出入扉の外は、暗く静謐な死の世界だった。

 海面下200メートル。ちょうどこの数値を境に「深海」に区分されるこの深度では、太陽光は数千分の一の明るさにまで減じ、平衡感覚に頼らなければ上下の別さえつかなかった。聞こえるのは自分自身の耳鳴りだけで、他に感じられるのは全身をくまなく締め付ける水圧と、凍てつくような海水の冷たさだけであり、右手の薫の掌の温かい感触だけがただ一つの救いだった。
 薫の携行する投光器が、闇の中へわずかに一条の光を放っている。その光の筒の中には白い浮遊物が雪のように舞っていて、さらに下の、無間地獄のような水底に向かって降るように沈殿していった。
 悠良はふと頭上を見たが、次の瞬間、二度と見ないと心に誓った。もし、呼吸の誘惑に負けて「上」を目指してしまったとしたら、待っているのは釣り上げられた深海魚のような破裂死だけだ。もっとも、一瞥した限りでは頭上にも足下と同じ暗渠のような闇の広がりがあるだけだったが。

(作業箇所まで…30…秒)
 悠良は、平泳ぎの泳法で水を掻きながら、また佳子の所要作業時間を思い出していた。今の出入扉のところで少し時間を食ったせいで、潜り始めてからすでに1分近くが経過している。遅れを取り戻すには、肺の空気を浪費しないで、無駄なく速く泳ぐしかない。
 投光器は正しく前方を向いており、繋いだ手はしっかりと握り返してくる。姿は見えないものの、薫は悠良のすぐ隣を泳いでいるのだろう。
 足下の甲板が急に途切れ、悠良は前方に伸ばした左の掌に防探塗料のざらざらした質感を感じた。艦橋構造だ。悠良は、艦から離れてしまわないように注意しながら手足を5、6度ほど掻き、無事に前部甲板の上へと出た。
 薫の投光器が甲板の上を往来し、しばらくするとその中ほどの舷外に穿たれた円形の孔の上で止まった。―あそこだ。悠良は、薫の示す光の輪に向って大きく水を掻いた。

悠良は、最後の15メートルほどの距離をふわりと泳ぎ切り、舷側の保護索に掴まって身体の勢いを殺した。薫は投光器を横の内火艇用の揚収機にうまく吊るしたらしく、暗闇の中で作業箇所の一帯がそこだけ明々と照らし出された。
 今のところ順調、というべきだろう。両肺には、痛みの予兆のようなものを感じるだけで、まだ苦しいというほどではない。ここに来て初めて表情を確認できた薫の方も、唇を閉じて頬を若干膨らませているほかは、特に苦しそうな様子はない。投光器の青白い光に照らされて細い身体の起伏が陰影を作り、下げ髪が海水流でまるで風に靡くようにゆっくりと揺らいでいる。観賞魚のような可憐な容姿に似合わない、すぐれた克己心と潜水能力だった。
 (ここで…1分…50秒)

 主ベント弁は、すぐ下の艦腹上部に半開きの暗い注排水口を開けている。
 悠良は、両脚を腕で抱え込むように縮めると身体を半回転させ、注排水口の上で倒立した。海水が鼻腔に入りつんと塩辛い刺激がしたが、構わず肩口を窄めると、悠良は幅30センチほどの可動鈑の隙間に上体を挿入していった。
 注排水口の左奥には、幾つかの送気管と整備用把手が並んでいる。目を横に転じていくと、奥の方に把手のついた矩形の金属板があった。これが、佳子の言っていた作業蓋だろう。
 悠良は、作業蓋の把手に手を掛けた。―いや、正確には手を掛けようとした。両肩が入り口の注排水口でつかえているので、指先が左奥の作業蓋まで届かなかったのだ。
 (えっ)
 悠良はさらに肩を窄め、力を込めて両脚を掻いた。―2回。3回。しかし、踏ん張りの利かない水中では、いくらやっても身体は前に進まない。力んだはずみに、貴重な数百ミリリットルの空気が泡になって口から漏れていった。
 (んんっ…)
 思わず唇を片手で押さえながら、悠良は、顔から血の気がさっと引いていくのを感じた。
 ―落ち着け、落ち着け。悠良はいったん身体を孔から引き抜くと、艦腹の上に膝をつき、息を整えるようなつもりで数秒間だけ動くのを止めた。傍では、薫がさっきと変わらない様子でじっと見守っている。
 悠良は再び注排水口に挑んだ。身体をよじり、肩も外れるほどに奥へと腕を一杯に伸ばす。しかし、手はわずかに把手には届かない。
 (…)
             

