主要登場人物

水無月 青葉・・・海軍少尉。巡洋潜水艦〈ウンディーネ〉潜航長兼砲術長。17歳。

榊  悠良 ・・・海軍少尉。同水雷長。17歳。
鈴谷 佳子 ・・・海軍機関少尉。同機関科分隊士。17歳。
秋水  薫 ・・・海軍上等水兵。同水測手。15歳。
酒匂 種彦 ・・・海軍少佐。同潜水艦長。36歳。
矢作  稔 ・・・海軍特務大尉。同先任将校(航海長)。42歳。
生野  良 ・・・海軍一等水兵。同水雷科員。16歳。
高崎  清三 ・・・海軍兵曹長。同掌機長。45歳。

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 断末魔の一弾だった。

 
大傾斜する〈イフリート〉の前部発射管から放たれた3つの魚雷―距離も雷速も未調定であったに違いないそれは、一種悪魔的な正確さで艦に向かって疾走してきた。
 
第一弾は艦の右舷後方を通過し、第二弾は甲高い駛走音を立てながら艦橋構造(セイル)左すれすれを掠めて第一弾と夾叉した。艦は左右を塞がれた形になり、聴音器を耳に当てた薫が「なおも一弾…。方位右○○五(まるまるご)」と報告するのと、荒々しく前進一杯と急速潜降を令する酒匂の声、そして発令所のフロア全体を突き上げるようなすさまじい衝撃が、ほぼ間合を入れずに発生した。視界が大きく揺れ、たたらを踏んだ拍子に青葉は背中を後ろの海図台の縁に強く打ちつけてしまった。
 
「…うっ」思わず、歯の間から吐息が漏れる。
 
「…副排水官、破損」
 
「第二兵員室、浸水」
 
各部から被害状況を知らせる報告が上っている。内殻のカーヴに沿って縦壁を這う配管とバルブ、攻撃用と航海用の2つの潜望鏡塔、そしてその間を埋める発令所要員の肉体のせいでもともと立錐の余地もない発令所を、補修材を抱えた応急班の兵たちが押し通っていく。その姿は、暗い赤色灯のせいですでに幽鬼になっているように青葉には見えた。
 
「…被弾状況」
 
酒匂の声はいつも通り低く落ち着いていたが、上衣の襟から覗く首筋には大筋の汗が光っている。
 「正面、至近弾1」と薫。
 
「敵艦の動きは」
 
「…まだ気泡音が多すぎます。1分…ください」
 
「速度八、宣候」薫には答えず、酒匂は正面縦壁の計器類をじっと見据えたままで言う。
 
「速度八宣候、アイ」と佳子。
 
「応修状況」
 
応答が途切れ、一瞬だけ発令所内を沈黙が支配した。
 
「どうした、潜航長」
 
「あ、は、はいっ」背中の痛みを堪えていた青葉は、弾かれるようにして目の前の伝声管群に取り付き、第二兵員室に繋がる金属蓋を開けた。
 
「応急班、こちら発令所。艦内応修状況知らせ」
 
しかし、伝声管からはしゅうしゅうと気流が噴出しているだけで応答がない。
 
「応急班、艦内応修状況知らせ」
 繰り返した後、青葉が屈みこんで伝声管口に耳を当てると、矢作らしい声を含んだ幾人かの男たちのくぐもった怒声と、、何条ものほとばしるような水音がしていた。先任将校である矢作は、応修作業を指揮するためにさっき真っ先に飛び出して行ったのだ。恐らく、今は将校も兵も一緒になって遮水に努めているのだろう。
 
顔を上げた青葉に、4対ほどの視線が向けられた。潜舵操舵輪を両手で握る悠良が、しくじるなよ、とでも言いたげにこちらを見ている。浅黒く精悍とも言うべき顔立ちの中で、なぜか白目だけが光って見えていた。

「…左舷下方に突発音。<イフリート>、沈みます」
 
逆探が回復したらしく、薫がふいに口を開いた。
 
上等水兵の薫は、潜水学校を首席で卒業した特技章(マーク)持ちの水測手である。その小柄で可憐な外見が、15歳という年齢以上に幼く見せている一方で、どんな苛烈な戦況の中でも表情を変えず冷静に任務をこなす様子は、一種精巧な機械人形(オートマートン)を思わせた。
 
