蜉 蝣 の 城


               

 前右府は、上筵と龍鬢の筵をひろびろと敷き重ねた寝所のうえで、ふいに目を開いた。
 頭上では、欄間を通してくる吊り行灯のほのかな暈光のために、折上天井にえがかれた花鳥が金色の桟のあいだでにぶく燻し出されている。前右府の寝間は、天主の一階六重目、四重目から七重目までを貫く大吹抜から次の間と小姓部屋を隔てたところにあった。
 みえない二つの気配が、天井板のうえを密やかに蠢き、頭上へと近づいてくるのが分かる。やがて、気配は足元の嵌め板をさぐり当てたとみえ、隣室の畳敷のうえにふわりと音も立てずに降り立ったかと思うと、しばしの間を置き、やがて寝所への襖をするすると開けた。
 気配は、そのまま躊躇することなく前右府の枕元まで進んでくる。
 「…」
 前右府は、臥床したまま微動することさえしない。
 ふいに、気配は人のかたちを取り、ひどく見目のよいふたりの久ノ一乱波となった。そして膝を折って身を屈めると、うち一人が前右府の耳に囁くように言った。
 「…お師匠、お懐かしうございます」
 前右府は、臥せたままけたたましく哄笑をはじめた。 
 その笑い声は怪鳥のようで、ときに野卑でもあり、とても天下五百万石余の主ともおもえない。開かれた口のなかに、赤黒い歯肉のひだが見えた。前右府には、歯が一本もなかった。そして、なおも笑いつつも、その顔はしだいに前右府いがいの何かに変貌していった。
 「いつ、気付いた」
 綸子の部屋着をまとい、前右府の寝所に臥せたその人物は言った。顔はすでに前右府のものではなく、老人斑の浮き出た上忍百川弥右衛門の貌になっている。
 「はじめに奇異に思いましたのは、百川の城で漣が若殿を殺め奉ったとき」
 漣は、目を伏せたままで答えた。
 「ほう。何ゆえかな」
 「あのとき、若殿の傍らにおられた大殿(弥右衛門)の御顔に、かすかに哂いが浮かぶのを見たゆえに」
 「…」
 「くわえて、洛中にて散楽まで催しながら、一人だに追捕の者の現れなかったこと。そして、本丸城池の弁天宮にひそんでいた久ノ一乱波」
 「殺したか」
 弥右衛門にばけた梅ノ半阿弥は、目を逸らせたままで訊く。
 「殺してはおりませぬ。ここにいる六文が僊倡戯の術をほどこしたところ、あの乱波者は抗いつつおのれの頸を切った次第にございます」
 「ものの役にたたぬな」半阿弥は、興をうしなったように呟いた。
 「お師匠」跪いた腿のうえに置いた(こぶし)が、かすかに震えはじめるのを感じながら漣は言った。「あの者、声を立てませんでした」
 声帯(のど)をつぶしておるうえ、不思議なかろう」
 「…」
 「それにくらぶれば、ぬしはこの儂がとくに手塩にかけただけあり、よう見抜いたわ」
 半阿弥ははじめて漣のほうに目を向けたが、漣はしかしその世辞じみたことばには応じることなく言った。
 「お師匠。我らは、お師匠は三河長篠で死骸になられたものとばかり、思っておりました」
 「ふむ、知りたいか」半阿弥はふたたび嗤った。「前右府勢がいよいよ武田四郎殿の本陣に槍を入れはじめたとき、儂は天王山の麓あたりで、矢弾をからだの随所に受けて虫の息で転がっておった」
 「…」
 「本陣が総崩れとなったあと、儂はそのまま山中に潜み、二日ののちに連吾川の河原までおりて水をのんだ。儂はそこで死ぬはずだったが、そこに服部石見守(半蔵)めの手勢が通りかかった」
 「…」
 目の前の老人がなぜこうして生きながらえているのか、それで合点がゆく。服部石見守はいまは遠駿参三国の大大名である徳川三河守の家中とはいえ、むろん出自は伊賀者であり、半阿弥の忍びとしてのうでをよく知っている。長篠から、すでに五年が過ぎている。半阿弥が石見守の推挙をうけ、徳川三河守、ひいては織田前右府の寝所で影武者をつとめるまでになるには、じゅうぶん以上の時間といえるであろう。
 「…お師匠は」漣の両の拳は、未だに小刻みに震えていた。「なぜ霧生に戻らず、この漣と六文をお棄てあそばされた」
 「ふむ」半阿弥は目元に皺を寄せた。すでに百川弥右衛門の貌を保つこともやめ、その顔は長年の忍びばたらきの煙硝で燻され赫黒くなった半阿弥本来のものになっている。半阿弥は、暫くおのれの心中をおしはかるように目を細めていたが、やがて口を開いた。
 「飽いたのよ」
 「…」
 「飽いて、おのれの手でまた新たな傀儡をつくり出したくなった。それだけよ」
 たしかに、伊賀者には他国の(さむらい)のような規律や倫理観はない。その心は状況に応じてつねづね変幻し、ふるい忍びになると、ついにおのれの心さえ分からなくなるという。漣は、じぶんも伊賀者であるがゆえに半阿弥のその機微は理解できたが、しかし目の前が昏くなってゆく感覚を抑えることは出来なかった。
 「新たな傀儡とは」漣はようやく言った。「お師匠が妖者の術をつかい、百川の大殿に化して操っておられた若殿のことにございますか」
 「…笑止」半阿弥は呵々とわらった。「たかが、弥九郎ごとき小せがれのために術を弄して、この儂がおもしろがるかよ。馬鹿めが」
 「…」
 「弥九郎めは、儂がまだ生きて織田前右府家に仕えておることを伝えきき、二年(ふたとせ)まえに永田主膳正どのを通じ懇願して寄越しおった」永田主膳正とは、漣が百川館で弥九郎を刺殺したさいに脇にいた織田家臣である。「おやじ殿が急逝し、じぶんでは忍び武者どもをたばね切れぬから時おり霧生に下向して影をつとめてくれとな」
 「…」
 つまりは、漣があの凄惨な真剣仕合をおこなったとき、弥九郎の隣にいたのは半阿弥であったことになる。半阿弥は弥右衛門の影をよくつとめ、かたや弥九郎は淫行と幻薬の多用のせいで身をほろぼしたことになるが、半阿弥が主筋である弥九郎をどこまでそう仕向けたのかは分からない。結果として半阿弥は霧生百川家を簒奪したかたちになり、刺客を送り込まぬまでも出奔していらいの漣と六文の行動は掌を指すように把握していたことだろう。
 「お師匠」漣は、やっとのことで声を発せた。「前右府殿は、どこにいる」
 「前右府殿を探して、どうする」
 「…殺す」
 「ほう。何ゆえに」
 「前右府のつくり出したこの現世が漣と六文から生をうばい、お師匠のいう傀儡たらしめた。われらは、傀儡たらしめた前右府を殺し、自儘になる」
 「これは、逆恨みのはなはだしいことよの」半阿弥は、嘲るように唇を緩めた。「お漣よ、前右府はここにはおらぬぞ」
 「…」
 「ぬしらが城内に入りこむ半刻ほどまえに、曲者の濫入する兆候ありと、この儂が主膳正殿を介してご注進申し上げたゆえにな。今頃はニノ丸の御寝所で、宿直(とのい)の人数を倍にしてご就寝あそばれておる」
 「…」
 試されていた、と漣はおもうしかない。霧生郷を脱してからふた月ちかくのあいだ、おのれの力だけで種々の艱難に耐えてきたつもりでいたが、現実にはただ半阿弥の掌のなかで踊っていたに過ぎないのである。
 「ところで、お漣よ」半阿弥はかさねて訊いた。「おのれの言う自儘とは、思うがままひとを斬りあるくことか」 
 「…違う」

