疏 水
「すうううう、うっ」
短裾の小袖に下帯のみの姿となり、すでに首の下までを水中に浸している六文は、ことさらに真剣な面持ちで息をふかぶかと吸った。
水中とは、摠見寺本堂の南側にある庭池のことである。ただし庭池といっても禅寺とは思えぬほど豪壮なもので、水が濠のごとく湾曲して二、三の中島を囲繞し、島々のあいだにはちいさな反り橋すらかかっている。
れいの疏水への取入口は、懐紙を裂いて水に撒いてやるとすぐ発見することができた。そこだけ一尋ほどに深くなった取入口には格子板がはまり、漣がひとまず潜って格子板を外してみると、まさしく絵図にあるとおりの木桶が姿をあらわした。管は長大な檜板を四枚船釘で合わせたもので、中を触れてみたかぎりではすべすべとし、板の合わせ目に槇肌を詰め漏水の防ぎとしているらしい。漣は、潜りつつ頭をさらに管の奥部へと差し入れてみたが、朔の夜の星明りでは五寸と先が見えず、ただ管が暗渠となって斜め下方にどこまでも続いてゆくのが見て取れただけであった。
「はあああああああ」
六文が、こんどは胸腔に溜めていた息をながながと吐く。漣は今は六文のすぐ傍らにうかび、自らも呼吸をととのえつつ六文にさいごの指図をあたえていた。
「よいな、六文」
「えい」
「疏水のなかは、人ひとりの広さしかないゆえ、心してすすめ。板の継ぎ目を手掛かりとし、這うがごとく泳ぎ進むがよい」
「えい」
「また、道中には必ず溜枡(給水槽)があるはず。そこまでゆけば向きを変えることも自儘ゆえ、もしこらえ切れなくばそこで姉の手を引いて知らせよ」
「姉うえ、案ずるな」六文は、夜目にも白々とした歯をみせた。「この六文は、そこまでの不甲斐なしではござらぬぞ」
「うむ」
六文はふたたび暗い水面に目を落とし、胸を大きく起伏させつつ息をすって吐くことを繰り返した。そして、漣が「城内で会おうぞ」と声を発するとほぼ同時に、六文はほんの刹那笑顔をみせ、その肢体は音もなく暗渠へと引き込まれていった。
「すうううううううううっ」
そして漣もまた、肋骨の一本ごとがあらわになるほどに胸郭を膨らませると、すでに見えなくなった六文のすがたを追い、暗い水底へとその肢体を没した。
(九十八、九十九)
漣のしなやかな身体は、自然流下する疏水のなかで、檜の長板にそって音もなく滑ってゆく。水は思いのほか澄んでいるらしく、鼻腔に入ってきた分を少しずつ吐出しつつも、口腔を通る水は井戸水のようにつめたく無味に感じた。漣は、指先では触れる継ぎ目の数で泳ぎすすんだ距離を測ろうとしながらも、頭の奥では、それとは別におのずと息をとめはじめてからの秒数を数えはじめている。鍛錬によって、漣は二百あたりで胸底がずきんと痛くなり、二百五十あたりで肺臓がひくつき始めることを知っている。ほんの一尺ほど前をすすむ六文は、年若で小柄であるゆえに限界はそれよりややみじかかった。
(百二十四、百二十五)
ほんの一尺先を進む六文の脚がつくる水流を、漣は顔に感じた。ときには、泳ぐ速度がややにぶるのか、その柔らかい足裏が漣の頬に触れてしまう。その時は、漣はじぶんの足掻きを僅かながら緩め、六文のつくる水流が遠ざかるのを待った。焦っては、ならない。もし六文がこの暗渠のなかを下へ下へと泳ぎつづけることに恐慌をきたし、もときた道を戻ろうと試みたりすれば―確実に、死は免れない。方二尺の木管の中では、いかな小兵の少女久ノ一とはいえ、木管のなかで身体を捩って向きを変えることは望むべくもないからだ。
(…もうすぐ、底のはず)長さ二間の長板を、三十までかぞえ終わったところで漣はおもった。疏水がその下に埋設されている百々橋口道は、このあたりで上へと湾曲し、黒金門に繋がるはずなのである。秒数のほうは、すでに百五十を越えていた。
そのとき、漣の目前をすすむ六文に異変が起きた。
その下肢が、閊えたように一点に踏みとどまると、片方のみならず両の足先が漣の鼻先に触れた。
(…六文)
六文はすでに全くすすむことを止め、反らせた爪先で悶えるようにして四方の檜板の滑らかな表面をかりかりと掻いている。
(…心を常にせよ、六文)
