発射管室の被害は凄惨だった。
雷撃の爆圧によって発射管はねじ曲がり、管内を押し戻された2本の魚雷が内扉を打ち破って尾框を甲板に突き立てている。発射器員の1人の肉体はその間に挟まれて奇妙にねじれ、もう1人は衝撃で跳ね飛ばされたのか、海水と
酒匂は、甲板に散乱する備材を拾い上げると上衣を脱いでぐるぐると包み、破口に向かって力一杯押し込んだ。迸る海水が、冷たい刃のように容赦なく身体を叩きつけてくる。両腕は氷のように冷え、そのまま痛痒に耐えているとすぐに感覚がなくなってきた。
「…ぐっ」
艦体がふいに大きく右に揺らいだ。次の瞬間、酒匂はその目の端で予備魚雷の固定索が弾け、頭上の魚雷架台から一本4トンの重量が滑り落ちてくるのを捉えていた。
「深度80…前部トリムタンク、ちょい
「了解。艦首上げ10度、艦尾下げ5度」
「ありがとう。俯角3…2…」
海水を呑んで重くなった<ウンディーネ>の艦体は、なおも10メートルほど沈下してから、ようやくその鈍い行き足を止めた。
「…ただいま水平。機関室、両舷停止願います」
「…両舷停止、アイ」伝声管越しに、佳子のくぐもった声が返ってくる。
主電動機の甲高く不規則な回転音が止むと、発令所はふいに静かになった。推進力を失った〈ウンディーネ〉の艦体は、前後水平を保ったまま海面下90メートルの深々度を漂い始めた。自動排水弁の注排水音が、まるで遠くの汽笛のように奇妙に響く。
「佳子、主電動機の調子はどう?」
「なんとか大丈夫。過負荷気味だけど、少し冷やせば…」
「掌機長は」
「電池室…蓄電池がかなり液漏れして…」
「…」
―電池室。加熱した蓄電池から発生する硫酸蒸気は、人の皮膚などまたたく間に爛れさせてしまう。いくら防毒面があるとは言っても、その酸性の渦は高崎掌機長の肉体を今にも蝕んでいる筈であった。
「…待ってて。前部の浸水を何とかしたら、すぐ行くから」
「…了解」佳子の声は頼りなげだ。
悠良は、操舵輪を固定すると早くも前部区画への水密戸を潜り抜けていく。青葉もすぐに続こうとしたものの、現状の艦の人員配置を考えてふと躊躇した。自分がここを離れれば、発令所に残るのは水測手の薫1人になってしまう。
「行って…下さい」薫は青葉の考えを察したらしく振り向いた。「自動懸吊装置の監視ぐらい…私でも…できますから」
「…分かった。しばらくお願い、薫ちゃん」
「『薫ちゃん』は…やめて下さい」照れたのか、鼻のあたりを少し上気させて抗議する。薫に任せておけば、当面は大丈夫だろう。青葉は、応修用の耐水電燈と電源を片手でつかむと、悠良の姿を追って前部隔壁の段差を飛び越えていった。
前後に細長い第一兵員室を走り抜けて、腕に抱えた耐水電燈のスウィッチを押しながら前部発射管室へと進む。電燈の青白いハロゲン灯は暗い赤色灯に馴染んだ目には辛く、青葉は何度か両目をしばしばと瞬き、そして左舷側の予備魚雷が架台から外れ、荷崩れを起したように不揃いに重なり合っているのを見て取った。
浸水も激しく、溜まった海水がきらきらと電燈の灯りを反射している。悠良は甲板に両膝をつき、海水に下肢を洗わせながら、魚雷の荷嵩の下に向かってしきりに声を掛けていた。
「…艦長、艦長っ」
青葉も、突起物に注意しながら浅瀬のようになった甲板をざばざばと渉る。悠良の足元では、腰の上までを魚雷の筒体の下敷きにされた酒匂が、仰向けの姿勢で横臥していた。
「艦長」
悠良が酒匂の肩と上腕をつかみ、引きずり上げるようにして力を込める。しかし、数トンの重さに押さえ込まれた体はびくもせず、酒匂は苦痛に顔をゆがめると低い唸り声を上げた。
「…水雷長、冷静に」
「しかし」
「…足がなま温かい。腿の動脈をやられたのだろう。どのみち、無理だよ」
青葉が目を転じると、確かに酒匂の両足の付け根のある辺りから、薄赤色の膜が花弁のように水面に広がっていた。
「もうじき、ここの隔壁も閉まる。その前に、お前たち2人は発令所に戻るんだ」
「…そんな」青葉が嘆息するように言った。
「私には…お前たちに助けを求める資格は…ない」
しばしの沈黙の後、酒匂は2人を見上げるようにしながら言った。
「…私が海技を卒業した頃には、時代のせいもあって私も同期の連中も実に意気揚々としていてな…『故国に仇なす蛮夷を防ぎ、進んで護国の
「艦長、何を…」
「…」遮ろうとする悠良を、青葉は無言で制した。
「だが…いざ戦争が始まると、航海で家を留守にしている間に、私は敵機の空襲で妻と息子を喪った」
「…」
「私がいなかったために、火の中で逃げ道を失って焼け死んだのだ。…国を護ると意気込んでいた人間が、笑止なことに自分のたったふたりの家族さえ守れなかった」