 「いや、違わぬ」半阿弥はいつの間にか上体を起こし、漣に目を向けぬまま指の骨をぺきぺきと鳴らしはじめた。「弥九郎。権左」
 「権左は、殺めてはおらぬ」
 「…ぬしは知らぬだろうが」半阿弥は応じる。「権左はあのあと、おのれの身を悲観するあまり腹を切ったぞ」
 「…」
 「鹿ノ助。与十」
 「止めよ」
 漣は抗うように言った。脳裏に、百川の城門の前でなますのように斬り殺された二人の様相が浮かぶ。自分はいったい何なのか、と漣はふとおもった。自分にかかわった人びとは、かくも無為に死んでゆく。
 半阿弥は漸く指を鳴らし終えると、更に一言だけ発して口を閉じた。
 「六文」

 「…」
 漣は跪いたまま、半阿弥のくろぐろとした陰のある横顔を凝視していた。
 「腑に落ちぬ、といった風情じゃが」半阿弥は言った。「しかしお漣よ、おのれが冥土行脚に妹を連れてくるとは、大した姉殿よの」
 「ちがう」漣の精神は、もはや半ば悲鳴を上げていた。「この漣にとって、およそ六文ほど掛けがえのないものはない。六文がここにいるのは、六文がそうじぶんで選びとったためじゃ」
 「ほう」
 半阿弥は声を上げ、目を漣の傍らにいる六文に転じた。「ならば六文、ひとつ訊くが」
 「えい、お師匠」
 「ぬしは、なぜ前右府を殺したいのじゃ」
 六文は首を傾け、やや思案してから言った「…判らぬ」 
 「ほう、判らぬとな」
 「じゃが、前右府を殺すのは姉うえの願いゆえ、六文は姉うえの役に立つようにする」
 「ふむ」
 「姉うえがあって、六文があるのじゃ」
 (六文…)
 漣は、六文の迷いのない眼差しを嘆息する思いで眺めていた。―これでは、じぶんも半阿弥と同じではないか。合点のいったように、半阿弥はふたたび漣に目を向けると、その心中を見透かしたがごとき嗤いを漏らした。
 「さてもお漣よ、妹殿のほうは早うもみごとな傀儡ぶりよ」
 そのとき、漣と半阿弥はほぼ同時に太刀を抜き放っていた。