漣は脚で水を掻き、ゆっくりと頬で六文の足裏を推した。踵の健がびくびくと動く。脹脛のやわらかな筋肉に、力が入ってゆくのが分かる。
そして暫くすると、漣の頬を圧していた感触は、拍子抜けしたようにするりと無くなった。六文がふたたび泳ぎはじめたのであろう。漣が腕をさきへ伸ばしても、もはや水の感触しかなかった。
(よく、
漣も、脚を打って前方へと進みはじめた―そしてその刹那、六文の身のうごきを阻んでいたのは一体何であったのか、はじめて理解することになった。
そこは、確かにこの疏水の最深点であった。そして、その最も深く埋められた木管のはじには、工人たちが疏水を上方へ向けなおすために工夫をこらしたであろう厚板状の継手が嵌まり、その箇所の木管の内径をほんの一尺余りまでに狭めていたのである。
(…)
漣は、両の掌で継手の木枠の内側に触れてみた。やはり、頭の幅ほどの隙間しかない。さしもの細身の六文もこれを素で通れる筈もなく、さきほどはおのれの肩関節をはずしたために、その痛みに耐えていたのだと合点がいった。これは縄抜けといい、本来は緊縛からのがれ出るための方術である。
(…)
漣の鼓動が、心なしか早くなってきていた。秒数も、もはや二百に達している。ふいに漣は、六文が自分をこの木の檻に閉じ込めたまま置いてゆき、じぶん独りだけが暗く狭隘な水地獄のなかに取り残されるという感覚を抱いた。
「んんっ」
漣は、右の掌で口をふさぎ、息をそのなかに吐くように頬を膨らませると、ふたたびその空気の塊を嚥下した。胸腔の緊張がほんの少しの間緩み、心中ですばやく九字を唱える。ここで正気をうしなえば、死を逃れることはむずかしい。
漣は木管の壁に左肩を当て、つよく圧迫をくわえて脱臼させた。靭帯が引きちぎられるような痛みが襲ったが、漣は下唇を噛んで水中で声を上げそうになるのを堪えた。そして、足指で檜板のわずかな起伏をつかみ、じりじりと頭を、そして上体を折り畳むようにして枠のなかに押し込んでゆく。膨らませた胸郭がつかえたために、咽喉の輪を緩めがぼがぼと気泡を吐いた。つぎに、えぐるように窪ませた腹部、そして腰骨の片方ずつをゆっくりと枠の中を通す。漣が継ぎ手を漸く抜け、ふたたび激痛に耐えながら上腕骨を左肩へ戻し入れたときには、すでに水中で何秒経たのかわからなくなっていた。
「ぐぐっ、ぐっ」
唇のあいだから、自然と声が漏れてゆく。肺臓のしたがわが痙攣をはじめていた。水路はここより上りに転じている。徐々にこみあげてくる恐慌を抑えつつ、手を板伝いに滑らせ、両脚で水を蹴ってゆく。泳ぎつつも三十はかぞえたと思った途端、ふいに四方の壁がなくなり、漣の指先はいたずらに周りの水をつかんだ。
(た、溜枡)
だが、身体が何物にも触れないと思ったのは、ごく僅かな時間だった。ほんの一丈ものぼったところで、頭が枡の上板に達し、漣の身体の浮き上がろうとする惰力が阻まれたからである。溜枡のなかに、水面は、なかった。
「ぐぐぐぐっ」
木管の狭所を抜け切ればあるいは呼吸ができるかもしれぬという、人体生理上の希求がにべもなく裏切られたために、漣の息をこらえる能力はにわかに限界に達した。胸腔がはげしく痙攣し、肺内の費消しつくされた空気をさかんに押し出してゆく。漣は歯を食い縛り、ちいさく緊縮したおのれの両肺が水を吸入せんとするのを、懸命となって抑制した。
その時、やにわに柔らかい何物かが、漣の両唇に触れた。
それは、吸引するが如き力でぴたりと離れない。そして、しばし唇とのあいだに隙間のないことを試しているようだったが、やがて、漣の口中に間断なく温かい気を吹き込んできた。
「んんんっ」
溺水を免れようと、漣の胸が自然上下に起伏し、与えられた空気をはげしく貪ろうとする。そしてその何物かは、漣の頭部を抱き、首筋に爪を立てて吸着がはがれぬようにしつつ、ゆっくりとのど奥から吐息をつむぎ出し、舌のさきで塊にして漣の唇に差し入れてゆく。何物かとは、六文だった。
(六文)
三合ほどの空気を飲みくだしたところで、漣ははじめて自制心を取りもどした。六文は、依然として唇をはなさず、おのれの胸腔を絞りきるほどになっても、まだ呼気を漣にあたえることを止めない。