間もなく、内外の殻と海水の層を介して悲鳴のような金属音と衝撃が伝わってくる。十数気圧の水の塊が鋼鉄の船殻を押し潰し、中の空間を乗組員もろとも悉く海水で浸していく。艦が圧壊する音は、何度聞いても心地良いものではなかった。
 
―自分たちは生き残り、代わりに、顔も知らない何十人かの敵国の若者たちが死んだ。そのことに何か意味があるのかは分からないが、今はそれによって与えられた生存の機会を無為にしてはならなかった。
 
「…わたしが、伝令に行ってきます」
 
そう言った青葉に、酒匂は「頼むぞ」と応じた。
 
青葉は、後部隔壁の防水扉を潜り抜け、今は無人の士官室へと出た。

当艦―<シルフ>級巡洋潜水艦<ウンディーネ>は、現在大幅な兵員割れの状況にある。そもそも戦局の熾烈化によって多くの潜水艦乗員が消耗され、どの(フネ)もぎりぎりの人員で動かしているところに来て、今回の遠洋作戦で艦には甚大な人的損害が出ていた。同盟国潜水艦との会合後には敵哨戒機の掃射を受け、哨戒員や短艇乗組員をはじめ多数の将兵が戦死した。今は、腹部に10ミリ弾の盲管銃創を受けた操舵長の代わりに、舵さえも当直将校が交代で握らざるを得なくなっている。艦長の酒匂少佐は潜水戦隊勤務ばかりのベテランで、先任将校の矢作特務大尉も叩き上げのドン亀乗り(サブマリナー)である。しかし、残りの発令所将校が青葉をはじめどれも海兵技術学校を出たての速成士官だというのは、何ともお寒い陣容だった。
 
青葉、悠良、佳子の3人は海技同期で、当艦乗組になる直前に少尉任官した新米士官である。中等学校時代陸上の花形選手だった悠良は、海技では水雷課程に進み、配属と同時に前後6門の魚雷発射管を所轄する水雷長となった。一方、元来技術者志望だった佳子は、視力が悪いこともあって機関課程を選択し、発令所配置の機関科分隊士に配属された。そして青葉は―海技教官と人事局がどういう判断をしたのか分からないが―卒業半年前に海技でも10数倍の倍率であるはずの戦術戦略課程に抜擢され、当艦乗組として潜航長兼砲術長をやらされることになった。
 
潜航長兼砲術長というのは、事実上先任将校に次ぐポストであり、指揮官候補とも目される配置である。しかし反面、その職務は多忙であり、トリムの計算から始まって潜航時の艦内制御、各種備砲の指揮、さらに当然合間を縫って当直や甲板士官までこなさなければならない。おまけに、士官教育の一環なのだろうか、酒匂は航行中「潜航長、方位○○速力○の敵艦の30秒後の予測位置は」「命中弾を与えるための最適な方位と射角は」といた仮想状況をしばしばぶつけてくる。そして、青葉が三角法のサインコサインの暗算に手間取って即答できなかったりすると、矢作からすぐさま怒声が飛んでくるのが常だった。一応は正規将校とはいえ、中等学校も海技も年限短縮となり、やっと17歳になったばかりで前線に放り込まれた青葉にとっては正直荷が重く、不眠不休で二昼夜に及ぶ配置を終えた後など、士官寝室の自分の寝台に倒れこんだまま泣き出しそうになることもしばしばだった。
 
そうした洋上生活も、もう2ヶ月になる。5月初旬、僚艦<ノーム>と共に母港を出撃した<ウンディーネ>は、哨戒任務の後、洋上で同盟国潜水艦との戦略物資受渡作戦に参加した。ジュラルミン箱に厳重に梱包され、揚収機で格納筒に運び込まれた「戦略物資」は、乗組員の間では新型爆弾とも音波兵器とも噂された。同時刻、<ノーム>も数海里隔てて同様の作業を行ったはずで、青葉たち初級士官にはその物資が何であるかは知らされることはなかったが、貴重な巡洋潜水艦が同一海域に2隻も派遣されていることからも、それが戦局を左右するような重大な価値を秘めていることは想像できた。
 無線封鎖下で行われた隠密作戦だったにも拘らず、敵は見逃してはくれなかった。洋上で哨戒機の空襲を受けた一昼夜後、水上航行なら制海圏まであと1日という西南諸島沖で、両艦は2隻の敵潜による待ち伏せ攻撃に遭った。混乱し魚雷も尽きかけた<ノーム>は、敵艦の一方―<ベルゼブル>級大型潜水艦―に無音潜航を放棄して肉迫攻撃を挑み、今からほぼ30分前に撃沈された。
 