 「…お漣よ、腕をあげたな」
 四、五度はげしく太刀を交えたのち、両者が共に前右府の寝間のはしまで跳びしりぞくと半阿弥は言った。「どうだ、ふたたびこの儂の元ではたらかぬか」
 「漣も、六文も」おのれの呼吸が荒くなっているのを、漣は克明に感じながら言った。「久ノ一に、望んでなったわけではない」
 「ほう」
 「漣は、ひとじゃ。もう、たれの傀儡にもならぬ」
 半阿弥のもつ刀身が、行灯の明かりを受けしらじらと光った。「さて、この梅ノ半阿弥のそだてた中でも、選りすぐりの久ノ一乱波の言ともおもえぬが。お漣よ、ぬしのその気持ち、如何にしてもゆるがぬか」 
 「…是」漣は中敷のへりの上を滑るように走り、構える半阿弥にむけ右上段に斬り込んだ。刃先が摺れあい、青い火花が散った。
 「惜しいことよ」半阿弥は、漣の剣をゆうゆうと上へ撥ね上げると言った。
 「ならば、死ね」
 「姉うえっ」
 漣が、退きつつ身体の均衡を取り戻すより先に、六文は両の手で結印をつくり呪言を唱えはじめていた。
 「哪莫三満多没駄満、御摩利支頴、娃娑婆訶」
 「未熟者が」
 ふいに、半阿弥が闇の中の一点に向かって苦無を投じた。
 「うっ」
 火の幻術が、忽ち嘘のように掻き消える。半阿弥の放った苦無は、正確に六文の胸元を縫っていたのである。
 「六文っ」
 漣は跳ぶようにして、くずれ落ちる六文の身体を支えた。薄い肩がびくびくと震え、鮮血がみるみるうちに小袖に染みとおっていく。
 「あ、あれっ」おのれの胸に手をやった六文は、その手指にべたりと付着する赤いものを信じられぬという顔で眺めている。「あ、姉うえっ」
 「六文、しゃべるな」
 漣が抱きかかえるうちにも、六文はけたたましく咳き込み、血のいろの泡を吐いた。突き刺さった刃先は、胸腔にまで達していた。
 「…お漣よ」
 半阿弥は、三間ほど隔てた暗闇のなかで、狼犬のごとく目を爛々とさせている。
 「儂は、天下殿になるぞ」
 「…」
 「いまは、前右府の寝所に臥床し、その綸子の着ごこちを味わっているにすぎぬ。しかし、いずれはこの梅ノ半阿弥の知るあらゆる術数をつかい、前右府をもおのれが傀儡としてみせる。そう、恰も水面に映した像がそのあるじと入れ替わるようにな」
 「…お師匠」漣は、声を絞り出すようにして言った。
 「何かな」
 「あなたは、気狂いぞ」
 半阿弥はいちだんと声高に哄笑すると、剣を中段に構え、その姿を視野のなかで瞬時に巨きくしていった。
 「まいる」

 肩で支えている六文の死骸の重みをこらえ、おのれの腹からの出血が下肢を濡らしてゆくのを感じつつも、漣はなおも歩みをやめることをしなかった。小姓部屋を抜け、次の間の金箔押しの襖を自由なうでで引くと、黒びかりする廊下と勾欄を隔てて、金色の宝塔を擁する大吹抜があらわれる。漣はそのまま這うようなのろさで勾欄にまで辿りつき、階下をのぞき込んだ。ようやく人声と具足の触れ合う音がきこえ、城内の随所にいた番士たちが集結しつつあるのが分かった。
 (…)
 具足や種子島の銃身が、きらきらと火影に映える。手に手に掲げる灯火のせいで、番士たちの翳はあたかもこの世のものでないように不規則にゆれ動いていた。
 (あるいは)
 漣は、肩に回した六文の腕がひえてゆくのを感じながら思った。
 (この世のものでないのは、漣のほうかもしれぬ)
 漣が、からくも勝負を決して剣を半阿弥の喉元にふかぶかと差し入れると、半阿弥はその刹那、なぜか喜悦にちかい表情をうかべて絶命した。天下殿になるというのと、弟子のうでによって殺されるというのは、あるいは半阿弥のなかではほぼ等しく怡悦するに足る事象だったのかも知れない。 
 伊賀者は、闇のなかで生まれ、五行の陰のなかに生き、再び闇のなかで死んでゆく。
 (漣も、それに六文もお師匠も。われらは、生を受けながらもけっして世人の目に触れることのない、蜉蝣のようなものであったやも)
 漣は、六文のなきがらを背からおろし、ひざまづいて勾欄のはじの擬宝珠に凭れるように座らせると、指でしずかにその瞼を閉じてやった。
 「・・・」
 階下の人声は騒がしさを増し、遠くでは馬の嘶くのも聞こえる。漣はさいごに太刀の血糊をおのれの袖でぬぐうと、剣を抜き放ったままで勾欄を乗り越え、大きく下方に跳躍した。
 番士たちの翳が、ゆらめきつつも迫ってくる。
 「前右府は、どこだ」
 漣は言った。そのとたん、眼前の種子島の銃列が火を噴いた。