「…第二兵員室、圧力均等」
佳子が報告した。肩から上が計器類の青白い夜光塗料に照らされていて、目が泣き腫らしたように潤んでいるのが分かる。
 「水流音、止まりました」
 と、薫が耳のレシーバーに手を当てながら言う。こちらは、いたって冷静だ。
 後部隔壁の閉鎖から20分。この2つの事柄は、隔壁の向こうに留まった矢作たち応急班が浸水を食い止めることに成功したことを示していた。
 「…前部トリムタンク、注水」
 「前部トリムタンク注水、アイ」
 青葉が酒匂に復唱する。制御弁を力をこめて回転させると、ぷしゅっと気の抜けるような音がして〈ウンディーネ〉の艦体はまた新たに数十立方メートルの海水を呑み込み始めた。自動懸吊装置の助けを借りて、目の前の水平計の針が徐々に平らに戻っていく。
 浸水は止まり、火災はおそらく室内のすべての酸素を貪った後鎮火した。閉鎖区画の気圧計は「5」あたりをうろうろしていて、温度計はまだ異常な高温を示している。
 ―この分では、生存者はまずいないだろう。しかし、今すぐ潜航をやめて浮上すれば、或いは。
 「…艦長、浮上しましょう」
 操舵席の悠良の声に、青葉ははっとして顔を上げた。
 「浮き上がれば水圧もなくなるし、隔壁を開けても新たな浸水の心配はないはずです。それに、水の上なら万一また火が出ても何とか」
 「…駄目だな」酒匂は、悠良の言葉を遮って言った。
 「どうしてですか」悠良はやや気色ばんだ。
 「まだ敵がいる」
 「でも、逆探にはもう何も…」悠良は食い下がり、考えを凝らすように腕を組んで瞑目してしまった酒匂に向かって言う。「これじゃ、乗員を見殺しにしたことになります」
 「水雷長。意見具申の許可は与えていないぞ」
 酒匂が冷ややかに言う。悠良はうっと言葉に詰まると、怒りの眼を酒匂に向けた。
 「どうして、艦長は…」
 青葉も、何か言おうとして口を開いた。しかし、生野の白い後姿が突然ちらりと脳裏を横切ると、まるで声を失った人魚のように、口蓋を動かしても声を出すことが出来なくなった。

 「音源発生!左舷、高速スクリュー音…」
 ふいに、薫が青葉の想念を打ち破るように鋭い声を上げた。
 「雷数1…もとい、雷数2です…。方位左○六○」
 酒匂は、ゆっくりと両の瞼を開けた。
 「右舷前進一杯、左舷後進一杯」
 「右舷前進一杯、左舷後進一杯」佳子は慌てて推進器に取り付くと、2本の制御桿を交差させるように奥と手前に倒しこんだ。「そんな…」と一瞬狼狽の色を見せた悠良も、続いて取舵一杯を命じた酒匂に従って横舵操舵輪を大きく左に回す。さっきまでの静けさが嘘のように2基の主電動機が唸りを上げ、舵が利いてくると同時に艦体が大きく右に傾斜する。海図台から図表や製図具が滑り落ち、リノリウムの床に散乱した。
 「速度変わらず。感度2…感度3…」
 薫が報告し終えると、ふいに頭蓋をつき抜けるようなソプラノ音が発令所に響き渡った。
 「耳」とも言うべき小型電波探信儀(アクティブ・ソナー)と追尾機能を備えた敵の新鋭高性能魚雷。<ベルゼブル>級大型潜水艦に装備されるそれは、さっきの戦闘で僚艦<ノーム>を一瞬にして屠ったのと同じものだ。
―<ベルゼブル>が戻ってきた。あたかも一艦の犠牲では物足りないというように、その口の端から血を滴らせながら。
 「魚雷発射用意。1番から4番」
 