(六文、もうよい)
さいごの空気を吐出しようとして、六文の背とみぞおちの筋が緊縮し、漣の肌にたてた爪に力がこもる。
(そなたも、死ぬ)
漣は、六文の頬に両の掌を当てると、引きはがすようにして唇を離した。六文は、しばらくそのままで身体を御すことなく漂わせていたが、やがて引き絞った半弓のように、水中でびくびくと上体を悶えさせはじめた。
「がっ。がごごっ」
漣の掌のあいだで、六文は咽喉を鳴らしつつ噎せ返る。喉元が間断なくうごき、水の塊をかぷかぷと嚥下してゆくのが分かる。当然というべきであろう。ゆうに五分ちかく息をこらえていたうえ、あのように己の肺内の空気を分かちあたえてしまっては、いかなる久ノ一であってもとうに溺れ死んでいるはずであった。
「がはっ」
同時に、漣も堪えていられなくなり、唇のあいだからふたたび大量の気泡を吐いた。このままでは、両人の意識がなくなるのに、ほんの数十秒とかからない。痙攣がやまぬのに咽喉の音がもう聞こえないのは、六文の肺のなかみが既に全て水であるからだろう。
(六文、耐えよ)
漣は、片手を六文の背に回したまま、もう片方の拳を六文の下腹に入れた。
「ぐっ」
六文のかるい肢体が、一瞬びくりと反応する。
(どうか、あと三十かぞえるだけ、この姉にくれ)
六文は、悶えることをやめていた。漣がいま一度六文の片頬に触れると、六文はその手のなかでただ一度だけゆっくりと頷いた。六文は、客観的にみればすでに溺水していたが、まだ悶絶し失神することがないのは、ひとえに常人ばなれした克己心のはたらきに因るといってよい。
(…)
漣は、片手で六文の二の腕を支えつつ、もう片方の手で上板を摺るようにさぐった。
(五、六)
差しわたし二丈とない溜枡のなかである。正気さえ失わねば、外への導水路はやがて見つけられる筈であった。
(十二、十三…あった)
ある箇所で、とうとう漣の片手は何にも阻まれることがなかった。漣は六文の腕を引き、自分はその腿の下に潜り込み肩車をするようにして、六文の身体を頭上の開口部に導き入れた。
(二十四、二十五)
漣が促し、六文はゆっくりと上方へ泳ぎはじめる。漣の額や肩に触れるその足先は
(三十、三十一)
胸のそこが大きく波を打ったかと思うと、ひんやりとした水が、奔流のごとく漣の気管の中へとながれ込んできた。漣は、その刹那なぜか異常な幸福感をおぼえ、このままずっと水中にいたいという感覚をおぼえたとき、周囲がきゅうに明るくなり頭が星光に煌く水面を割った。
「ぐはっ。ごっ。がはごほっ」
漣ははげしく噎せ、咳き込みつつ肺内を満たした水を戻した。
「はあっ、はあっ、はあっ」
漣は、じぶんが何故か涙を流しているのに気付いた。それが溺れ死にかけた苦痛によるものか、先刻のあの異様な幸福感によるものかは、自らはわからない。
漣は、頭をめぐらせて六文のすがたを探した。泳ぎ出てきた吐桶のうえからほんの少し移動すれば、足下は白砂利を敷いたわずかに腰下までの浅瀬になる。中島に弁天宮のあるひろびろとした城池は静謐で、山苔の植えられた中庭の向こうには、太柱をならべまるで仏閣伽藍のようにみえる本丸御殿、そしてその更に上には五層七重の大天主が重々しい姿をみせている。
六文の身体は、漣のうかびあがった水面からは僅かに離れて、顔をうえにして浮いていた。
「六文」
むろん、息はしていない。顔立ちは変わらずうつくしいが、その肌色は蒼白であり、見開かれた両目は濁って
「六文、起きよ」
漣は、水音をたてぬように配慮しながら、六文の身体を岸辺の緑苔のうえまで運んだ。そして、膝をつき屈みこんでその口を吸い、肺を浸した水をすい上げると傍らの地面に吐いた。何度、それを繰り返しただろうか。六文は、ふいに激しく咳き込むと、上体を捩りながらおのれの力で残りの水をすべて吐いた。
「…六文」
「あ、姉うえ」六文は、依然息を荒げつつも、口端に笑みを見せながら言った。「それ、六文は、息が、ながいであろう」
「うむ、助けられたのは姉のほうであったぞ」漣は、胸にこみ上げてくる嬉しさを抑えながら答えた。「そなたほどの練達者は、甲伊両国をさがしてもおるまい」
