちになった青葉は、ごくりと唾を飲み込んだ。すでに略衣と下着は脱ぎ、例の潜水衣一枚になっている。
 予定の作業時間は、もう30秒以上超過した。―残り、30秒。予定時間を1分過ぎても悠良と薫が帰還しない場合は、耐圧筒をいったん排水して青葉が入り込み、艦外に出て二人を探索することにしたのだ。
 「すう…はああ…」
 少しでも身体を慣らしておくために、息を大きく吸って吐くことを繰り返す。
 「…無茶だよ」佳子が何度目かに言う。
 「加圧なしで外に出たら、肺がつぶれちゃう。死んじゃうよ」
 「大丈夫」青葉は答えた。「つぶれないように、私、頑張るから」
 「…そんな」佳子は困惑して言う。
 「結構自信あるんだ、私」しかし、その言葉とは裏腹の、内心の恐怖心はどうしようもない。「佳子、計時を」
 「は、はい」慌てて文字盤に向き直る。「…4分25、26、27」
 「…」青葉は目を少しだけ瞑ると、声の震えがなるべく分からないように言った。
 (ハッチ)閉鎖。排水開始」
 佳子が、観念して開閉弁に手を伸ばした時―海水で満たされた筒の内壁に、何か柔らかいものが当たる音がした。
 青葉が、はっとして観察窓を覗き込む。すると、悠良と薫の逆さまの身体が、頭上から筒内にゆっくりと降ってくる所だった。
 降ってきたという形容にふさわしく、命綱の絡みあった二人の身体は海水流にゆらゆらと揺れるだけで、手足一つ動かさない。潜水衣の白の背中をこちらに向けているため、顔は見えず意識の有無は分からなかった。
 「悠良っ、薫っ」思わず、青葉は手で観察窓をばんばんと叩く。「佳子、お願い」
 「うんっ」佳子は開閉弁を捻り、筒の天井の(ハッチ)が閉まるのと同時に排水を開始した。

 高圧空気の漏れ出る音と共に、耐圧筒と操作室を隔てる水密戸が開かれる。
 悠良と薫は、折り重なるようにして筒の底にうつ伏せで倒れている。艦内との気圧差を考えれば減圧症の危険性があったが、まず二人の呼吸回復を図ることが先決だった。狭い筒内から、二人がかりで一人ずつ外へ運び出す。
 「…悠良、悠良」青葉は、悠良のずぶ濡れの身体を仰向けにさせながら声を掛けた。短い髪がぺたりと首筋に貼り付き、身体は氷のように冷たい。屈みこんで人工呼吸に移ろうとしたところで、悠良はがぼっと喉を鳴らすと、激しく咳き込みながら自力で呼吸を回復した。
 「がぼっ。ごっ、ごぼぼぼ」
 「悠良…」
 「がっ。はあっ、はあっ、はあっ。がはっ」
 「悠良、大丈夫」
 「ごほっ、ごほっ」悠良は喘ぎながら言う。「くっ、空気って、すごく、美味いな」
 「悠良…」悠良のいつもの口調。青葉は、目頭がじんと熱くなった。そして悠良が上体を起こして床に座るのを助けると、薫に心肺蘇生の措置をしている佳子の方を見た。佳子は、仰臥させた薫の胸に両手を重ね、体重をかけて規則正しく圧迫している。横向きになった口の端から、たらたらと水が床へと垂れていた。目は眠るように閉じられ、唇は青紫に変色している。
 「佳子、どう?」
 佳子は、手を休めることなく首を横に振る。まだ呼吸が戻っていないのだろう。
 青葉は赴いて佳子の横にひざまずくと、薫の顎下に手を差し込んで頭を反らせ、鼻をつまみながら唇と唇を重ね合わせた。
 「ふーっ」
 「一、二、三、四、五」
 青葉が大きく息を吹き込むごとに、佳子が心臓を5回圧す。どのくらい、それをくり返しただろうか。佳子の両腕が痺れ、青葉の焦燥が募り目の前が暗くなったころ、合わせた唇を通して、肺で温められた塩辛い海水が青葉の口の中に流れこんできた。
 「ごっ。ごほっ」
 青葉が唇を離すと、薫は噎せながらさらに大量の水を吐いた。
 「ごほっ。けほっ。はあっ、はあっ、はあっ。こほっ」
 「薫っ」
 「薫…もう…駄目かと」青葉と佳子が口々に言う。―良かった。二人とも、ちゃんと死の世界から還って来てくれた。青葉は、安堵感でまた胸が熱くなった。
 「…少尉」
 「何?」青葉は、仰向けの薫に膝枕させながら言う。
 「私…とても怖かったです…暗くて、冷たくて…息も、出来なくて…」
 その顔には、いつもの人形じみた平然さが嘘のような、子供のような怯えが浮かんでいた。意外だったが、あるいはこれが本来の薫なのかも知れなかった。
 「うん、偉かったよ、薫」
 「はい…」薫は弱々しい微笑を浮かべると、体力を使い果たしたのか、そのまま目を閉じると昏睡のような深い眠りへと落ちていった。

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