例の戦略物資のうち一対が<ノーム>と一緒に沈んだ以上、<ウンディーネ>が内地に帰還しなければ、今回の作戦は全く無意味なものになってしまう。酒匂の老練な操艦により、敵艦のもう一方―<イフリート>級攻撃潜水艦―を何とか仕留めることができたとは言え、艦が生還できるか、それとも敵と刺し違えることになるかは、全て青葉たち乗組将兵の今後数時間の行動にかかっていると言えた。

青葉は、さっきの衝撃のせいで椅子や備品が散乱した士官室を横切り、数段のラッタルを上ると屈みこむようにして後部区画への連絡通路に飛び込んだ。下から主機室、上から弾薬庫と格納庫に挟みこまれた通路の天井は低く、這うような姿勢でなければ頭が閊えてしまう。兵装と速力を最優先とする設計思想のもと造られた巡洋潜水艦では、兵員の居住性はぎりぎりまで制限されている。
 長さ20メートルほどの通路を走り抜けると、ふいに熱気と異臭が頬を嬲り、青葉は思わず兵員室への隔壁の手前で立ち止まった。
 火災だ。室内に白い煙が充満し、数箇所で炎の舌がめらめらと上がっている。
 「…止まりません」
 「…しろ。急げ」
 「…弾薬庫が」
 幾つもの声が交差し、煙管服の上衣を脱いで半裸になった兵たちが飛び回る。海水に浸した服を叩きつけて鎮火に当たる者、両手に工具を持ち雑巾(マッチ)を口に咥えて天井の破口を塞ごうとする者、そしてその身体を下から支える者。青葉が水密戸を潜って数段の段差を飛び降りると、艦内靴の足首までが床に溜まった海水に浸った。水音は、発令所で聞いたよりもずっと大きく、何条もの奔流のようになって聞こえている。
 「先任!」

 青葉は叫んだ。矢作は、補修用の角材を手にした数名の下士官兵と共に、奥の一段と大きな破口に挑んでいた。軍帽は飛び、白い上衣が海水と油でべっとりと汚れている。
 「矢作先任!」
 足を踏み出し、油膜の浮く海水の中をざばざばと渉る。ふと、足先が水中の何か柔らかいものに触れた。
 「来るなっ」
 矢作が、片手を挙げて青葉を制した。足元の海水が薄赤色に染まっていて、自分が踏んだものが兵の遺体であることに青葉ははじめて気が付いた。よく見ると内壁はかなり変形して黒ずみ、幾人もの兵の肉体が片側の内壁に積み重なるようにして横臥している。
―直撃ではなかった筈なのに。対空砲の弾薬か、小型潜水艇用の揮発油にでも引火したのだろうか。
 頭がそう考える一方で、喉元には酸っぱい吐き気がこみ上げてくる。青葉は、身体を低くして白煙を避けながら、向きを変え出入口近くの伝声管に向かった。
 「発令所、こちら第二兵員室、水無月少尉」
 管口に口を近づけ、火災の放射熱のせいで熱くなった管を握りしめる。
 「…兵員室、こちら発令所」
 やや間があった後、酒匂の声が返ってきた。
 「状況報告します。複数の浸水発生、複数の火災発生。浸水速度大。誘爆による戦死者十数名。応急班は、矢作先任以下、遮水及び鎮火作業を実施しつつあり」
 一息で言うと、青葉は伝声管口に耳をつけ、もう片方の耳を手で塞いだ。しばしの沈黙の後、酒匂の声が再び響いてくる。
 「矢作先任に確認。作業続行は可能なりや」
 青葉は復唱すると、奥の矢作に向かって酒匂の言葉を繰り返した。煙量が増してきたのか、その姿さえここからではあまり判然としない。しかし、声だけはすぐに返ってきた。
 「…何を言っとるんだ」
 いつもの潮風に鍛えられた銅鑼声だ。
 「水が漏れているというのに、放り出して逃げる馬鹿がおるか。艦長に返答、作業続行は十分に可能」
 「…でも」
 「潜航長、聞こえないのか」
 「…了解、艦長宛返答します」
 「よろしい」
 青葉が気押されたように答えると、矢作は皺のある髭面になぜか愉しそうな微笑を浮かべた。そして、もう青葉などには目もくれずに、大声で応急員たちの指揮を再開した。

