悠良と薫の減圧治療には、それから数時間をかけた。
 例の耐圧筒の中で、内圧を15気圧にまで高めてから徐々に空気を抜いていく。潜水具なしで21気圧もの水圧に耐えたため、人体生理がいわば深々度標準となった二人を、ゆっくりと地上の気圧環境に戻すのだ。本来ならば数日を要すのだろうが、巡洋潜水艦の中ではそこまでの設備はなく、また吸うための空気も不足している状況ではそれが精一杯だった。さっき艦内の加圧に相当量を回したせいで、気蓄器の残存空気はあと30キロを切り、ぎりぎり1回の排水(ブロー)分しかない。
 「…主電動機始動」
 「潜舵上げ15」
 「各タンク並びに排水弁、動作正常」
 下令と復唱が発令所の中に響く。あの常識外れの艦外応修作業をやり遂げた今、残されたのは艦に残された空気の全てを使ってこの深海から脱出することだけだった。―ところで、常識外れといえば、今や佳子を除く乗員(クルー)全員が水着のような潜水衣姿というのも戦闘艦らしからぬ奇妙な光景だった。
 「…よーし」青葉は言った。「メインタンク、排水(ブロー)
 「メインタンク排水(ブロー)、アイ」
 圧搾空気が音をたてて送気管の中を駆け抜ける。空気の送り込まれたメインタンクの浮力が浸水と艦体の重量に打ち勝ち、艦はそろそろと浮上し始めた。
 「艦首仰角10。深度190、180…」薫が読み上げるにつれ、深度計の針はゆっくりと左に戻っていく。薫はまだ疲労の色が濃いとは言え、減圧治療の間に体力はある程度回復してきたようだった。
 「160、150…」
 耐圧殻がまた音を立てて軋む。水圧で凹んでいた艦体が、鋼の弾性で元に戻ろうとしているのだ。
 「110、100…」
 悠良と佳子が、嬉しそうに白い歯を見せ合う。―あと少し。あと十数秒で、洋上の陽光の元に戻れるのだ。
 「…60、50.
 しかし、それを最後に薫の測深はぷつりと途絶えてしまった。
 「…薫?」
 「浮上…停止しました」
 「…」青葉はしばし絶句した。「潜舵上げ20、両舷微速前進」
 「アイ」
 「…深度50、変わらず」と薫。
 「両舷強速」青葉はさらに令する。頭上の水の重みに抗うように、3枚翼のスクリュープロペラが回転する。
 「…だめです」
 「佳子、高圧空気の残りは?」
 「残量0。もう、空…」
 「…」浸水が計算以上に多かったのか、タンクか送気管に損傷があるのか。とにかく、手持ちの空気が全て無くなった今、艦をこれ以上浮上させることは不可能だった。
 深度計の針が、また小刻みに震えている。じきに均衡がくずれ、浸水で艦は下降へと転じるはずである。―もし、決断するなら今をおいてない。
 決断。青葉は逡巡した。しかしそれはまさしく最後の手段であり、乗員(クルー)の肉体にも過大な負担をかけるもので―。

 青葉の横で、しゅるしゅると衣擦れの音がする。
 佳子だった。略帽を傍らに置き、略衣と(トラウザー)を脱いで見る間に上下2枚の下着だけになる。
 「佳子…?」
 「ちょっと、待ってて」佳子は背中の留め具(ホック)に手を掛けながら言った。「私も、すぐ潜水衣に着替えるから」
 「…」
 「さっきは、ご指名頂けなかったけど…私だって、やるときはやるよ」
 「佳子…」こちらの心中は、もうすっかり見透かされている。
 「やろう、青葉」
 悠良が眼差しをこちらに向けている。その手前の水測手席で、薫も力強く頷いた。
 「悠良…薫…」―ごめん、ごめんね。せっかく死の淵から還ってきたのに、またすぐに同じところへ往かせることになって―。
 そして、青葉は潜水艦長としての最後の命令を下した。