 脚がばたつき、さらに幾つかの気泡がごぼごぼと口から漏れていく。予定の作業時間はすでに半分以上が経過し、潜水を開始してからおよそ2分半が経っていた。
 その時、悠良は薫が自分の腿に手で触れ、注意を促すのを感じた。
 ―何かあったのだろうか。悠良が上体を引き起こすと、薫は悠良に向かって弁と自分の胸を右手で交互に示してみせた。私がやってみる、というのだろう。確かに、身体の小さな薫なら上半身を注排水口にすっぽり入り込ませることもできるかも知れない。しかし―悠良は思った―目的の回転把手を回すには、相当の腕力が必要なはずだ。
 悠良の逡巡を見て取ったのか、薫は口をぱくぱくと動かして発声する動作をしながら、さっき佳子がしていた手先信号をやり始めた。
 「マ」「ダ」「ヘ」「イ」「キ」
 (…)悠良は、驚いて薫の顔を見つめた。
 薫は、さらに口と両手を動かし続ける。「ク」「ル」「シ」「ク」「ナ」「イ」やらせて貰えるまで、いつまでも喋っていそうだった。
 (…わ、分かった)
 悠良は、慌てて薫の両肩を掴んで押しとどめると頷いて見せた。無駄な運動をさせれば、それだけ薫の肺の空気を削ることになってしまう。
 薫はわずかに微笑してみせると、鼻を摘まみながら上下逆さまになり、そのまま真っ直ぐに注排水口へと潜っていった。頭部から首筋。肩。両胸。薫の造作の小さい身体の各部が、するすると下へに消えていく。
 そして、鳩尾から下を残すだけになった時、前触れもなく閉じ始めた可動鈑が薫の華奢な身体をゆっくりと噛んだ。
 (…!!)
 信じられないことだった。あれほど、発令所で何度も操作しても動かなかった主ベント弁が今頃作動し始めている。―どうして。送気管に溜まった圧搾空気が、今になって進及螺歯車を駆動したのか。いずれにせよ、悠良が今するべきことは、挟まれた薫を1秒も早く救出することだった。
 悠良は、まだ外に出ている薫の両脚を膝のあたりで抱え、渾身の力をこめて引いた。
 (うっ…)
 抜けない。薫が腕の中でぎゅっと脚の筋肉を緊張させる。可動鈑には今も新たに力が加わり続けているはずで、このままでは薫は溺れ死ぬ前に圧死してしまう。
 (くそっ…)
 悠良は唇を噛み、喉元まで出掛かっていた空気の塊をぐっともう1度肺へ呑み込んだ。いつの間にか、胸にはずきずきするような疼痛がある。
 その時、足下の可動鈑の隙間から、湧くように薫の吐いた大量の気泡が立ち上ってきた。