「…でも、それは」
「そうです。それは艦長の責任ではありません」
青葉は悠良に続いて言った。家庭的には不幸な指揮官だとは聞いていたが、この話を聞くのははじめてだった。
「…残された私は、償うためには何でもすると誓った。そして、潜水艦乗りとして1杯でも多くの敵艦を沈め、1日でも早くこの戦争を終わらせることが、私の責任だと思った。そのためには、どんな犠牲さえ厭わない、とも」
「…」
「だが…敵艦を沈め、部下の将兵たちを殺すたびに…償いをするはずの私の手は、どんどん血で塗られていった。私の選んだのは、実は、修羅の道だったのだ」
「艦長…」
水位はさらに上昇し、横たわる酒匂の首筋にまで達している。酒匂はふいに顔を歪めると、「ぐっ」と口の端から血の泡を吐いた。負傷は、酒匂の下半身だけでなく肺や胸腔にまで及んでいるらしい。
「か、格納筒の『物資』は…」
「艦長、しゃべらないで下さい」
「『物資』は、わが同盟国の開発した、超短波を利用した新型電波探知機だ…」酒匂は、青葉の制止を遮って言う。
「…」
「『新号電探』ですか?…」
問いかけた悠良に向かって、酒匂はゆっくりと頷く。―「新号電探」。部隊内でもおぼろげながら概要が伝わっているそれは、噂では探知範囲無制限の万能電探ということだった。
「同盟国とわが国…大洋のあちらとこちらに1対の装置を据えて、互いに電波を輻射する…そして、干渉波の位相のずれによって、その間のあらゆる艦船の位置が、掌を指すように分かるのだそうだ…」
「…」
青葉と悠良は沈黙した。もしそれが真実なら、ひたひたと包囲線を狭めつつある敵艦隊群を撃滅、いや、撃滅は無理としても、動けば必ず敗れる千日手の状態に置くことが出来る。その間にもし講和の機運が高まれば、戦争の常道―どちらかが全滅するまで戦うという近代戦の常道―を辿ることなしに、この戦争を終えることができるかも知れなかった。一初級士官の考えることとしては、いささか気宇壮大だとしても。
「どこまでが真実かは、私には分からない…」酒匂は続けた。「だが、今回の作戦命令を受けた時、私は心の中で作戦部を呪った。なぜもっと早く、おれの手がここまで穢れる前に、この命令を私に与えてくれなかったのかと…」
「艦長…」
「しかし、それも済んだことだ…運命などという言葉は使いたくないが…こうなることも、私にははじめから、分かっていたような気が、す、る…」酒匂は噎せ返ると、また血の塊を吐いた。
「艦長、しゃべらないで…」
「申し訳ありません。俺今まで、全然事情を知らずに…」
青葉は膝まづくと酒匂の肩と頭を支え、悠良の方はのしかかる魚雷の筒体を押し上げようと両腕に渾身の力を込めた。しかし、当然ながら筒体は1センチも動かない。
「<ウンディーネ>は、いい
「旧式だが、動かす者には必ず応えてくれる。たとえ最後の数人となっても、その者たちが諦めない限りは、必ず…」
「…」
「潜航長…」酒匂は、身体を支える青葉に改めて目を向けた。
「私が見るところ、潜航長は、すぐれた指揮官の素質がある…まだ荒削りだが、これから伸びていく者が持つ、芳香のようなものが」
「そんな…」
「修羅道に堕ちた際の人間としては、いささか申しわけないが…どうか『電探』を…そして、この<仕様もない戦争>を…」その両目は、力尽きたようにゆっくりと閉じられた。
突然、青葉の目の奥に生野の白い立ち姿が蘇った。
(…先輩なら、このしょうもない戦争を終わらせてくれるんじゃないかって)
その童顔が、屈託なく微笑みかけてくる。(俺、先輩を死なせたくないんです)
(…よろしい)
矢作も、油まみれの古武士然とした顔を破顔させた。
―自分は、また見ているだけなのだろうか。死んでいく人を、何することも出来ずに。
青葉は、ふと自分の右手を酒匂の手が握りしめているのに気付いた。その中には1対の真鍮の鍵があり―1つは、潜水艦長の指揮権の象徴である主機の始動キイであり、そしてもう1つには同盟国語で「軍極秘」の刻印が押されていて、その使途は自ずから明らかだった。
―ちがう。
青葉は、2つの鍵を手の平が赤くなるほどまた握りしめた。
―見テイルダケジャナイ。ジブンハ、コノヒトタチノ想イヲ受ケ継グタメニ、ココニイル。
浸水を知らせる警急電鐘が鳴り響く。青葉が静かに立ち上がると、支えを失った酒匂の上体は序々に水面の下に没していった。隔壁閉鎖まであと僅かしかない。青葉は、なおも作業を続けていた悠良を促すと、流れ込む海水に足を取られながらも、間一髪のところで水密戸の外へと潜り出ていった。
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