 開放されたキングストン弁から艦底に侵入した海水は、渦巻く溢流となって〈ウンディーネ〉の艦内区画に流れ込んでいった。艦内状況表示盤が次々と青白く点灯し、トリムを失った艦体は艦尾方向にゆらりと傾く。そして、下の第2甲板をすべて呑み込んだ水は、連絡口を通じて第一甲板にまで達し、ポンプ室と発令所を経てさらに連絡口を上昇すると、青葉たちの今いる格納筒の床をひたひたと浸し始めた。

新たに入り込んだ水の重みで、艦は少しずつ沈下している。艦の浮力が浸水にどこまで拮抗できるかが、青葉たちの運命の分かれ目と言えた。
 「肺の、気圧外傷を避けるには…」
 潜水衣姿の佳子が、両手で自分の胸郭を押さえながら話している。
 「こうやって、ゆっくりと海面まで上昇するの。で、息は絶対にこらえずに吐き続ける」
 「あ、ああ」悠良の方はやや苦笑気味だ。本番で心配なのはむしろ佳子の方だったが、その当人が懸命に解説しているのが可笑しかった。その間にも水位はまたたく間に上昇していき、ほんの数十秒で青葉の膝上にまで達した。
 配電盤が水で短絡(ショート)したらしく、天井の蛍光灯が消えて真っ暗になる。青葉が水の中の手に持った投光器の電源を入れると、灯火は藍色の水面が揺れるのにつれてゆらゆらと高い円筒形の天井を照らし出す。もう、水は胸元までせり上がってきていた。
 「…?」
 自由な左手を、横の薫が握ってくる。
 「少しだけ…いいですか…」
 投光器に照らされた表情は心なしか固い。水位は肩を越え、二人ともすでに床を蹴って立ち泳ぎを始めていた。
 「いいよ…もちろん」青葉は薫に笑いかけた。

 「すう…はあ…すうう…」
 薫は、手足をゆっくりと掻きながら呼吸を整えている。よほど真剣なのか、吐く息で口元の水面に小さな波紋ができては消えていた。
 「…怖い、薫?」
 薫は、無言でゆっくりと頷く。
 「…」
 青葉は、熱いものが胸を上ってくるのを感じると、水の中で繋いだ手をもう一度強く握り直した。
 「薫、上で会おうね」
 「…はい」緊張が少し解れたのか、薫は青葉の手を握り返すと、今まで見せたことのないような華やいだ笑顔を青葉に向けた。
 もう、格納筒の円い天井に頭がつかえそうだ。 
 「…すうううううううっ」
 青葉と薫は、天井の下にわずかに残った空洞で精一杯胸腔を膨らませると、唇をぎゅっと閉じて水面下へと頭を没した。

 (…)
 青葉は、足下を照らしながら、掌を上に向けた片手をゆっくりと頭上に掻いた。投光器の重さもあって、足はあっさりと格納筒の床につく。―そこには、あの機密キイで固定索を外された、銀のジェラルミン箱に梱包された「新号電探」が鎮座していた。
 積み込む時には揚収機を使ったくらいだから人力での運搬は不可能だったが、艦内が水没してしまえば、梱包箱の水密構造もあって浮力はかなり増すと思われた。
 佳子が、同じようにしてすぐ隣に潜ってくる。二人は互いに目で合図すると、梱包箱の艦奥側へと回りこみ、身体が浮かび上がらないように注意しながら箱を格納筒扉に向けて力を込めて推した。―一回、二回。架台から小型潜水艇用の運搬軌条へとどしんと落とし込むと、運搬は予想外に容易になった。

