「掌機長…掌機長…」
 佳子が主機制御盤に突っ伏して、殆んどしゃくり上げるようにして泣いている。階級の上下はあっても、乗組以来父娘のように慕っていた後の喪失感は佳子には大きかったのだろう。
  主電動機の応急修理を終えた佳子が電池室に入ると、高崎は充満する硫酸蒸気の中で斃れていた。佳子、それに合流してきた青葉と悠良が3人で電池室の外に運び出した時には、もう手遅れであることは明白だった。高崎は、全身を焼け焦がすような強酸の渦の中で、その任務をやり遂げたのである。主電源は回復しており、蓄電池の電圧は通常航行を行えるまでに戻っていた。
  ただし、機関区画はガスの拡散を防ぐためには閉鎖せねばならず、主機と主電動機の遠隔制御はまだ可能とはいえ、これで艦内で無傷なのはもはや発令所とその前後の数区画だけとなった。艦長も先任将校も戦死し、満身創痍の艦体に残存乗員(クルー)がたったの4名。魚雷発射管は潰れて使えず、頭上は有力な敵艦に押さえられて逃げられるめどもない。今の<ウンディーネ>の置かれた状況は、悲惨なのを通り越して滑稽とも言えた。
 「うっ…うっ…」
 佳子の嗚咽は止まらない。発令所の配置に戻った青葉と悠良は、その声を背中に聞きながら、掛けるべき言葉を探していた。
 静かだった。電機類や配電盤の輻射熱のために艦内はねっとりと暑く、4人の体から立ち上る水蒸気が内殻の壁で冷やされて結露している。その雫の一つ一つが下の甲板に滴り落ちる音さえ、青葉の耳には聞こえるような気がした。
 「…音源、再び近づき…ます」
 薫が、耳のレシーバーに意識を集中させながら言う。
  「感度2…ほぼ頭上、方位左150。弧を描きながら…巡航中と…思われます」
  発令所の空気が重くなる。<ベルゼブル>は諦めていない。あたかも、獲物を追い詰めた猟犬のように、<ウンディーネ>の頭上を低速でゆっくりと航行し、獲物が絶望するのを待っている。 ―この深度に留まる限り、<ウンディーネ>が雷撃を受けることはない。しかし、<ベルゼブル>がすでに超長波無線で増援を要請している可能性は高く、敵駆逐艦の爆雷攻撃が始まったら沈没はまず免れないだろう。さらに、幸運にしてその爆雷の雨を凌げるにしても、長時間にわたる潜航のために艦内にはもう10時間分足らずの空気しかなく、いずれは一戦交えるのを覚悟で浮上しなければならないのは明らかだった。そう言えば酸素濃度が低くなってきたのか、青葉は自分の呼吸がいつの間にか浅く速くなってきているのに気が付いた。
  「うっ…」佳子が声を詰まらせる。
  「…帰りたい。(うち)に、帰りたいよ」
  「…いい加減にしろ」悠良が声を上げると、堪りかねたように席を立った。「佳子、辛いのはお前一人じゃないんだ」
  「…」
  「薫を見ろ。お前より2つも年下なんだぞ」
 「…」
  「先任が言っていただろう。『自分が苦しい時は、敵も苦しい』って…」
  「知らない」佳子は、いやいやをするように首を横に振った。「私に『敵』なんかない。…どうして。先任も、艦長も掌機長も、どうしてここまでやらなくちゃいけないの」
  「佳子っ…」
 悠良は、言葉を失って一瞬たじろぐ。そして、右手を拳にすると、うつむく佳子に向かって大きく腕を振りかぶった。
 無意識のうちに、青葉の身体が動いた。
 跳躍し、輪転台越しに悠良の身体に飛びつく。平衡を失った2人の身体は、折り重なるようにして狭い甲板を転がった。
 「…青葉?」
 「悠良、だめ」喋ると、唇を切ったのか口の中が血の味がした。
 組み伏せられた姿勢になった悠良が、驚いて青葉の顔を見上げる。青葉はうん、と頷くと、手の甲で唇を拭いながら立ち上がった。酸素が薄いせいか、少し動いただけなのに驚くほど息が上がっている。
  「佳子…」青葉は口を開いた。佳子も薫も、まじまじと青葉の顔を見つめている。
  「そうだね、帰ろう、佳子」
 3人が息を飲む気配を感じながら、青葉は言葉を続けた。「私も…敵とか故国とかって…正直、ピンとこないよ。あの日…あの開戦の臨時放送があった朝から全部が変わって、時間が経つのがどんどん早くなって…いつの間にか海軍士官にされて、戦えって言われて…そんな感じ」
 「…」
 「だから…どうして<みんな>がここまでやったのか…それに、私たちがどうしてやらなくちゃいけないのかは、私には説明できないと思う…。多分それは誰にも…ずっと後世の人たちでもなければ、本当は出来ないんじゃないかな」
 「青葉…」悠良も、打撲したらしい額を押さえながら立ち上がる。
 「ただ…<みんな>がやり遂げようとしたこと…<みんな>の『想い』は、私たちは背負っていかなくちゃならない…それは、<みんな>が生きた証であり、私たちが生きる証でもあるんだから」
  「…」
  青葉は、酒匂から渡された2つのキイを略衣の胸ポケットから取り出すと、その鎖の環を脇にある潜望塔の旋回把手に掛けた。把手には、酒匂の軍帽が、主を失ったままなおも掛けっぱなしになっている。鎖の環が、艦の振動につれてゆらゆらと動いた。
 「…分かったよ」悠良は、ことさらに渋々とした口調で言った。「帰ろう、内地へ。上の、あのしつっこい奴を蹴散らして、もう1人の犠牲も出さずに。…もちろん、そこの泣き虫機関少尉殿も一緒だ」
 悠良はそう言いながら、青葉が掛けたばかりのキイの鎖を旋回把手から外すと、青葉の片手を取って丁寧に握らせた。
  「悠良?でも、これは…」
 「願います、艦長」悠良はややいたずらっぽく微笑む。
  「艦長?私が?」
  青葉は驚いて悠良の顔を見返した。確かに、武官服務令の規程に従えば同期の少尉であっても戦術戦略課程修了者である青葉が最先任となる。もっとも、巡洋潜水艦の艦長に新任少尉が就いた前例などまずないだろうが。
 「…でも」
 青葉はキイを返そうとするが、悠良は譲らない。
 「…大丈夫。出来ます…少尉なら…」
 水測手席の薫が、身体を青葉の方に向けて言う。佳子も、いつの間に泣き止んだのか、まだ両目を腫らせながらも無言で青葉に柔和な笑顔を向けた。
  「…」
 青葉は、掌の中のキイをぐっと握り締めた。そして両手で鎖の環を持つとペンダントのように首に掛け、先端のキイは胸元に入れて肌着の下に吊った。金属の冷たい感触が、汗ばんだ肌に心地よかった。
 「うん…」3人の視線を感じながら、青葉ははっきりとした口調で言った。
 「水雷戦…用意っ」

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