安 土 山



                 

 「…その城と宮殿とは、日本でそれまで建てられたもののなかでも最も壮麗だと言われている。そして宮殿の真中には、彼らが天主と呼ぶ一種の塔があり、我ら欧羅巴(ヨーロッパ)の塔よりもはるかに気品があり、壮大な別種の建築である」
 織田前右府にしばしば拝謁し、畿内一帯での布教をゆるされていた宣教師ルイス・フロイスは、羅馬(ローマ)本部への書簡のなかでこう記している。宮殿とはむろん、先の天正六年末、前右府が湖東安土の地に出現させた五層七重の大城郭のことだ。
 安土は沃土の地であり、野も空も広くあかるい。京からこの地までの陸路十四里は、砂と小石をしきつめ、路傍に松と柳を配した幅六丈の街道が通じている。しかし、当然ながら漣と六文はこの道をつかう訳にはいかなかった。薄暮に紛れて洛南の丹波口を脱したあとは、大きく迂回して奥山田の熊笹の茂る間道に入り、甲賀信楽の山間を抜けた。そして二日二晩ののちに眼下に金箔朱塗りの大天主が琵琶の湖面にその姿をうつしているさまを見たときは、
 (…唐天竺のような)
 と、漣はおもってしまった。
 「敢国の神さまのお社を、集めてうち重ねたようじゃな」
 六文も、となりで呑気なことを言う。敢国の神さまとは、伊賀国一ノ宮たる南宮山の敢国神社のことであり、霧生をふくめ近隣の伊賀者の崇敬がふかい。
 この安土の巨城については、上忍百川家が織田前右府家の与力となっていることもあり、霧生にいた時分から漣はその規模と構造についてはおよそ知悉しているつもりでいた。しかしながら、草深い伊賀の山城の櫓や土盛りのみを見慣れた目には、その姿はひどく都めいて新鮮なものに映ってくる。
 (…さて)
 しばし眼前の光景に没入していた漣は、傍らのくずれかけた礎石に腰をかけ、ふたたび怜悧な思考を取り戻そうと努めた。今漣と六文がいるのは、安土山から東に谷一つ隔てた観音寺山の頂にちかい。ここには、かつて近江守護である佐々木源氏六角氏が堂々たる城郭を築いていたが、永禄一〇年、上洛する前右府と戦い敗れるにおよんで廃城となった。なお、そのとき漣と六文もこの南近江のどこかにいた筈だが、はっきりとしたことは分からない。
 (どうすれば、あの城塞に這入れるか)
 漣は思考する。あの安土城の、金城湯池とも呼ぶべき防備をかいくぐって最深部にある大天主に達し、そこを寝所とする前右府ののどを掻く。暴挙というべきであった。しかしながら、先年甲賀者杉谷善住坊、岩室太郎坊といった連中があらわれてこの天下人の暗殺に失敗していらい、前右府の身辺警護は道中にあっては馬周り衆が二重三重にとり囲み、また京での常宿である本能寺にあっては堀を割り高塀を築き、番士どもの掲げる松明のために夜も昼のごとく明るいというものものしさである。前右府を討つには、逆にその本拠であるがゆえに僅かでも警固に隙ができる算のある安土の城しかないというのが、漣と六文が熟慮のすえ出した結論であった。
 黙考しつつも、漣は枯れ枝をひろい、諳んじているかぎりの安土城内の縄張りを土に描いてゆく。城郭は南面している。南の大手門から、幅二丈の大手道が天主にむかい山麓をまっすぐに登っていく。しかし、大手道が広く真っ直ぐであるのははじめの二町ほどで、あとは九十九(つづら)折の階段道となって西へと回り込み、やがて二ノ丸の下に達する。そのさきの黒金門、二ノ丸を抜けねば、本丸および天主に達するのは覚束ないのである。天主の北東、湖岸に接する搦手口もおなじことで、搦手門及び三ノ丸を抜けねば、やはり天主へとゆくのはおよそ不可能であった。
 六文は、しゃがんで膝に頬杖をつき、漣の動作を見守っている。
 (飛び梯子、ひとつあれば)
 それがあれば、夜闇に乗じ石垣をのりこえて入ることも考えられるだろう。しかし、漣と六文はいわば着の身のままで伊賀を出奔してきてしまったために、いわゆる忍び六具のうちの二つ三つさえも携行していない。
 (だが、無いものを憂いていても、仕方がない)
 妙案のうかばぬまま、漣と六文は下山していったん北腰越峠から安土の城下町に入った。例の散楽の衣装に工夫をくわえた、歩き巫女の装束である。楽市のある須田町あたりを回ってもさほどの情報はえられなかったが、ただ敦賀で水揚げした(にしん)を城中の蔵屋敷に運び入れているという若狭商人から、城郭の大きさのわりには城内の防備はさほどではないという話を聞くことができた。要するに、本丸の内まで入りこんでしまえばそれほど造作はないが、そこに入るまでがいささか難儀であった。