 薫の方は、二人の横で箱の曳航索がからまないように捌いている。曳航索のもう一方は、天井の下で浮いている二分がた膨らんだゴム製の救難艇に結び付けられていた。救難艇は、水深が浅くなればより大きく膨んでいき、箱を吊り上げるための浮球として機能するはずであり―海面に出た後も、上手くいけば乗員(クルー)も乗ってそのまま近くの島嶼まで運んでいくつもりだった。
 悠良は、三人より先に20メートル先の格納筒扉に向かって泳いでいく。三人が到着するまでに、手動把手を回して直径三メートル余りの扉を開放しておくのがその役目だった。
 青葉と佳子は軌条の上を梱包箱をぐいぐいと押していき、1分あまりかかって格納筒扉の手前に到達する。把手を回し切った悠良が扉を外に向かって開くと、青葉の目の前に艦外の弱い薄青の視野が広がっていった。深度は六〇メートルくらいだろうか。水温はひどく冷たいが、艦内がすでにことごとく浸水しているので、青葉は胸腔にも身体にも特に新たな圧迫は感じなかった。
 二条の軌条に沿って、ゆっくりと梱包箱を前部甲板に運び出す。天井の閊えがなくなり、薫が手を離したゴム製救命艇は気球のように頭上の海中に浮かび上がった。
 ―ここからが問題だ。救命艇の浮力の助けがあるとはいえ、これからは脚の力だけで海面までの垂直60メートルを運び上げなければならない。
 (…いくよ。一、二の)
 青葉の指の合図で、青葉と悠良が軌条の隙間に両手を差し込んで力を込め、佳子と薫は救難艇とを結ぶ曳航索に取り付いて頭上へと強く引く。箱がふわりと持ち上がり、青葉は足で甲板を蹴った。しかし、数メートル上昇したところで浮上は止まり、箱は再びどしんと甲板に擱座した。
 皆の息が合わなかったのだろうか。
 ―息?おかしな表現だった。この中で、誰一人息なんてしていないのに。
 (もも、もう一度)
 ともかく、このままではいつまでも甲板の上で上ったり下りたりを繰り返すことになってしまう。(…一、二の)
 (三)今度は上手くいった。甲板は足を離れ、ゆっくりと下へと沈降していく。

              

 (一、二、一、二…)
 拍子を合わせ、力を込めて両脚を掻いていく。やがて、眼下に〈ウンディーネ〉の黒々とした艦容全体が見えてきた。水圧に圧された眼の視界はぼんやりとしていたが、水が薄青に澄んでいるせいで、まるで身体が艦のずっと上空を飛んでいるようだ。
 (艦長…先任…生野君…みんな…)
 あの中には、まだ多勢の乗員(クルー)が眠っている。その亡骸は艦と共に深海へと沈んでいき、二度と地上へと戻ることはないだろう。ただし―青葉は思った―彼らが遺した「想い」のうちの幾片かは、この腕の重みと一緒にまだ私たちと共にある。
 「ごぼぼっ」
 青葉は気泡を吐いた。うっかり、息をこらえてしまっていたのだろうか。つとめて肺を絞るようにして息を吐くと、驚くほどの大量の泡が、あとからあとから口から出て行った。
 「ごぼごぼっ。ごぼごぼごぼごぼごぼぼ、ごぼぼっ」

 (一、二、一、二…)
 上へと泳ぎ始めてから、薫は頭の中でもう200まで数えることが出来ていた。―3分と、ええっと、20秒。格納筒の中での時間も考えると、潜り始めてどのくらいになるだろう。足下の〈ウンディーネ〉の艦体も、ようやく青い闇の中に没して見えなくなった。
 青葉は周囲を見回した。梱包箱の向こう側なので悠良の様子はよく分からなかったが、上で曳航索を引く佳子と薫はまだ力強く水を掻いている。そのぴんと伸ばされた足先が、まるで呼吸を知らない水妖精(ウンディーネ)のように、青葉の頭の真上でひらひらと左右交互に舞っていた。
 
 (一、二、一、二…)
 「ごっ、ごぼぼっ」
 また口から気泡が漏れた。青葉の吐息の粒は、すぐ上で佳子と薫の吐く泡の列と合流すると、はるかな水面に向かって上昇していく。
 ―少しは明るくなってきただろうか。でも依然として頭上は青一色で、待ち焦がれる太陽の光の片鱗さえ見えてこない。
 ふいに、冷たい変温層が呼吸を止めて久しい口元を風のように(くすぐ)った。

 (一、二、一、二…)
 そして、青葉は梱包箱をやや痺れてきた上腕で支え直すと、頭上のまだ見えぬ大気と陽光の世界に向かって、再び淡青の海水を力一杯蹴った。


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