揚力を失った航空機のように、傾いた<ウンディーネ>の艦体は海底へと向かって一直線に滑り落ちていく。ついさっきまで30あたりを指していた深度計はまたたく間に右に傾いていき、100の目盛をやすやすと超えた。
 「くそっ…くそっ」
 操舵輪を握る悠良が、艦位を立て直そうと躍起になる。この速度では、舵をわずかに引き起こすのさえ凄まじい力が必要なはずだった。
 「ネガティブ・ブロー。薫、深度計を読み上げて」
 「了解」薫と佳子の声を背後に聞きながら、青葉は前に大きく傾斜した甲板を滑るようにして操舵席の悠良のところまで移動した。これで駄目なら、もう艦を浮かせる方法はない。青葉は、呻吟する悠良の背中に身体を付け、伸ばした両手を重ね合わせるようにして前の操舵輪を握りしめた。
 「…いくぞ、青葉。一、二の」
 「三」体重をかけて引っ張る。―硬い。電力操舵の助けがあってさえ、舵を数センチ動かすだけでも腕の筋肉が水圧に負けてしまいそうになる。
 「深度130…140.…」安全深度が近づき、深度計の針は赤のゲージを指している。
 「ネガティブ・ブロー完了」佳子の報告は悲鳴に近い。
 「もう一度。一、二の…」
 「三」―手応え。舵がさっきよりも軽い。排水(ブロー)が利いてきたのか、<ウンディーネ>の艦体は渋々ながらも青葉たちの操舵に応え始めた。
 「深度150…160…」
 水圧で、鋼鉄の耐圧殻がみしみしと軋み始める。圧壊するまでに間に合うか。
 「止まれええっ」
 「お願い、止まって」悠良と青葉の声が重なり合った。
 「180…90.…」

「前後水平…沈降、止まりました」
 薫の声を聞くと、青葉は全身の筋肉が弛緩するのを感じた。悠良も、「…ふう」と大きな息をつくと、力尽きたように操舵輪に凭れかかる。
 深度200。安全深度を50メートルも超えてやっと踏みとどまった艦は、21気圧―1平米あたり実に21トンもの、過重な水圧に晒されていた。酒匂の操艦でも、ここまで深く潜ったことはない。浸水がないのが不思議なくらいだ。
 「各部、被害状況」
 青葉は、一様にほっとした表情を浮かべる乗員(クルー)の顔を見渡しながら言う。さっきの無茶な魚雷戦のせいで、艦には相当無理がかかっている筈だった。
 「潜舵横舵、動作正常」
 「聴音器並びに電波探信儀、異常なし。新たな浸水区画なし」悠良と薫が口々に答える。
 「主電動機、一、二とも電圧正常。各タンク並びに排水弁…」
 佳子の報告が、ふと口ごもるようにして途切れた。
 「…どうしたの、佳子」
 「…ごめん」佳子は、計器類を凝視したままで言う。「…排水弁動作不良…青葉、主ベント弁、途中までしか閉じなくなってる」
 「…」
 三人は息を呑んだ。

主ベント弁を閉鎖できなければ、メインタンクの排水はできない。今や、前後のトリムタンクを全て排水してやっと釣り合っているのだから、メインタンク抜きでは浮力が足りないことは明らかだった。そしてそのメインタンクが使えないとなれば―考えたくはないが―この深々度から浮き上がる方法はない。
 「待って…」
 佳子は何度も操作するが、その表情は次第に焦りの色を濃くしていく。青葉も作業に加わったが、弁が閉じることはなかった。
 ベント弁の故障―潜水艦の沈没原因としては、さほど珍しくはない。外殻に開いた排水弁を、艦内で応急修理することは不可能だからだ。この手の話は、青葉も海技にいる時にいろいろと聞かされた。浮上できずだんだん酸素が欠乏していき、最後は棚の引き出しやマッチ箱まで開けて酸素をむさぼり吸ったとか、錯乱した兵が100メートルの深度で昇降口を開けようとしたとか。酸素の吸いつくされた艦内では遺体は腐敗せず、氷室の中のように何年もきれいな姿でいるという。―このまま酸素がなくなれば、自分たちも蝋人形のようになってこの深海を漂い続けるのだろうか。そういえば空気はさらに濁ってきたらしく、もはや肩で呼吸をするようにしなければ息が苦しい。
 「…くそっ、真っ平だ」悠良は制帽を脱ぐと、制動盤に強く叩きつけた。「『物資』…せっかく、ここまで来たってのに…」
 薫は相変わらず落ち着いているが、やはり苦しいらしく少し前屈みで肩で息をしている。
 「諦めちゃ、だめっ」青葉ははっと我に返ると言った。「考えて。考えるんだよ」
 ―何か、何か方法はないだろうか。救難信号?この深度では、1分数文字の超長波電信すら使えない。第一、通信索はさっきの戦闘で切断してしまった。救難浮標?同じく却下。たとえ艦外に放出できても、味方艦に発見される頃には酸素は尽きているだろう。他には、他には…?
 「一つ…あるよ」
 佳子が口を開いた。顔色は蒼ざめていたが、口調はきっぱりとしている。
 「何?」
 「何…何だ」悠良も、俯いていた顔を上げる。
 「ベント弁を直すの、私たちで」
 「えっ」青葉は、やや失望した。「でも排水弁の修理なんて、母港の工廠でもなければ…」
 「この艦には、加減圧室の設備があるでしょう。小型潜水艇用の」佳子が続けた。「だからあれを使って、私たちが潜っていってベント弁を直すの。外から」
 「…」
 三人は、今度こそ呆気に取られてしまった。