 (か、薫っ)
 気泡の列はなおも続いていた。しかし、苦しさのあまり吐き出したというよりは、まるで胸腔内の空気をわざと吐きつくそうとしているように見える。
 (…馬鹿っ、どういう…つもりなんだ)
 悠良は、薫の脚を持ち替えようとして両腕の力をふと緩めた。次の瞬間、薫は両脚を大きく足掻いて悠良の腕を振りほどくと、足先まで揃えて曲げ、鈑の隙間―胸腔をぺちゃんこにしたことで僅かに余裕が生じたらしい隙間のへと、滑るように入り込んでいった。
 閊えのなくなった注排水口はまたたく間に閉じ、その上で佇む悠良の身体を、まるで何事もなかったかのような静けさが包んだ。
 (…)
 水圧と低水温のせいで、頭がほとんど働いていない。
 悠良は、しばらく経ってから自分の身体が浮き上がり始めていることにようやく気が付いた。投光器に照らされた艦腹が、もう何メートルも下に見える。
 (…)
 殆ど無意識に手足を掻き、主ベント弁の上まで戻って舷側の保護索を掴む。両肺が疼き、身体の細胞が酸素を求め始めているのが分かった。もう秒数を数える余裕はなくなってしまったが、潜り始めて3分を超えていることは間違いない。
 (…薫っ)
 思考がやっと焦点を結ぶ。ベント弁は、薫を呑み込んだままぴたりと鉄の扉を閉ざしている。あの隙間からでは脱出は出来ず、圧死を避けるには逆に中へ潜り込むほかなかったのだろう。薫もまた、今や泡一つ分の空気さえない棺のように狭い空隙で、刻々と強まる肺の痛みに耐えているはずだった。
 閉じられた可動鈑には、金梃子(バール)を差し込む隙間一つすらない。―どうする、どうする。弁が閉まったのだから、艦内からタンクを排水(ブロー)すれば…いや、それでは圧搾空気で薫の身体はばらばらに粉砕されてしまう。一旦、艦内に戻って息継ぎを…だが、息をするためにはあの耐圧筒の排水が必要だし、そんなことをしていたら薫は確実に溺れ死ぬ。無駄なこととは分かっていながらも、悠良は金梃子の尾部で可動鈑の縁を強く叩き始めた。
 「ごっ」
 胸が大きく上下し、堪えきれなかった吐息が大粒の気泡になる。―方法。何か、方法は。
 (…?)
 悠良は、ふと手を止めた。何か、可動鈑の下で物音がしている。金属が、ことことと触れ合う音―あたかも、誰かが暗闇の中で探し物をしているような。
 「キイ、キイ」
 間もなく、足元から軋むような規則的な金属音が聞こえてきた。そう、まるで重い鉄の把手を回しているように―。
 (…薫っ)
 間違いなかった。薫が、その鉄の棺から自力で脱出しようとしている。手探りだけで例の作業蓋を探りあて、手動開閉用の旋回把手を操作することによって。
 (頑張れっ、薫)
 可動鈑が、もどかしいほどゆっくりと開き始めた。3センチ。4センチ。投光器の光が注排水口の中まで届き、隙間のすぐ下に薫のぴったり折り曲げられた両脚が見えた。
 「キイ…キイ…」
 鈑の開く速度は徐々にゆっくりになってきている。無理もない、想像を絶する水圧下で、肺の空気を吐きつくしてなお3分以上激しく運動し続けているのだから。薫は、弁の内部でゆっくりと身をよじると、隙間から外へと自由になった一方の脚を伸ばした。身体が柔軟なのだろう、こんな小さな空隙によく全身が収まったものだ。
 「キイ………キイ………」
 鈑は、もう僅かしか動いていない。
 悠良は両手を注排水口の縁に掛けると、可動鈑を押し広げるように左右に力一杯引いた。
 「ぐっ」
 何度目かに、気泡の列がぼこぼこと口から逃げていく。
 (苦しい…)
 もう、戻れないかも知れない。でも―目を下に転じると、すらりとした左脚を伸ばし切った薫は、今度は折り曲げた右脚を外に出そうと足先で隙間を探っていた―あり得ない。自分一人が戻ることだけは、絶対に。
 悠良は片手を隙間の中に入れると、薫の右足首を掴んで上方へと引きずり上げた。脚が両方とも外に出たが、まだ弁の内側にある上体はかなり無理な姿勢を強いられたらしく、脚の筋肉はびくびくと痙攣した。悠良は、そのまま薫の大腿部に腕を回すと力を込め、艦腹に両足を踏ん張ると、若竹を根茎ごと抜くようにして薫の身体を注排水口から引き抜いた。
 細かな気泡と共に隙間からすっぽりと抜け出た薫の肢体は、頭を下にしたままでふわふわと水中で浮漂している。
 (薫っ)
 悠良は、その細い上体を抱きとめると、逆さになったままの顔を覗き込んだ。
 「…かぷっ、かぷっ」
 薫は、小さく開けた口から少しずつ海水を呑んでいる。鳩尾と凹んだ腹部が、まるで息をしているように小刻みに上下していた。それでも、悠良が見ているのに気が付いたのか、薫は弱々しく頭を横に振って見せると頭の下の弁を指し、両手の親指と人差し指でまた何か信号を形作ろうとした。
 そして、その時薫はようやく限界を超えた。
 身体から力が抜け、腕と指先は何の信号も成さないままにゆっくりと弛緩する。両目は見開かれ、唇は何かにびっくりしたように、半開きのままで凝固していた。
 (か…薫っ)
 失神し、意志の抑制を失った薫の身体は、ゆらゆらと髪を揺らしながら、200メートル上の陽光に向かって徐々に浮かび上がり始めた。

 (…)
 悠良には、薫が何を伝えたかったのか分かっていた。恐らく、薫はそれを完了するまであの中に留まって作業を続けるつもりだったのだろう。―旋回把手で一度弁を全開にして、さらに送気管の導路を切り替えなければ、作業を終えたことにならないのだ。
あの状況下で、あそこまで長く閉息した後だというのに、信じがたい意志の力だった。
 (…薫っ)
 悠良はさらに気泡を吐いて、胸膜の緊張を和らげた。もう肺の中には空気はほとんど残っていない。それでも、悠良はなぜか四肢に力が行き渡って行くように感じた。
 悠良は身体を上下反転させると、可動鈑の隙間にぐいと上体を捻じ込んだ。最後の挑戦だ。肩がねじれ、筋肉が軋む。それでもさっき届かなかったのが嘘のように、気が付くと悠良の左手は円い把手を握っていた。
 「キイ…キイ…」重い把手が回転していく。
 (苦しくない)肺から最後の空気が押し出され、代わりに口腔にひんやりとした深層水が流れ込んでくる。限度一杯に回された把手ががくんと固定され、悠良は手をその奥の送風管の切替棒へと持ち替えた。(苦しく、なんか)

 応修作業を終えた悠良は、広くなった注排水口からやすやすと身体を引き抜くと、手首の命綱を手繰りながらゆっくりと上昇していった。
 2メートル。3メートル。投光器の光の輪から外れた海中で、伸ばした手が薫のぐったりした身体に触れた。―いた。抱きかかえると、体温の感触が腕に心地よい。悠良は、背後から薫の首筋に腕を回すと、下の投光器の光筋の向きで方向を確認し、後甲板へ―少なくとも、後甲板があると思った方向に向かって、精一杯に両脚を動かし始めた。

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