六文の頬にわずかに紅が差したようであった。その時、二本の投げ苦無が飛来し、音も立てることなく漣と六文がほんの一刹那前までいた地面に突き刺さった。
脚のばねを使い、紙を表裏に返すが如きはやさで横へ跳躍した漣は、弁天宮の祠のかげから蝙蝠のような影がとび出すのをみた。影は、祠と岸辺とをつなぐ反り橋の欄干のうえにふわりととび乗ると、そのまま音もなく疾走してくる。
(忍び武者か)
漣は太刀から鞘を抜き払い、やはり疾風のごときはやさで前へ踏み込んでゆき、上段よりききらめきつつ落ちてきた刃をおのれの太刀に受けた。重なった刃先どうしがぎりぎりと鳴り、やがて漣の推す力がまさったのか、影のふり降ろした刃がふいに上方に跳ね上げられる。漣がすかさず真一文字に切先を突き込むと、影は宙をくるくると舞いつつ跳びすさり、漣の剣は風音を立てて虚空を斬った。
「…」
宙を飛んだ影は、神橋の黒漆塗りの擬宝珠のうえに、雀のごとき身軽さで降り立っている。―藍色の小袖をまとい、裾下から伸びる引き締まった腿がしらじらと見える。久ノ一であり、年齢は漣とそう変わらない。
「たれか」
漣は問いを発したが、久ノ一は無言で眉もうごかさぬまま再び斬り込んできた。膂力はさほどではないとはいえ、その刃筋は電のごとく速く鋭い。
(おかしい)
漣は受け太刀をしつつ思う。織田家に飼われた忍びにはちがいないが、なぜ本丸の内、しかも漣らが地下水路より侵し入ることを予見したような場所に伏せていたのか。
(もしや、計がすでに露見していたのか)
漣は、ふいに眼前が瞬くように昏くなるのを感じた。さきほどの絶息による疲労が、まだ十分に恢復するところまで来ていない。漣は刃をさけつつ後方へと跳びはね、不覚にも足元を乱し二、三歩たたらを踏んだ。
表情のなかった久ノ一の白面が、俄にしばし嗤ったように思えた。
(…しまった)
漣は思った。およそ忍び武者であれば、ここまでの隙を許すはずはない。
しかし、その時久ノ一の肉体に異変が生じた。
両の眸が何物かに驚いたように見開かれ、上段に振り上げつつあった剣は小手から落ち、からからと転がった。久ノ一の意識野に、ながさ五丈はある巨大な
「…六文」
漣は息をつくと、祠の朱塗りの屋根のうえを仰ぎ見た。そこには六文が立ち、両手でかたく印字を結びつつ真言を唱えていた。久ノ一は、六文の施した幻術にかかったのである。
漣は、ころげた久ノ一の太刀の柄を脇へ蹴りとばすと、未だ身体を折るようにして痙攣している久ノ一のそばに歩み寄った。
「殺しは、せぬ」
漣は口を開いた。すると、それと時を同じくして久ノ一がほんの刹那、幻術の緊縛から脱した。久ノ一は凝固していた右腕を振るい、やにわに懐から脇差をつかみ出すと、刃を立てておのれの首筋を引いた。
「…」
血が噴出し、久ノ一の身体はどうと地に倒れる。出血はひどく、処置をするまでもなく手遅れであるのが分かった。祠のうえの六文はすでに詠唱をやめ、飛び降りて漣のそばへと駆け寄ってきている。
漣は屈みこみ、久ノ一の肩を掴んでゆり動かした。
「ぬしは何者か。なぜ、ここまでする」
久ノ一は、漣を睨みつつも、ひゅうひゅうという気息音を立てるのみで一語も発さない。漣と六文が見守るうちに、久ノ一は背を反らせて口より泡と血の塊を吐いた。すでに、こと切れていた。
「…」
漣は、跪くと死骸となった久ノ一の小袖を剥いだ。白い乳房と、血に染まった下帯が現れる。漣は背中へと手を回し、茶染の背負い袋を引き出した。この中の忍び道具をあらためれば、久ノ一が伊賀か甲賀か、あるいはどこの郷の者かがわかる筈であった。
漣はおどろき、ついで地に吸い込まれるような巨大な絶望感を味わった。
漣はいま、すべてのことを理解していた。霧生からの追っ手がなぜ現れなかったのか。なぜ、この久ノ一がここで待ち伏せることができたのか。そして、自分たち姉妹が今夜死にものぐるいで仇を討とうとしていた前右府が、一体たれであるのかも。
背負袋の中には、なお三本の投げ苦無があった。―それは、漣の持っているそれと全くおなじ細工の、師匠梅ノ半阿弥の手によるものであった。