 「…そんな無茶な。ここは深度200もあるんだぞ。人間の身体なんて、出たとたんに潰れちまう」
 「だから、加減圧室を使うの」佳子は反論した。「前もって、外の…21気圧まで加圧しておいて」
 「加減圧器の加圧能力は…10気圧…です」薫が口を挟む。今の艦内が1気圧だから、目標には10気圧分も差があることになる。
 「…」
 黙ってしまった佳子を見ていて、青葉はあることを思いついた。
 「…気蓄器の空気を艦内に放出するというのはどう」一同が振り向く。「あと排水(ブロー)2回分くらいの余裕はあると思うし…第二甲板の送気管をいじれば、何とかなると思う。それで…艦内気圧を予め4、5気圧にしておくの」
 「そうか」技術者志望の血が疼くのか、佳子の顔がぱっと明るくなった。「それなら、加減圧器で14、5気圧まで行けるかも。二段階加圧方式だね」大判の艦内図面を取り出して海図台の上に広げ始める。
 「残りの6気圧は…気合でカヴァー…ですね」薫が表情を変えずに言う。
 「滅茶苦茶だ」悠良が呆れたように言った。「そもそも、今回の作戦では潜水艇は積んでいないし…潜水服も潜水具も降ろして、搭載筒には予備燃料缶と例の『新号電探』しかないはずだ」
 「…『新号電探』?」
 いぶかしげに訊く佳子と薫に、青葉は酒匂から聞いた新兵器の概要を説明した。
 とにかく、主ベント弁の応修のためには、乗員(クルー)のうち誰かが21気圧までの加圧に耐え、潜水艦の安全深度さえ超える深海を生身で泳ぎ、後部上甲板にある修理箇所との間を往復しなければならず―その作業内容は明らかに常人の限界を超えていた。大体、そこまで息が続くだろうか。一旦は佳子の発案に色めきたった乗員(クルー)たちにも、試練の大きさがはっきりしてくるにつれて再び沈鬱な雰囲気が広がり始めた。
 「加減圧室での加圧に40秒、作業箇所まで泳ぐのに30秒…」
 佳子は図面上で所要作業時間を計算しつつも、落胆の色を隠しきれない。
 「作業に…1分50秒、戻るのにまた30秒で…合わせて…」
 「3分30秒」
 悠良が代わりに答えてしまい、俯いていた佳子ははっとして顔を上げた。―3分30秒。海技の大プールでの静止閉息訓練ならいざ知らず、今の条件ではほぼ絶望的な数字だ。

 「…まったく、佳子は人使いが荒いな」
 「えっ?」悠良の意外な言葉に、佳子は驚きの表情を浮かべる。
 「もし死んだら、末代まで祟ってやるからな」
 「悠良…それじゃ…」
 「榊…少尉…」
 青葉と薫が口々に言うと、悠良は涼やかな顔をして頷いた。
 「ありがとう…悠良」佳子はまた涙ぐみそうになっている。悲しくても嬉しくても泣くのは、ひょっとして涙腺が緩いのかもしれない。
 「でも大丈夫。私も、行くから」
 「えっ」今度は悠良が驚く番だった。
 「うん」佳子は頷いた。「工具や投光器を運ぶのに、最低2人は必要だし…それに、この(フネ)の構造に一番詳しいのは、機関科の私だと思うから…」
 「…」
 「いいよ、佳子」青葉は思わず口を挟んだ。佳子は身体強壮というわけではなく、潜水もあまり得意ではないはずだ。「私。私が行くから」
 「私が…行きます…」
 すると、第四の、最も意外な志願者が出現した。
 「か、薫?」青葉は言葉に詰まった。「いいよ、だから、私が」
 「水無月少尉は…艦長です。艦長は…艦に留まって指揮を執るべき…です」
 「それは、そうだけど」青葉は答えた。「薫は…その、気を悪くしないでね、小さいし華奢だし」
 「それは…作業には関係ありません」薫が淡々と答える。「私の…潜水学校の実技考査の成績は…鈴谷少尉よりも…ずっと上です…」
 「…」
 そういえば、薫は潜水学校の首席卒業者だった。となると、薫はこの小さな身体であの過酷な6分間の閉息訓練を耐え抜いたことになる。
 「それに…」薫は続ける。「敵潜の脅威がなくなった今…私の配置でやるべきことはもうありません…私は…可欠(ディスペンサブル)です」
 「薫…」薫の言葉に青葉はたじろいだ。佳子と薫の二対の眼差しが、射るように自分に向けられている。―このうち、どちらか一人に決死の任務を命じなければいけないのだ。
 重い。酒匂は、こんな重荷に耐えながら艦長を務めていたのか。
 「…分かった。薫、お願い」しばしの沈黙の後、青葉は言った。
 「…でも、自分を可欠(ディスペンサブル)なんて言わないで。薫は機械じゃなくて、私の大切な乗員(クルー)であり、仲間なんだから」
 「…はい」生真面目な表情のまま、薫は照れたように頬を赤らめた。


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