「…主電動機始動」

 「主電動機始動、アイ」
  「潜舵上げ一杯。前部トリムタンク、ちょいブロー」
 「了解」
 2軸の電動機がふたたび唸り始め、気蓄器の圧縮空気が霧笛のような轟音と共にトリムタンクに注ぎ込まれる。深度90メートルを静かに遊弋していた<ウンディーネ>の艦体は、今や脈を打つようにその耐圧殻を小刻みに震わせながら、その艦首をゆっくりと頭上へと擡げていった。
 (仰角8、9…)水平計に小さく描かれた<ウンディーネ>のシルエットが徐々に斜めになっていく。それに合わせて甲板も傾き始め、隣の士官室では収納棚の中身や引き出しが床に叩きつけられる大きな物音がした。仰角が30を超えたところで両舷半速と後部トリムタンクへの注水を命じると、青葉はもはや床にまともに立っていることは出来なくなり、潜望塔に片腕でしがみつくようにしながら音波照準器を引き寄せた。
 「深度80…75…」
 薫が、青葉の代わりに深度計を読み上げる。これから<ウンディーネ>が採ろうとしている戦法は海技の戦術教範のどこにも出ていないものであり―それどころか、もしこんな解答を出したらどんな机上演習でも確実に零点を食らうだろう。まあ仕方がない、と青葉は思った。前部発射管の使えない潜水艦が、直上70メートルの敵潜を攻撃せよ、という設問自体が無茶なのだから。
 水平計の針は50度を指している。<ウンディーネ>の艦体は艦首を上にして起立し、前部から後部に至る内部区画はさながら1つの巨大な吹き抜けとなった。青葉は潜望鏡に腕でぶら下がるような姿勢となり、伸ばした爪先を横倒しになった海図台の縁に掛けて身体を支えた。他の三人も、壁面のように屹立した甲板で固定索で座席にへばりつくようにして耐えている。薫の例の下げ髪が、青葉の頭上1メートルぐらいのところを揺れているのが、奇妙でなぜか可笑しかった。
  「深度70…65…」
 青葉は、照準器に目を凝らす。弧を描いて航走する敵艦。その方位と距離と未来位置。当艦が排水(ブロー)をかけ加速し始めてから、予定速度に達するまでの時間。水圧と潮流の影響。思考が、電極のように目まぐるしく点滅した。
 「…曳航通信索、射出」
 「通信索射出、アイ」
 悠良が復唱する。―曳航通信索は、超長波の電信送受信に使う長さ30メートルほどの鋼鉄(ロッド)だ。後部上甲板から射出されたそれは、先端に付けられた浮標の浮力によってゆっくりと海面に向かって伸びていく。
 「…」
 ふいに、頭の中で多元連立方程式が交点を示した。
 ―今だ。今しかない。「トリムタンク、フルブロー。両舷前進一杯」
 「了解っ」佳子が、半ば裏返った声を上げる。
 排水量2,500トンの艦体が、狂ったように驀進し始めた。照準器の中の艦影がどんどん大きくなってくる。「深度50…40…」

             

 <ベルゼブル>の探信儀が、立て続けに探信音波を打ってきている。獲物の思わぬ反撃にうろたえているのか、連続するソプラノ音はこちらの位置の捕捉が目的というよりは、衝突を避けようとしての悲鳴に近かった。
 「深度30…」
 頭上で、ごぼごぼという気泡音がする。<ベルゼブル>が少しでも行き足を遅くするために注水を行ったのだろう。しかし、水中で制動機(ブレーキ)をかけられる訳でもなく、惰力のついた艦体はそのまま進み続けるしかない。
 ―艦影が青葉の照準器一杯になり、<ベルゼブル>の発令所要員が衝突を覚悟したに違いない次の瞬間。<ウンディーネ>は悲鳴を上げ続ける<ベルゼブル>の艦尾にのし上げるような格好で、その潜舵からわずか数メートルのところを通過した。
 「音源…艦底を通過」
 操艦を少しでも誤れば、両艦とも大破沈没は免れなかっただろう。悠良は、宙吊りになった操舵席で溜めていた息を吐くと、次の衝撃に備えて潜舵操舵輪を握り直した。

 同じように安堵の吐息を漏らしたであろう<ベルゼブル>の乗員(クルー)を再び恐慌が襲ったのは、それからおよそ8秒後のことだった。
 <ウンディーネ>が後部甲板から帯のように垂らした曳航通信索を、<ベルゼブル>の二重反転プロペラがその吸引力で絡めとったのである。鋼線材で作られた索は、回転翼によっても切断されることなくプロペラシャフトに二重三重に巻き付き、その回転を強制的に止めてしまうと、前進する<ウンディーネ>の張力を得てぴんと張り詰めた。
 ―来たっ。
 海面すれすれで反転し、艦体を軋ませながら艦首を再び下に向けた<ウンディーネ>の発令所で、青葉は真後に引き戻されるような衝撃を感じた。―<ベルゼブル>が索を噛んだ。自艦のスクリューの発するキャビテーション音のために確認はできないが、真後に伸びる長さ30メートルの索の先にはその推進器があり、制御を失ったその潜舵と横舵がある筈だ。
 「魚雷発射用意。後部5番6番」
 「5番6番、アイ」発射管制盤に向かった悠良が応じる。めくら撃ちの遠隔制御では距離雷速の調定も信管の作動も出来ないが、この距離なら外す心配だけはない。
 「…5番6番装填。発射管注水よし、外扉開放よし」
 「宣候。…通信索切断」
 「通信索…切断しました」薫の声が、打って響くように戻ってくる。青葉は最後に積算電流計のゲージを確認すると、深々と息を吸い込んだ。
 「5番、6番、てっ」
 ごとん、と2つの鈍重な射出音がして、両耳の鼓膜がぐっと押された。

 「音源…弱まります」
 魚雷命中音の後、聴音器に再び耳を澄ませていた薫が言った。
 「スクリュー音は?」青葉が訊く。
 「ありません…」薫が続けた。
 「気泡音、大…恐らく、機関停止して浮上中…」
 しかし、薫の報告の続きは悠良と佳子の発した歓声によってかき消された。さっきまでの沈痛さが嘘のように肩を抱き合い、それぞれの目には光るものが湧いている。びっくりしたようにレシーバーを外して首筋に掛けた薫は、そんな二人の様子をやや唖然とした表情で眺めていた。
 推進器と舵の大破した<ベルゼブル>は、自力航行能力を失って海面へと浮上していった。今の当艦に救助する余裕はなかったが、通信機さえ生きていればいずれは敵味方どちらかの哨戒機に発見されるだろう。
 青葉は、胸元のキイの感触を確かめると、目の前で右の掌をゆっくりと開いた。
 手の平は、さっきまで握り締めていたせいか半円の爪の跡があり、汗ばんでうっすらとした桃色に上気していた。
 ―大丈夫だ。私の手は、まだ血には染まってない。

 そして、青葉が振り向いてその歓声に連なろうとした矢先、深度計を見つめていた薫が振り向くと、ゆっくりとした口調で報告した。
 「少尉…艦の沈降が…止まりま…せん」

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