 翌朝、漣と六文はふたたび観音寺山の城跡にのぼった。
 天はきらめくように晴れ、城の大手道の白砂利が山肌の深緑に映えて美しい。漣は昨日とおなじ礎石に座り、思案をはじめた。前右府を討つといっても、ひるがえれば自分たちもいつ伊賀の追捕人に討たれるか分からぬ身である。時間は、なかった。
 「…」
 暫くして、漣は傍らの地面に、六文がしゃがみこんで絵図を描いているのに気付いた。昨日、漣がかいていたものとほぼ寸分違わぬ、安土城内の概念図である。
 「姉うえ」
 六文は描き終えると、漣を見上げて言った。
 「何じゃ」
 「六文は思いついたことがあるのだが、申してもよいか」
 「ああ、勿論」漣は頷いた。
 すると、六文は天主の西方に丸を描き、そこから、すうと黒金門へとつながる直線を引いた。
 見寺と、百々橋口道じゃな」
 「見寺は前右府建立による、安土山と尾根続きにある総門と三重塔をもつ大寺である。そこから尾根伝いに黒金門に伸びる階段道を百々橋口道というのだが、漣は元よりここを侵入路とは考えていなかった。その由は、よしんばこの道をつかったとしても黒金門と二ノ丸を抜けねばならぬことには変わらず、大手道とくらべ障碍がいささかも減じるわけではないからである。
 「いいや」六文は首を振った。「姉うえ、お師匠の遺されたお絵図を、憶えておいでか」
 「絵図?」
 六文の言うのは、半阿弥のわずかな遺品の中にあった、一尺四方ばかりの半紙に描きつけられた安土城の見取図のことである。雇われていた甲斐武田家の命によるものだろうが、半阿弥がなぜその手控えを残しておいたのかはわからない。
 漣は意外に思った。憶えているからこそ今もこのように絵図に描けるのだし、またこの一両日、安土の城下から観察してみてその記述のたしかさに驚いているのではないか。六文、無論ぞ、と言の葉を次ごうとして、しかし漣は、そのとき脳裏に閃くものを感じた。
 百々橋口道に沿って、えがかれた線。記憶がよみがえり、漣の頭の内にある絵図のわずかな欠落を埋めた。その線は、見寺境内の庭池に発し、尾根道を辿って黒金門に達すると、門と二ノ丸を穿ってまっすぐに伸び、本丸内庭まで達している絵図の傍記にはたしかこのようにあった。