酒匂が命令する。青葉が振り向くと、酒匂は軍帽を後ろ前にし、すでに脇の潜望塔から伸びる音波照準器を目に当てている。「雷数4。1番から2番は加式、3番4番は通常魚雷」
 「了解っ」悠良が復唱すると、脇の襲撃連動盤と魚雷発射管制盤を猛然と操作し始めた。
 「発射管1番及から4番、雷数4、加式2及び通常魚雷2装填」
 「スクリュー音、感度4、方位正面」と再び薫。
 両舷前進一杯」
 「両舷前進一杯、アイ」佳子は再び制御桿をがちゃがちゃと操作する。
 「発射管注水終わり。外扉、開きます」と青葉。
 「よし」酒匂は音波照準器に目を押し当てたまま答える。照準器には逆探が捉えた音源が極小真空管の波形として表示され、魚雷の方位と発射角をある程度制御できるのだ。
 「発射後、当艦は反航しながら敵艦に第2陣を発射する。各員、対衝撃防御」
 「アイ」発令所員の声が重なった。
 再び、海水の層を貫いてソプラノの金属音が響く。音はさっきよりずっと大きく、命中まではあと僅かしかない。
 「用意…」
 各員が酒匂の汗ばんだ横顔を凝視する。
 「1番、2番、てっ」
 悠良は管制盤の魚雷発射釦を押した。発射による圧搾空気が艦首から発令所まで吹き抜け、青葉は自分の鼓膜がびりびりと震えるのを感じた。
 「続いて3番4番。雷速40、距離500」
 「…3番4番、雷速40、距離500、アイ」
 全長7.15メートル、重量4.1トンの2本の加式魚雷が駛走する。加式―迎撃(カウンターメジャー)式の名前が示す通り、頭部には敵魚雷のソナーを欺瞞するためのアルミ金属片(チャフ)を500キロ搭載している。調定距離に従って頭部の蓋が分解し、チャフを海中に撒き散らす仕組みで、例の「耳つき」魚雷による被害急増に対応するための潜水本部の苦肉の策だった。
 「計時始めます。15、14」
 薫が、手元の秒数計でチャフ撒布までの時間を数え始める。破裂音に備えて聴音器の感度を絞り、かぶり直したレシーバーの下にはやや光沢のある2束の下げ髪が見えていた。
 「10、9」
 青葉は足を踏みかえ、右手で伝声管を、左手で背後の潜望鏡塔の凹凸を掴む。座席のない潜航長の配置では、対衝撃防御と言ってもそうする以外にない。
 「3、2、1、いま」
 数秒間の沈黙。そして、
くぐもった爆音と共に身体を押し戻すような衝撃が伝わってくる。チャフの撒布幕が、絶妙のタイミングで敵魚雷を捕捉したのだろう。
 「…やった」と悠良が呻くように言う。
 「まだ早い…です」薫が応じ、整相把輪を回しながら気泡音に掻き消されそうになる音源の行方を探る。さっきの爆音は1つだけだった。であれば、もう1弾は撒布幕を突破して依然駛走中と考えなければならない。「これだっ…。スクリュー音、方位左〇一○…」
 次の瞬間、すさまじい衝撃が発令所を圧した。
 内殻が激しく振動し、配電盤や天井の電気配線が火花を散らす。赤色灯が何度か瞬くとふっと消え、ニ次電源が作動するまで発令所は一時洞窟のような暗さとなった。両足を踏ん張り、何とか身体の平衡を保った青葉の横で、配置から投げ出された佳子が甲板で上体を痛打する。「きゃっ」
 「被害状況!」酒匂が声を荒げる。
 「前部魚雷発射管室、浸水」青葉は、艦内状況表示盤の青白い警告灯を見ながら言った。
 「第二主電動機…電圧低下」身体を起した佳子が、弦の曲がった眼鏡を押さえて言う。「掌機長より報告…電池室、硫酸ガス発生」
 「何ノットなら出せる」
 「5ノット可能」
 「話にならん。10ノット出せ」
 「了…了解」
 掌機長の高崎兵曹長は、伝声管の向こうで酒匂の命令を受けてしばし絶句していたが、「了解。やります」とやや憮然として言った。「ただし、これ以上食らったら保ちませんよ。主電機が焼けちまう」
 「艦首、下方(ダウン)トリム拡大」
 青葉が声を上げる。傾斜していく水平計を横目に見ながら、青葉は伝声管で魚雷発射管室への呼び出しを繰り返した。「発射管室。応答せよ、応答せよ」今度は気流音も何も聞こえないのは、もしかすると伝声管自体が破断しているためかも知れない。
 「応答ないか」と酒匂。
 「…ありません。発射管が損傷したみたいで、魚雷発射も現状では無理です」
 「…」
 酒匂はしばらく正面縦壁の計器類を睨んでいたが、やがて油と汗で汚れた軍帽を深く被り直すと言った。
 「艦首下げ一杯。メインタンク注水」
 一同ははっと息を呑んだ。―狂気じみた命令だった。艦は前部と後部に浸水区画を抱え、主電動機は酷使に耐えかねて悲鳴を上げている。この状態でさらに潜航したら、二度と浮かび上がれないかも知れない。
 「危険すぎます」悠良が言った。「せめて、浸水を食い止めてから…」
 「その時間はない」酒匂がきっぱりと答える。「奴の(ソナー)が回復する前に、底に潜り込む。深度90で水平、無音潜航に移る。急げ」
 「…ア、アイ」悠良は弾かれたように潜舵操舵輪に取り付くと、力を込めて手前に引いた。主電源の使えない人力操舵では、二の腕に力瘤ができるほど引かなければ舵は動かない。悠良の額には汗が噴き出し、鼻梁を伝ってぽたぽたと床に滴り落ちた。
 「鈴谷少尉」
 「はいっ」佳子が酒匂に答える。
 「機関室に、掌機長の応援に行ってくれ。ガスが発生しているなら、防毒面を忘れるな」

 「わ…分かりました」応急工具類をがちゃつかせながら、佳子が水密戸の向こうに消える。
 青葉は、素早くトリムを2算しながら、18の区画に分けられたバラストタンクに次々と注水していく。注水表示灯が全て緑に点灯する頃には、艦は勢いのついた台車のように、20度の俯角で海底に向かって滑り始めていた。
  「深度40…50…」
 青葉が、針をゆっくりと右に倒していく深度計を読み上げる。
 「60…70…」
 「逆探回復します」薫が報告した。「推進器音…2軸…ほぼ直上、遠ざかります。感度3…感度2…」
 「うむ」酒匂は頷いた。<ベルゼブル>は追ってきていない。酒匂は、無造作に軍帽を脱ぐと、片手で傍らの潜望塔の旋回把手に掛けた。
  「潜航長、しばらく頼むぞ」
 「…えっ」
 青葉が問い直すより先に、酒匂のずんぐりした体躯は前部隔壁を潜って消えていった。

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