 「先任より返答。作業続行は…続行は十分に可能」
 青葉が伝声管にそう吹き込むのと同時に、頭上で警急電鐘がけたたましく鳴り始めた。浸水量が危険域に達したのだろう。あと3分で背後の隔壁が自動的に閉まり、この区画は艦の他の部分から完全に遮断されることになる。
 「…潜航長」
 伝声管から、酒匂の声がしている。「…配置に戻れ。ご苦労だった」
 「えっ。…でも、それでは」
 「戻れ。これは命令だ」
 それきり、酒匂の声は途絶えた。
 あと少しで防水扉が閉まる。もし矢作たちが遮水に失敗すれば、それは残って作業を続ける彼らに死を強いることになるのは明らかだった。
 青葉は、隔壁にちらりと目をやると、すう、と息を吸い込み、踵を返して飛沫を上げながら再び部屋の奥に向かった。浸水はもう膝下にまで達していて、脚を動かす度にひどく冷たかった。
 ふいに、背の高い水兵の身体が青葉にぶつかってくる。
 咄嗟のことであり、青葉はよろめいた挙句水の中に尻餅をつきそうになった。
 「すみません、少尉」
 水兵がぐっと青葉の両腕をつかんで支える。二つ碇が交差する肘章の下に、魚雷をあしらった特技章。短く刈り込んだ髪と、身長には不似合いな童顔。水雷科員で、今は応急班に回されている生野一等水兵だった。
 「生野一水」
 生野は青葉と同郷で、中等学校の一つ後輩である。
 「…何をするっ。離せ」
 青葉が慣れない上官言葉を口にする間にも、青葉はじりじりと出入口の外まで押し戻されてしまった。
 「発令所に戻って下さい。防水扉が閉まります」
 「分かってる」青葉は言った。「だから、私にも手伝わせて」
 しかし、生野の手は万力のように青葉の二の腕をつかんだままで離さない。
 「離してっ」
 「少尉、後生です」
 生野は、青葉の身体を抱きかかえるようにしてその動きを封じた。
 「…俺、水無月先輩を死なせたくないんです」
 生野の意外な言葉に、青葉は思わずはっとして抗うのを止めた。
 「生野…君?」

                   
                         
 
「俺、ずっと先輩に憧れてました」

 生野の吐く熱い息が、頭一つ分は背が低い水無月の耳たぶにかかる。
 「先輩は…快活で、頭も良くて、正義感もあって。海技に行かれるって聞いた時、こういう人がこのしょうもない戦争を終わらせてくれるんじゃないかって…それで、俺も海軍に志願して」
 「…」
 「短い間でしたけど、先輩と同じ(フネ)に勤務できて、俺、すごく幸せでした」
 突然の告白に、青葉は頭がぼうっとしていた。背後で生野、生野と呼ぶ声がする。
 「…班長だ。俺、もう行きますね」
 生野は青葉の身体をそっと離すと、兵員室へのラッタルを下りていった。
 「生野君」
 青葉は呼んだ。しかし、その白い煙管服は振り返らない。
 「生野君、生野君」
 目の前で、隔壁の丸い鋼鉄戸が閉じていく。―そんな。私は、そんなに価値のある人間じゃない。自分の代わりに人が死ぬのを、何もしないで見ていてもいいような。
 厚さ12センチの鋼鉄戸が、隔壁内側の施条を噛んでぴたりと固定された。
 「生野君…先任…」
 青葉は甲板に両膝をつくと、そのまま閉じた隔壁に凭れかかった。鉄の感触が頬に冷たく、電鐘の消えた艦内は今は嘘のように静かだった。


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