 「―疏水、方二尺ノ木桶ニ由リ伏越ノ理ヲ用ヒ本丸泉水ニ達シうへさまのノ興ニ与スル」

 うへさまとは前右府を指す。つまりは、幅二尺の地下水路が天水をあつめつつ百々橋口道の道下をくだり、再び上りに転ずると、二ノ丸下を潜り抜けて本丸内の泉水に水を供し、前右府の目をたのしませていることになる。たしかに、安土の山上にある本丸の城池が豊潤な水をたたえるためには、この方策しかないであろう。前右府の苛烈な設計要求にこたえ、空前の大城郭を現出させた棟梁岡部又右衛門ならではの非凡な発想であった。なお、伏越の理とは低所からあらためて高所へと導水をおこなう普請上の技法であり、こんにちでは逆サイフォンの名で知られる。前近代の土木工法としては白眉のものといえ、今日も加賀の金沢城などに同様の遺構をみることができる。
 「…」
 漣はしばらく、口がきけなかった。
 この安土の大要害に、たったひとつ細い筋穴が開いた。それはそれでよい。しかし、およそこの現世(うつつよ)の常人で、この筋穴を生きたままで通り抜けられる者がいるだろうか。
 「六文、たしかか」
 六文は黙したまま頷く。
 「木管のなかで呼吸(いき)を堪え切れなくなれば、生きて出ることはかなわぬぞ」
 「大丈夫じゃ、六文は息がながい」
 「肺の臓に水が入っても、辛抱できるか」
 「できる」
 確かに、絶息法は久ノ一の鍛錬の基本をなすものだ。素質を見込まれて伊賀に連れてこられた少女らは、まだ七、八歳のじぶんから、盥に水を張ってこんにちの尺度で言えば四分以上も頭を抑えこまれる。耳たぶが真っ青にかわっても解放されず、そのまま窒息死してしまう子もすくなくないが、これを行えるようになってはじめて刀術、偸盗術、それに幻術といった技法を習得するのである。また、八貫をこえる重石を抱かされたうえ、不動の滝の最もふかい滝壷に投じられるという鍛錬法もある。滝壷の深みは十尋にも達するが、水底についた証である砂砂利を掴みそこねたり、また浮上の途中で苦しさのあまり重石をうち棄ててしまうと、浮かびあがった後死ぬほどに打擲されることになる。漣も六文も、はげしい水流に揉まれなかば気絶しつつも脚をうごかし、十一の歳に達する頃には重石を運び上げられるまでになっていた。
 六文の視線を受けながら、漣は、ふかぶかと息をして胸腔を満たし、そしてまた細く長く息を吐き出してみた。水路のながさは二町あまりにもおよぶ。休みなく手足を掻いたとしても、ふたたび息のできるまでにはおよそ五分はかかるであろう。幼少のみぎりから激しい修行をうけてきたとはいえ、果たして、じぶんの肉体はこのすさまじい試練に打ち克てるであろうか。
 (死ぬかも、しれない)
 漣は、わずかに逡巡した。しかし―次の刹那、漣はあの声がまた囁くのをきいた。
 (どの道死ぬのであれば、いずこで果てようと同じことではないのか)
 漣は口を開き、おのれの声が冷静であるのにやや安堵しながら言った。
 「…ゆく」
 「えい、姉うえ」六文は顔をほころばせた。「必ずや、前右府の寝所にしのび込もうぞ」
 「六文、こら、遊びではないのじゃぞ」
 胸のつかえが取れたようであった。死所を得るというのはかくなる事であろうかと思いつつ、漣は内よりえもしれぬ心地よさが湧き起こるのを感じていた。

漣と六文は、朔を待つためにさらに二日を観音寺山の廃城ですごし、次の三日目の夜のとばりを仁王門わきの叢に伏して待った。ここから眺める城山は、樹木が多く天主の影がくろぐろと屹立するのみで、むしろ深山幽谷の観すらある。
 (…前右府を弑すれば)
 泡沫のように、およそ(ことわり)をなさない思考が漣の脳裏に現れ出ては消える。
 (…前右府を弑すれば、漣も、六文も傀儡でなく、尋常のむすめになれるやも知れぬ)
 じぶんは狂ったのだろうか、と思いつつ、漣は木立の間の空が昏くなるのを眺めていた。